2021/1/1, Fri.

 ポウからエリオットへ、そしてアメリカ新批評へと続く批評的伝統の根源へ遡行するなら、カントの『判断力批判』(一七九〇年)に行きあたる。一九世紀中葉、アメリカ・ロマンティシズムの時代がエマソン率いる超絶主義思想の時代でもあったことはよく知られているが、その背景において、すでに当時輸入されつつあったカントの三批判(純粋理性・判断力・実践理性の三機能に関する批判)が影響を及ぼしていたことは、先に引いたポウ的な三区分からさえ如実に判明するだろう。カントは人間を自律的存在と捉え、新批評は詩作品を自律的存在と考えた。これはのちのポスト構造主義の文脈において、「作者の死」転じては「人間の死」という命題が言語自体の、その自律性の検討をより一層深めることになるプロセスに等しい。そして、ここで大切なのが、いずれの場合にも、批評はある種の「暴力」からの解放である点で、まぎれもなく「倫理的」たりえていたという事実である。新批評は詩作品を作者という暴力から解放し、新解釈主義は作者の権利を守るために芸術至上主義という暴力に抵抗した。だが同時に、暴力とは、前作『メデューサの鏡』(一九八三年)で人類学的方法論への造詣を隠さず、本書でもルネ・ジラールを援用しているシーバースにとって[註2: Siebers, The Mirror of Medusa (Berkeley: U of California P, 1983). 本書の翌年、やはりシーバースコーネル大学からも一冊、The Romantic Fantastic を出している。当時、ミシガン大学助教授(英文学・比較文学)。]、自然から文化への移行が文字を媒介に成される時、必然的に浮上する形態である。第四章では、まさにそのようなパースペクティヴが、ルソーからレヴィ・ストロースデリダへ至る系譜の中に看破される。彼によれば「倫理体系が外部の暴力を根絶しようとする時、その根絶行為自体がひとつの暴力を発生させてしまう」(九二頁)。
 暴力を批判する暴力、それが倫理なるものの正体なのだ。倫理は暴力を防ぐその同じ力で、秩序という名の暴力をふるう。ここに、倫理の根拠とはそもそも限りなく非倫理的であるという根拠がある。ところが、シーバースによれば、そのような人間的倫理のないところに批評は成り立たない。というのも、批評とはけっきょく「判断」に尽きるためである。ポウは寓喩を批判することで最も寓喩的な判断を下したし、エリオットは個性を批判することで最も個性的な判断を下した。そもそも判断とは暴力という名の倫理であると同時に、任意という名の批評なのである。
 (巽孝之『メタファーはなぜ殺される ――現在批評講義――』(松柏社、二〇〇〇年)、149~150; 第二部「現在批評のカリキュラム」; 第五章「善悪の長い午後 トビン・シーバース『批評の倫理学』を読む」)



  • 九時半過ぎに一度覚醒。六時間。しかしいつものごとく寝ついてしまい、一〇時半過ぎでなんとか正式な目覚めに至った。滞在はちょうど七時間だから悪くない。とりあえず七時間を保てれば悪くはない。しかしできればやはり、九時半時点で起きたかった。
  • 天気は今日もまた無雲の、新鮮な果肉めいた青さがどこまでもひらき、そそぎこまれている晴天である。水場に行ってきてから瞑想をおこなった。一〇時五三分から一一時一七分まで二四分間。今日はだいぶ感覚が深向した感があった。しかしどうでも良い。ただじっと座っているだけで良い。とはいえ、身体感覚のまとまり方はけっこうなものだった。本当にからだの各部分の切れ目がなくなり、肌が隅までひとつながりの布地になって、なめらかに均された統一体と化す、という感じ。余計なことをせず、座ってじっとしていれば勝手にそうなる。
  • 上階へ。挨拶し、食事。髪をそろそろ切りたい。食事は正月的なお節の物々など。あと天麩羅の衣の余りでつくったお好み焼きと、澄まし汁みたいなスープ。元日だが新聞があったので読んだ。新聞社というのは勤勉だ。一面および社会面に、中国のいわゆる「千人計画」に日本の研究者もすくなくとも四四人関与していることがわかった、という記事があったので読む。いわゆる科学技術系の人々で、かなり著名な学者もいるよう。だいたい高齢になって定年を終えたけれど研究を続けたいというような人が、高待遇に惹かれて中国でのポストに就く、というケースのようだ。即座に軍事転用されるような分野ばかりでなく、基礎的な学術知識を教えていた人もいる。新聞が取材をしたなかで実名を明かしていたのはひとりだけだったと思うが、取材を受けた人々はみな、日本の科学技術研究環境に対して不満を漏らしていたと言う。すくない助成金を奪い合うような競争社会になっており、したがっていわゆるポスドクみたいな問題も出てきて、非常に不安定でリスクのある道になっていると。ひるがえって中国では研究職というのは若者にとって夢のある分野になっているし、またこの教授たちが実際に受けた待遇としても、研究資金はめちゃくちゃもらえるらしいし、手伝い付きの住居が提供され、職場までの送迎も無料でしてもらえたとか。それはまあそちらのほうが良い、となるわな、という感じ。とはいえ米国は「千人計画」を警戒しており、海外で赴任する研究者には情報を開示するよう義務付けているというし、日本もその路線を踏襲する方針らしい。ただ、教授のひとりが言っていたことによれば、研究論文自体は全世界に公開されているので、べつに「千人計画」に参加していなくとも軍事転用につながる可能性は否定できないとのことだ。
  • 国際面では、香港でいったん保釈されていた黎智英がまた収監されたという記事を見た。
  • 皿洗いは父親に任せ、風呂を洗う。天気があまりにも良くて、窓の細い隙間から覗く外には陽が満ち満ちているし、空も青く澄み渡っているので散歩に行きたい気持ちが湧く。ただ、行くとしたら、もういますぐだろう。陽がどんどん傾いてしまうので。また、歩くからにはなんとなく、仮でも良いので到達地を定めないとあまり歩く気にならないのだが、それが見つからない。近所を回るだけでも良いとは思うが。いずれにせよのちの気分次第としてひとまず帰室。
  • コンピューターを用意し、前日の記事を仕上げて投稿。それから今日のこともここまで綴って一時半を過ぎたところである。打鍵をゆっくり、しずかにしたい。
  • 日記作成および投稿のあいだは小沢健二『球体の奏でる音楽』を聞いており、そのまま『犬は吠えるがキャラバンは進む』に入っていて、書き物を切りとして調身をはじめたあともスピーカーから流しつづけていたのだけれど、柔軟をしながら耳を傾けてみると、#7 "天使たちのシーン"が、前から良い曲だとは思っていたがちょっとびっくりするくらい、ビビるくらい良い曲で、デビューアルバムでこれをやってしまったの? とおののいた。とてもすばらしい。この曲もそうだしアルバム全体を通してもそうなのだけれど、この最初の一枚において充溢し醸されている感覚というのはその後の小沢健二からはなくなってしまい、それはこちらからすると非常に残念なことだ。"天使たちのシーン"は冒頭、「海岸を歩くひとたちが砂に 遠く長く足跡をつけてゆく/過ぎていく夏を洗い流す雨が 降るまでの短すぎる瞬間」という一節からはじまるのだが、ここからしてすでにすばらしく、風格めいたものが漂っている。詞としては古典的と言って良いようなもので、要するに季節と風景の提示から導入されるわけだけれど、この正統性は近年の大衆歌からはほぼ完全に失われてしまった要素だと思う。かなり古典的で保守的な感性なのかもしれないが、こちらはこういうものがとても好きだし、歌にもやはりほしい。詞だけでなく、それと結合したメロディの流れ方、およびワンコーラスの構成が、非常に綺麗に、まるく真円を描くようにしてまとまっており、手本みたいなおさまり方をしている。あとは基本的にはそれをループして、ときどきパートを加えながら発展していく形で、合間に入るソロも良く、特に二回目のソプラノサックスのソロが鮮やかである。これは誰なのか? ちょっと検索した限りではわからなかった。全体を通してボレロ的な漸進的盛り上がりもうまく行っており、詞には端々で光るフレーズがあるし、主題もこちら好みで、最後が「賑やかな場所でかかり続ける音楽に 僕はずっと耳を傾けている」で(さらに「耳を傾けている」が二度反復されながら)終わるのも良い。タイトルが"天使たちのシーン"となっていながら、「天使」につらなりそれを連想させる語彙が「神様」くらいしか出てこないのも良い。びっくりした。名曲と言って良い。それまでの活動はあったにせよ、デビューアルバムで最初からこういうことをやろうと思い、実際できてしまったのがなぜなのか、それ以後の作品を聞くとよくわからなくなる。
  • 上の感想を書き足すと「英語」を音読。今日はあまり興が乗らなかったというか、四〇分ほどで疲れたような感じになった。現在八時半で、もうそろそろ夜も本格になるので音楽を流して文を読むことができなくなるのだけれど、「記憶」のほうを読んでおこうという気にもならない。飽きてきたのかもしれない。腕も連日ダンベルを持っているから多少疲れていたようで、それも影響したかもしれない。本当に飽きたらやめても良いが、一応いまのところは、毎日「英語」にも「記憶」にも、触れるだけは触れたいと思っている。
  • 久しぶりにギターを弾きたい気持ちがあったが、先に脚をほぐそうということでベッドへ。今日はメルヴィルを読むのではなく、禁忌を破ってコンピューターを持ちこみ、しかしネットの海に遊ぶのではなく(……)さんのブログにアクセスし、二六日以降の記事を一気に読んだ。二七日冒頭には以下の書抜き引用。

 人工知能に対するもう一つの疑問として、しばしば提出されてきたのが、いわゆる「フレーム問題」と呼ばれる難問です。もともとは、人工知能研究者のマッカーシーとヘイズが発表した論文に由来しています。この問題を、アメリカの哲学者ダニエル・デネットが1984年の論文であらためて提起し、今ではデネットの卓抜な思考実験が、たいてい使われるようになりました。そこで、やや長くなりますが、問題を確認するためにも、デネットの描いた思考実験を見ておきたいと思います。

 ①むかしR1というロボットがいた。ある日、R1の設計者たちは、エネルギー源となる予備バッテリーを、ある部屋に置き、その部屋に時限爆弾を仕掛け、まもなく爆発するようにセットした。R1は、その部屋からバッテリーを回収する作戦を立てた。部屋の中には、ワゴンがあり、バッテリーはそのワゴンの上に載っている。R1は「引き出す(ワゴン、部屋)」という行動を実行すればよいと考え、ワゴンを部屋の外に持ち出すことに成功したが、不幸なことに、時限爆弾もワゴンに載っていたので、部屋の外に出たところで、R1は爆破されてしまった。
 ②設計者らは第2のロボットの開発に取りかかった。ロボットは自分の行動の意図した結果だけでなく、意図しなかった結果をも判断できなくてはならない。そのためには、行動の計画を立て、周囲の状況の記述からその結果を演繹させればよい。そこで、新たにつくられたロボットはR1D1(D=Deduce(演繹))と名づけられた。そこで、R1D1は、R1の場合と同じ状況に置かれ、バッテリーの回収に取りかかった。「引き出す(ワゴン、部屋)」という行動の実行に先だって、R1D1は結果を次々と考え始めた。ワゴンを引き出しても部屋の壁の色は変わらないだろう、ワゴンを引き出せば車輪が回転するだろう(中略)。こうした結果の証明に取りかかったときに、時限爆弾がさく裂した。
 ③問題は、目的にかんして、関係のある結果と関係のない結果を、ロボットが見分けられなかったことにある。そこで、開発者たちは、目的に関係のない結果を見分けられるロボットR2D1をつくった。ところが、R2D1は部屋に入らず、その前でうずくまったのである。部屋の前で、R2D1が無関係な結果を見分けて、それらを一つずつ無視しつづけている間に、時限爆弾が爆発したのである。(①~③は筆者による)

 ここでお分かりのように、「フレーム問題」というのは、人工知能が具体的な場面で行動を起こすときに陥る難問に他なりません。自分の目的を遂行するためには、それに関連する無数の結果をも考慮しなくてはなりません。ところが、②のように、そうした結果をすべて考慮していては、何も行動を起こすことができなくなるのです。そのために、③のように、あらかじめ「目的に関連する重要な結果だけを考慮せよ、それ以外は無視せよ!」と命じたとしても、そもそもどれを考慮し、どれを無視してよいのか、無限に判断しなくてはなりません。こうして、結局は、何も行動できなくなってしまうわけです。
 とすれば、こうした「フレーム問題」を解決しないかぎり、人工知能は不可能だと言うべきでしょうか。注意しておきたいのは、「フレーム問題」が人工知能だけでなく、私たち人間にとっても、状況は同じだという点です。人間は「フレーム問題」を解決しているから、行動できるわけではありません。
 人間にしても、結果をすべて考えようとすれば、まったく行動できなくなるでしょうし、どれが目的に関連のある重要な結果かも、必ずしも明らかではありません。ただ、人間の場合には、そうした「フレーム問題」に拘泥せずに行動するにすぎませんが、そのため①のように爆破されることも少なくないのです。
 ところが、現在、ビッグデータを背景にして、人工知能の分野でも、人間と同じように「フレーム問題」に陥らず(解決ではなく)に、働くようになりつつあります。だからこそ、車の自動運転も実用化が目ざされているのではないでしょうか。
(岡本裕一朗『いま世界の哲学者が考えていること』 p.108-111)

  • これはジョルジュ・カンギレムがたしか晩年、デカルトを読み直しながら考えていた問題そのものだなと思った。グザヴィエ・ロートという研究者の、『カンギレムと経験の統一性』だったか、そんなようなタイトルの本に書かれていたおぼえがある。人間は理性的にあらゆる考えを巡らせてから行動しているのでは決してなく、もしそうしていたらまったく行動ができなくなる、そうではなくてともかくも何かしらの要因で先にやってしまうのであり、行為のその先行性こそが人間の文明や科学技術などを発展させてきた、みたいな話だったと思う。法政大学出版局叢書・ウニベルシタスの本で、あれももう一度読みたい。
  • 同日には中国の学生に課した「定義集」の回答も。なかなか面白かった。(……)さんがやはりほかと毛色が違って、ひとつ頭抜けているように思う。いくつか硬すぎる回答もあったけれど、「幸せ」に対する「月曜日を蹴っ飛ばすこと。」「野良猫と見つめ合う時。」はこちらとしてはどちらも好きだし、「恋愛」を「底知れない学問。」などと言っているのもなかなかで、何より「大人」を「賞味期限が切れた牛乳のようなもの。」とたとえているのは、これはすごいじゃないかと思った。
  • ほか、こちらとして気になったものは、「恋愛」だと、(……)という生徒の「以前一人でしたことを二人ですること。」。簡潔で凝っていないが、明快な説得力があって悪くない。(……)さんは「二つの世界がぶつかり合う過程。」というこたえを出しており、「過程」でおさめたのは良い。(……)さんが「スマホ」を「没落の始まり。」としているのは笑う。(……)さんの、「夜更かしの主犯。」の「主犯」もなかなか良い。「お金」は一番最初の(……)という人の、「良い僕であり、悪い主人でもあるもの。」が良いじゃんと思った。(……)さんはここでは「使えば一時的な幸せをくれる消耗魔法。」としており、この女子はたしか一見あかるくて快活そうなのだけれど、その実ひとりでいるのがけっこう好きなタイプで、加えて人間関係とか実存方面の事柄にわりと悩むことがあるという人種だったと思うが、この「定義集」の回答を見ると、なんか妙に達観していないか? という印象が持たれた。(……)さんの、「それを持っているだけでは何もできないもの。」「それがなければ何もできないもの。」のセットはわかりやすい。「言葉」という題では、(……)という生徒が「すべてのものの間のロマンス。」とこたえていて、良いではないかと思った。一九世紀のボードレール的な(あるいはマラルメ的な?)「照応」概念を思い出す。全体を通して一番良かったのは、やはり「大人」=「賞味期限が切れた牛乳のようなもの。」か。
  • 二九日には、福原泰平『ラカン 鏡像段階』からの引用の一部に、「また、これとは逆に、鏡像段階自体の成立がこの第三の人称に支えられているという点も確認しておかねばならない重要な点である。鏡にみとれ、そこに映る統一的な全体像に魅せられる幼児の後ろには、必ず主体と鏡像ともう一つ、第三人称の他者のまなざしというものが存在していることを押さえておかねばならない。つまり、幼児は自己の鏡像をやはり微笑をもって迎えてくれる大人のまなざしの中に確認することで、はじめてそれとして受け取ることができるようになるとラカンは考える」という説明があって、なるほどそうだったのか、と思った。それで、ロラン・バルトが『ロラン・バルトによるロラン・バルト』の最初のほうに載せた写真のなかで鏡像段階について触れているときも、赤ん坊のバルトを後ろから抱いた母親がほほえみながら一緒に映っている写真になっていたわけだ。
  • 全然知らない作家だが、銭鐘書/荒井健・中島長文・中島みどり訳『結婚狂詩曲(囲城)』というのがやたら面白いらしい。『囲城』って、おなじタイトルがやはり中国の作家で、たしか日本軍占領下の上海を舞台にして書いた作品があって、光文社古典新訳文庫に入っているというのをすこし前に新聞で読まなかったか? と思ったのだが、これは張愛玲『傾城の恋/封鎖』だった。
  • ひとのブログを読んだあと、自分のブログもなんとなくここ数日分を読み返してしまい、というかゴルフボールで背中をほぐしている最中で動きたくなくて、それを続けるがために片手間に何か読むものをもとめた結果アクセスが一番楽だった日記が選ばれたのだが、それで五時まで臥位に留まった。切って上階に行くと、母親がすでに食事の支度をやってくれていた。父親は炬燵で寝ている。やることがないようだったが、せめてもと食器乾燥機のなかを片づけ、台所の床に散らばっていた野菜の微細な屑を拾って捨て、生ゴミを始末し、そうして帰室した。久しぶりにギターを爪弾くことに。しかしあまりうまく流れず。やはり指の動き、もしくは指板上のポジションを脳内にイメージ化してしっかりとらえ、それを見放さないようにするというか、その像が明確でない場合は弾かないようにするというのが重要ではないかと思うのだけれど、実際には指のほうが先行して、像がはっきりしないままに動いてしまうことがままある。そのあいだの距離をなるべく小さくしていけたほうがたぶん良いだろう。とはいえ、いずれにしても適当な似非ブルースなんかいくらやっていても何の話にもならないわけで、文を書けるようになるのに他人の文の書抜きが必要だったように、本当はもっと他人の演奏や音楽をたくさんコピーしていかなければならないのだが。
  • 大して良い演奏もできないのに、いつものことで切り時が見出せず、七時前までだらだら遊んでしまった。上階へ。父親は、先ほどは一応上体を起こして眠っていたのが、もう完全に横に寝転がっていた。麻婆豆腐丼や、天麩羅や澄まし汁の余りなどで食事。新聞から、ロシアで反体制的な活動やSNSへの投稿を取り締まる法が可決されたという記事や、イギリスのEU離脱が正式に完了したという記事を読んだ。最中、タブレットが着信を鳴らし、ロシアの兄夫婦から電話がかかってきたのだなと知れた。眠っていた父親が起き上がり、意識の曖昧そうな様子で出ると、(……)ちゃんの声が響き出してきた。こちらもいったん椅子を離れてソファに腰掛け、新年の挨拶だけしておいたが、食事の途中だったからすぐにもどり、また食後も特に話す気分でなくさっさとひとりになりたかったので、(……)くんが危なげなく堂々とした足取りで歩く様子だけちょっと眺めると、茶を用意して下階に下がった。(……)くんは今度の一月二九日で丸一歳だが、ずいぶんとしっかりした足腰を持っている。
  • 九月一〇日は(……)と通話しており、そこで彼が二〇一八年くらいまで付き合っていた恋人との性関係及び破局が語られていて、それがけっこう面白かったので引いておく。

 そんな話をしているうちに、(……)が去年まで付き合っていた恋人との性関係の話題になった。その女性というのはモンゴル出身の人だったのだが、いざ行為に及ぶという段になると、前戯などすっ飛ばしてとにかく早く入れろ入れろとそういう欲求の持ち主だったらしく、その情緒のなさに(……)は辟易していたと言う。ベッドに入ると必ず一度はやりたがる、しかし(……)としては今日は何もせずに穏やかに眠ろうよという日も当然ある、ところが恋人はそれにはお構いなしなので、相手の欲求を解消してあげないといけないというわけで、無心になってひたすら手を動かす、そんな時は自分は一体何をやっているんだろうという虚しさ、惨めさ、情けなさのような感情に打たれたものだと(……)は話す。その彼女とのあいだに一度トラブルが持ち上がったことがあった。――相手がやっている最中に、もっと強く、と求めるわけだ。しかもあいつ、それを言うのに副詞じゃなくて形容詞を使うんだよな。more strongって、stronglyじゃないかと思うんだけど……と言うか、そもそもstrongを比較級にするんだったらmore strongじゃなくてstrongerだろうと思うんだが、まあ行為中にそんなことを指摘したら白けるから、勿論言わない。で、ともかく、もっと強くと言うものだから、まあ、強くしたわけだよね。そうしたら、その後、痛い、と言うわけだよ。聞けばどうも、膣のなかが傷ついたと言う。それで手術をしなければならないと。それが一〇万掛かると言うので、まあすぐに振り込んだ。それで手術は済んだんだけど、その後もしばらくのあいだは痒かったり痛かったりするらしくて、たびたびそれを訴えてくる。俺もまあ、強くと言われはしたけれど、実際に身体を動かして傷つけたのはこっちだから、自分にも責任があるのは確かなんで、ああ辛いんだなと思って不平を言われても言い返さずに我慢してきた。……でもそれがあまりにも続くんだな、半年とか一年経ってもその時のことを蒸し返される。そうするとさすがにムカつくし、いや、お前が強くって言ったんじゃん、とも言いたくなるわけだよ……向こうにも責任があると思うんだよね。割合としてはこっちと向こうで五分五分くらい。それとも、いや、お前が悪いだろうと、(……)に九割くらい責任があるだろうと思う? ――いや、まあ、わからんな(とこちらは日和見的に、曖昧に受ける)。――まあ五分五分くらいとしておいてほしいんだけど、それで随分経ってもまだその時のことを言われるもんだから、それもこっちが全面的に悪いっていう言い方をしてくるのよ。お前が女性の扱いに慣れていないからだとか、経験が少ないからだとか、言ってくる。それでさすがにうんざりしちゃって、あれはもう別れようと思ってた頃だと思うけど、ついにぶちぎれて、ぶち撒けたことがあった。お前が強くって言って俺はそれに応じたのに、俺が全面的に悪いみたいな言い方をされるのは非常に気に入らない、と。そうするとでも相手は、そんなことは言ってないって言うんだな。……まあ本当に都合の悪いことを忘れてしまっていたのか、それともしらばっくれていたのかわからないけど、どちらにせよ、この人とはもう付き合えないと。――それでも、どれくらい付き合った? ――二年半くらいは続いたかな。――よくそれだけ続いたな。――これもね、良くないと思うんだけど、プライド。――プライド? ――何かその、付き合ってすぐに別れるっていうのは自分として許せないようなところがあるのね。それにまあ、長く付き合ってみないと見えてこないところもあるでしょう、それはある程度真実だと思ってるから。……まあなあなあの、成り行き任せと言われればそうかもしれないけれど。……ともかく、そういう件を通じて学んだのは、信頼って本当に大事だなってことだね。信頼を作るのは大変で、壊すのは簡単だとかよく言うけれど、本当だなと思うね。だから、恋人関係に限らず、友人関係でも、大学の方の関係でも、信頼関係を裏切るようなことはするまいとね、思ってるよ。

  • それから今日のことを、立位でここまで書き足して、九時半前。これから風呂に行く。
  • 入浴。最近眼窩の周りや頬骨をよく揉んでいたからだと思うが、顔面の感触がわりと柔らかくなっている。首も、過去の日記を読み返すあいだに両側とも指圧していたので悪くない状態。湯に浸かったり頭を洗ったりしながら色々ものを考えたが、特に記述できるほどのまとまりをなしてはいない。ただ、出勤や外出時に、最寄り駅に行くのではなくてやはり一駅先まで歩いていったほうが良いのではないかというのは思った。特に明確な根拠はないのだが、やはり歩いたほうが、からだにも頭にも良いような気がする。あと、歩行の時間というのは、一応目的地=目的性に紐付けられてそこに基本的にはまっすぐ向かっていく動きではあるけれど、そのあいだには無数の脱線の契機があり、装飾的な差異の脇道がほとんどモザイクみたいに散りばめられているし、何よりなんらかの活動に拘束されておらず、そこから離れた自由で解放的な時間なので。平たく言えばいわゆる隙間の時間ということだ。その隙間の時間を多く取っていったほうがむしろ良いのでは? という気がするのだ。ついその一日のパフォーマンスを最大化するような方向にがんばってしまいがちで、電車に乗ればあと一〇分か二〇分はあれができる、という風に考えてしまうのだが。そうではなくて、最大の効率を目指そうとしないで、余裕を持って歩いて移動することを前提にしたほうが、普通に心身にとっても、また方法論的に、戦略的にもむしろ良いのでは? という気がする。以前はそんなことを考えることもなく、ただいつも歩いて出勤していたのだが。それはたしか、わずかではあるけれどそれだけ電車代が浮くからそうしていたはずだ。もう一度、そういう習慣にもどしたい気がする。
  • こちらの興味関心の大きな部分というのは、基本的に具体的な個人が媒介になっている。その具体的な個人は多くの場合、作家であるわけだが。パレスチナ問題に興味を持ったのはエドワード・サイードを介してだったし、シベリア抑留について知りたいと思うのは石原吉郎を読んだからだ。ナチスドイツがのっぴきならない主題になったのはショアーへの関心からだし、ショアーが、それ以前からすでに興味の対象ではあったけれど、本格的に学ばなければならない事柄となったのはプリーモ・レーヴィを読んだためである。
  • 昼間、もうそろそろTwitterを閉じようと思って、この場で多少なりとも親交を得た人にその旨伝えてgmailのアドレスを教えておいたのだが、そちらに送られてきたメッセージに返信。それから、長いこと放置してブログに投稿もしていなかった過去の日記をいい加減片づけることに。ブログを見てみると、七月の序盤から穴が生まれていた。これだけ時間が空けばもう書くもクソもなく、メモとして記されていたものをそのまま検閲して投稿すれば良いだろうというわけで、そのようにして、七月七日から一〇日まで投稿。
  • 二〇二〇年七月九日に以下。(……)さんのブログの感想。

 続く四月四日、「私」の冒頭には、「買い物がてら、近所を散歩しながら、ぼーっと道行く人々を眺めていて、若い人も、子供も、老人も、男も女も、歩く人も自転車も自動車も、すれちがった様々な人々が、それを含めた何もかもが、もしかして全部自分だとしたらどうだろうか、と思った。自分と彼らは、ぜんぶ自分。今この私はそう考えているけど、すれ違ったあの人はそう考えていないだろう、しかし、それも含めてぜんぶ自分なのだ。そう考えた自分とそう考えていない自分、というだけなのだ」とあって、これはすごい。こういう小説を書いてみたい。三段目にも、「それは誰かに対する私の共感とか感情移入ではない。そうではなくて、はじめからどうしようもなく自分で、この世界全体がもともと自分で、それが状態に応じて分割され、自分とそれ以外になってるだけみたいな感じだ。(……)もっと極端に言えば、私は誰かを殺さないけど、誰かは私を殺すかもしれなくて、しかしそれはそう思わなかった私とそう思った私がたまたま出会ったことの結果にすぎない。だから殺された私は死ぬが、殺した私は生きている。私は死んでしまったり、生きていたりする」という説明があり、これをもし表現できたら、そのテクストは狂っている。これはすごい。やってみたい。全然わからんけれど、グレッグ・イーガンとかがもしかしたら、「文学」としてではなくてテクノロジカルなSFの領域から、そういう表現を追求しているのではないか。

  • 七月一〇日の冒頭。「先立つ知はすべて大いなる美に回収される」とはなかなか格好良いし、たしかにめちゃくちゃラテン語の格言っぽい。

 一〇時台に覚醒。夢見があったが、覚めるとともに大方消えてしまった。何か男と殺し合うという、物騒なと言うよりは漫画的な趣向があったはず。そのなかで、「先立つ知はすべて大いなる美に回収される」みたいな、古代ローマの格言にありそうな言葉が出てきた。しかもラテン語風の読み方がついていたような気がする。ほか、上の夢と繋がっていたと思うが、何かレースみたいなものに参加していて、沼沢地帯みたいなところを走っていく途中、豊かな草に覆われた斜面を登ろうとすると、上にいた人間から水をぶっかけられるような場面があった。しかもその人物は「ラカン」と名指されていたような気もする。

  • からだがやや疲労し、とりわけ背がこごったので寝台へ。ハーマン・メルヴィル千石英世訳『白鯨 モービィ・ディック 下』(講談社文芸文庫、二〇〇〇年)を読む。捕鯨という営みの起源を神話の英雄や聖人などにもとめて、かなり強引に彼らを原初の捕鯨者として位置づけ称揚し、我々はその一族の末裔であるとか主張する章の劈頭だった気がするが、「できる限り注意をこらしながら無秩序に進めていくのが最良の方法だという仕事が世にはある」みたいな一文があって、慎重に注意しながら無秩序にやるという定式は良いなと思って印象に残った。
  • 一時直前まで。それからすこしだけ、つまり六分だけ柔軟。合蹠とコブラコブラに慣れて背がわりとほぐれてきたら、今度は反った状態でからだを左右にわずかひねる動きを加えると良さそうだ。そうするとおそらく、脇腹あるいは腰の側面あたりを伸ばすこともできる。
  • 夜食をもとめに行った。上階には母親がまだ起きてテレビを見ている。母親は最近夜更かし気味になっている。父親が家にいるとひとりの時間が確保できないし、テレビもしずかに落ち着いて見ることができないから、ここでカバーしているわけなのだろう。豆腐を食おうと思っていたのだが、一二月二六日が期限だった古いものしかなかったので、即席の味噌汁とおにぎりを用意。味噌が入った細長い袋を開けて椀に中身を押し出しているあいだ、ただひたすらに、めちゃくちゃ歩くだけみたいな小説を書きたいなと思った。というか、徒歩で世界を開拓していく小説というか。だから実際にはそれはただ歩くだけ、ということにはならず、要するに旅もしくは冒険としての小説になるだろうが。漫画やライトノベルの方面で数年前から異世界転生物が流行っているけれど、その枠組みで、未開世界というか、世界の全容がまだまだ知られていないが多少の文化文明は各地に散在している世界に転移させられた人間が、ひたすら歩くことによってその世界を解き明かしていく、みたいな。というのも、現代を舞台にやっても成立しないし、たとえば紀元前くらいを舞台にするとしても、歴史的考証とかをする力がとてもないので、異世界設定にすればそのあたりはどうとでもなる。開拓の途中、各所の町などで遭遇する人間たちとの関わりも物語に組みこんでいく。さらに加えて、「神殺し」あるいは「神への叛逆」をテーマとして盛り込めると、なんとなく盛り上がりそうな気がする。つまり、主人公を異世界に転移させた神みたいなやつがいるとして、物語の冒頭でそいつを早速殺してしまって単なる放浪者になるか、あるいは彼の旅すなわち開拓行が神に対する抵抗になる、みたいな理屈をつくれればなんとなく面白くなりそうな気がする。異世界でなくとも、ありがちな設定ではあるが、人体冷凍保存技術でずっと眠っていて何千年後かあとに目覚めると旧人類は滅亡して新しい文明の黎明になっていた、みたいなやり方でもいけなくはなさそうな気がする。
  • 食物を持ってもどると、食べるあいだに「【じんぶんや第78講】 熊野純彦選「困難な時代に、哲学するということ」」(2012/3/5)(https://www.kinokuniya.co.jp/c/20120305163325.html(https://www.kinokuniya.co.jp/c/20120305163325.html))を見た。選書の軸を四つ立てているのだが、そのひとつとして、「(3)研究書という宇宙。すぐれた研究書はそれ自体ひとつの「世界」をかたちづくっています。あるいはそれ自身として一箇の「小宇宙」といってよいものです。古典ともなった研究書は、そこに盛られた知見そのものがたとえ古びていったとしても、なお生きのこります。テクストとしての固有の魅力によって生きのこってゆくのです。今回は選に入れませんでしたが、たとえば丸山真男の『日本政治思想史研究』にふれて、わたくしはかつておなじ趣旨の発言をしたことがあります」とのこと。気になったものをメモしておくと、「(2)倫理学的な思考へ」のカテゴリでは、熊野本人の訳だが岩波文庫レーヴィット『共同存在の現象学』がある。カール・レーヴィットという人にはわりと最近興味を持ちはじめたので、この本の存在は認識していなかった。上に引いた三番からは、すでに読んだ熊野の『レヴィナス』以外をすべてメモしておくが、谷隆一郎『アウグスティヌスと東方教父 キリスト教思想の源流に学ぶ』(九州大学出版会、二〇一一年)、宇都宮芳明『カントと神 理性信仰・道徳・宗教』(岩波書店、一九九八年)、加藤尚武『ヘ-ゲル哲学の形成と原理 理念的なものと経験的なものの交差』(未来社、一九八〇年)、廣松渉資本論の哲学』(平凡社ライブラリー、二〇一〇年)である。四番は「詩と思想の交錯へ」という軸。田村隆一吉本隆明高橋睦郎のほか、坂部恵『仮面の解釈学』(東京大学出版会、二〇〇九年)と、菅野覚明『詩と国家 「かたち」としての言葉論』(勁草書房、二〇〇五年)。最後のやつがクソ面白そうで、こんな本があったのかとビビる。
  • それからまた今日のことを書き足すと、ちょっと遊び、二時半過ぎから、もう残り時間もすくないので何をやるともならず、短歌を考えた。しかし形成には至らず。二時五五分で消灯。ついに消灯を二時台にまではやめることに成功した。と言って、そこからまだしばらくは眠らず調身するのだが。そういうわけで柔軟をやって脚をよく伸ばし和らげたあと、枕に座って瞑想に入ったものの、全然耐えられず、五分で切り上げた。三時一五分に就寝。