2021/1/4, Mon.

 一旦知的好奇心に取り憑かれた者は、決して結果を恐れてはいけない。あらかじめ何らかの見返りが期待できるような仕事に手を染めるのは、すでに学者研究者ではなく、単に資本主義に侵されきって、一切のオルタナティヴを思いつかない小市民の発想である。そもそも学問研究は、同時代において直接役に立たなければ立たないほど、その将来的価値が高いという着想から出発するべきだろう。仮に知的探究の成果がまったくのドン・キホーテ的誤謬で終わり、探求者本人もその段階で人生を終えなくてはならなかったとしても、問題は些細な結果ではなく、あなたがいかに気宇壮大な知的ストーカーたりえたか、いかに前人未到の領域へ踏み込もうとしたかという、知的探求へ挑む「思い」そのもののスケールにある。微々たる収穫よりも絶大なる徒労の方が、知的ストーカーの名誉にふさわしい。
 (巽孝之『メタファーはなぜ殺される ――現在批評講義――』(松柏社、二〇〇〇年)、279; 第三部「現在批評のリーディングリスト」)



  • この日は朝から昼過ぎまで働き、四時過ぎからまた労働で夜までだったので、日記を書く余裕もなかった。わずかに朝、出勤前に前日分を足して完成させたのと、この日のことをほんのすこしメモしておいただけ。
  • 朝の出勤時、坂道に枯れて淡色になった葉や木肌のような色に茶色く変わった杉の葉たちが群れているなかに、まだまだ緑を保った杉の葉がなぜかいくつも散らばっていた。それだけ風が強かったのか?
  • 労働。(……)
  • 一二時四〇分くらいに退勤したはず。天気も良かったし、なるべく歩こうと思って徒歩で帰った。道中で印象に残っているのは、まずひとつ、文化施設を過ぎたあたりにある一軒のこじんまりとした塀内に柿の木が立っているのだが、その枝にメジロが何匹も集まっていたこと。歩いていると頭上から気配が伝わってきて、見ればまずヒヨドリらしき鳴き声を落とした鳥が一匹飛び立って林のほうに去っていったのだが、そのあとの枝には本当に抹茶の粉末をまぶしたみたいな緑色の小さなメジロたちがたくさん遊んでいて、相当に熟れたような、血色が良すぎる赤子の頬みたいな赤に満たされた柿の実をついばんでいるものもあった。柿ってこんな時期にも、年を超えて実を保っているものなの? と思って、本当に柿なのか疑わしくなるようでもあったのだが、こちらの知識のなかでは柿にしか見えなかった。林のほうからは鳥の音がいくつも立ち、ピヨピヨ言っているのでヒヨドリだろうと単純に判断してしまうのだけれど、それも本当にヒヨドリなのかわからない。なんとなく、縄張り争いみたいなことをしているのか? と思った。柿の木の件も、メジロの群れがヒヨドリを追い出したのだろうかと思った。
  • 白猫を久しぶりに見かけたが、家の前には出ておらず、駐車スペースの奥、戸口近くにたたずんでいたので、さすがにそこまで侵入していって戯れるわけにはいかない。
  • (……)さんの宅のあたりの大気に湧いている羽虫の量がすくなかったので、今日も気温は低めのようだ。ここはガードレールの向こうがけっこう深く下って林になっているからか、あたたかいと虫の量が多い。昨日書くのを忘れていたのだが、散歩でここを通ったときにマスクを通して清潔そうなにおいが鼻に触れ、気づいてもとを探すとともに、そうだここにはロウバイがあるのだったと思い当たれば、首を振った先に生えている木はもう黄色をいくつもともしていた。
  • 家の至近に続く坂道を下ると、木の間の彼方に、まさしく銀紙をかぶせたというか、銀の板をそのまま流したみたいになって川の水面が発光しながら揺らいでおり、斜面をはさんで一段下の道に立っている常緑樹も、西面にあたるその片側だけ上から下まで陽光を浴びてまばゆく、光を葉や体にとどめて白くまとっているのが、ぶっかけた水が即時に凍りついたかのようである。
  • 帰宅すると何はともあれ休息。ベッドでひとのブログを読んだ。(……)さんのものと(……)さんのものと(……)。(……)さんのものは一月一日二日と、六月一〇日。元日に、「(……)ちゃんがいうには、(……)はかなりのこわがりらしく、夜トイレにひとりで行くこともできずたびたび(……)を連れていくのだという。こちらにもおぼえがある。年長かそこらのとき、(……)保育園で(……)先生から「もうじゃ」(いま思えばたぶん「亡者」だったのだと思う)の話を聞かされてからというもの、ひとりでトイレに行くことができなくなり、小便をするところを見せてあげるからという謎の誘い文句で、物心のほとんどついていない弟をたびたび同伴させたのだった。」とあったが、このなかの、「小便をするところを見せてあげるからという謎の誘い文句」にマジで爆笑した。
  • あと同日、『エルマーのぼうけん』が小学校四年生の教科書に載っているとあるが、そうだったのかと思った。『エルマーのぼうけん』は記憶する限りこちらが最初に自覚的に好んで読んだ本なのだけれど、学校の教科書に載っていたおぼえはまったくない。家に本があって、小学校三年生か四年生のときに繰りかえし読んでいた。
  • おなじ記述のならびに(……)さんが小学校五年でなぜか読書に嵌まって、『罪と罰』やら『戦争と平和』やら『ジャン・クリストフ』やら『若草物語』を集中的に読んだ時期があったと記されているが、それにもおどろいた。初耳だった。そのなかで『罪と罰』だけは後年までずっと強い印象が残っていて登場人物の名前も正確におぼえていたくらいだから、ドストエフスキーってやっぱりすげえわと称賛されているのだけれど、小五で『罪と罰』などを読んだ児童が、なぜその後、もっぱら週刊少年ジャンプを座右とする暗黒武闘会的ヤンキーになってしまったのか。
  • 六月一〇日には『(……)』のシーン一二が載っている。それを読みながら思ったのだけれど、自分はずっと持ち家で育ってきたわけで、アパートとかマンションのような集合住宅の仮住まいで長く暮らした経験はなく、友達の家に遊びに行っていくらかはそういう空間にも触れてはきたけれどそこを常住の場としたことはないから(家を新築するときに、いま(……)ちゃんが住んでいる下の借家に数か月住んでいたことはあった)、一応なんだかんだ言ってもやはりそこそこ金のあるほうの家庭であり、そういう生い立ちはやはりなにかしらこちらの心身に影響しているだろうなという気がした。端的に言って、こちらは、古い家のときは違ったはずだが、小二で新しい家ができたときから自室をあたえられているので、孤独を知ることができたわけだ。
  • (……)さんのブログは八月九日から二二日まで。八月二一日にはレコードにおけるA面とB面のあいだの断絶、B面の一曲目という位置づけに置かれた曲の強力な印象について語られている。なるほどなあと思った。こちらは一九九〇年生まれで、自覚的に音楽を聞きはじめたのは二〇〇三年くらいなので、当然はじめから媒体はCDで、レコードをきちんと鑑賞した経験はいまに至るまでない。両親はThe Beatlesなどいくらか持っていて寝室にプレイヤーとともに置かれていたが、それが流れているのを聞いたことはない。(……)の家に遊びに行ったとき、やつの父親が持っていた古いノイズ混じりのジャズのレコードをちょっと聞いたくらいだ。Bobby Timmonsだったような気がする。だからB面の一曲目という特別な位置づけにたいする感覚は、たしかにこちらにはまったくなかった。
  • その翌日、「罪」にある、「昨日のみすぎたのか、あまりその自覚はないのだけど、たぶんのみすぎていて、最近のみすぎるときの、身体にもたらされる感覚というのが、若い頃とは如実に違っていて、若い頃であれば二日酔いとか気持ち悪いとか、そういうはっきりした苦痛に責め苛まれて、要するにわかりやすく罰を受けてる感じになるので、苦しみながら後悔すれば良いだけなのだが、この年齢になってのみ過ぎた場合には、身体的にはとくに、ことさら変調らしいものはないのだが、何か妙に気掛かりな、たまたま忘れているだけの重大事実を背中に背負ってるかのような、あとで卑劣かつ陰惨なやり方で、恫喝され連行されて最終的に詰め腹を切らされるのかもしれない、そんな落ち着きのない、心身の前と後のどちらに問題があるのか判然としないような、どっちつかずのもやもやした気分の悪い予感につつまれて、何とも落ち着かない時間を過ごすことになる。」という記述も、そういう感じなのかと思って面白かった。
  • (……)は最新の一二月二七日ともどって一二月八日。休んだあと、三時前に、「どん兵衛」の鴨蕎麦で食事。身支度をととのえてふたたび出勤。「どん兵衛」を取りに行った際、風呂洗いと米磨ぎをついでにやっておいた。
  • 出勤路は省略。勤務(……)。
  • 帰路も特になし。帰宅後、メルヴィルを読みつつ休息。一一時半頃から夕食。母親の職場の話を聞く。なんか冊子だかなんだかわからないが、おそらく職員の紹介をするための文書みたいなものを作ったようで、母親も簡易な自己紹介文をそこに寄せたのだが、それが勝手に変えられていたと言う。相談やことわりはなく、内容が少々変えられて、自分が書いていない言っていないことが加えられていたらしい。おかしいよね、と母親は言うので、おかしいと受けた。この職場、「(……)」の長は以前から母親の話を聞く限り、偉そうだったり怒りっぽかったり粗雑だったりであまりよろしくないような人間らしく、職員からの評判もおしなべて悪いという。ひとが言っていないことを勝手に言ったことにするという振舞いには、こちらも第三者でありながら、反感をおぼえざるをえない。なぜ言語とひとをそのようにないがしろにできるのか。そういう人間が長なので、たぶんこの職場はもうそう長くない。もって三年だろうと適当に見込んでいる。