2020/12/24, Thu.

 アメリカの父祖、ピルグリム・ファーザーズ。だが、一七世紀以後アメリカを実際に築いてきたのは、ピューリタンそのひとというよりもピューリタンの修辞法だった。ペリー・ミラーやアーシュラ・ブラムによる伝統的なピューリタン研究が聖書予型論[タイポロジー]への注目によって成立したゆえんはそこにある。キリストの予型[タイプ]はアダム、アメリカ植民の予型[タイプ]は出エジプト記――このような予型論的比喩体系を完成へ導いたのは、今日最大のピューリタン学者サクヴァン・バーコヴィッチだが、彼の出発点もまた、当時最大の宗教家コットン・マザーにおける歴史意識と修辞技術が主題の地道な博士論文であった[註1: 予型論的発想は、当然アメリカ救済史の構築を導く。Sacvan Bercovitch, The Puritan Origins of the American Self (New Haven: Yale UP, 1975).]。ただしそのような形でのアメリカ研究は、批評がフランス系哲学の摂取にかまけている間は、ほとんど死角に没していた。
 しかし八〇年代後半、脱構築を継ぐ形で勃興した新歴史主義批評は、そんなバーコヴィッチ自身の研究にひとつの派手派手しい転機を与えてしまう。ポール・ド・マン脱構築に鑑みて「文学批評はいつもすでに修辞学[レトリック]だった」事実を指摘したが、同時にミシェル・フーコー流にいう「我々が知ることができるのは歴史そのものではなく、常に歴史に関する言説にすぎない」という言説が息を吹き返す。歴史とは、つまるところ歴史を描くための修辞法と同義であること。文学作品の言語分析には、そのような作品を可能ならしめた歴史自体の修辞分析が要求されること。だとしたら、ピューリタニズムをピューリタンに関する修辞法の歴史と捉えて長いバーコヴィッチの立脚点も、完璧に保証される。ピューリタニズム、それはとりもなおさず予型論の歴史だったのではないか。(……)
 (125~126; 第二部「現在批評のカリキュラム」; 第三章「ポストモダンの倫理と新歴史主義の精神 ミッチェル・ブライトヴァイザー『コットン・マザーとベンジャミン・フランクリン』を読む」)



  • また日記を現在に追いつかせることができないまま、けっこうな期間が経ってしまっている。やはり書くことをもうすこし取捨選択するというか、ルーティン的な事柄は省くようにして、これは書いておきたいというくらいの印象を得たことのみ書くようにしたほうが良いだろう。こまごまとした事柄を詳しく長く書いてこそだとは思うのだが、いったんは簡単な記述方式にして、無理のない習慣を定着させることのほうが先決である。この営みを続けるにあたっては、なるべく自分の負担にならないように、楽に自然に続けられる形を選ばなければならない。あとはやはり基本的には前から順番に書くというのを原則にしないと、今日のことを書くだけでその日が尽きて過去の記事に触れられず、一向に進まないという事態が起こってしまう。
  • 今日は一二時過ぎの起床になってしまった。瞑想もせず。あまりよろしくはない。
  • 食事はちゃんぽん麺。新聞で、大統領選を終えたペンシルヴァニア州に取材した記事。ポッツポルみたいな名前の、全米最古のビール醸造所があるとかいう町で共和党郡委員長と記者が話していたところ、途中で熱烈なトランプ支持者が入ってきたと言う。彼らが言うところの不正な選挙にかんして共和党としてなんらかの対応を取るように求めにきたのだが、郡委員長がことわると、選挙が盗まれているというのに何もしないのが理解できない、「やはり内戦が必要だな」などと言って去っていったと。ピッツバーグではジャシリXという「ヒップホップアーティスト」(要するにラッパーだろう?)に取材しており、彼は、俺たちはバイデンに賛成したんじゃない、トランプに反対したんだ、やつの敗北を祝っているんだ、と言っていた。これはたしかにそのとおりというか、今回の選挙で民主党は本質的には決して勝利してはいないのだろうと思う。
  • 国際面ではロシアのプーチン大統領が、大統領経験者は生涯に渡って免責されるという法案に署名したとかあった。そんなことしていいのか? なんでもしたい放題じゃん、と思ったのだが、この「免責」というのは政治にかかわる事柄に限るのか? 個人的な犯罪とかも「免責」されるとなったら、マジでやりたい放題だと思うのだけれど。
  • ベッドで書見、メルヴィル。仰向けで読みながら、文庫本を片手に保持し、もうひとつの手で眼窩周辺や顔や頭を指圧する。首から下のコンディションはわりと整ってきたので、次は頭蓋だ。今日はとりわけ、なぜか頭痛があるので。大したものではないが、数年前、長寝をしすぎたときによく発生していたのと同種の感覚のものだ。
  • それで頭のなかが澱んでいるような感じだったので、書見後は瞑想。意外と眠気が湧く。眠りの質が悪かったのだろうか。そこそこ意識はまとまったが、頭痛はいま(五時前)もなごっている。
  • (……)さんのブログの最新記事を久しぶりに読んだ。覗いてはいるが、全然読めてはいない。本当はやはり毎日一記事ずつ読むみたいな習慣にしたいのだが。『(……)』がそろそろ完成し発刊されるようなので、楽しみである。
  • 最近、あきらかに胴回りが細くなっている。スーツのスラックスに着替えるとそれがよくわかる。腹と布とのあいだにめちゃくちゃ余裕があるのだ。このスラックスはもともと五五キロくらいのときのからだに合わせて買ったもので、その後鬱症状におちいったあいだにオランザピンの効果もあって一〇キロくらい太り、職場に復帰すると信じがたいことに腹がきつくてホックを無理やり留めるようなありさまになっていたので多少ゆるめてもらったのだが、それでもかなり細身のものだと思う。それを履きながら相当な余裕が生まれているのだから、こちらのウエストはかなり細いほうだろう。ストレッチを習慣化したおかげだと思うが、体重も減っているのかどうか、はかっていないのでわからない。
  • 五時で出発。玄関を出ると、ちょうど郵便配達が来たところで、バイクが停まって男性が降りてきたので、近づきながらご苦労さまですとかけ、父親宛の健康診断か何かの封筒を受け取り、礼を言った。髪がややモジャモジャしたような感じの、眼鏡をかけた男性だった。
  • 今日は曇りなので月ははっきりとは見えない。一応所在はわかる。全面にひろがっている雲の幕の向こうで白さが、大きくなり小さくなり、面積と色を雲に吸われながら不定形に変容し、あらわれては消えながら泳いでいる。十字路の先の、異国の人が入っているとかいう家にイルミネーションが少々施されていた。緑色の光で、模様が回転しているように見えた。
  • 最寄り駅の階段を行くに、今日も全然寒さを感じなかったのだが、やはり筋肉が温まっているのだろうか。
  • 勤務。(……)
  • (……)
  • 一月の勤務日程をもらったので、駅で確認。年始に一日中働く日があることを知ってほとんど怒りすらおぼえかねないような絶望のなかにいたが、見てみると朝晩なのは四日と六日で、あいだの五日は朝だけにしてくれているし、そこを過ぎればあとはおおむねこちらの望みどおりになっているので、配慮してくれているのを感じ、これならどうにかなるぞと安心した。四日から六日の三日間を、覚悟を決めて乗り切るしかない。その日にあたえられた条件のなかで、できることをやるしかない。
  • (……)に移動して、「(……)」のフードコートでちゃんぽんを食う。僻地なので営業は九時まで。すでに八時で、人はほとんどない。最初、やたら大きな声で電話している、浅黒い肌の色のいかにもチンピラめいた二〇代くらいの男性がいたが、すぐに去った。ほかにはこちらを除けば、老人と言うには若いが充分老年とは言えるくらいの男性がひとり。彼はこちらから見て前方のカウンター席で、背中を丸めながら食っていた。その後、二、三人来たくらい。途中で清掃員の女性が来て、口をひろげた青いビニールを張った大きなカートもしくはワゴンを伴いながら移動し、ゴミを回収していくとともにカウンター席の椅子の位置をひとつずつ整え、揃えていた。
  • メルヴィルを読みながら電車に乗って最寄りへ。余計な動きを殺し、じっと止まって紙面に視線を向けていると、なぜか眠気が湧いてくる。
  • 最寄り駅からの帰路。今日も大気はしずまりかえっている。疲労感がそこそこ嵩んでおり、からだが重たるくてけっこう眠かった。林のなかの坂を下りていきながら周囲に耳を放っても、乾いた葉や枝先がすれあう響きの一粒もないし、街灯をかけられた裸の細枝を見上げてもすこしも動きがない。右手のガードレールの向こう、立ち込んだ木々のなかからかろうじて、かすかに聞こえるものがあってちょっと立ち止まり耳を集中させてみたが、あれはたぶん葉っぱが枝を離れて落ちていく音ではなくて、なんらかの小動物が息づいている気配だったのではないか。空は乳灰色とでもいう風に澱んでいるものの思いのほかにあかるく、左の段上、木立の合間によく見える。坂の出口に近づきながら正面を見上げてみても、向かいの木々の影と明瞭に分離している。その木々の黒く塗りつぶされた様子が、坂が尽きていくにつれて距離が縮まるから当然だんだんと高くなっていくのだけれど、あらためて見るとひどく大きいなというか、上方に伸長しながら迫りのしかかってくるような感じで、しかも中身が分かれず葉の質感ももちろん消えて均一な黒の塊となっているものだから余計にそびえるようで、いままでにもこうした印象はおりにふれて何度も感じてきたけれど、今日ふたたびすごいなと思った。枝と梢の交錯によって輪郭線がギザギザと、いくらか虫に食われた葉っぱのようになっているのが、空も煙っているがこの影も気体めいた印象をあたえる要素となっており、しかしこの気体は黒く充実して固化し、乱れることがない。
  • それからさらに道をたどりながら南のほうの雲っぽい白天を眺めていたのだけれど、その途中でなんともいいづらい感覚が瞬間訪れた。というか、感覚自体は要するにたぶん現在時に意識のピントが合ったというような感じで、まあありがちな主題ではあるのかもしれないけれど、それに対して自分が何を思ったのか、どう解釈したのかということのほうがうまく形にならなかったということかもしれない。ひとつには、そのとき覚めた、というような感じがあった。覚めたと言って、その前に「夢から」とか「眠りから」とかいう言葉を付け足してしまうと何か違う感じがしてくるのだが、ともかくそこに至って、突然覚めた、というような感覚があった。もうひとつには、いまこのときは夜、午後九時前で、勤務からの帰り道だったわけだけれど、何かそういう条件的情報から一瞬逃れた、というような感じがあった。つまり、いまはたしかに夜なのだけれどなんか夜っぽくないな、とか、九時という感じがしない、仕事から帰っている時間という感じがしない、ということだ。ということはたぶん、通常の構造化された生活的時間の流れから一瞬浮かび上がったというか、もろもろの生的条件を剝奪された、大げさに言えば純粋時間とでもいうようなものが一瞬だけ立ち上がったということではないか。たぶん道元とか禅宗の人々はこういうことをもっとたくさん体験しているだろうし、それについての知見も深いのではないか。それで、いわゆる「いまここ」というありがちな言葉に集約してしまうのはいかにも退屈ではあるのだけれど、しかし結局これなのだろうなと、世界のどこにありいつにあろうとも、自分がここに存在しているということそれ自体が、自分自身のいわば聖域になるというか、アジールになるというか、まあそういうことなのだろうというようなことは思った。そういう感覚をより養っていけば、おそらくどのような場所でもどのような状況でも通っていくことができる。
  • 大気は昨日よりはすこしだけ寒いように感じられた。太腿のあたりが多少冷え冷えとしたのだ。
  • ねぐらに帰るとベッドで休みながら書見。からだはここ最近のなかではだいぶ疲れていた。正式な勤務でなかったし、時間も長くなかったのに不思議だ。読みながら頭蓋を揉む。いざ揉みほぐしてみるとよくわかるが、頭蓋はめちゃくちゃに凝り固まっている。顔も同様。とにかくからだのどこであれ、揉むか伸ばすかすればそれだけ楽になる。
  • 入浴中もやはり首から上を揉んだ。
  • 刺し身を買ってきたので食べるようにと母親が言うので、風呂のあといただいた。
  • 二四時半。(……)さんのブログも久々に読むことができた。二〇二〇年七月二五日から。

末松 [正樹] やオノサトの作品を観ていて、近代日本の歴史というストーリーがあったとしてもそれを画家の作品が説明するようなことは無いと至極当然のことを思う。それはむしろ、近代日本の歴史といったお題目とはまるで無縁の、絵画という形式と内容をめぐる問題意識だ。それは人間にあたえられた時間内いっぱい執拗に反復・再起してくる強迫的と言っても良いようなものだ。それは外的な出来事や社会や歴史とは無縁に、ほとんど金属ワイヤーのごとき強靭さで、変わらぬテンションをもって作家たちの生きた時間を貫いているように感じられる。

オノサトトシノブ [小野里利信] が二十代の頃に描いた大浦天主堂を観ると、そこには既に強靭な格子状の構造がみとめられて、もう生まれたときから、きっとはじめから「これ」なのかと、半ば呆れるような思いにとらわれる。二十代で描いた大浦天主堂と、晩年の同画家の諸作品との間には、ほとんど同じ問題意識が響き合っている。おそらく描くべきこととは、画家が見つけ出したものではなくはじめから画家にとりついていたもので、払いのけようとしても取り払えないものだ。だから青年期だろうがシベリア帰国後だろうが、そんな条件いっさいに関係なく、画家の身体を通して何度でもよみがえってくるし、何度でも考えを求め、より適切な正解を求めて再起しようとする。画家はあやつり人形のごとく生涯その働きに奉仕するだけだ。

とはいえ50年代からじょじょに洗練の度を高めていくオノサト様式ともいえるあの「円」構造の絵画としての強さと豊かさは、この画家が長年の執拗な取り組みによって勝ち取っていった成果にほかならないというのもたしかだ。今回、作品をみて予想外の良さに打たれたのもそこだ。画面内に細かく縦横格子線が引かれて方眼状の空間に、円が置かれる。円は単体のこともあれば、複数の場合もある。そのように構成された画面は、幾何的な正確性、厳密性と、手描きの雑駁さ、緩さ、震えるような幅と隙間、その双方をあわせもつ。円というオブジェクトの本来もつ象徴性が絵画的仕事によって脱色され、ずらされて、ミニマルでありながら光と空気が活発に循環する絵画的運動が、観る者の眼の奥にゆたかに生成する。作品一点一点の凝縮感、サイズ感、色彩、手仕事的温か味、のようなものに惹かれ続けて、なかなか作品の前をはなれられなくなる。

  • 七月二七日付。

猫に「猫」と名前を付けて、おまえにその「猫」でいてほしいと思っている。それ以外のとくべつなおまえではなくて、おまえは猫だ。名前を付けないまま、おまえを呼びたいと思ったのだ。名前ではなく、おまえを呼びたい。名前を付けて、その名前の中に、もう一つのおまえができることに、抵抗を感じるのだ。(……)

  • (……)の「読書日記」も、上の二人のブログ以上に久しぶりだが、一日分読んだ。他人のブログの類を読むのはこの三つだけで良いという気持ちになっている。なるべく毎日読みたいのだが、なかなか難しいかもしれない。
  • 一時前から日記。とりあえず今日のことを書いた。良い感じで簡潔にできている。この調子でいけばだんだん追いつき、営みを無理なく再確立できるはず。とはいえここまで記すのに一時間かかってはいるのだが。確立したあとにまたこまかく書きたくなれば、そのときはそうすれば良い。
  • BGMにGregory Porter『Liquid Spirit』を流した。以前はこちらは、熱の入った演奏というか、わかりやすくハードな演奏がわりと好きで、とりわけジャズボーカル作品だとバックが骨太で熱くないとぬるいと断じて切り捨てるような愚物だったのだけれど(いまもわりとそうかもしれないが)、したがってこの作品もぬるいと言って切り捨てていたのではないかと思うのだけれど、いま聞いてみればそんなに悪くない。熱いだのなんだのは本質ではない。まずはそこにあるものを選り好みせずに受け取り受け止めようとする姿勢が大事だ。
  • 日記に切りをつけたあと、合蹠をしつつGretchen Parlatoが『Live In NYC』の七曲目でやっている"Weak"を聞いたのだけれど、やはり格好良い。この曲のドラムはたしかMark GuilianaではなくてKendrick Scottのほうだったのではないか。何をやっているのかよくわからないが、格好良く、すごい。特にピアノソロのあいだのピアノ、ベース、ドラム三者の感じなど、なんだかよくわからんがすげえなというか、ソロではあるけれど普通ジャズボーカルのバックでこんな風にやらなくない? という気がした。
  • 三時二〇分より前に消灯するつもりが、油断して過ぎてしまった。不覚。