2021/1/3, Sun.

 黒人奴隷は「自由」を欲した。自由を得るには白人並みにならねばならず、そのためには白人文化の産物である言語の「読み書き能力[リテラシー]」が必要だった。ところが、読み書き能力はさらに黒人を白人的諸学諸芸術という制度の奴隷にしてしまう。要するに、黒人種族が自由になろうとしたら、白人言語の奴隷になることが不可欠であるという逆説。したがって白人側が奴隷制を保ちたいなら、くれぐれも黒人の言語技能を助長しないことこそ得策であり、実際一七四〇年のサウスキャロライナ法令では黒人に読み書きを教えるのを禁止するのが決まったほどだ。
 理由は簡単。当時は万物が階層秩序を、アーサー・ラヴジョイのいう「存在の大いなる連鎖」を形成しているというのが西欧的イデオロギーの根本だったからであり、その中でアフリカ黒人はオランウータンよりは上位だが、ただ「文字」を持たないがゆえに人間よりは下位の部類とみなされていた。理性は文字がなければ反復できない。「理性がなければ記憶もなく、記憶がなければ歴史もなく、歴史がなければそもそも人間性など持っているわけがない」(二一頁)――これが、ヴィーコからヘーゲルにまで継承された「真理」であった。
 (巽孝之『メタファーはなぜ殺される ――現在批評講義――』(松柏社、二〇〇〇年)、218~219; 第二部「現在批評のカリキュラム」; 第十二章「アフリカの果ての果て ヘンリー・ルイス・ゲイツ・ジュニア『黒の修辞学』を読む」)



  • なかなか起きられず、一一時半まで寝坊。こめかみや腹を揉みながらしばらく陽を浴びて離床。八時間半ほどの滞在。これだとやや長い。水場に行ってきてから瞑想。良い感じの落ち着きではあった。下半身も、寝る前によく柔軟したからコンディションは良い。明日は朝も晩も労働で、あいだの空き時間が短いから帰らずぶっ続けでやるつもりだったのだが、仔細に計算してみると帰っても多少は休めそうだったので帰宅することにした。一回帰って脹脛をほぐしでもしなければ、とてもやっていられない。瞑想は一一時五〇分から一二時一〇分まで。
  • 上階で食事。冷凍してあった天麩羅と、おでんのスープで煮込んだうどん。新年三日目にもかかわらず、はやくも新聞が来ていた。一面の、東京都とその周りの県の知事が緊急事態宣言を政府に要請、との記事を読む。正直さっさと出してもらって、労働が休みになんねえかなという気持ちはある。といって二回目だから会社のほうもなんだかんだ口実を見つけて休みにはしないかもしれないし、宣言が出るとしてもたぶん明日までには出ないのではないか。また、出たとしても会社が対応を確定させるまで多少かかるだろうから、いずれにしても明日からの三日間はおそらく休みにはならないだろう。
  • 国際面には、香港で周庭が重大犯罪者を入れる刑務所に移されたとの記事。最後のページ、社会面には「千人計画」の話題がふたたび。東大や京大の名誉教授がけっこう参加しているようなのだが、教授らはだいたいみんな、以前の教え子や共同研究者だった中国人から誘われたと。彼らが手続きをしたり、教授の業績を審査会みたいなところに説明したりしてくれたらしい。発言が紹介されていた人の研究分野としては、甲殻類の研究とかダニの研究とかとあって、すくなくともそれらは即座に軍事や安全保障につながりそうな感じはしない。まあ何がどうつながるかわからないが。
  • 皿洗いをして風呂洗いも。出てくると父親が洗い物を終え、母親の食器がカウンター上に差し出されていたので、ついでにそれも洗ってやる。そうして帰室。コンピューターを用意したあと、Twitterのアカウントを削除した。用済み。それから今日のことをここまで記して一時二〇分。今日もまた散歩に行く。
  • 小沢健二 "天使たちのシーン"を流しながら散歩の前の準備運動。前後の開脚で脚の筋を伸ばし、左右の開脚で太腿を温めるとともに肩もいくらか刺激する。ものを食べたばかりで前屈とか合蹠のような腹を圧迫する姿勢は取りづらいと思ってそれらをやったのだが、この二種類の開脚もなるべく毎日やったほうが良いなと思った。あと、手を組み合わせながら腕を前後に差し向けて伸ばすストレッチも。それから着替えて上階へ。
  • 洗面所でうがいをする。すると、勝手口の外でストーブのタンクに石油を補充していたらしい母親が、台所に満杯になったそれを置いた様子を聞きつけたので、中断して重いタンクをストーブにもどしておいた。それからまたしばらくうがいをして、マスクをつけて出発。下の(……)ちゃんの家でバーベキューめいたことをやっており、一緒に外に出てきた母親が、いいにおいがすると漏らしていたが、たしかに香ばしいようなかおりがマスクを通しても伝わってきた。子どもがにぎやかに叫んでいるのも聞こえる。陽射しは道にまだ敷かれていてその勢力はひろく、空間は大層あかるいのだが、日向のなかにいても思ったよりも暖かくなくて、通り抜ける空気の冷たさが際立つ。昨日よりも気温が低いのかもしれない。坂に入る間際の脇、ガードレールの向こうに一段下がった空間のその縁に、カラスウリの枯れた茎が大挙して殺伐とした骨の茂みを成しているのだけれど、そのなかに実がまだ残っており、残っているどころかいくつかはほとんど盛りのような色と照りで赤かった。坂道を上っていくあいだ、川の響きが下方から立ち昇ってくるのだけれど、聞けば水の音というよりも峻谷を苛烈に吹き流れていく風の音のようにしか聞こえない。実際、川の周囲の木立を壁として反響しているためにそう響くのだろう。
  • どうもやはりあまり空気に温かさがなく、湧いている羽虫の数もすくない気がした。日向にあれば温みがないではないが、同時に冷感もまた強く、昨日よりも時空と気候ののどかさが乏しいように思われる。忘れていたが、今日は昨日とは反対方向に、つまり最初に東のほうへと歩き出して、おおむね前日のルートを逆に回るような感じである。それで街道に出ると、南側は日向がすくないので車の隙をついて北に渡った。すぐ目の前は自動車店だったのだけれど、商売をやめたかすくなくともかなり縮小したらしく、知らないうちに建物が壊されて白い平地になったなかに車がいくつか停まっており、その奥は線路で、線路の両側は非常に低いが土手を成しているので、その斜面が、ああいう造地をなんというのか忘れたけれど四角形のなかを窪ませて大雑把な網目状をつくったような形に固められていて、その素材もなんなのかまったくわからないがここも石膏のような白さだった。あれは子どもにとってみれば、良い遊び場所だなと思った。遊び場所というか、上って窪みに身を預けていれば留まれるだろうし、頭のすぐ上は電車が通るのでけっこう面白いのではないかと思ったのだ。
  • 西へ向かうあいだ、太陽が何ものにも遮られず正面からあけすけな光を送りつけてくるのでずっとまぶしい。しかし、光を通しているからではあろうけれど、空の水色は昨日よりも淡くかすれたようになっている気がしたし、雲もほんのかすかなものではあるにしても、昨日よりは湧いて空にこすりつけられている。視線を足もとに落としながら陽のなかを進んでいると、整地された歩道やアスファルトのなかに、白い光の微細片が、ほとんど蚤かダニみたいな大きさしかない粉末的な輝きだが、歩みに応じてきらきらと無数に立ち騒いでいる。いわゆる骨材というのか、舗装の構成成分のなかに何かしら光と感応するものがふくまれているのだろう。昨日も家のそば、公営住宅前を歩きながらおなじ現象を目にして、しかし書き忘れていたのだけれど、完全に実用性一辺倒でつくられたはずの舗道のなかにすら、製作者の意図とは無関係にある種の美的な要素が知らぬ間に忍びこんでおり、潜在体として伏せっていたそれが機会を得れば、たまさかあらわれてしまうわけである。
  • 街道の途中で、駅の北側へと曲がった。ここで昨日のルートから逸れたことになる。きわめて短い踏切りを渡るときに、東西両方向に視線を送ってみたが、西側はすぐに駅に着くからともかくとしても、とりわけ東の、視界の果てまでずっと伸びていく細い線路の区画が、先まですべて日向を塗られていた。北側に渡るとすぐ目の前は林である。その奥には竹が林立していて、基本的に重なり合った葉の房が屋根として覆っているので当然暗いのだけれど、しかし光がいくらか射しこんでもいて、そうすると立ち並んだ竹の幹が、明確な規則には従わない無秩序さで部分的にあかるんで緑を浮かび上がらせており、その緑の部分だけ空間に線画が描かれたみたいになっていてちょっと面白かった。駅の北側、線路脇の道は高い建物が特にないから光をいっぱいに受け取っている地帯で、駐車場に停まっている車のことごとくが、ボディのどこかに純白の塊を生み出しており、こちらが歩いて視線の角度が変わるにつれてその塊も、水面のようにしてふるふるとわずかにふるえながら車体の上をゆっくり、きわめて緩慢に移動していく。それ以外の部分も車はすべて、油を塗りたくられたようにつるつると艶を帯びている。
  • 駅を過ぎる。このあたりの場所は久しぶりに来たのだが、駅を出てすぐのところにある細道を見て、子どもの頃の記憶が喚起された。付近に(……)(あるいは(……)だったか?)という同級生が昔住んでいて、彼の家に遊びに行くのにそこを通っていったのだが、先に進むと木の間のなかみたいな感じになっていて、上り下りもややあって、なんとなく迷路みたいで面白かったのだ。(……)はたしか中学受験をしたのだったか、中学時点ですでに別れたおぼえがある。とはいえその後も何度か出くわす機会はあった。弁護士を目指すとか聞いたような記憶もないではないが、いまなにをやっているのかはまったく知らない。
  • そのあたりは昔石切場か何かがあったようで、けっこうひろめの土地がひろがっており、その脇を以前よりも細くなったように思える道が通っていて、それに沿って家がならんでいるという感じである。このときのこちらの向きだと道の左側がひろい土地、右側が家屋のならびで、左手の縁には多少の草や低木が生えており、赤い色も見えて多少の情趣がないではないが、そのなかのひとつから突然鳥が飛び立ってびっくりした。その小さな木には見てみれば非常にこまかな赤い実がいくつも生っていたのだが、ナンテンよりもさらに小さな粒で、あれはなにかしらのベリー類だろう。道の先では男児と父親らしき人がけっこう距離を離してキャッチボールか何かやっていた。その手前で左に折れて土地のなかを通る細道を行くが、近くにある木立から、ヒヨドリかスズメか、鳥の声が頻りに厚く立ち上がっていて、どうもこのあたりは山も近いし、周辺に鳥がみんな集まるような感じらしく、土地の外縁を成している樹々からもひっきりなしに影が立つし、地上では枯れて白っぽいようなクリーム色に黄味をほんのすこしだけ混ぜたみたいな色味の芝草が水溜まりのごとくなめらかに敷かれているそのなかでカラスが遊んでもいる。
  • 線路上にかかった小さな橋を渡って裏路地に入ると、ここで昨日のルートに復帰してそのまま逆方向に歩くことになる。この地点で明白になったが、やはり昨日と比べると宙に湧いて遊泳している微少な羽虫の数が圧倒的に乏しい。それだからやはり気温は低いのだ。実際、歩いていても恍惚とするような感じは薄く、それよりも固く張った大気の感触が肌に残る。進むと保育園がある。昨日と同様、家族連れが子どもを遊具で遊ばせている。昨日は気づかなかったというか、そうなって以来この前を何度か通り過ぎながらいままで特に意識したことがなかったのだが、保育園の建物の周りは門のついた白いフェンスでせまく画されており、遊園はその外にひろがっていて、非常に小さな公園だとはいえ、その区画と比べるとフェンスの内は、多少の遊具がそこにも設置されてはいるものの、きわめて狭苦しく窮屈である。走り回るような余地すらない。こちらも幼少時はこの保育園に通っていたわけだけれど、当時はむろんこのような区切りはなく、遊びの時間は当然小さな遊園をいっぱいに使って駆け回ったり、ブランコに乗って振り子になったり、長めの滑り台を何度もすべり下りては上ることを繰り返したり、土管付きの砂場に通路を掘って水を流したりしていた。なぜこういう区画ができたのかわからないのだけれど、可能性として推測できるのは、やはり児童を何人もひろい区画で遊ばせていると保育士の目が届かず、面倒を見きれないから、という理由がまずひとつである。もうひとつには、保育園としての土地と、公共の遊園としての土地がいままであまりはっきりと分けられていなかったのを、境を定めた、ということが考えられる。
  • それでそのあと歩きながらなんかなあと思っていたのだけれど、ここにもいまの時代の趨勢というか、その特徴があらわれているような気がする。フェンスが設けられたのが上記の理由のどちらかなのか両方なのかそれ以外なのかはわからないのだが、ひとまず第一の可能性に沿って考えるに、それは、面倒を見きれないところで子どもに大きな怪我でもされてしまうと困るから、もっと小さな土地で遊んでもらってきちんと保護・保育できるようにしよう、という理屈なわけだろう。こういう理屈に、現代社会の動向が如実に反映されているような気がする。つまり、とにかく先回りしてリスクを減らしていかなければ気がすまない、という精神性だ。大きな事故が発生するとまずいから、その可能性をゼロにするか、すくなくともより小さくできるように、空間構造そのものを変えてしまおう、という考え方である。児童にとってみればいくらかの制限にはなるが、より確実な安心と安全を保証・保障する、ということ。これにこちらとしては、なんかなあ、と感じるところがある。リスクを減らすというのは、児童たち本人の身を案じるという側面ももちろんあるのだけれど、それよりも結局のところ、面倒事を避けたいという大人の側の都合のほうが大きいのではないかという気がする。つまり、面倒を見きれなかったところで大きな怪我をされたりすると、当然保護者は文句を言ってくるだろうし、大事になって色々な手間がかかる、だったらそもそもそれがもうほぼ起こらないようにしてしまおう、ということで、こう考えると、今回の例のような空間構造の変形というのは、要するに効率化にほかならないということになるだろう。大きなコストと手間を発生させるリスクの可能性をインフラの側面からほぼ完全に排除してしまおう、ということだ。それほどの大きなトラブルは滅多には起こらないのだけれど、もし万が一起こったらきわめて大変だしめちゃくちゃ面倒なことにもなるから、その発生可能性をゼロにしてしまおう、ということ。
  • 第二の可能性に沿った場合の意味はあまりよくわからないのだが、そちらの場合にしても、おのおのの領分をきちんと区切って、曖昧な部分をなくし、境を截然と分けて混淆しないようにしよう、という発想があるのはまちがいなく、この渾然・混淆を排する、という精神性が、上記の事柄と共通しているように思う。リスク、負、マイナス、悪いこと、有害事、無駄、役に立たないもの、余計なもの、そういったもろもろのノイズのようなものを徹底的に排除して、純化をすすめようという発想。これがこちらが釈然としないポイントの中核である。いくらか飛躍があるように見えるだろうことは承知で思うのだが、それは結局、ナチ・イデオロギーと同種同根ではないかと、どうしても疑問を抱いてしまう。ここでナチ・イデオロギーというのはすなわち、純粋性の、純化の、なかんずく「純血」のイデオロギーのことである。保育園の例にもどると、保育園運営上、世話をして管理を委託されている子どもが怪我をするというのは、まずいことであり、運営の観点からして端的に有害事である。ごく小さな怪我だったらさほどの問題にはならないが、万が一かなり大きな怪我をすると、子どもの心身に与える影響のみならず、その後の対応や揉め事の解決までふくめて、その有害度合いは相当なものになる。その有害性リスクをなるべく減らし、理想的には根絶するには、個々の保育士の心がけや人員の増補などではやはり限界があるから、もう空間構造そのものを変化させて、有害性がそもそも発生しないような環境にしよう、というのが、こちらが想像的・推測的に理解したフェンス設置の理屈だった(本当にそうなのかはもちろん知らないし、わからない)。通常領域に、有害事とか、ノイズとか、なんと言っても良いのだけれど、なんらかのマイナスの要素としての不純物がまじり込んでくるのを徹底的に防ごうという発想である。すなわち、現代社会は無菌をもとめている。で、こちらからすると、このような、有害な物事をそのもっとも微小な部分に至るまで完璧に、徹底的に排除しようという試みこそが、もっとも有害で恐るべきものと思えてならない。
  • そういう発想は一方では資本主義的理屈ときわめて密着的に結びつき、癒着しているわけだ。要するに、効率化と利便性という観念のことである。効率化および利便性とは、その理想形態においては、端的に言ってまさしく、無駄なこと、余計なこと、ましてやそれ以上に有害なことなどはもちろん、徹底的に消滅させて、まったくノイズのない極限的に円滑な生産制度を確立させよう、という発想のことだ。それは当然、不純物の混淆を許さない。余計な存在は排除されなければならない。こうした発想が現代の世界を地球上の隅々まで支配していることは、ほとんど誰もが知っているし、知っていなくてもその身体において感じているだろう。これが経済領域とか、部分的領域にとどまっていればまだ良いのかもしれないが、社会全体を覆い尽くして精神領域の根幹にまで侵入し、そこに支配力をふるって根付いてしまうと、やはりまずいことになるのではないだろうか。そうすると、無駄な人間、余計な人間、不純物とみなされる存在は端的に殺され、排除されなければならない、ということになるからだ。これがナチ・イデオロギーとまったくおなじ精神的理屈であることは言うまでもない。第三帝国においてはユダヤの人々は純然たる不純物だった。
  • ただ現実、世界はこれから先、おそらくどんどんこういう方向に、すなわち混淆を回避し、排除する方向に進んでいくのだろうなとは思う。時あたかもコロナウイルスなどという純然たる不純物が全世界的に猛威をふるっているわけだけれど、去年から今年にかけての世相は、この先の世をいくらか先取りしたということになるのだろうなと思う。コロナウイルスが蔓延しているさなかでは、人と人との混淆、混じり合い、接触などということは、もっとも避けるべき事柄として、ほとんど道徳的に非難されかねないところまで行っているわけである。勤務形態としてもテレワークが普及した。人々はおのおの、みずからが整えこしらえあげた無菌室に閉じこもり、明確に区切られた閉鎖的空間においてノイズと有害事とを避け、純化された箱庭で生きるようになってきており、そしてそれが良いこと、なすべきこととして推奨されてもいる。これからどんどんAIもコンピューター技術も発展してくるだろうし、そういう無菌環境を完全に保ち、外界とのかかわりを切り離して乖離的に独立しながらも問題なく生きていける世界というのが、遠からず実現するだろう。ミシェル・ウェルベックが『ある島の可能性』の最後もしくは最初でそういう未来を書いていた気がするが、記憶がもうずいぶん遠いのでよくおぼえていない。それはそれでこちらからすると何が面白いのかまったくわからない世界だが、しかし、おのおのが自分の無菌領域に閉じこもっているだけならまだ良いのかもしれない。こちらがもっとも恐れるのは、国家や社会といった一定領域全体を無菌室として純化しようとする趨勢の台頭にほかならない。そして、世界の色々なところで、すでにその兆しが見えはじめているような気がしてならない。
  • 人類はいままでの歴史のなかで、似たようなことを繰り返してきたのだろうなとは思うもので、つまり自分もしくは自分たちにとっての有害物を徹底的に排除し消滅させようという熱狂をことごとに噴出させてきたのだろうなとは思うもので、それはたぶん繰りかえし色々な戦争の動機もしくは大義名分となってきたわけだろうし、たとえば十字軍とかはその最たるものなのではないかと思う。ただ、そういう時点での有害物というのは、まだ「敵」として定式化されていたのではないか? というのがこちらの仮説で、ひるがえって近代以降、すなわち資本主義の勃興および定着以降には、その有害物の定義が、「敵」のみならず、「無駄」、「不要」、「余計」にまで拡張されたのではないか。殊更に、めちゃくちゃ積極的に有害なわけではないのだけれど、役に立たず、無意味で、存在していても何にもならない、というものまで有害物と見なされるようになったということ。その点が、近代という時代のもっとも根幹的な特徴のひとつなのではないかとすら思った。
  • 保育園を過ぎて昨日と同様墓場に、しかし逆の方向からかかると、斜面の端を縁取るようにつらなっている樹々の、深緑色の向こうに太陽が見え隠れし、木叢のところどころが光点をはらむとともに葉網の裏で粒になっている空の青さが、枝葉が微風に揺らぐのにつれてじらじらこまかく水面 [みなも] のように震動している。ゆるい坂を下っていくと、近間の集落を越えた先、山を背後にして川向こうの地域から煙が濃く湧いて、光の膜で薄められた景色をなおさら淡くしていた。街道を渡って裏路地へ。のろのろ行っていると、道脇の裸木に鳥が飛び移った。枝の上に見える腹が薄オレンジ色をしているところからして、あれはたぶんジョウビタキというやつではないかと、歩きながら視線をそちらに固定してだんだんと首の角度を大きくしていくあいだ、夫婦らしき年嵩の男女が、男性を前にして前後にならんだ形で会話もなく、こちらよりもよほどはやくずんずん歩いて抜かしていった。ここは日向が続いていて、光のもとがある背中は温かいが、しかしからだの前には冷たさがいささか残るところを見るに、気温はやはり昨日よりも低い。
  • 帰宅すると散歩中のことをさっそく書いた。保育園のフェンスを発端として巡らせた思考を記すのに手間がかかり、それを書き終えたところまでで二時間弱が経過して四時を過ぎてからだも疲れていたのでいったん切った。ライプニッツだか誰だかは、朝起きて寝床のなかで浮かんできた考えを記すのにその日の終わりまでかかるような調子だったらしいということを聞いたことがあるが、それは普通に本当だろうと思う。
  • だらだら休んだ。五時過ぎに上へ。アジが焼かれており、あとは菜っ葉とハムを炒めようと思っていたと言うのでそれを担当する。「鎌倉ハム」の、いわゆるボンレスハムというのか、「ボンレス」というのがなんのことなのかまるでわからないのだが、紐で網目状に縛られたハムを薄く切り分け、青菜とともに炒めた。それでさっさと帰室。父親は炬燵で寝ていた。
  • 帰室後もベッドでだらだらしながらからだをほぐした。七時で食事へ。新聞からコロナウイルス関連の記事を読みつつ食べる。東京都がコロナウイルス患者用に用意した病床が三四〇〇だったかそのくらいあるらしいのだが、いまそのうちのほぼ八割が使われる状況になっているらしい。
  • 食後、洗い物をしてもどると、八時直前から音読。音読はやはり毎日やりたい。言語や知識や情報を身体化するということもそうだが、なんとなく意識や気力の面で締まるような感じがある。「英語」を五〇分ほど読んだ。今日はなんだかあまりうまく読めない感じが強かったがべつに問題はない。読むあいだ、腕は筋肉がやや痛い感じがあったのでダンベルは休み、脚を引っ張り上げたり首や頭蓋を揉んだりした。頭蓋は本当に、意外とめちゃくちゃ固まっている。揉まないとすぐ固くなっている。たしかかわからないが、モニターをずっと見ていると頭蓋の筋肉は凝り固まるような気がする。視神経を通して作用があるのだろうか。で、頭蓋が硬いとやはりなんとなく意識としても明晰さが減じたり、あと普通に頭痛が生まれたり額や眉間のあたりが重くなったりする。
  • 九時過ぎ、風呂に行く前に柔軟。合蹠・前屈・胎児・コブラ。合蹠はマジですごい。これをやってじっと停まっていると、なんだかわからないがすごく血の巡りが良くなる感じがする。たぶん太腿の芯がほぐされるのだろう。筋肉を伸ばした状態の姿勢を取ってじっとしていると、呼吸の動きに応じて肉が収縮するから、それでおのずとじわじわと柔らかくなっていく仕組みだと思う。前屈がまだあまりうまくできないというか、以前に比べればよほど楽になってきたものの、太腿の裏側がなかなか伸びてくれない。
  • 入浴。温冷浴をやったり、こめかみや首や頭蓋を揉んだりする。
  • 風呂のなかでこのあいだBBCからメモしたChristian Piccioliniの記事のことをなぜか思い出し、読みたくなったので出たあとアクセスした。Natasha Lipman, "Christian Picciolini: The neo-Nazi who became an anti-Nazi"(2020/12/5)(https://www.bbc.com/news/stories-54526345(https://www.bbc.com/news/stories-54526345))。ありきたりな結論ではあるけれど、問題はやはりアイデンティティと承認ということになるのだろうなあと思う。pay attentionされているか、fully respected membersとして認められているか、人間としての、あるいはその人自身としての尊厳を担保されているかということ。もちろん問題がそこにはない人もいるだろうが、ドナルド・トランプ旋風や欧州で起こった難民危機などを見ても、自分にふさわしい注意を払われていない、存在を軽んじられたと感じた人々が、損なわれた尊厳を埋め合わせるために反発し、他者への敵意を熱狂的に膨らませたというのが、事態の大きな部分を占めてはいるだろうと思う。ことは実存なのだ。そしてそれはむろん、経済と密接に結びついている。なおかつ、そこには具体的で個別的な他者とのかかわりが、おそらく多くの場合は欠けている。Christian Piccioliniの例は、具体的で個別的な他者とのかかわりによる承認が解毒剤になりうるということのひとつの証ではあるだろう。ただ、そこで止まっては単純過ぎるというか、それで有効にうまくいくとは全然限らない。

In the summer of 1987, Christian Picciolini was standing in an alley smoking a joint, when a man with a shaved head and tall black boots approached him.

"He pulled the joint from my mouth, looked me in the eyes, and he said, 'That's what the communists and the Jews want you to do, to keep you docile,'" Picciolini remembers.

At 14, he didn't really know what a communist was, or a Jew for that matter, and had absolutely no idea what "docile" meant. The stranger then asked what he was called.

"I was afraid to tell him because my last name, Picciolini, was kind of a point of contention growing up. It was something I was bullied for."

Instead of making fun of his Italian surname, the man told him that it was something to be very proud of, but that if he wasn't careful, somebody would take that sense of Italian and European pride away from him.

He touched a raw nerve. Picciolini's parents were immigrants who had moved from Italy in the 1960s, and he felt more Italian than American.

The man who approached Picciolini that day in the alley was Clark Martell, and the group that he had just been recruited into was America's first neo-Nazi skinhead group: the Chicago Area SkinHeads - also known as Cash.

Picciolini believes that Martell, then 28, was on the lookout for someone vulnerable.

"He saw that I was lonely, and I was certainly doing something that put me on the fringes already - smoking pot in an alley. He knew that I was searching for three very important things: a sense of identity, a community and a purpose."

     *

Picciolini started to listen to imported music from white supremacist movements in Europe, and really connected with the lyrics.

"They spoke to my angst of being young and unseen. They spoke to my frustrations of trying to get something done or trying to progress in my life. And those lyrics spoke to me by blaming 'the other' for those problems."

The songs also gave him a feeling of pride, painting white supremacists as warriors against subhuman races and religions - "parasites who were attempting to destroy this glory and heritage of the white race".

The neo-Nazi uniform of shaved head, boots and tattoos further cemented this sense of belonging.

     *

The group wore T-shirts that said things like "White Power" or "White Pride" - the distinction was subtle but important, especially when it came to recruitment, where the idea of "pride" was more appealing. "We wanted to push the idea that there's nothing wrong with being proud of who you are and you should fight for that."

     *

In 1989, Martell was sentenced to 11 years in prison for beating up a 20-year-old woman. She had become a target because she had quit a neo-Nazi group and allegedly had black friends.

Martell and others also destroyed Jewish shop windows and painted swastikas all over Chicago on the anniversary of Kristallnacht, or the Night of Broken Glass, in Nazi Germany - an orchestrated attack on thousands of Jewish homes, businesses and places of worship in which 91 Jewish people lost their lives.

Many members of Cash were caught and sent to prison, while others went on the run.

Picciolini, then only 16, was "essentially the last man standing". He took over as leader of his area, and started rebuilding the group.

     *

He estimates that he recruited around 100 members directly - but indirectly he has no idea of the true scope of his influence. That's because he formed a band, offensively named after the Holocaust, and its music reached far beyond the US.

The band travelled to Germany to perform, and while he was there, Picciolini even visited Dachau, a concentration camp where tens of thousands of Jewish people were murdered by the Nazis.

"That music lives even today. It still recruits people and may be inspiring acts of violence," says Picciolini, who has spent the past 24 years trying to undo this damage.

"It's horrifying to think that I so blindly believed in something and wasn't able to see how that was hurtful for other people. There's no excuse for that. There's really no way for me to explain the fact that I participated in things that glorified the death of innocent people."

     *

When he was 18, after a night of drinking, he and his friends went to McDonald's where some black teenagers were waiting in line for their food.

Drunk and belligerent, Picciolini loudly proclaimed that it was "his" McDonald's and that they needed to leave.

Scared, the teenagers ran out, with Picciolini's group chasing them. As they made their way across the street, one of them pulled out a gun and aimed it at Picciolini and his friends. A shot was fired - missing its target - before the gun jammed. Picciolini jumped on the shooter.

"I remember beating him, kicking him, punching him until his face was swollen. And I remember him on the ground looking up at me through swollen eyes as I was kicking him.

"His eyes were pleading with mine to stay alive."

For the first time, something inside Picciolini shifted.

"I thought for a second that that could be my brother, or somebody that I loved. And I recognised how what I was doing to him not only put him in pain, but would also impact his family and the people that he loved."

In spite of this moment of empathy and connection, however, Picciolini continued to be a member of the Chicago Area SkinHeads for another five years. He says he wasn't brave enough to leave the gang that had given him an identity from the age of 14.

"I was afraid to go back to the nothingness that I had before. I was afraid to be worthless. And I thought that when I was getting this attention, and causing this level of fear, that I was getting respect."

     *

As he needed to support his family, he opened a small record shop that sold his own music, and records he imported from Europe.

He knew that he couldn't just walk into City Hall and apply for a business licence to sell Nazi music, so he told them that he would sell a wide variety of music, from punk rock to heavy metal and hip-hop - and he did. But racist music made up about 75% of his revenue.

"What I didn't expect was that people of colour, people who were gay, people who were Jewish would also come into my store," Picciolini says.

He now knows that they didn't wander in by accident. Picciolini was very visible as a white supremacist, and people knew what he was doing and what he was selling.

"These people would come in to challenge me, but they chose to do so through compassion instead of aggression. I'm very grateful for that because it allowed me for the first time to meaningfully interact with the people that I thought I hated."

This personal contact proved to be vitally important for Picciolini.

He particularly remembers a conversation with a black teenage customer who would always ask lots of questions about the music he was selling. He would "goof off and be very funny", Picciolini says.

"One day he came in, and he was visibly upset. He wasn't the happy-go-lucky teen that he normally was. I asked him what was wrong, and he told me that his mother had been diagnosed with breast cancer that morning."

Picciolini's own mother had been diagnosed with breast cancer not long before. Suddenly, he was able to relate, and found himself momentarily forgetting his racist beliefs. They had a deep conversation about life and love and the things they held dear.

Over time, such experiences became more frequent, as Picciolini started to connect with the very people that he had previously believed he needed to keep out of his life.

"It was those people who chose to treat me with compassion, when I least deserved it, that had the most powerful transformative effect on me. Meeting on a fundamental human level is still the most powerful thing that I've seen break hate," he says.

     *

For nearly five years, he tried to hide from his past. He tried to make new friends and get a job without revealing who he had been before.

But by 1999, he was experiencing severe depression - unsure of who he was, where he belonged, or what his purpose was. All he knew was that he wanted to be a better person.

"I was waking up every morning wishing that I hadn't," says Picciolini.

Then one day, one of his few friends came to visit.

"Listen, I don't want to see you die," she told him, and encouraged him to apply for a job at IBM, where she had recently started working.

"I thought she was crazy. Here's this Fortune 100 blue chip technology company, and she wanted me to apply as somebody who was an ex-Nazi, who had been kicked out of six high schools, who didn't even own a computer and hadn't gone to university. But I humoured her. She was a friend and I didn't have very many at the time, and I promised her I would go for this job interview."

Picciolini applied, and was offered an entry level position installing computers at universities and businesses.

It was the first thing in a very long time that had given him some hope, and he was thrilled - until he found out his first day of work would be at one of the schools he'd been kicked out of for fighting, protesting and trying to start a white student union.

"I was terrified. I thought this new hope that I'd felt was over. It would come crashing down the minute somebody recognised me."

On his first day, as he skulked around the corridors, trying to avoid being recognised, John Holmes, the head of security, walked straight past him.

He didn't recognise the former student, but Picciolini had never forgotten Holmes. As a teenager, he had taken particular pleasure in antagonising the black security guard. Now, the feeling that he should try to make amends triumphed over his fear of being noticed.

Picciolini followed Holmes to his car in the school parking lot, and tapped him on the shoulder.

"He turned around and jumped back when he recognised me. He was afraid," Picciolini says.

Unsure of what to do, Piccioloni extended his hand and said, "I'm sorry." Holmes shook it and thanked him for the apology, but said that if he really meant it, he would need to do more.

The two men sat and talked. Picciolini shared his experiences and told him that he had left the movement. Holmes embraced him, and made him promise that he would continue to tell his story.

This was another hugely pivotal moment for Picciolini. It helped him to understand that running away from his past wasn't an option - he needed to find a way to repair some of the damage he had caused, and seek forgiveness from those he had hurt.

"Frankly, Holmes saved my life that day because I'm not sure without his guidance, encouragement and forgiveness, I would have found enough courage to do it on my own," Picciolini says.

     *

"What leads people to those movements is not the ideology," he argues. "The ideology is simply the final component that gives them permission to be angry."

Instead, he believes that it is life's "potholes" - incidents of trauma or neglect that trip people up - that lead them to join extremist fringes while they search for an identity, community and purpose.

"So when I engage with people to help them to leave these movements, I never debate them ideologically. I don't tell them that their ideas are wrong, even though of course, I know that they are. But what I do is I listen, and I listen for those potholes so that I can find ways to fill them in."

  • それからここまで記述。もう零時直前。明日は朝晩の勤務で、五時半か、遅くとも六時には起きなければならない。したがってもう猶予はないが、それにもかかわらず授業の予習をしていない。これからやらなければならないが、クソ面倒臭い。明日の労働自体もマジでクソ面倒臭いが、覚悟を決め、肉体をほぐしながら頑張るしかない。世の人々はあまりこのことに気づいていないが、覚悟を決めて毅然と屹立し、もろもろの圧迫にも揺るがずさだかに浮世を渡っていくために肝要なのは、精神ではなくて肉体のほうを高度に調えることである。筋肉の状態が良くなれば心持ちもおのずと良くなる。人々の多くは、自分のからだがめちゃくちゃに凝り固まっているということにまず気づいていないと思う。肉が柔らかくなめらかになったときの解放感を知らないのだ。
  • 予習へ。都立高校入試の国語の過去問を読んでおく必要があったので、ホームページにアクセスしてPDFを閲覧。最新の年度から。大問三の小説はどうでも良いような類の作品。読んでいても特に面白くない。まずもって具体物とか見聞きしたものの描写がすくなすぎる。ほぼ会話と説明しかない。したがって、平板でニュアンスがなく、何の味もない。しかし中学生くらいだとこのくらいのほうが良いのかもしれない。描写とか装飾があっても読みにくいと感じるのかもしれない。大問四は福岡伸一の『動的平衡3』。まあまあ。塾に来ている大半の生徒にとってはこのくらいの硬さでも何を言っているのかわからず難しく思われるだろうなという感じ。大問五は山本健吉井上靖芭蕉や利休についての対談。
  • ひとつ前の年度も読んでおく。この年は三浦哲郎が大問三で、そこそこ悪くない。このくらいの文章をやはり出してほしいというか、べつに出さなくても良いが、このくらいの文章をどんどんたくさん読むような教育環境にしてほしい。しかしそもそも、中学生でも本をまったく読まず、言語を読んでいてもまるで面白くないという生徒はたくさんいる。大問四は齋藤亜矢という人の文章で、アートの働きおよび楽しみとは自分のなかにそれまで形成されていたものの概念・イメージに新たなものが付け加えられ、それらが変容し更新されていくことだ、みたいなわかりやすい話。大問五は白洲正子大岡信。この二人も読んでみたい。まだ双方とも一冊も当たったことがない。
  • その後、(……)の授業にそなえて(……)の英語、二〇一七年全学部統一。ならべかえまで読んで切り。答えはコピーしてこなかったがほぼわかる。そうするともう一時半だった。思いのほかに時間を取ってしまった。消灯して柔軟。二〇分おこなう。合蹠のポーズを念入りにやって、脚の肉をあたためる。それで瞑想したが一〇分で耐えられなくなり、二時過ぎに就寝。