2020/12/1, Tue.

 しかし、デリダ側のこの過度な単純化が、盲目さ、見過ごし、誤謬によるものでないことは確かである。ポール・ド・マンが、デリダの同様なルソー論について述べているように、問題は、「そのパターンが面白すぎて、わざとらしい[原注10: Paul de Man, Blindness & Insight: Essays in the Rhetoric of Contemporary Criticism (London: Oxford University Press, 1971), p. 140〔ポール・ド・マン『盲目と洞察――現代批評の修辞学における試論』宮﨑裕助・木内久美子訳、月曜社、二〇一二年、二三七頁〕.]」ということだ。デリダほどの慧眼な読み手が、ラカンの言明を、その言明が現にそこから逃れようとしている体系やパターンに執拗かつ強引に押し込めようとするやり口は、何らかの戦略的必要性に応じるものに違いない。だが、そうした必要性は、デリダのポーの読み方を特徴づけるテクストの手紙=文字〔letter〕に対する注意深さとは無縁である。事実、デリダの分析に深く立ち入れば立ち入るほど、精神分析と呼ぶものに対するデリダの批判はすべてもっともだが、その批判はラカンのテクストが実際に述べていることにはまったく該当しないと確信させられることになる。デリダが実際に反論しているのは、ラカンのテクスト[﹅4]ではなく、ラカンの力[﹅]、あるいはむしろ、今日のフランス言論界において、明らかにある権力効果の原因となっている括弧付きの「ラカン」に対してなのである。ラカンのテクストが語る[﹅2]ものが何であろうと、それは――デリダの言に従うなら――彼[﹅]〔he〕がそう語っていると語るとおりのことを語っているかのように機能するのだ。手紙はいつも宛先に届くという言明は、まったく解読不可能かもしれないが、その断言力は、ラカンがすべてを解明したことの証しとして、ますます真面目に受け取られてしまう。実際、そうした主張は、彼に支配=精通といった様相を与えることになる。手紙を奪われた〈王妃〉の目に、〈大臣〉が同様の姿で映ったように。ラカンはこのことを次のように説明している。「〈大臣〉が状況から引き出している支配力は手紙に起因しているのではなく、……手紙が〈大臣〉に与える役割に起因しているのです」。
 したがって、一見「盲目的」と思われるデリダの読みも――われわれはその奇想をここで追求しているわけだが――決して間違いではなく、ラカンのテクストの「平均的な読み」と呼びうるものの見定め――デリダ脱構築の真の目的――であることが分かる。ラカンのテクストが、デリダがそれはこう語っているのだと語るとおりのことを語っていると読まれる以上、その実際的なテクスト機能は、デリダの分析が行われる論争の場とは無関係ということになるだろう。そして、このことはまさに、エピグラフの最初の語――つまり、彼ら[﹅2]〔ils〕――によって示唆されている。

 彼らは、彼が表明したばかりの大いなる真実に対し、彼に感謝する――というのも、彼らは発見したからだ(おお、真実と立証しえぬものを立証する者たちよ!)、彼の言明したすべてが絶対的に真実であることを――とはいえ最初は、それが単なる虚構ではないかと疑った、とこの律儀な者たちは告白している。自分に関しては、そのことについて一度も疑ったことはない、とポーは応じている。(Jacques Derrida, "The Purveyor of Truth", translated by Willis Domingo, James Hulbert, Moshe Ron and M.-R. L., Yale French Studies, 52 (Graphesis, 1975), p. 31〔Jacques Derrida, "Le Facteur de la Vérité", La Carte Postale: de Socrate à Freud et au-delà (Paris: Flammarion, 1980), p. 441/ジャック・デリダ「真実の配達人」清水正豊崎光一訳、『現代思想』(デリダ読本――手紙・家族・署名)、第一〇巻第三号(臨時増刊)、青土社、一九八二年二月、一八頁〕)

このボードレールからの引用がラカンではなく、ポーに言及していることは事実である。だが、それによって、最初の一文にある身元不明の「彼」が、〔デリダの論考の〕タイトルである「真実の配達人」であるという印象が完全に拭い去られるわけではない。このように、ラカンによるポーの分析の災いは、テクストの手紙=文字の中というよりも、むしろ、騙され易い読者たち――その分析に欺かれる「律儀な者たち」――の中に位置づけられている。ラカンの不幸〔ills〕は、実は彼ら[﹅2]〔ils〕だということだ。
 (バーバラ・ジョンソン/土田知則訳『批評的差異 読むことの現代的修辞に関する試論集』(法政大学出版局/叢書・ウニベルシタス(1046)、二〇一六年)、220~221;「7 参照の枠組み ポー、ラカンデリダ」)



  • 一一時半頃に覚醒。部屋は明るく、今日も晴天らしい。カーテンをひらいて南空の太陽から送られてくる光を顔に受けつつこめかみなどを揉んだ。そうして一一時四五分くらいになってから床を離れる。昨晩の夜食に使った食器や急須を盆に載せて持ち、上階へ。両親は買い物に行ったらしく不在。ほんのすこしだけ隙間をひらいた南窓から、しずかな風の響きが聞こえてくる。ジャージに着替えるともろもろ済ませ、ハムエッグを焼こうと思ったがハムがなかったので代わりに豚肉を使った。ほか、白菜と椎茸の味噌汁。卓に運んで食っていると両親が帰宅した。新聞は社会面に今年のベストセラー本トップテンが載せられていた。一位、二位、四位がどれも『鬼滅の刃』の小説版だと言う。三位と五位は『あつまれ どうぶつの森』の攻略本。『鬼滅の刃』も本当によく売れているなあと思うが、ゲームの攻略本がベストセラーになるというのも、こちらが子どもだったころにはなかったのではないか? 「あつ森」ってそんなに面白いものなのかと思う。プレイする気にはまったくならないが。ほかに見られる名前は聖教新聞社とか大川隆法とかだが、そのなかにブレイディみかこの『ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー』だったか、あれが入っていたのに多少の安堵を得ないでもない。と言って読んだことがないのでわからないけれど、この人に関しては諸方面で評判を見る限り、この本もその次に出した本もわりと良いのではないかという先入見を持っているからだ。
  • 国際面では全斗煥光州事件の証言をめぐって死者名誉毀損罪で懲役八か月・執行猶予二年の判決を下されたとの報。光州事件のときに軍のヘリが市民を銃撃したと証言した人(たしか神父と書かれていなかったか?)がいたのだが、全斗煥は二〇一七年出版の回顧録でそれについて、破廉恥な嘘つきだみたいなことを言って全面的に否定したと言う。裁判所の判断では、ほかにも目撃証言があって情報は信用できるし、当時軍の最高司令官か何か責任者だった全斗煥もその事態を把握していたと考えられる、とのことだ。
  • 国際面の右ページには、オーストラリア軍がアフガニスタンで市民を殺害したという件に関して、中国外務省副報道局長の趙立堅がTwitterに、オーストラリアの兵士がアフガニスタン人の子どもをナイフで殺害しようとしている画像を投稿したという報道があって、マジでこいつら全方面に向かって躊躇なく喧嘩を売っていくなと思った。より強い対戦相手をもとめてさまよう戦闘民族の末裔なのか? オーストラリア側はもちろん画像は偽造されたものだと言っており、スコット・モリソン首相は激怒して記者会見で趙立堅を名指しで非難したと言う。最近の豪中関係が悪化しているというのは数か月前からニュースで見かけている情報で、今回の件もたぶんその文脈で中国側が牽制をしたというか、ちょっと挑発したというか、オーストラリアのイメージダウンを図るあまりにも直接的な情報宣伝をしたということなのではないかと思うのだが、それにしても中国がわざわざアフガニスタンでの問題に関して横槍を入れてくるというのは、それも政府としてどうこうというよりは一高官がSNSに写真を投稿するという形でやるというのは、マジでなりふり構わないなというか、本当にどこを目指しているんだよと思う。
  • 皿洗いと風呂洗いを済ませると緑茶をついで帰室。Evernoteで前日の日課記録を完成させ、ウェブをわずかに覗いてから今日の日記を書き出した。今日はなぜか音楽を流す気にならなかったので、FISHMANSをともなわずにしずかに打鍵。ここまで記せば一時半を過ぎたところだ。今日は立川に出向いて新しいコンピューターを買うつもり。それまでに昨日の日記を仕上げてしまいたい。休みは今日までで、明日からまた労働がはじまる。最悪だ。働かずに生きていける共産主義ユートピアか、社会主義的小共同体をつくるしかない。ウィリアム・モリスフーリエを読もう。
  • 二時から四時前まで一一月三〇日の記事を綴って完成させている。そのあと四時過ぎから書見。出かける前にとベッドで休んだわけだろう。徳永恂『ヴェニスのゲットーにて』(みすず書房、一九九七年)を一時間ほど読んで五時を越えると身支度をした。大して飾った格好ではなく、ぱっとしない白シャツに、グレーブルーのズボンに、いつものモッズコート。外出前に音楽をききたかったので、椅子に腰を据えてまずFISHMANS, "感謝(驚)"(『Oh! Mountain』)を流した。あらためて聞いてみるにやはりリズム的にかちっと正確無比というわけでなく、瞬間的にほんのすこしよれているような部分、いわばアンサンブルとして皺が生じている部分もあるように感じられた。しかし、それはもちろん瑕疵にはならない。佐藤伸治のボーカルもリズムをとればとても正確とはいえないだろうが、彼の場合はリズムがどうこうとかいうことはあきらかにまったく問題ではないはずだ。彼の声および歌というのは気体の一種で、地盤となる楽器たちの上を境界なく遊泳する雲のようなものなので、音価をきちんと区切って一音一音を正確にはめこんでいくという作法がそこで重要視されていないのは明白である。
  • そのあとはJesse van Ruller & Bert van den Brink, "I Hear A Rhapsody"と"High, Higher, Her"(『In Pursuit』)。このアルバムのBert van den Brinkはどの曲でもすばらしい仕事をしている。フレーズの発展のさせ方、伸ばし方が凝り固まっておらず、きいていて、そこからそっちへ行くのかという瞬間がままあり、自生的というか植物的というか、草木が思わぬ方向に葉や枝を伸ばしひらいていくのと似たようなイメージをいだかされる。そして、ソロのあいだじゅうずっと、通り一遍の感覚を得ることがなかった。これはすごいことである。たとえば小説作品もそうだけれど、あきらかに力がこもった記述となっているいわば見せ場・山場に対して、そのあいだのつなぎとなる部分はどうしても地味でひかえめなものになりがちだし、大きな印象をあたえられることもすくない。表現として容易に了解できる通有のもの、すなわち通り一遍のものになるわけだが、それは特に問題ではなく、下地となる説明や情報があって見せ場が見せ場として成立するのだから、妙に趣向を凝らせる必要はない。作品というものはだいたいどれもそういう風にできている。音楽もそれはおなじで、多くの場面はフレーズの型とか流れ方としていままで知った感覚のなかにおさまり、おのずから了解される。ところがBert van den Brinkの、この日きいたうちだととりわけ"I Hear A Rhapsody"の演奏などは、ことさら物珍しいことをやっているわけでもなさそうなのに、なぜか普通に弾いている部分でも通り一遍のフレーズという感覚がせず、隙とかゆるみみたいなものがまるでない。それでいて緊張感に満ち満ちているわけでもなく、いかにも自然で、優美なあたたかみとやわらかさが基調にあって失われることがない。達人の風格ではないかと思う。Jesse van Rullerもたしか"High, Higher, Her"のほうでかなり良い演奏をしていたおぼえがあるのだけれど、どんなものだったかわすれてしまった。
  • 五時四〇分まで音楽を聞いて出発。あたりは当然もうよほど暗く、黄昏も過ぎ去って宵である。坂の入り口にちかづくと正面で急に暗がりに動きが生まれてちょっとびっくりしたが、闇にまぎれていた黒い猫がとび降りたのだった。猫は即座に上り坂の口から脇にひらいて私有地につづく細い坂を駆け下りていき、ふたたび暗闇と同化してまったく見えなくなった。
  • 空は雲がち、粘菌めいたような発泡めいたような灰色の網の目に紺の地も覗く。街道を行って途中から折れて裏通りを進んだはずだが、道中のことを全然おぼえていない。現在一二月五日の午前二時前なので道理である。腹がとにかく減っていたのを思い出した。クッソ腹減ったわとしばしば心中につぶやきながら歩いていたのだが、空腹でからだが軽いわりには頼りない感じはせず、歩がふらふら揺れることもなかった。
  • (……)から電車に乗って立川へ。二号車の三人席にかけた覚えがある。いや、違ったか? 忘れた。いずれにせよ電車内では本を読んだ。あまり周りに目を向けず、脚を組んだ上に本を載せて動きもすくなく読んでいた。
  • 立川で降りると改札を抜け、北口方面へ。何はなくともまず飯を食おうというわけでラーメン屋に向かう。広場からそのまま大通りのほうへと高架歩廊を進む。ここの頭上にかかった電飾は徐々に変色して青と緑を行き来する趣向になっていた。左側のエスカレーターから下の通りにおりると、ドラッグストアを折れて路地へ。ラーメン屋の入ったビルの前ではほかの店の客引きらしい若い女性二人があまり真面目とも見えない様子で立っていた。あからさまにサボるわけではないがとりたててがんばるわけでもない、おざなりの、その場しのぎの弛緩した雰囲気。その横をビルに入って「(……)」へ。いい加減ほかのラーメン屋を開拓するべきなのだろうけれど、グルメ的感性がまったくないのでひとりで店を探そうという気がちっとも起こらない。食事に本質的な興味がないということなのだろう。食に関しては完璧な受け身で、誰かに連れていってもらうか教えてもらうかしないと新しい店を知ることがない。
  • ネギのトッピングされた醤油ラーメンを選んだ。フロアを行き来して食券を受け取ったり配膳やテーブルの掃除をしたりする店員は、たぶんはじめて見る女性だった。水を注いで口を潤しながら、まったく何もせずに食べ物を待つ。BGMには相変わらずクソみたいにどうでも良い類の、B級あるいは三流のJ-POPみたいなものが流れている。来ると礼を言って食事。今日のラーメンは妙にピリピリするというか、唇や舌や口内の粘膜に刺激が強い気がして、こんなに辛かったかなと不思議に思った。右方、カウンターの一番端かつ店の角では女性がひとり食っていたが、視線を向けずとも、テーブル上にスマートフォンを置いて咀嚼のあいだにそれに触れているのが視界の端に見える。食事ひとつにすら満足に集中できないのが西暦二〇二〇年現代の人間である。こちらも以前はそうだったし、いまも家では新聞を読みながら食っている。
  • 食事を終えるとすみやかに退店し、二人の客引きの横をまた通って表にもどった。左手に折れて横断歩道に向かう。通り沿いのビルのうち以前PRONTOが入っていたところはコロナウイルス騒動が高まって以来、ずっと無人で閉店のままである。車道の真ん中を区切る植込みもまた電飾でぱちぱち彩られており、そこから間歇的に立ち上がっている街路樹も、下端に白い光を数本巻かれていたが、装飾としては申し訳程度の貧弱さで、かえってないほうが良かったのではないかという気もする。横断歩道を向かいへ渡るとビックカメラに入った。とりあえずトイレに行きたかったのだが、エスカレーター前の案内板を見てみるとコンピューターを売っているのは二階でトイレもそこにあるらしかったので、ちょうど良いと階を上がった。品々のあいだを歩いて便所へ。トイレに続く通路にはガチャガチャがたくさん配されており、なるほどこういうところにあるのだなと思った。こちらはその仲間ではないが、好きで集めている人はけっこういるようだ。以前(……)さんのブログにガチャガチャ好きの上司だか同僚だかについて書いた記事があって、あれは面白かった。
  • 用を足すとフロアにもどり、ノートパソコンを見分する。いま使っているやつはacerのなんとかいう安い品で、おなじこのビックカメラの、しかし当時は一階で、四万円くらいで買ったおぼえがある。たしか二〇一五年あたりのことだったと思うので、四、五年は保ったわけだ。べつにゲームをやるでもなし、映画を見るでもなし、文章が書けてスムーズにウェブが見られればなんだって良いので、今回もそのくらいの安物を狙っていったが、ならんでいるのはどいつもこいつも一〇万とか一五万とかそれ以上はする富裕者向けの連中ばかりで、意外と安い品はすくなかった。見ているうちに区画の端のほうまで来ると、わりと人の好さそうな男性に声をかけられて、どういうものをお探しですかときかれたので、文章を書くので、それができれば、あと普通にスムーズに動けばなんでも良いんですけどねと返した。エクセルとかは使うかと続けて問われたのに否定を返せば、男性はちょっと意外そうな反応を示す。エクセルとかワードとかを使うという発想がまったくなかったが、いまPCを買うとなるとテレワークのためにそろえる人もけっこういるのだろうから、そういうオフィス用のソフトをもとめる人も多いのだろう。こちらはエクセルの使い方などまったく知らない。高校の情報の授業でほんのすこし触れた以外にひらいたこともない。
  • それだとこのへんのものが良いですかねと男性が連れていってくれた品が問題なさそうだったのでそれにしようかと思ったところが、今日すぐ買って持ち帰ることはできないという話で、というのもそのあたりはメーカーが直売する製品の区画で、男性はビックカメラの店員ではなくそこの担当としてどこかから派遣されてきていたようだ。それで礼を言ってもとのほうにもどり、すぐ入手して帰れるもののならびから適当なものを探すと、やはりacerのものか、あとLenovoというメーカーのIdeaPadとかいう種が手頃そうである。先ほど男性がすすめてくれたのもこのLenovoのものだったので、まあこれで良いかと決定し(品種を忘れたというかそんなもの大して見てもいないしおぼえているわけがないのだが、レシートを見ると81Y300J5JPとある)、通りがかった店員に声をかけてこれがほしいと申し出た。Microsoft Officeをつけると七万くらいで、それがなければ五万ほど。Officeというのはワードとかエクセルとかああいうソフトのセットだと思うのだが、それで二万弱もするの? と思う。いずれにせよこちらには必要ない。在庫確認をしに行ってもらい、もどってくると店員が足もとの収納スペースを開けてそこから品を取り出したので、そのまま会計へ。五一四八〇円を支払って、パソコンをおさめた箱に持ち手をつけてもらう。高温で取り扱い注意と示された大きな機械を使って、段ボール箱の周囲に硬めのテープというか、素材がなんなのかまったくわからないが紐の類を巻きつけていくのだ。それで品物を受け取って退店。
  • 用は済んだのでさっさと帰ることに。高架歩廊に上るエスカレーターに乗らず、その横を過ぎて横断歩道で待つ。渡るとタクシーやバスの乗り場の合間にある中洲みたいなところで、駅舎入口のすぐそばへと階段が設けられているのだが、その経路を通ったのはほぼはじめてだと思う。駅に入ると時刻はちょうど八時頃だったはずで、LUMINEの前でスタンドを出している和菓子屋が売れ残った商品を片づけ仕舞っていた。改札を抜け、直近ではなく八時二〇分頃の電車に乗ることに。むろん座るためである。それでホームに降りてベンチに腰掛け、徳永恂『ヴェニスのゲットーにて』(みすず書房、一九九七年)を読んでいるうちに電車が来たので乗車。発車後も本を読んでいたがじきに眠くなったので(……)か(……)あたりで書を仕舞って目を閉じた。
  • そのあとの帰路についてはおぼえていないし、この日の残りの時間も大方新しいコンピューターの環境構築に費やされた。とにかく日記を自由に書ける状態ができあがらないと落ち着かないというわけで、本当はTo The Lighthouseの翻訳をしようと思っていたのだけれどそれもうっちゃってもろもろのダウンロードなどを進めた。ところがそこでダウンロードした最新版のEvernoteがクソみたいな仕様になっており、これは検索してみるとほぼみんな口をそろえて改悪だ、Evernoteはもう終わりだ、ほかのソフトに乗り換えると言っている。何がクソと言ってまずユーザーインターフェースが普通にダサくなったし、クラウドと同期しないローカルノートブックの機能がなくなったし、フォントの種類やサイズもいじれないし、そもそもこまかなオプション設定がまったくできないようになっていた。なぜこのような変更をほどこしたのかこちらには意図と理由がわからない。あと、古いPCからローカルファイルをUSBにコピーし、それを新たなPCのEvernoteの該当フォルダにぶちこんで一気にデータを移行しようと思っていたのだが、仕様が変わったためにフォルダ構成も変化したようでその方法も使えなかった。それで、いままでずっとEvernoteで情報を整理しものを書いてきたけれど、こうなってはもはや貴様に用はない、いよいよおさらばだと決定し、ほかに良いツールがないかどうか調査した。そうすると乗りかえ先としてはNotionというものが一番多く挙がっている印象で、次点でUpNoteとかOneNoteとかという感じか。深夜までずっとそのあたりの情報収集や試行やその他の設定を続けて、しかし完成できないままこの日はいったん休眠に入った。


・読み書き
 12:55 - 13:36 = 41分(2020/12/1, Tue.)
 14:03 - 15:51 = 1時間48分(2020/11/30, Mon.; 完成)
 16:16 - 17:11 = 55分(徳永: 170 - 184)
 18:25 - 18:58 = 33分(徳永: 184 - )
 20:10 - 20:37 = 27分(徳永: - 210)
 計: 4時間24分

  • 2020/12/1, Tue. / 2020/11/30, Mon.(完成; 3時間36分)
  • 徳永恂『ヴェニスのゲットーにて』(みすず書房、一九九七年): 170 - 210


・BGM
 なし。


・音楽
 17:22 - 17:41 = 19分
 27:48 - 28:02 = 14分
 計: 33分

  • FISHMANS, "感謝(驚)"(『Oh! Mountain』: #8)
  • Jesse van Ruller & Bert van den Brink, "I Hear A Rhapsody", "High, Higher, Her"(『In Pursuit』: #4, #5)
  • Antonio Sanchez, "Constellation"(『Three Times Three』: D1#2)