2021/1/8, Fri.

 (……)エンリーコの兄は怒りっぽい謎めいた人物だった。エンリーコは兄について進んで語ろうとしなかったが、化学を学ぶ学生で、ある建物の中庭の奥に実験室を作っていた。それはクロチェッタ広場から発する、狭く、曲がりくねった奇妙な小路の奥にあり、その界隈は幾何学的に配置されたトリーノの街並みの中で、哺乳類の発達した体組織内に取り残された、原初的な器官のように異彩を放っていた。(……)
 (プリーモ・レーヴィ/竹山博英訳『周期律――元素追想』(工作舎、一九九二年)、40; 「2 水素」)



  • 一一時半まで寝過ごしてしまった。九時前、一〇時台と間を小さく何度か覚めているのだが。いつもどおりの体たらくで、滞在は八時間半と長くなった。とはいえ消灯は二時四二分、はやくできているので良い。あとはスムーズに起きられるように、就寝前にからだを調える習慣をつくることか。
  • ダウンジャケットを羽織って瞑想。だが、今日は晴れているわりに気温が低いようで、起き抜けの肉がほぐれていない、胃が空っぽのからだに背から寒気が忍び寄る。実際、のちほど食事を終えてから階段や廊下を通っていても、足裏に触れる冷たさが一段変わっているようだったし、足もとに限らず空気全体もずいぶん締まっていた。それでもそれなりに座ったのだが、まあだいたい良いかなと思って目をあけてみると九分しか経っていなかったのにはびっくりした。
  • 上階で食事。前夜の残り物。すなわちタマネギと鶏肉のソテーなど。新聞は緊急事態宣言発出と、ドナルド・トランプの支持者が米連邦議会へ押し入った件が一面。昨日の夕刊で読んだときは死者はひとりで、詳細は不明なものの議事堂敷地内で胸を撃たれた女性がいたとのことだったが、ここでは死者はすくなくとも四人と情報が更新されていた。今回の事件で共和党や政権内でもドナルド・トランプからの離反が明確になりつつあると。閣僚内でも、副大統領に権限を移譲するべきではないかとの声が出ているという。副大統領本人と閣僚の半数が賛同して議会に通告すれば、そういう手続きが取れるらしい。すでに任期があと二週間の時点なので、遅すぎると言わざるをえないが。ジョージア州での上院選挙でも、僅差であったとはいえ民主党が二議席とも獲得したし(ところで昨日、ウィットマーという姓だったと思うと書いた牧師の人はウィットマー姓ではなく、ワーノックとかいう名前だった。いったいどこでウィットマーの文字を見たのか?)、そこにくわえて今回の件が起こったからドナルド・トランプとしてはまったくあてが外れたというわけだろうし、求心力は失われ、退任後の影響力にも陰りが出るのではないか。任期の最後の時期を、濁らせ汚したことになるだろう。しかし支持者はそうは思わない。昨日の新聞のどこかで、支持者のひとりの声として、トランプ氏はこれからも永遠に偉大な大統領であり続ける、彼の影響力は衰えないみたいな言が紹介されていた。ひとりが永遠に大統領であり続けることは米国政治の制度上、もちろんできない。
  • 暴力の誘発や分断の煽動という方面にかんしてはたぶんずっとそうだと思うが、ドナルド・トランプは直接的な言明を避け、支持者にとってのみ暗示的な意味を持ちうるような、遠回しな言い方をしている(ジョー・バイデンはそれをドナルド・トランプのdog-whistleと言った)。つまり、ことが起こったあとに、あれはそんな意図で言ったことではなかった、人々が勝手に取り違えただけだと言い張ることで、一応言い逃れができなくもない言葉遣いをしている。今回の件で言えば、「議員たちに我々の強さを示さなければならない」みたいな言葉があったと思うのだが、それがdog-whistleに当たるだろう。たしかにドナルド・トランプは議会に向けて行進しようとは言ったが議会内に押し入ろうとは言っていないし、強さを示すという言葉はそのまま即座に襲撃侵入を指すとは限らない。とはいえ、こういう言葉を聞いた支持者たちの、そのうちの一部が暴力的な行動に出る可能性の高さは、誰の目にもあきらかなわけである。ドナルド・トランプ自身もそうしたことがわかっていないはずはないと思うのだが。あるいは本当に、彼はそういうことをまったくすこしも気にしていないのだろうか? わからないが、こちらとしては前者の路線で考えて、ドナルド・トランプは普通に支持者のすくなくとも一部が騒擾を起こすことを予測しながらああいう発言をしたのではないかという気がしている。いわゆる確信犯である。事件後に彼はTwitterで騒動をおさめて家に帰るようにと鎮静を促す投稿をしたと言うが、上の流れで考えるとそれはもちろん単なるポーズということになる。
  • あとは国際面に、黄之鋒ともうひとり、「民衆力量」みたいな名前の団体のリーダーだったという譚なんとかという名前の人が、国家安全維持法違反で再逮捕されたとあった。ここで民主派の議員や関係者五三人が一斉に逮捕されたわけだけれど、その容疑は国安法違反で、昨年におこなわれた議会予備選が直接的には違反行為ということらしい。今日の記事にそれがより具体的に書かれていて、いわく、議会の多数を民主派で握ることを通して行政長官の解任を画策したのが国家政権転覆罪に該当する、というのが当局の言い分らしいのだが、これは通常の民主主義的議会制度の完全な否定ではないか。しかもまだ民主派は実際には議会で多数を占めてはおらず、ただ候補者を絞るための予備選をおこなっただけである。これには親中派の弁護士からも、現在のところ予備選など彼らの行動が国家安全維持法に違反したようには見えない、という声が聞かれているらしい。
  • 食後、皿と風呂を洗って帰還。コンピューターとNotionを用意。脚が冷たかったので先に足裏をほぐそうと思って、ベッド縁でゴルフボールを踏みながら書見。ハーマン・メルヴィル千石英世訳『白鯨 モービィ・ディック 下』(講談社文芸文庫、二〇〇〇年)。一日の最初にまず足裏をほぐすというのは良いかもしれない。飯を食ってすぐ、横になれないあいだでもできる。メルヴィルは305から324まで。海に落ちて見棄てられて以来狂人になったというピップの心象の描写が良かった。鯨脳油の塊を手で揉みほぐして液状にもどす作業のところで、仲間と一緒にそれをやっており、いつの間にか脂のかわりに仲間の手を握っていたという話があって、イシュメールの船内での具体的な作業従事が語られてはいるのだけれど、ただ手を握られたその仲間がどんな反応を返したかとか、作業中彼とのあいだにどんなやりとりがあったかとかはまったく触れられていない。そもそもその仲間も「仲間」という一語で言われているだけで、それ以上なんの情報もない。だからイシュメールはやはり、彼と同僚とのかかわりについては最大限に寡黙になって言及を削減しているように見えるし、船に乗って以降は登場人物としてではなくもっぱら語り手として立ちあらわれようとしているように思われる。
  • あと、前に読んだところだが、277に、「破産した悲運尽夫氏が、家族を飢えさせまいとして金貸しの竹藤金太郎氏に金を借りに行くと、予め利子をがっぽりと差し引かれた金を手渡される」とあって、これはもちろん金融業者の「武富士」をパロディしているわけだろう。普通に笑った。原文がどうなっているのかわからないが、その後も続けて、大司教「救済亭魂之助」とか、「愚昧博之輔侯爵」とかいう名前が出てきて、ここまでやってしまって良いのかと思った。ただ意外と奇をてらった違和感はない。この人の訳の調子のなかだからこそ許される荒業だろう。
  • 一時半前まで文を読み、それからここまで記述して二時一五分。今日は五時過ぎに出て労働。それまでに前日の記事を仕上げてしまいたいが。あとは都立高校入試の社会の過去問、平成三一年度も見ておきたい。
  • いったん上階に上がって洗濯物を取りこんだ。母親が居間にいた。今日は休みらしい。ベランダには陽射しが寄せているものの、絶えず回遊する空気の冷たさのほうが常にまさっている。洗濯物もそれにやられて、乾ききってはいないようだ。だからまだたたまなくて良いと言うので、入れただけで自室に帰り、七日の日記を書き足して三時に完成。投稿。ベッドにうつると都立高校入試の社会、平成三一年度(二〇一九年度)の問題をコンピューターに映して確認した。途中、母親が部屋に来て、予約カートがどうとか言う。地元の図書館のホームページで本を予約カートに入れたがそのあとどうすれば良いのかというようなことで、まずそもそもパスワード登録をしていなかったのでそこからだろうと言って、寝転がったままときおり携帯を借りながら母親を導いた。母親が去るとふたたび予習をすすめ、四時過ぎで起き上がり、柔軟。ストレッチをしながら、「宝玉を削った粉で肌を塗りミイラのように残酷になる」という一首をつくった。
  • 上階へ行って食事。レトルトカレーを食おうと思っていたら母親がスモークサーモンや野菜をはさんだサンドウィッチをつくっておいてくれたので、ありがたくそれをいただく。あと即席の味噌汁。みじかく平らげて皿を片づけ階段を下りると、父親が声をかけてきて、源泉徴収票か所得証明を用意してくれと言う。確定申告に使うらしい。了承してもどり、歯磨きや着替えや身支度。五時過ぎで出発へ。
  • 道に出て見上げれば、東方は雲が少々塗られて灰汁のようになっているが、向かう先の西方は一枚の紙として青くひろく澄んでいる。その裾にあたる山際には去っていった西陽のなごりがほんのかすかくゆって、空のなかでそこだけが別色をまねいてあるかなしかのグラデーションをつくっている。歩調をはやめはしないが、やや大股で行った。いつも時間がやや遅くなってしまう。本当はもうすこし余裕を持って出たい。
  • 坂道はしずかである。風は通らずあたりは停止しており、葉がこすれる音も何かが落ちる音も木の間から聞こえてこず、およそ音の気配というものがつかみとれない。耳に入ってくるのは木立を越えた先の街道を走る車の響きのみである。
  • 駅まで着くとまだ電車は来ておらず、間に合うことが確定したので途端に足をゆるめて鷹揚に階段を上る。ホームに入ったところでちょうど来て、乗車すると着席して瞑目。(……)にうつるとここでもゆっくり駅を抜けた。とにかくしずかに、無力になりたい。東と西でだいぶ明暗と深浅が異なる空の青さを見上げて見比べながら職場へ。
  • 勤務。(……)
  • (……)
  • (……)
  • それでも問題なく間に合い、着座して最寄りへ。帰路の記憶は特にない。晴れて星の見える、洗われたような磨かれたような夜空だったと思う。帰宅すると手洗いや着替えなど済ませて、今日は横になるのではなくゴルフボールを踏みながらメルヴィルを読んだ。足裏を柔らかくするのもやはり大事なことだ。そのあとでたぶん多少寝転がったとも思う。よくおぼえていないが。
  • 夕食。スンドゥブなど。鰹のふりかけを開封して米にかける。新聞を読んだのかテレビに目を向けたのかよくおぼえていない。夕刊の記事を多少読んだような気もするのだが。イーロン・マスクが世界一の富豪になったとか、バイデン政権の閣僚人事とか、そのくらいの、あまり大きな印象をあたえない記事だったはず。あと一面にはいわゆる元従軍慰安婦の人々の日本政府に対する請求(たしか日本円でひとり一〇〇〇万円ほど)を韓国の司法が認めたという報が大きく出ていたが、これを読んだのはこのときではなくて、出勤前の食事のときだったはずだ。国際司法の領域には「主権免除」という慣例的原則があるらしく、国家の行為を他国の司法が裁くということは基本的にはおこなわれないということで、それに従わない異例の判決、としてセンセーショナルに扱われていた。日本政府は当然反発するし、外務省も反発するし、保守としてカテゴライズされる方面の政治家も反発するだろうし、市井の右派も反発するだろう。この問題にかんしてはものの本をひとつも読んだことがないし、ちっとも学んでいないからどう考えれば良いのか、確かな思考がこちらのなかにはない。ただ、戦時中の歴史的事実の認定を除けば、ことの中核になっているのはあきらかに一九六五年の日韓請求権協定なわけで、そこにおいて日韓両国がなんらかの一致点や共通了解を見出せなければ外交問題としての公平な(理想的な)解決はおそらくないだろう。つまり六五年において個人請求権がなくなったか否かが問題の最大の結節点のひとつなわけで、そこに立ち戻ってテクストと歴史とその解釈を丹念に精査し直す、という手続きが両国においてまずおこなわれなければ、リアルポリティクスとしてはともかく理念的な意味での解決はないし、それがおこなわれたからと言って解決するとは限らず、むしろそこが起点となるのではないか。
  • 夕食中やそのあと、額や眉のあたりやこめかみを揉んでいると母親に、頭が痛いのと訊かれたが、そういうわけではない。というか実際、頭痛というよりは額痛みたいな感じで、重苦しさがわだかまっていたのだが、顔とか頭蓋とかは意外と簡単にこごりがちで、額をぐりぐり指圧すると頭がかなり軽くなる。
  • 入浴中、久しぶりに束子で全身をこすったが、やはりこれは毎日やったほうが良い気がした。皮膚に刺激をあたえるのは気持ちが良くてさっぱりする。あまりゴシゴシやる必要はなく、ただ全身の肌をくまなく撫でるような感じで良い。
  • 出るともう一時過ぎだったはず。帰室して今日のことをいくらか記述。それからFISHMANS, "感謝(驚)"(『Oh! Mountain』: #8)と、Eric Dolphy, "God Bless The Child"(『In Europe, Vol. 1』: #3)を聞いた。さすがに眠かったので明瞭に聞けず、特に印象が残っていないが。"感謝(驚)"のB部におけるギターの単音カッティングがやはり記憶に残ったくらいだ。消灯し、ヒーターの赤さが浮かび上がる暗闇のなかでしばらくゴルフボールを踏んだあと、柔軟をしてから布団に入った。