2021/1/14, Thu.

 山でサンドロを見ることは、ヨーロッパに覆いかぶさっている悪夢を忘れさせ、世界との和解をもたらした。それは彼向けにあつらえられた、彼の場所だった。顔つきや鳴き声をまねてみせたテンジクネズミと同じだった。山に入ると彼は幸せになった。その幸福感は輝き渡る光のように静かで、他人にも伝わってきた。それは私の中に、天や地を共有するという新たな感覚を呼び起こした。そして私の自由への欲求、力の充満、私を化学へ押しやった、事物を理解する渇望が、その中に流れこむのだった。私たちは明け方に、マルティノッティ避難小屋から目をこすりながら外に出た。すると周囲が一望のもとに開けて、朝日を浴びたばかりの山々は暗褐色と純白に輝き、立ち去ったばかりの夜の間に作り出されたかのように真新しく、同時に年を数えられないほど古くも思えるのだった。それは孤島であり、地上の別の場所だった。
 (プリーモ・レーヴィ/竹山博英訳『周期律――元素追想』(工作舎、一九九二年)、73; 「4 鉄」)



  • 「立ち去ったばかりの夜の間に作り出されたかのように真新しく」!
  • またしても一一時半起床となってしまった。今日は休日なのでそれでもどうにかなる。天気は晴天。わりと暖かい日和の気配だ。トイレに行って黄色い尿を捨ててきてから瞑想。しかしあきらかに焦りがある。はやく動き出したいという心があった。それで一三分しか座れず。
  • (……)からメールが入っていた。以前のメールに返信しようしようと思っていながら結局できていなかったので、ひとまずすぐに返しておく。ガラケーで文字を打つのが面倒なので、あとでパソコンから正式に返すと。
  • 上階へ行き、カレーうどんで食事。父親が腰を痛めたと母親が言っていた。その父親は食事中に帰ってきて、ケンタッキーフライドチキンとコンビニのケーキを買ってきた。ケーキがあるのは今日がこちらの誕生日だからである。それでモンブランをいただく。甘味を食べながら、母親が図書館で借りてきた『ヨーロッパの絶景』という本をちょっとめくった。ベルギーのグラン・プラスやブリュージュの写真を見ながら記憶を思い返したり、プラハの都市を見ながらこれがカフカが生きていたところかと思ったりしたが、最初に載っていたバルセロナの市街を朝か夕かわからないが斜陽のなかで上空からとらえた写真が一番印象的だった。碁盤の目状、と平城京平安京についてよくいわれる言葉がここでも使われていたが、マジで一ブロックごとの大きさがほぼ揃えられてきちんとならんでおり、そのあいだを縦横に通りが差しこまれて非常に整然としている。ブロックをなしている建物はどれも形はだいたいおなじ、石造りのビルみたいなやつだと思うが、白っぽい側壁はともかくとしても褐色とオレンジを混ぜたみたいな屋上の色がどこも共通していて、どうもそれも規格的に揃えられているらしい。地平線にいたるまでそれが続いているビルの平原のなかに、縦横の線を意に介さず切り入っていく斜めの通りが一本差しこまれているのがなかなかこころ憎かった。バルセロナだとむろんサグラダ・ファミリアの写真も載っており、ガウディだとあとはカサ・バトリョというやつと、例のカラフルなトカゲ(「ドラゴン」という説明だったが)が有名なグエル公園が載っていた。
  • 皿と風呂を洗って、今日は休みなので茶を持って帰室。LINEを覗くと誕生日祝いのメッセージが届いていたので返事。(……)さんからも届いていたのが意外だ。なぜおぼえていたのか? もう三〇くらいかなと言うので、三一になってしまいましたと苦笑を送っておいた。コロナウイルスが落ち着いたらまた(……)の「(……)」に行ってライブを見ようとのこと。(……)さんとは普通に会いたい。二〇歳の頃に継続的にかかわりを持った年上の大人として、やはりなんとなく特別な感じがある。
  • その後、ちょっとウェブを見、また昨日のWoolf会で(……)くんが言っていた奨学金関連の情報について(……)さんにメールを送っておき、それからNotionを準備してここまで記述。もう二時二〇分である。さっさと合蹠をやって脚をほぐしたいのだが、昨日駅の自販機で買ったチョコレートをいま食ってしまった。ミスった。腹にものが入ったばかりでは前かがみになって腹を圧迫することは避けたい。
  • とりあえず、爪を切ることに。手の爪である。それで北川修幹 "弱い心で"を流し、ベッドにうつってティッシュ一枚の上に爪を切り落とし、断面をやすっていくらかなめらかにした。そうしているあいだ、上体をあまり倒さずにしかし合蹠をしていたのだが、その姿勢でもけっこうストレッチできるじゃんと思い、爪を整え終えるとそのまま小沢健二 "天使たちのシーン"とともに調身に入った。前かがみにならずとも、足の裏を合わせて上体を立て気味にしたまま両手を太腿の上に置いて下に向けてちょっと押すような感じにすれば、わりと筋肉を刺激することはできる。"天使たちのシーン"は以前、ワンコーラスのまとめ方が綺麗に円を描くようで手本みたいにうまく構成され収束していると書いたけれど、メロディを歌っていると一部ちょっとひねりというか、独特のニュアンスが入っていることに気づく。一六小節あるうちの一~四と九~一二の後半、四分割したときの一回目と三回目ということだが、ここのメロディの後半部には微妙に、緩慢に引きずるようにしてちょっとだけ下降する動きがあって、そのアンニュイな感じは自分で歌ってみると出すのが難しい。コードも何かしら通り一遍でない感じになっている気がする。
  • 合蹠以外に前後左右に開脚したり足首もしくは足先を持ってからだの背後で尻のほうへ引き上げるストレッチなどをやった。後者のものは、太腿をほぐすこともできるのだけれど、この姿勢のまま胸を張って背を反らすようにすると背面を激烈に伸ばし和らげることができてすごい。柔軟運動とは心身をしずかにする営みである。しずけさとは無音や無言のことではなく、明晰さのことである。
  • 半藤一利の訃報というか、保阪正康磯田道史が寄せた追悼文を読んだのを忘れていた。保阪正康によれば、半藤一利は話を聞く相手が過去に書いたものやその発言をできる限り調べてから対面に臨んでおり、証言者の言ったことを鵜呑みにせず、きちんと史料批判的な視線を向けて確実性をもとめていたとのこと。また、たしかこれは磯田道史のほうが書いていたと思うが、半藤一利は、戦後の昭和は皆が「平和」という理想を追い求めていたわりと良い時代だったが、平成にはそうした理想がないのでこのままでは単に便利なだけの時代になってしまうという危機感を表明していたらしい。
  • この日はほぼからだをほぐすか日記を書くかしかしていない。三時から五時までは日記を綴っていたし、その後上がってアイロン掛けをして、もどってきてからもまた日記。夕食はフライドチキンなど。夕刊にはドナルド・トランプへの弾劾訴追決議案が下院で可決されたと。共和党から一〇人造反が出て、賛成は二三二人だったか。朴槿恵の上告が大法院で却下されて懲役二〇年に決まったという報も。あとは音楽情報。Lee Ritenourが新作を出したらしい。ギター七本で自分だけで多重録音した作品と。下部の紹介は、Lou Reed『New York』や、ショーン・メンデスという人や、ダーティー・プロジェクターズというものや、KANなど。ショーン・メンデスという人はまだ二三歳のカナダ出身の人だがこれまでに出したアルバムがどれも全米一位を取っているとか。こちらとしてはダーティー・プロジェクターズというやつにより興味を惹かれる。なんとかいう人のソロプロジェクトらしいのだが、このなんとかいう人が幅広い音楽性を身にそなえているらしく、ジャンル横断的な音楽になっているみたいなことが書かれていた。KANというのは"愛は勝つ"の人のはずで、こちらはその曲しか知らないし、正直、現役だったのかと思ったくらいなのだけれど、なぜかちょっと聞いてみたい気がする。
  • 食後はまた日記。九時半前まで。風呂に入ろうと思って上がると母親が先に入ると言うので了承してもどり、ギターを久しぶりに弾きたかったので一〇時まで三〇分だけいじった。わりと良い感じだった。音と指のポジションがけっこうよく見えた。ギターを弾くときの姿勢をどうするかというのはずっと迷っているのだけれど、やはり左の太腿に楽器を預けるようにしたほうが良いかもしれない。弾いているとどうしても前かがみになってきてしまって、次第に腰が痛くなり、そうすると当然演奏が乱れるのでなるべくからだに負担がかからない姿勢を保ちたいのだが、左足に楽器をたくすようにしたほうがそうしやすいような気がする。
  • その後入浴。出るとまた日記。gmailを見ると、誕生日ということで兄と(……)さんからそれぞれメールが届いていた。要返信。(……)にもメールを書かなければならない。
  • 現在もう一五日の零時に入ったところなのだが、今日はここまで、活動としては、ギターを弾いた以外には日記を書くことしかしていない。先ほど完成させた一三日の記事には今日だけでも三時間四〇分ほどを費やし、昨日と合わせると四時間半で仕上げていて、けっこう長くなった。現在のところで今日日記を綴った時間は、だいたい五時間ほど。まあ悪くはない。だいぶ勤勉だとは言えるし、このくらい書くとライティング・マシーンに近づいたような感じは多少はある。ただ、もうすこししずかに、落ち着いた心身的動作で書きたいというか、もっと機械に近づきたいとは思う。あらかじめプログラムされた機械のようにして、人間的感情とか情念とかを排して自動的に、しずかに、ゆっくりと、本当に自動的な自律的な動きとして書きたいという欲求もしくはイメージはある。わりとありがちなものだとは思う。けっこうみんな、そういうことは考えるだけは考えると思うし、これはこれでまたひとつのロマンティシズムであるとも思う。たぶん、もう古臭い発想なのだろうとも思う。あるいは、Post-humanという語とかAI技術とかを思い合わせたときには、むしろこの先の時代において流行的風潮になっていく考え方なのかもしれないが、ただ、精神性としては二〇世紀前半のいわゆるモダニズムをそのまま延長させただけのものだと推測され、いまさらその方向でやってもなんかなあという心はないでもない。とはいえ、そういう種類の欲望はやはりこちらにあるし、べつに作品をつくったり活動としてやったりしているわけでもなく、個人的な性分としてそれをもとめるということなので、古臭かろうが行き詰まろうが良いのだとは思うが。なんとなく、一九六一年六月二五日のBill Evansはそういう感じになっている気がして、あのしずけさと不動性と明晰さがほしいなあというのは思う。あそこのEvansには、ペースがずっと一定で揺動がまるでないから情念がすこしも感じられないし、あまりにも明晰すぎて機械的な印象、つまり上に記したような、あらかじめ自分がどの音をどういう風にどういう順番で弾くのかを完全に知っているような、そのように定められているかのような印象すらあたえられるもので、すなわちあそこでEvansは、束の間であれ、なかば人間以外のものになっているように感じる。その人間以外のものがなんなのかというのはしかしよくわからない。機械、というのは非常にわかりやすいイメージだ。音楽自体、あるいはピアノ自体になっている、というのも、あまりにも容易に言える言い方だが、表現としてはそれは単なる労を欠いた神秘化にすぎないだろう。なおかつ不思議なのが、人間性をできる限り削減もしくはほぼ超越したかのように聞こえるBill Evansの演奏が、あのTrio総体の音楽としては、この上なく人間的としか感じられない美と温かみのニュアンスをふんだんに湛えているということだ。本当はもっとああいう感じで自分も書いたり生きたりしたいんだけどなあとは思う。
  • もうすこし駆動速度や振動数を落としながら安定的な動きを持続させたい。
  • 歯磨きしながらウェブを見て休憩し、その後ストレッチ。ヘッドフォンでSarah Vaughanの『Crazy And Mixed Up』を"Autumn Leaves"から聞いた。この"Autumn Leaves"はどうしたってすごい。ほかの曲もボイスコントロールは抜群で、特に音程調整があんなにも乱れず常になめらかなのは意味がわからない。歌唱としてはけっこう暑苦しいというか、太めの声で情念的に歌う感じはあるが、Sarah Vaughanにかんしてはそれで何も問題ないし、昔のジャズの人はわりとみんなそうだ。"Autumn Leaves"以外だと"Love In Vain"が良かった。切なげなあかるいきらめきみたいな感じのキャッチーさがある。長めに取られて見せ場として提示されているベースソロも弾性があってスウィンギーである。ここのベースはAndrew Simpkinsという人だが、ソロを弾きながらみずから出す音とユニゾンで歌うタイプの奏者で、メロディを口ずさんでいるのが聞こえる。
  • (……)
  • 「玉の緒を虹につないで世界中雨の遺跡をたずねてまわる」、「東雲に追い立てられて戦場へ塹壕の夜の歴史家となる」という二首をこしらえた。