2020/7/7, Tue.

 おそらく、ブルジョワイデオロギーに対する反乱は存在するに違いない。それは一般に前衛[アヴァンギャルド]と呼ばれている。だが、そうした反乱は社会的に限界がある。依然として体制に回収されてしまうのだ。その理由はまず、その反乱がブルジョワの断片である少数派の芸術家・知識人のグループから生まれていて、まさに彼らの反抗の対象である階級よりほかに読者がおらず、彼らが自己表現するには、その階級の金銭に依存するにとどまるからである。それから、つぎの理由だが、そうした反乱は、ブルジョワの倫理とブルジョワの政治の非常にはっきりした区別から発想されている。前衛が異議申し立てをするのは、美術、道徳の分野におけるブルジョワジーである。それは、ロマン主義華やかなりしころと同じで、俗物、芸術のわからない俗人のことである。だが、政治的な異議申し立ては皆無だ。前衛が我慢できないブルジョワジーのなかの要素とは、その言葉づかいであって、その政治規定ではない。その政治規定だが、必ずしも前衛がそれを容認しているというわけではない。そうではなくて、前衛はそれを括弧に入れてしまうのである。どんなに挑発が激しくとも、前衛が最終的に引き受けるのは、見捨てられた人間であり、疎外された人間ではない。そして見捨てられた人間というのは、やはり、〈永遠の人間〉である。
 ブルジョワジーのこの匿名性[アノニマ]がますます厚みを増すのは、本来のブルジョワ的文化から拡大され、通俗化され、使いまわされた、それの諸形式に移行するとき、つまり、公共哲学とでも呼びうるものに移るときである。この公共哲学が、日常の道徳や、市民行事や、世俗の儀式、要するに、ブルジョワ社会にあって人間相互の生活の不文律の規範となっているものを養っている。支配的文化を定義しようとして、その創造的な核に帰着させるというのは、錯覚にすぎない。まったくの消費だけによるブルジョワ文化というものが存在するのだ。この匿名[アノニム]のイデオロギーに、フランス全体がどっぷりと浸かっている。われわれの新聞や映画、演劇、大衆文学、行事、〈正義〉、外交、会話、今日の天気、裁判中の犯罪、人びとが感動する結婚式、人びとが夢見ている料理、着ている洋服、あなたの日常生活におけるこれらすべてのものは、ブルジョワジーが自らとわれわれのためにつくりだす[﹅16]、人間と世界の関係についての表象に従属している。それらの「規格化」された形式は、その広まりぐあいに応じて、ほとんど注意を引かなくなる。その起源は、たやすくその広まりのなかに失われてしまう。そうした形式は、中間的な位置を享受する。すなわちそれは、直接に政治的にもならず、直接にイデオロギー的にもならずに、闘士たちの行動と、知識人たちの訴訟とのはざまで、穏やかに生きていくのである。どちらの側からも多かれ少なかれ見放されているそのような形式は、無関心になったもの、無意味化されたもの、つまりは自然というものの巨大なる量塊に引き寄せられる。とはいえ、ブルジョワジーがフランスに浸透するのはその倫理をつうじてである。国民的規模で実施されているブルジョワ的規範は、自然界の自明な法則と同じように生きられている。ブルジョワ階級が自らの表象を広めれば広めるほど、その表象はますます自然化するし、ブルジョワ的事実は不分明な宇宙のなかに吸い込まれる。プロレタリアでもブルジョワでもない、〈永遠の人間〉だけが住んでいるような宇宙のなかに。
 それゆえ、ブルジョワイデオロギーが最も確実にその名を失うことができるのは、それが中間層に浸透することによってである。プチ・ブルジョワジーの規範はブルジョワ文化の残滓である。それは、堕落し、貧弱なり、商品化され、やや古風というより流行おくれになったブルジョワ的真理なのである。ブルジョワジーとプチ・ブルジョワジーの政治的同盟は、一世紀以上も前からフランスの歴史を決定してきた。その同盟が解消されたことは滅多になく、そのつど束の間のものであった(一八四八年、一八七一年、一九三六年)。この同盟は、時とともに厚みを増し、徐々に共生的となった。一時的な覚醒もときには起こりうるが、共有されているイデオロギーが問題にされたことは決してない。同一の「自然な」練り粉がありとあらゆる「国民的」表象を覆いつくすのである。階級の儀式(富の顕示と蕩尽)に由来するブルジョワの盛大な結婚式は、プチ・ブルジョワジーの経済的地位とは縁もゆかりもないものだ。しかし、新聞雑誌、ニュース、文学をつうじて、その結婚式はだんだん、実際に経験しないまでも、夢見られるものとして、プチ・ブルジョワジーカップルの規範にさえなりつつある。深部のブルジョワ的規定を持つわけでもなく、想像のなかでしか、すなわち意識の固定化と貧弱化のなかでしかその規定を経験できないはずの人類全体を、ブルジョワジーは、たえずそのイデオロギーのなかに吸収し続けている。プチ・ブルジョワ向きの集団的イメージのカタログをつうじて、自分の表象をばらまくことによって、ブルジョワジーは諸社会階級のまやかしの無差別化を慣例として確立するのだ。ブルジョワ的な除 - 命名がその効果をいかんなく発揮するのは、月給二万五千フランの女性タイピストブルジョワの盛大な結婚式のなかに自分の姿を認める[﹅8]まさにその瞬間からである。
 ブルジョワの名称の欠落という現象はしたがって錯覚でもないし、偶然でもないし、付随的でもないし、自然なものでもないし、無意味なものでもない。それはまさにブルジョワイデオロギーそのものである。言い換えれば、それは、ブルジョワジーがそれによって、世界の現実を世界のイメージに、〈歴史〉を〈自然〉に変形する動きのことだ。このイメージには、それが転倒したイメージだという注目すべき面がある。ブルジョワジーの地位規定は、特殊で、歴史的なものである。ブルジョワが表象している人間は、普遍的で、永遠であろう。ブルジョワ階級はその権力を、まさしく科学技術の進歩の上に、自然の無制限の変形の上に打ち立ててきた。ブルジョワイデオロギーは、不変の自然を復元するだろう。初期のブルジョワ哲学者たちは、意味作用の世界に入り込み、あらゆる事物を合理性に帰服させ、それらは人間のために使われるものだと宣言した。ブルジョワイデオロギーは、科学主義的もしくは直感的となるだろう。それは事実を確認し、あるいは価値を認めるだろうが、説明を拒むだろう。世界の秩序は、自己充足的ないしは言い表しがたいものとされるだろう。それは決してシニフィアンとはならないだろう。そして最後には、改善の余地があって動かすことができる世界という最初の観念が、無限に繰り返される同一性によって定義された不可変の人類という転倒したイメージを生産するだろう。要するに、現代のブルジョワ社会では、現実的なものからイデオロギー的なものへの推移は、反 - 自然[﹅3](anti-physis)から偽 - 自然[﹅3](pseudo-physis)への推移として定義されるのである。
 (下澤和義訳『ロラン・バルト著作集 3 現代社会の神話 1957』みすず書房、二〇〇五年、357~360; 「今日における神話」; 一九五六年九月)  


 一〇時台に覚醒。正午頃、(……)と待ち合わせだったので本当は九時台に起きたかったのだが。布団を剝ぎ、臥位のまま脹脛をほぐす。空は今日も白。このときは水色も多少見えはしたが。風はあって、窓外のネットに育ったアサガオの蔓と葉がはたはたうごめいている。そのそばの宙には小さな蜘蛛がおり、脚を除けば一センチもないだろう。方向をたびたび変えながら回るようにうろついている。雨を呼んだり何かを召喚したりするような儀式的なダンスのよう。

 上へ。昼食の約束なので飯は食わず、水だけ腹に入れる。風呂を洗うと帰室し、LINEで(……)くんに返信。

 おはようございます。昨晩はありがとうございました。僕もとても楽しかったです。

 ただ、思わずぺらぺらと喋ってしまい、小難しいような雰囲気にしちゃってすみません。気づかないうちに、いけすかないクソスノッブ野郎になってしまっていました笑

 読書会って、いままで仲の良い友人と適当にくっちゃべる形でしかほぼやってこなかったので、これだけ人数がいて関心もばらばらだとなかなか難しいですね。

 ただ個人的には、ウルフは自分の手で訳したいというひそかな野望を以前から抱いていたので、いい機会をいただけたと思っております。こういう場でもなければ、To The Lighthouseを原文で読もうっていう気もそもそも起こらないですからね笑

 そういうわけで、できるだけ訳文は作っていこうと思いますので。次回もがんばりましょう。

 そうするともう11:40くらい。着替え。抽象画的図柄の白いTシャツに、ガンクラブチェックのスラックス風ズボン。準備し、石川美子訳『ロラン・バルトによるロラン・バルト』(みすず書房、二〇一八年)を数分のみ読んで出発。

 葉が鳴るほどの風が道を行くあいだ、林に流れ続ける。坂に入ると前から老人が一歩ずつゆっくりと下りてきて、見れば(……)さんである。挨拶すると、お父さんにはいつもお世話になってとお決まりの礼が来る。ビニール袋を持っていたので買い物ですかと訊くと、上にね、と言う。「(……)」のことだろう。これから? と訊くのに、今日は休みで、友人と飯でもってことで、と受けると、ああ! そりゃあいい! と返る。そうして別れ。服装が変と言うか珍しいと言うか、川のなかに入って釣りをする人みたいな感じの格好だった。歩みはやはりだいぶ難儀なようで、相当に緩慢である。たしかもう九〇歳のはずだから不思議ではない。過ぎたあと、ああいう肉体の衰えとか弱りとか痛みとかの苦を引き受けなければならないのが老いというものなのだなあとありふれたことを考える。それはもちろん、誰もが自分自身で引き受けなければならないことで、他人がそれを肩代わりしてやることはできない。ただ、当人が痛みや苦しみを受け入れそれと折り合いをつけるための容量すなわちcapacityを多少広げるということは可能なのかもしれず、それがケアとか医療とか臨床とかの分野における重要な仕事の一つでもあるだろう。これはもちろん、ジョン・キーツの概念を医療分野に援用した形でのいわゆるネガティヴ・ケイパビリティ(negative capability)の話だ。

 駅に着くと(……)さんがいる。挨拶。走りに行くらしい。一緒に乗って座席へ。(……)だか(……)あたりまで行って五キロほど走るとか。コロナウイルス期間中は三か月くらい籠っていたらしい。運動不足解消のためだろうが、この人は前から色々と運動をしていて、見かけるときはほぼ運動着である。脚、脹脛の筋肉もけっこうついている。病院の面会がいま五分だけに限られていてと聞かないのに話し出す。母親の(……)さんのことである(下の名前は忘れた)。もうだいぶ長く入院している。ニベアNIVEA、すなわちボディクリーム)を身体に塗ってやるとか言う。実際はそれで一五分くらいいるらしい。

 (……)で乗り換え。(……)さんがさっさと降りて向かいに乗り、先に移動してしまうので、一応挨拶はしておこうとそのあとをとろとろ追い、相手が座ったところで、じゃあ僕は前に行きますんで、どうも、と掛けて(……)方へ。メモ取って(……)まで。
 
 改札抜けるが(……)の姿はない。立ち尽くしていると、駅の外からやってくる。黒いマスクをつけており、頭には地味な色の、粘土色みたいな感じのキャップ。右手を鷹揚に上げると、動きは変わってないなと笑う。飯屋へ。歩廊上を行きつつ、まだ(……)にいるのかと訊いてみると、もうずいぶん前に(……)に移ったと言う。こちらはあいも変わらず実家住まいで腐れフリーターだと話す。

 (……)のそばに飯屋があるとか言うので北方面へ通りを歩く。たしかに何とかいう小さい食堂みたいな店があった覚えはあった。ところが件の飯屋(「(……)」という店)は火曜日定休で閉まっている。しょうがねえからジョナサンに行こうというわけでまた歩き、しかし途中で「(……)」が見えたのでそちらで飯を食い、ジョナサンでデザートやらドリンクやらを飲みながらしゃべることに。

 「(……)」ではこちらはメンチカツカレー。(……)は普通にカツ丼か何かだったはず。
 結婚したのかと訊くと、結婚はもうしなくていいかなみたいな感じの考えらしい。まあ結婚した人間の面じゃねえなと、無精髭が口の周りを色づけているのをけなす。恋人はいないことはないと言って、一応付き合っている相手はいるらしい。同じ会社の女性に手を出してしまったと言う。ただ何だか付き合いが面倒臭くて、二週に一回くらいしか会っていないと。いまはコロナウイルスで出かけられないので、たいてい自宅でDVDを見たりとか。相手は二七歳とか言っていたか? その歳なら結婚も向こうは考えているわけだろう? と。ただ(……)は結婚をする気は起こらないらしく、あとで電車内では、むしろ俺ら(つまりこちらも含めて独り身の人間)は勝ち組なんじゃねえかって、と言っていた。こちらも結婚はしないだろうと思ってはいる。孫は兄貴が作ってくれたし俺はもう良いだろうと。ただパートナー的な人間はほしいかもしれないと前々から折に触れて言っていることをまた言う。だがそれをことさらに求めるつもりもなく、結局は成り行き主義だ。
 兄貴はモスクワにいると話す。このあいだの一月末に二人目が生まれた。連れ合いとはベルギー赴任中に知り合い、相手は界隈ではたぶん有名なオペラ歌手で、その人がなんでか知らないが兄貴が良いとなったらしく結婚したと。年上で、一人目も四二歳くらいで生んだのではなかったかと話す。
 鬱症状に陥ったことを話す。もともとパニック障害を持っていて治りかけていたのだが、二〇一七年末に急に体調が悪くなってまた変な感じになり、その後、何も感じなくなったと。本当に、嬉しいも悲しいも飯がうまいも何も感じず、ネガティヴな感情もなかったのであまり苦しいという感じもなかったのだが、その感情の消失自体が苦しかったみたいな説明。あとはとにかく死にたいという思いが毎日絶え間なく湧くと。その死にたいという思いには何の理由もない。何からも独立してただ希死念慮だけがおのれの脳内を支配していた。強いて言えば生がまったく無意味になったということの虚無感が理由ではあっただろうが。希死念慮について言うと、(……)は驚き、かなり深いところまで行ったんだなみたいなことを言うので、まあパニック障害になったとき以来、人生のなかで二度目のどん底ではあったと応じる。
 (……)の仕事は(……)。会社は(……)。今度工場に回されるらしい。もう煙草業界も下火だろうと言うと、電子タバコの生産に注力しはじめているらしい。まあそれはそうだろう。電子タバコというものの仕組みを全然知らないのだが、小型の機構のなかに煙草の成分を入れて蒸すような形で熱し、抽出されたものを吸うらしい。こちらは煙草を吸わないし、そのにおいも特に好きではないが、煙草の煙が健康にどうとか副流煙がどうとか強硬に言うつもりはなく、普通に分煙環境が確保されていれば個人が嗜好するのは何も問題ないと思っている。それよりも明らかに酒に酔った人間が起こすもろもろの無理性で馬鹿げた振舞いのほうが、こちらからすれば明らかに不快かつ有害だ。
 (……)と会っているかと訊かれるが、まったく会っていない。(……)とは(……)という同級生のことで、彼はこちらが中学当時に唯一音楽の趣味を共有できた相手で、よく彼の家に行って遊んだし、中学卒業後、大学までのあいだも何回か訪問した。大学以降、文学に目覚めてのちも二回か三回は会ったはずだ。東京大学を目指していたのだが果たせず一浪して(……)大学に入り、大学時代は音楽サークルに属してギターを弾き、Kurt Rosenwinkelなんかが好きだった。たしか修士まで行って、研究はルネサンスあたりのイギリスの医学とか生理学みたいなことについてやっていたはずで、だからたぶん、カンギレムとか金森修とかの仕事に繋がってくるようなことをやっていたのではないか。当時やつが名前を出していたのはなんという人だったかなと思って色々検索してみたところ、おそらくWilliam Harveyという人ではないかと思う。この人は一五七八年から一六五七年まで生きた医師で、血液循環説を唱えたらしいのだが、(……)も当時血液がどうのこうのとか言っていたような気がする。デカルトとの関わりがどうのこうのとかも言っていた気がするのだが、鈴木晃仁「医学史とはどんな学問か 第6章 科学革命期の新しい医学の発展 1620-1700」(https://keisobiblio.com/2018/04/11/suzuki06/)をちょっと覗いたところでは、「デカルトは、1628年に刊行されたハーヴィーの著作を1632年に読み」、「血液が循環すること」に関しては「それに賛成するという形でハーヴィーの偉大さを称賛した」とあるので、おそらくこの人物で間違いないだろう。(……)と最後に会ったのはたぶん五年くらい前ではないか。何をやっているのか知らないのだが、たしか独立行政法人みたいな感じの、通常の私企業ではないところに入ったとかで、神奈川のほうに行ったのではなかったか。

 ジョナサン。
 『ONE PIECE』についてちょっと話す。
 LINEはやっていない。そもそもガラケーだから。絶滅危惧種と。出先でインターネットとかまったく見ないと。渡部が不倫してようがなんだろうが知ったこっちゃないわけだと(……)。肯定しつつ、それももう二か月くらい前だろと笑う。
 日記及び読み書きの取り組みについて説明。
 (……)について。やつも「物語」を書くと言っていたらしい。そういうほうかと思っていたと。もちろん小説も書きたいと答える。短歌も作っているし、詩もほんの少しだけ。
 「(……)」についても。アコギ買って曲作って弾き語りたいと。
 やりたいことがたくさんあるなと。意外とフリーターでも忙しい。
 麻雀について。以前会ったときは雀荘に行くと言っていた。『哲也』。色川武大。麻雀は時間が掛かる。『アカギ』。やっと終わったらしい。
 タピオカ。神保町。
 弟。浅草らしい。二人いた気がするのだが。何か妙な様子だった。口ぶり。
 労働。いまは水曜日だけだと。面談をやってはいるが。三万くらいしか稼げてないんじゃない? と言うので、三万も稼げてないよと受ける。もうちょっとあったほうが良くない? と。本も買えるしと言うが、一応貯金もいくらかあるし、一〇万円も入ったし、まあいいかなと。普段はもう少しもらえるしと言っておく。
 ハンターハンター。アニメ見ていた。毎日。鬱症状中は。
 (……)は一応本は読むらしい。職場の帰りに(……)図書館に寄って借りると言うので、お前、文字読めたんだなと冗談めかして馬鹿にする。東野圭吾とかいわゆる大衆小説。趣味の大衆性を自覚しており、俺は本屋大賞を取ってるやつとか、流行ってるやつのなかで自分が好きそうなものを読むと。米澤穂信が好きらしい。住野よるの『きみの膵臓を食べたい』は読んだかと訊くと読んだと言うので、どういう話なのか尋ねてみると、膵臓癌で余命が短いヒロインと男子(口ぶりからするにたぶん高校生くらいの男女の印象だったのだが)が死ぬまでの思い出づくりをするみたいな話らしく、「青春っぽい」とか言っていた。最後にちょっとまあ落ちがあって、みたいなことを言っていたので、まあ仕掛けと言うか驚きの展開もしくは真相みたいなものがたぶんあるのだろう。タイトル通り膵臓を食うわけではどうもなさそうな気がする。五月二八日の日記に、"A Case of You"に絡めてこの本の名前を出したときには、普通にタイトル通り相手の内臓を食うような物語で、「「愛」の究極形態を表現する一手法としての「取り込み - 合一」のテーマ」を採用した話だと想定していたのだが、どうもそういうわけではなさそうだ。

 ジョナサンから駅へ。最近はミスチル聞いている、歌っていると言う。九〇年代の三作。『Q』と『深海』と『DISCOVERY』はいまでも普通に聞ける、悪くないと。ほか、Suchmosを説明。(……)はどこだかのフェスティバルみたいなイベントでライブを見たらしい。あの人たちは昔の洋楽のソウルとかが好きな人たちで、そういう音楽を取り入れていてけっこう格好良いねと。あとJamiroquaiっていうイギリスのグループがあって、カップヌードルのCMに使われてたやつなんだけど、それに似ていて最初のうちは和製Jamiroquaiとか呼ばれていたらしいと。ceroも名前は出しておいた。
 (……)駅近くで投票は行ったかと。もちろんと回答。宇都宮健児に一応投票したと。まあただ都知事選など興味がないので、桜井誠か立花孝志か、ホリエモン新党とか言っているわけのわからん連中でなければ誰でも良いと思っていたと言いながら、駅に入る。(……)は投票は行かなかったらしい。あとでベンチで訊いたところでは。いや何か忙しくてとか言い訳していたが、興味がないなら別に投票に行かなくても良いとこちらは思っているし、そもそも投票に行きましょうだの何だの真面目くさったことを優等生的に呼びかけるよりも、一人一票で一回の投票で物事が決まってしまうという不完全極まりない制度の有効性を問うことのほうが重要だろう。第一、投票を呼びかけていわゆる「サイレント・マジョリティ」とか呼ばれるような人々が、煽動されて、例えばドナルド・トランプみたいな人間を選び出してしまったり、今次の都知事選で言えば桜井誠を選出してしまったりするよりは、投票に行かないでいてくれたほうが普通にましだろう。

 (……)駅。ベンチ。(……)の話が出る。突然名が出てきたが、普通に覚えていた。正直自分でもよく覚えているなと思う。思い出したのは中学卒業以来ほとんどはじめてだと思うのだが。唇が厚かったやつだろ? と言う。たしか「タラコ」という何のひねりもないあだ名もつけられていたのではなかったか。わりと勉強はできるほうの男子だったはずで、こちらもたしか何の科目だったか忘れたが、学力別の選択クラスで一緒だった記憶がある。(……)に関してはあと、たぶん(……)とだった気がするが、彼がオナニーについて猥談していて、男性の自慰行為を「抜く」と言い表すその表現について、いやあれってまさにそうだよな、本当に、めっちゃ「抜く」っていう感じだよなと大げさに称賛していたのを覚えている。その(……)が最近、結婚したらしい。(……)に急に呼び出されて何かと思えば、婚姻届に名前を書いてくれと。よくお前を選んでくれたなと受ける。もう一人は誰かと訊けば、(……)だと言って、この同級生についても覚えている。何か角刈りで、柔道やってそうな感じのやつだろ? と受ける。ただいまはアパレル店員をやっているらしく、それは(……)が言うとおりちょっと意外だ。中学時代のイメージとはまるでそぐわないが、それ以降の人生で衣服の魅力に開眼したらしい。外見も中学当時の面影はなく、髪の毛も服装もそれらしい、洒落たような感じになっているらしい。横浜にいるとか言っていたか?
 (……)出身の連中とはときおり会っていて、なかでも(……)とはいまもよく会っており、一時期は週六で会っていたとか言うから、結婚してんのかよと笑った。(……)は運送会社((……))で働いており、身体がけっこう大きくていつも眠たそうな顔をしたのんびりとした感じの男子だった。
 あとは(……)。数年前に(……)の家で会ったと話す。そのときたしか旅行で九州かどこかに行って、風俗に寄って楽しんできたみたいなことを話していた覚えがある。職業は公認会計士で、仕事はとても忙しく、食事を取る暇もないとか言っていたのだけれど、そのわりにそれ以前と比べてかなり太っていた。あるいは、ゆっくり食べる時間がないから腹に溜まるものを急いでがーっと食うので、それで太ったということだったか。で、(……)はそのとき(……)の家の居間の卓を囲んでこちらの隣(たしか左隣)に座っていたのだが、すると鼻息を荒く漏らしているのが聞こえてきたので、デリカシーのないことにこちらは、お前、鼻息が聞こえるぞと指摘し、夜寝るとき、いびきかいてんじゃないのか、呼吸が止まっているかもしれんぞ、大丈夫か、とか訊いたのだった。すると(……)は、鼻息に関しては自分で気づいていなかったようでちょっとショックを受けて、え、鼻息って……それ、普通にデブやん、と漏らしていた記憶がある。そういうことを(……)に話した。

 電車内。(……)さんと(……)の話。(……)さんは一人称が「オレ」だった。それで覚えている。しかも、イントネーションは通常の「俺」のように平板でなく、「おら」と同じ高低。(……)と付き合っていたのははじめて知った。

 書店。漫画コーナー。泉光を紹介。面白いと。質が高いと言うと、いつもちょっと上からだよねと笑われる。



 帰り道。(……)さんの家の向かいの木。一本だけ白っぽくて樹皮の段がない幹の木。
 (……)さんのあたりで猫。黒っぽい墨色の毛色。腹などは白いが。こちらを振り向きながら歩いていく。(……)さんの家の駐車場に。距離を置いて止まって、手をあげると、途端に逃げ出す。残念。

 仮眠。

 夕食にだいぶ時間掛ける。一一時頃まで。新聞を読んでいるうちに。メニューはウインナー二本や米、鮭、マクドナルドのチーズバーガー、大根の煮物など。あと豆腐。(……)さんの奥さんからもらった竹筒に入った。まろやかでクリーミーではあるが目立った味わいがあるようには感じられない。
 父親が皿洗ってくれる。彼が帰宅して風呂に入り飯を食うまでのあいだ、こちらはずっと新聞に時間を使っていたわけだ。父親が飯を食っているのに全然気づかなくて、台所に立って洗い物をしているのを見て意想外の感を得たほど。



 (……)さんブログ。二〇二〇年四月五日。

 (……)彼[スピノザ]は「自由意志」を批判する。しかし、それは、自由や意志を否定することではない。実際は諸原因に規定されているのに〝自由〟だと思いこんでいる状態に対して、超越論的であろうとする意志(=知性)に、スピノザは自由を見出すのである。
柄谷行人『探求Ⅱ』p.225)

     *

 超越論的ということを、カントやフッサールの〝方法〟や対象領域に限定してはならない理由は明瞭であろう。現象学マルクス主義精神分析、さらにフーコーの〝知の考古学〟やデリダの〝ディスコンラクション〟は、それぞれ超越論的なのである。そう考えた上で、はじめて超越論的主体という問題が出てくる。これらの考え方は、経験的な私(主観)や自由意志を批判する。しかし、それは、主体を否定したり滅却したりすることではないし、そんなことはできはしないのだ。さらに重要なことは、私という主体はないと言うこと、ランボー流にいえば、「私とは他者だ」と言うことが、それ自体超越論的な主体によって可能だということである。
 そのような主体が在るというならば、それはただちに経験的な主体になってしまう。あるいは、超越的な主体になってしまう。超越論的主体は、そのような主体を批判することにおいてしか無い。いいかえれば、超越論的主体は、世界を構成する主体=主観ではなく、そのような世界の外部に立とうとする実践的な主体性においてしかないのである。超越論的であることは、主体的であることであり、その逆も然りである。
柄谷行人『探求Ⅱ』p.226-227)

 片岡一竹『疾風怒濤精神分析入門』の抜書きに、「主体が欲望を持っているということは、主体に何かが欠如しているということと等価です」と、それ自体は常識的に納得できると思われる説明があったのだが、これは本当にそうなのかなあと思った。なんかこういう捉え方とは別の思考を生み出したいような気がするのだが。
 それに続いて、以下のようなやはりわかりやすい説明があるのだが、これも、マジで? みたいな印象をなぜなのか受けてしまう。いままでこういう内容の精神分析の理論に関しては、(……)さんのブログで何度も読んできたはずなのに、なぜか今回はじめてそれを疑わしく思った。平易な言葉で要約されているためだろうか? もちろん精神分析理論はあくまで仮説と言うか、大いなるフィクションに留まらざるを得ないものだと言うか、最終的な証明はたぶん無理なのだろうが。

 だから母親が何かを欲望しているということは、母親に何かが欠如しているということと同義です。そして欠如しているものが欲望の対象である以上、母親に何かが欠如しているということと同義です。そして欠如しているものが欲望の対象である以上、この欠如はファルスの欠如だと言えます。つまりファルスとは、母親の欠如(=欲望の対象)そのものを表わす言葉なのです(…)。
 しかし、これが幼児にとっては耐えがたい発見です。なぜなら、幼児は母親に完璧な存在であってほしいと願うからです。お母さんには望月のように何も欠けるところがなく、自分のすべてを包み込んでくれるものであってほしいと幼児は願います。
 だからこそ幼児は、自分自身の手によってファルスの欠如を埋めようと思います。そのために彼はファルスに同一化しようとするのです。自分がファルスになることによって母親の欠如は満たされ、そして、母親は自分の傍にいてくれると幼児は空想します。
 「お母さんが何かを欲しているのは、自分に足りないものがあるからだ。その〈足りないもの〉が他のところにあると、お母さんはどこかへ行ってしまう。でも僕がその〈足りないもの〉になってあげれば、お母さんは完璧になるし、僕の傍にいてくれる」というわけです。幼児がまず望むこと、それは〈他者〉の欠如を埋めることなのです。

 と思っていたら、次の引用で、「ここまでの議論は多分に後付けの理屈であり、幼児が実際にこのようなことを思って行動したわけではありません。あくまで自分の不満(フラストレーション)を無くすために〈完璧な母親〉を作り上げようとしていたに過ぎず、お母さんにファルスがないのは「何やらおかしい事態」でしかありません」という補足的註釈があった。
 あとは、「おそらく、幼児が母親とお風呂に入ったり、着替えを見たりした時、彼女が現実的に(=物理的に)ペニスを持っていないことを発見してしまうのでしょう。先述の通り、女性器を見ることはペニスの欠如の発見の瞬間です(…)。子供がこうした現実的穴に触れてしまったとき、「母親には何か欠けたものがある」ということが否定できない事実として刻まれてしまうのです」という記述もあって、ここは(……)さんも異議を唱えていて、「「「〈ファルスがない〉ということがあり得るのだ」と知る時」とは、「現実的に(=物理的に)ペニスを持っていないことを発見」する時とイコールで結ぶべきではないのではないか?」と言っているのだが、こちらとしてはそもそも、「幼児」にとって、「女性器」が(ペニスの)「欠如」として本当に現れるの? という疑問がある。「女性器」=「現実的穴」が「欠如」として「発見」されるためには、「ペニス」がある状態=充実が通常の状況として前提にされていないといけないはずだと思うのだが、「幼児」においてそのあたりってどうなってんの? という疑問だ。「先述の通り」と記されているので、そのへんの説明がこれ以前にあったのかもしれないが。