私たちの呼吸する大気には、いわゆる不活性ガスが含まれている。それらは「新しいもの」「隠されたもの」「怠惰なもの」「よそもの」といった、学術的な起源の、奇妙なギリシア語の名を持っている。それらはまさに、不活発すぎて、自分の状態に満足しきっているから、いかなる化学反応にも介入してこないし、他のいかなる元素とも結合しない。だから、まさにこのために、何世紀もの間、見すごされてきたのだ。やっと一九六二年になって、ある熱心な化学者が、長い間、様々な工夫をこらして、「よそもの」(クセノン)を、非常に活発で貪欲なフッ素と結合させることに成功した。この企てはとても素晴らしく思えたので、この化学者にはノーベル賞が授けられた。これらのガスは高貴なガスとも呼ばれる。だが本当にすべての高貴な人々が不活発で、不活発なものが全員高貴なのか、話し合う余地があるだろう。あるいはこれらは希ガスとも呼ばれる。だがその一つのアルゴン、「怠惰なもの」は、大気中に一%というかなりの割合で存在しているのである。この量は、それがなければこの地上に生命の影もない二酸化炭素に比べると、二〇倍から三〇倍なのである。
(プリーモ・レーヴィ/竹山博英訳『周期律――元素追想』(工作舎、一九九二年)、8~9; 「1 アルゴン」)
- 六時にアラームをしかけていたが、寝坊。六時四五分頃になってしまった。瞑想をする余裕もなし。さっさと上がり、食事を取って歯磨きや身支度など。Notionで昨日の日課記録を確定させ、今日の記事をつくっておくような猶予もない。久しぶりにゴルフボールを踏んで足の裏をほぐした。これもおりにふれてやったほうが良い。
- 八時過ぎに出勤路へ。曇り気味。そこそこ大股で行っていたが、坂道を上っていると苦しくなってきてマスクを一時ずらした。やはり吸収できる酸素量が減るのだろうか。肉体労働のひととか、たとえば建設現場で働いているようなひとなど、どのように対策しているのかわからないが、ずっとマスクをつけていなければならないとすると、めちゃくちゃきついというか普通に働けないだろうなと思う。場合によっては死ぬだろう。中国で、マスクをつけたままランニングしていた学生が死んだ事件もあった。フェイスガードで対応しているのだろうか。
- 電車に乗って職場へ。普通に眠いしだるいし、駅を抜けるあいだ、すたすた歩く気にならず、ほとんど誰よりものろのろ行く。生徒が挨拶をかけずにこちらの横を追い抜かしていく。駅を出るとそこにある菓子類の自販機でチョコレートとグミを買った。昨日鍵閉めを受け持ってくれた(……)くんに対するお礼である。
- 勤務。今日は朝のみ。まだどうにかなる。助かった。(……)世界各地の紛争の記述と地図上の場所を一致させる問題があって、ユーゴスラビア内戦とパレスチナ問題について触れたのだが、ショアー(説明の際には「ホロコースト」という語を使った)とイスラエルとパレスチナの話を簡潔にするときに、やはりちょっと動揺するというか、感情が揺らぐようなところがあって、くわえて朝時でからだに血も巡りきっておらず、立ちながらそういう内容を喋っていると血圧にも影響するようでからだ自体もすこし揺れるような感じがあり、言葉を出しづらくなった。本当はスレブレニツァの虐殺なども触れたかったのだが、うまく話せるほどにこちらに知識がインストールされていない。
- (……)
- 退勤は一時頃。疲労が濃かったので、歩くほうが良いのだがと思いつつ今日は電車に乗った。便所に行ったついでに自販機で小型のポテトチップスやグミを買う。最寄り駅につくと、今日も正面ルートでなくて街道を折れる。この頃には空は晴れて陽射しがあり、歩いていると身をいたわるような暖気が背後から触れてきて、気分が和らぐような快感がからだに生じる。のどかな感覚があった。気温が昨日よりも高いようにも思われたが、しかしのどかさはやはり、こちらの心境の問題なのではないか。つまり、今日はこのあとは労働がなく、翌日の勤務までけっこう時間があるから急がなくとも良いぞという心が、自分で意識していなくとも前提されていて、それが心身をゆるめているのではないか。そう考えるとやはり、みずからでどれだけ落ち着いているように思われようとも、労働を近くひかえた日や時間には、どうしても心身そのものが急いているところはあるだろう。そういう状況でももっとしずけさを保てるようにしたい。
- 帰宅。母親が冷凍のクリームパスタを用意してくれると言うので、休まずすぐに食うことに。着替えてきて食事。新聞を読む。朝も一応読んだ。しかし内容はあまりおぼえていない。これは昨日の夕刊の記事だったような気がするが、Washington Postがすっぱ抜いたところでは、ドナルド・トランプがジョージア州の共和党責任者みたいな人に、票数を改竄するよう圧力をかけたとも取れるような発言を向けていたとのこと。あなたが票を再集計したと公に言ってもなんら問題はない、私がもとめるのは一万何票の確定のみだ、みたいな、記憶が曖昧でけっこう抜けていると思うが、そんなようなことを言ったと。共和党の責任者的なひとは、あなたのデータには根拠がないみたいなことを言って断ったらしい。ジョージア州ではちょうど明日だったか、上院選が行われて最後の二議席が確定する。いまは共和党五〇、民主党四八だったはずで、民主党は二議席取れれば過半数を握れるが、一議席でも落とせば共和党がまさっていわゆるねじれ議会になるという話だったと思う。それにしてもドナルド・トランプも、姑息な言い方をするというか、圧力をかけたと非難されても、そんな意図はなかったと言い逃れできるような言葉回しになっている。ドナルド・トランプ自身が選挙の不正を、票が「盗まれた」ことを信じているのかどうかよくわからないのだが、彼はもう良い。それよりも問題なのは、共和党の議員たちのほうだと思う。よくおぼえていないのだが、今回すっぱ抜かれた発言にかんしてだったか、テッド・クルーズなど一一人くらいが同調しているという話だったし、たしか五日か六日に最終的な票数確定が議会でおこなわれるのだけれど、ドナルド・トランプはその形式的な場で再集計をするようもとめているとかいうことで、共和党議員は一四〇人くらいがそれに賛同するだろうという見通しが記されていたと思う。ドナルド・トランプの、明確かつ具体的な根拠のない言葉にすすんで乗っかり付和雷同しに行っているこれらの迎合者こそが、何よりも問題なのではないのか。ドナルド・トランプ自身は選挙の不正を信じていてもおかしくはないと思う。しかし、これらの共和党議員一四〇人が全員、不正選挙を信じているとは思えない。彼らのなかにはあきらかに、みずからの保身と生き残りのために、戦略的にドナルド・トランプに迎合している人間が何人もいると思う。この人々が、ドナルド・トランプをドナルド・トランプとして成立させている。事態が道理に合わないことを理解していながら、道理を曲げて既得的地位を取ろうとするこういう振舞いこそが、言論の空間を悪辣化させていくのではないのか? もちろん彼らには彼らで支持者がおり、仕事もあるとは思うし、現実を知らない理想論だと言われればそれに反論はしづらいのだけれど、しかしどうしてもなあ、と思うし、これでまたひとつ、米国の政治空間と歴史が毀損されてしまうのではないのだろうか。こういう事態を先例として残してしまって良いのだろうか。まだ読んでいないのだけれど、エティエンヌ・ド・ラ・エボシが『自発的隷従論』で述べているのは、おそらくこういう状況のことではないのだろうか。
- それで思い出したが、今日の夕刊には、歴代の国防長官が共和党政権の人も民主党政権の人も揃って一〇人くらい、連名で、選挙結果を確定させ、認めるべきであり、スムーズな政権以降に協力すべきだという提言をWashington Postに掲載したという記事があった。
- ついでに先に夕刊のことを書いてしまうと、「日本史アップデート」は神道の話題。いま我々が知りイメージを持っているような神道は自然発生的にできたものではなく、仏教や儒教など外来の思想の影響を受け取り、それに対峙しながら歴史的に成立していったものだという話。古代において、天皇が神道のなかでどのように位置づけられていたのかは気になる。神の直系の子孫として神に等しいものとしてとらえられていたのか、それとも祭祀の代表者という感じでもうすこし神とは区分されていたのか。天皇崇拝的な傾向が神道において明確になるのは、どうも江戸以降の国家神道成立後から、みたいな話の印象だった。というかこの夕刊を自室に持ってきていたのを思い出したので見てみるに、鎌倉以降、本地垂迹説にもとづいて神道は仏教と混淆し、両部神道、伊勢神道、山王神道とかいうものものができるらしいのだが、そのあたりから「外界にあったカミを心の中にも見いだすようになった」(伊藤聡・茨城大教授)という。また、古代ではカミとは主になだめなければならない祟り神の類で、「カミへの祈りは集団的なものであり、個人祈願は基本的になかった」ともいう。だからやはり、天皇個人を神と同一視するような発想はその時点ではまだなくて、祭祀を司る第一の媒介者的な位置づけだったのではないかと思うのだけれど、どうなのだろう。
- 参考文献をメモしておこうと思って持ってきたのだった。伊藤聡『神道とは何か』(中公新書)、『神道の中世』(中公選書)、井上寛司『「神道」の虚像と実像』(講談社現代新書)、安丸良夫『神々の明治維新』(岩波新書)、佐藤弘夫『アマテラスの変貌』(法蔵館文庫)。
- あと、田中泯の「村のドン・キホーテ」という舞台の評があった。書き手は「舞踊評論家」という肩書の、村山久美子という人。松岡正剛が「言語演出」をした舞台らしい。「田中泯のドン・キホーテは、終盤に至るまでは、小説同様、外見は夢想の世界に身を置き正気とは思われないが、その中身は、全身が緻密な"思考"を続けている。馬に覆いかぶさるように身体をあずけ、その後、馬から床にゆっくりと落ちてゆく登場の動作からすでに、物体の様々な面と、それに触れる身体の各部の"吸いつき"が見事。筋肉を精密に動かして、触れる面と常に一体化させているのである。ストイックに鍛え上げ意のままになる強靭な筋肉ゆえに、キホーテ老人の緩慢な弱々しい動きや、3メートルほどの棒を片手で横に保ったまま、我を忘れたように考えにふける姿などが生み出せるのである。/このように夢想家の外見を保っていた田中のキホーテは、終盤、翼のついた獄の前で、内面と外見を一致させる。上衣を脱ぎほっそりと引き締まった裸体で意識を集中させて立つその姿は、磔になったキリストのようでもあり、さらには、自由への希求や苦悩する世界への思いが詰まった、魂の祈りそのものになったかのようだった。それは、田中泯の「踊り」とは、細部に至るまで筋肉が魂をもつことのように思わされた瞬間だった」とのこと。
- 食後は帰室して日記。しかしめちゃくちゃ眠かった。だが、ものを食べたばかりではベッドに寝転がれない。
- 現在四時前。一月二日の日記を終わらせたが、マジでクソ眠い。あまりにも眠くてビビるくらい眠い。
- 上の一言は先に漏らしておいたもので、ここまで記せばいまはもう一月六日の零時四〇分。五時頃から七時前まで仮眠を取らざるをえなかった。その後音読し、そのときや風呂のなかで、みずからをもっとしずかにすること、消え去ること、瞑想とは起きたまま眠ることなのではないかということなどについて思い巡らせたが、そのあたりはまた明日以降記す。
- この日のことであとおぼえているのは、その入浴中のことくらいだろうか。音読の途中から、なんとなく、とにかくもっとしずかな存在になりたいなと思っていた。あまり音を出したくないし、存在としての気配を周囲に発したくない。誰にも必要とされたくないし、誰かに何かをもとめたくもない。本当は誰かに何かをもとめられたくもないが、それは無理で、他者や世界というのは自分に対して何かをもとめてくるものなので、そちらは仕方がない。誰かが何かをもとめてくること自体は受け入れるほかないが、自分からはなるべくなら何かをもとめたくはない。意味と力をあまり放出し、伝達したくない。
- そう思って、実際その後、食事のあいだなどなるべく音を立てないように動き食べるようにして、けっこうしずかに振舞うことができた。風呂のなかでは瞑想風に瞑目して浸かりながらとまっていたのだけれど、そのときひとつ思ったのが、死にたいとは特に思わないが、消えたいという気持ちはあるかもしれないということだ。というか、自分がいずれ死ぬと考える、死体となると考えるとあまり良い気持ちはしないが、自分がいずれ消えると考えると、それはかなり安心感があるというか、心がなごむような感じがして、ほとんど嬉しいと言っても良いかもしれない。いずれ死ぬことよりもいずれ消えることのほうがはるかに好ましい。だからといっていますぐ消えたいとは思わないが(あるいはそう思っているのかもしれないが)、消滅もしくは消去というのはとても良いイメージで、最終的には喜んで消えたいと思う。消滅の「滅」にはどうしてもやはり多少情緒的なニュアンスがつきまとうので、どちらかと言えばやはり、消去もしくは消却が良い。
- 瞑想というのはその最終的な消却を仮想的に先取りする練習と言っても良いのかもしれないが、瞑想とか、神秘的体験とか、そちらの方面ではよく世界との一体化ということが言われる。主には主客合一という言葉でこちらもいままでおりおり取り上げてきている事態だけれど、主体としての自己が世界のなかに同化的に調和して溶けこんでいく、という考え方よりも、自分がただ消えていって世界だけが残るというイメージのほうが良いなとこのとき思った。世界に吸収されて一体化したいとは思わない。ただ、自分という存在が希薄化し、削減され、世界の表面から剝がされ、すこしずつ小さくなって最終的には跡形もなくなる、というのが良い。忘我と没我というのは、辞書的にはあまり意味の違いはないのだろうが、こちらの話に合わせるなら、前者よりは後者のほうが相応することになるだろうか。自分で自分を忘れて対象のなかに同化的に投げ身し吸収されるというよりは、自己を没する、世界から剝がし、落とす、というようなイメージ。没落、あるいは日没の、落ちていくイメージ。
- 瞑想という時間はわりと自己が削減されていく時間でもあるのだが、しかし根幹的には自分がなくなるなどということは、死ぬか眠るかしなければ現実ありえないわけである。もっと鍛錬を積めばもしかしたら本当に自分というものが解体していくのかもしれないが、こちらはそんな領域にはいない。南直哉が、たしか『日常生活としての禅』のなかで、瞑想が深まると五感がなくなり、自分が光の粒子だったか波だったか、なんという比喩で言い表していたか忘れたのだけれどそんな風になっていき、合わせている両の親指のその接触面の感覚だけが残る、みたいなことを言っていた記憶があるのだけれど、そんな経験はしたことがない。ただ、感覚自体は消えないとしても、自己が剝奪されて感覚自体になっていくな、というのはわからないでもない。目を閉じてからだの動きをなるべく停めていると、世界が感覚的刺激と思念だけになり、それが閉ざされてもののない暗闇となった視界のなかの意識平面上に生滅し、その配置が視覚のかわりに見えるような感じになるから、自分がただの観測点となったような感じはわりとする。そこでは自分の肉体上に生じる感覚も、自分から独立している世界の動向とおなじ領域内に置かれたものになる。どこまで行っても自己を殺すことはできないし、できるとしてもおそらく束の間のことに過ぎないだろうが、自分自身を剝奪していって、ひとつの観測点にまで削減していくことはそこそこ可能だと思う。作家や文学者、芸術家や詩人といった人々は多かれ少なかれそういう志向や性質を持っているものだと思うし、ジョン・キーツが書簡で述べているというネガティヴ・ケイパビリティという考え方はだいたいそういうことだろう。彼が言っているのは(谷川俊太郎がたしか講演をまとめたみたいな短い本か、それか尾崎真理子のインタビューに答えた本で言っていて知ったのだが)、詩人は積極的な性質や属性を何も持たず、何ものでもないがゆえに何ものにもなれる、というようなことらしい。ただ、一個の観測点と化したとしても、そこでこちらの脳内言語、思念、自動筆記装置は普通に残っているので、それは果たして自己を削減しきったと言えるのか? という疑問はあるが。
- 自己の縮減や消失というテーマで考えると、その理想というか、その路線で考えたときの到達点はもちろん意識の無化であって、それが実現されるのは基本的に人間においては死か眠りにおいてしかないわけである。だから、実際には完全な無化は達成できないわけだけれど、瞑想という営みを、起きたままで眠る訓練と言っても良いのだろうなと思った。もちろんそれを、生きながらにして死ぬ訓練という風におなじくらいありがちでわかりやすい言い方に変えても良いわけだが、眠りの比喩の方向で考えを続けるに、しかし眠っているあいだも我々の意識が対象を得ていることはおりにあり、それは言うまでもなく夢のことだ。この構図を瞑想実践に当てはめると、瞑想は起きながらにしての眠りであり、そこで見られている夢とはこの世界だということになる。だからなんだということはそれ以上なく、この発想がなんらかの意味や射程を持つのかわからないのだが、昨年の八月だかに自分で書いた小文を思い出した。最後のほうで見られた夢がどうのとか言っているからだ。
ここはどこだ? どこかではあるはずだ……あるものは、どこかにあらねばならない。強制されているのだ……嵌めこまれ、置かれているのだ。牢獄に……割り当てられた間隙に……どこであっても、そうなのだ。ここでは何も聞こえない。声はない……音も。振動も。光はない……だからといって闇があるとも思えない。光がなければ見ることはできないが、闇がないならば見ないこともできないだろう……ここにあるのは、ことばだ。ことばしかない……さしあたりは何もない。ことばしかないところから、すべてがはじまる。ことばしかないところ……そこからしか、すべてははじまらないのだろう。はじまりの原子……だがそれは、声でもなく、文字でもなく、ものでもない……それが何なのか、知っているものはいないだろう。たとえば、緑の球体。透き通っており、濃密に満ちている。さざめき立ちさわぐ無数の葉っぱ、そのひとつひとつ違う緑の本質が一緒くたに注ぎこまれ、混ざりながらぶつかり合い、絶えずゆらいでは固まり、消えかかり、変化しつづける……複雑美妙な神奇のエメラルド。だが、まるですでにあったかのようではないか? たとえばエメラルドが……ここよりも先に、はるか以前から、存在していたかのようではないか? 開闢とともに。そうではないのだ。ここで生まれたのだ……常にここで、その都度、生まれる。いつだってそうだし、どこだってそうだ……そして、裁ち落とされる。吹き捨てられてはすぐに割れる、風にさらわれた泡玉のように。だから、点滅なのだろう。すべてが、何もかもが。そこで、ここで、はじめなければならない。だが、どうはじめようか? 問題は蛇だ……あの神々しい、悪辣なもの。空白の目と二股の舌を持った白痴の賢者……すべてを巻きこみ、引き寄せ、摩耗させる螺旋。あれをかいくぐらねばならない。あれはなんでも丸呑みにしてしまう……ことばさえも。空隙さえも。だから、ここを、存在させてはならないし、存在させないわけにもいかない。託さなければならないだろう……夢に。目を閉じ、まどろみ、夢見るものに危険はない。動けないのだから……だが、見られた夢そのものは危険きわまりないだろう。そして、夢を見ながらでも動けるものがあるならば……動きながら見る夢、そしてその夢もまた動き、うごめき、泡立ち、ふるえ、ふるわせる。それがことばだ。
- もうすこし何か考えたような気もするのだが、いま思い出せるのはそのくらい。肝要なのは、とにかくできるだけしずかになりたい、というそのことだけだ。あとは余談。