2021/1/17, Sun.

 (……)あの時、私はかなりの勇気をふるい起こして、死を待ちながら、ありとあらゆること、人間が経験しうるすべての体験をしたいという刺すような希望を抱いていた。そして自分の前半生を呪っていた。わずかのものを、不十分にしか利用できなかったと思えたからだった。時が指の間からすり抜け、もう止められない出血のように、体から刻一刻と逃げ出しているように感じられた。(……)
 (プリーモ・レーヴィ/竹山博英訳『周期律――元素追想』(工作舎、一九九二年)、212; 「10 金」)



  • 久しぶりに正午を越える時刻まで寝坊してしまった。よろしくないことだ。夢をいくつか見たのだが、最後に見ておぼえていたのは、「(……)」の人々と通話をしているかあるいは実際に会っている場にいながら、話をまったく聞かずにひたすらギターを弾いているというもの。夢のなかでギターを弾きながら、指の動きに正しく応じたメロディが現実と同様に聞こえたというのはどういうことなんだろうなと思ったが、その場で頭のなかでやってみたところ、すくなくともペンタトニックを基調とした範囲だったら、仮想的な指板上のポジションに応じて頭のなかでメロディを流すことが普通にできたので、何も不思議なことはなかった。
  • 上がっていき、焼きそばと汁物で食事。どこかに行っていた父親が帰ってきてトイレに行ったあと、台所で母親と行き会うと母親のほうが、手洗ったのとかなんとか言って、それに洗ったと父親が応じながらも母親はさらにたたみかけるようにして、つまり彼女はたぶんコロナウイルスに気をつけて洗面所で石鹸を使ってしっかり洗ったほうが良いと言いたかったのだと思うのだけれど、それで父親が苛立って、あんたはトイレ行ったら手洗わないの? とかなんとか声を荒げる場面があった。父親が大きな声を出したり、怒りの情をあらわにしたりすると、こちらは正直ビビるところがある。父親に限らず怒りの情が発露される場面に立ち会うとたぶんいつでもそうではないかと思うし、昔は実際そうだったという記憶もあるのだが、とりわけ父親が母親に対して怒りを表出する時空を共有するとビビる。ビビるというのは、緊張するとか、不安を感じるとか、胸か腹の奥になにかしらうごめくような収縮するような異物感とストレスを明確におぼえるということだ。つまり端的に言って、恐怖の感情、怖いという心的作用である。三十路も越えていながら情けない、嫌な話なのだが、こちらの心にはたしかにそういうところはある。最近、他人の怒りや高圧性を目撃するのはもっぱら父親にかんしてのみなので、ほかのひとのそういう振舞いに接したときにどう感じるかわからないが、やはり父親の言動に対したときがそういうビビリをおぼえる度合いが一番強いのではないかという気がする。こちらが父親のそういう振舞いに強くおぼえる不快さと嫌悪感と軽蔑というのは、直接的にはたぶんそういう恐怖の埋め合わせというか、その反動ではないかと推測するのだが、ここにはやはり、オイディプス・コンプレックスとやらがマジでかかわっているのかなあと思うところだ。実際、ここ一年か二年くらいのあいだに勃発しているこちらと父親のあいだの悶着というのは、父親が母親を抑圧するのに接して不快感をおさえきれなくなったこちらが物を申すというかたちで生じているわけで、非常にひらたく換言すれば、母をいじめる父に対して子が母をいじめるなと勇気を奮い起こして立ち向かうというかたちになっているわけで、それにもうすこし解釈をほどこせば、母を独占的に所有して思うがままに権威と力を振るう父から母を奪い取って自分のものにしようとする欲望のあらわれということになるはずであり、これはすさまじいほどにオイディプス・コンプレックス理論の典型構図だろう。なぜ自分がフロイト理論の有力性を実証するような立場を演じてやらなければならないのか、マジで嫌なのだけれど、あとは生育環境として、母親やほかの人間からはともかく、父親からは叱られたことがあまりなく、叱られたときはいつもそれが激しいような度合いの出来事だったということが影響しているのではないか。こちらが子どもの頃、父親はいつも遅くまで勤務していたので、そんなに密に時空を共有するということがあまりなかったのだ。だからもっぱらその権威性のみがこちらのうちに刷りこみされているということもあるかもしれない。で、父親自身もそういうことは過去に漏らしており、つまりこちらの祖父にあたる(……)じいちゃんは、というか、おそらく自分が子どもの頃は父親というものは一般的に、怖いような存在で、卓を囲んで飯を食っていても話しかけるなどできなかった、ということを以前語っていたことがある。だから父親自身もその父親の権威によって抑圧されて育ってきた。そして自分の連れ合いである女性を多少なりとも抑圧し、息子であるこちらがそれに対して反抗を見せると怒り、抑圧する。そういう反復だろう。また、恐怖の情の来たるゆえんについてもうひとつ言えば、いまだに生計を実家の基盤に全面的に頼っている身だから、そこから来る負い目の情みたいなものもたぶんあるだろう。労働主体もしくは社会的主体としての経済的自立性の欠如が、いくらかは精神的自立性(自律性)のほうにも影響しているのではないか。
  • 新聞からは書評面を読んだ。苅部直が先日、二〇二〇年の一番の収穫として挙げていた松沢弘陽『福沢諭吉の思想的格闘 生と死を超えて』を紹介していた。岩波書店の本で、九五〇〇円もする。この松沢という人は一九三〇年生まれとあったからもう九〇歳で、丸山真男に師事していたらしい。その上には、正確な情報を忘れたけれど、原理主義的なモルモン教徒の家庭に生まれて父親や兄から暴力を受けてきた女性が、大学に行って教育を受けものを学ぶことで、彼らの心理的・実態的影響から解放されたという内容だという自伝の紹介。苅部直の欄の下の記事も読んだと思うのだが、なんだったか忘れてしまった。
  • 風呂を洗って帰室し、コンピューターを用意すると一時二〇分から昨日のことを記述。しかしたぶん本当は、椅子に就いて文章を書くより前に、ボールでも踏んで脚の血流を促進したほうが良いんだろうなと思う。とにかくからだと肉を調えることを最優先にしたほうが。日記をまず書くというのは、飯を食ったばかりで柔軟がしにくいから、腹がこなれるまでのあいだ待っているという面もあるのだが、その時間もなんらかの調身に費やし、からだをなめらかに調えてから活動に入ったほうが良いんだろうなとは思う。しかしともかくこのときは一時間ほどで一六日の文章を仕上げてしまい、投稿した。gmailを見ると(……)さんから返信が入っていて、誕生日などクソどうでも良いと言ったのだが、すでに何か「ええもん」を注文してくれたという。ありがたい。去年もらったジョルジュ・ディディ=ユベルマンの『イメージ、それでもなお』も読みたい。
  • そうして調身へ。なぜかわからないがThe Beatlesの"I Saw Her Standing There"と"Misery"が頭のなかに流れていたので、『Please Please Me』を流した。むろん曲にもよるのだけれどPaul McCartneyのベースってかなりよく動くし、動き方としてはゴリゴリしているようなときもわりとあり、音色としては軽快で、やや腰が軽いと言ってしまいたいような気もして、あまり重くしていないと思うのだけれど、これでトーンを変えてもっとハードにしたら、John EntwitsleかChris Squireあたりにかなり近くなるのでは? と思うことがある。ロックバンドのエレキベースとして、けっこう特異なほうのプレイヤーなのではという気がする。たぶんこの時点だと後年のこちらが前提するようなロックミュージックのベースの雛型がまだできていなくて、Paul McCartneyもR&Bとかソウル系とか、そういう方面から学んだのではないかと推測するのだけれど、それでそういう風に感じるのかもしれない。#5 "Boys"でエイトビートをブ、ブ、ブ、ブと連打しているときとか、ずいぶん一音一音が際立ってはっきり輪郭を持っているなと思った。あとRingo Starrのドラムもあらためて聞いてみると、"Please Please Me"の演奏など普通に格好良いし、サビの反復的な推移のなかに差しこむスネアのちょっとした連打など綺麗でなめらかである。たしか彼本人は、"Rain"の演奏が一番気に入っていると言っていたとかいう情報をどこかで見かけたような記憶がないでもない。
  • The Beatlesというグループは、こちらが一〇代だった二〇〇〇年代のはじめのうちくらいまでは、たぶんまだその名を知らない人間は世界にほぼいないし、名前を知らなくともその音楽を耳にしたことがない人間はまず存在しない、というような、英国発の普遍的・伝説的なバンドというイメージや雰囲気をかろうじて保っていたような気がする。こちらがThe Beatlesをはじめて意識的に聞いたのは、中学の一年か二年のとき、同級生の(……)という、聖教新聞売店の息子だった男子から真っ赤なジャケットのベスト盤CDを借りたのがきっかけで、お返しに当時聞きはじめていたVan Halenの黒いジャケットのベスト盤の四曲目に収録されていた"Dance The Night Away"を、たぶんこちらの自室でだったと思うが聞かせたら、「声がゴツい」と言われて残念ながら気に入られなかったという話は以前も書いた。ほかにも、中学校の英語の教師だった(……)先生という女性が、たしか授業内でThe Beatlesを聞かせて英語の表現を勉強するという時間をちょっと取っていたようなおぼえがある。彼女はまた、当時たしか月曜九時のドラマ『プライド』が流行っていて、その主題歌にQueenの"I Was Born To Love You"が使われて人口に膾炙していたからだと思うが、あの曲、すごい歌詞だよねえ、あなたを愛するために生まれてきたっていうんだからねえ、と笑いながら授業中に漏らしていた記憶がある。余談になるが、中学三年生のときの担任だった(……)という、当時おそらくまだ三〇前後だったのではないかと思われる鳥取出身の若い男性教師(国語担当)はハードロックの類が好きで、こちらもたまにそのへんの話をしていたし、特にLed Zeppelinの"All My Love"(だったと思うのだが)の歌詞が一番好きだという話をいつかのホームルームで表明したことがあったはずだ。こちらが何かのときに、昼休みか放課後に、なぜか教室にあったクラシックギターを爪弾いて、俺はギターが弾けるんだぜという優越感を無言のうちに周囲に対してアピールしていたところ、そのとき弾いていたOzzy Osbourneの(というかRandy Rhoadsの)"Dee"について、手のひらきがきついけれどやはり小指で下のG音をしっかり押さえてアルペジオしなければ、みたいなアドバイスをくれたというエピソードも以前に記した。で、さらに、音楽の教師は(……)という、眼鏡をかけて灰色がかった髪をちょっとうねらせたような、いまから思えばたしかにクラシックの音楽家っぽいような髪型の先生だったのだが、このひとが音楽の授業中にKeith Jarrettの『The Koln Concert』を流したことがあったという話もやはり以前書いた。こちらがKeith Jarrettの演奏を耳にしたのは、まちがいなくこのときが生まれてはじめてである。そのとき流れたのが『The Koln Concert』だったというのがなぜわかるのか、なぜその固有名詞を同定できるのか? と考えるとちょっと自信がなくなるのだが、Keith Jarrettだったことはまちがいないし、ソロピアノであったこともまちがいないし、Keith Jarrettの独演で一番著名なものといえばやはり『The Koln Concert』だし、おそらく確かだろう。たぶんそれ以降、高校や大学の時期にジャズを聞くようになって『The Koln Concert』を知ったときに、これ中学のときに流してたやつやんと気づき、記憶が固まったのだと思う。(……)教師にかんしてはもうひとつ、廊下で一学年下の男子と話しているところに通りがかり、The Rolling Stonesがどうとか交わしているのを一瞬だけ聞いたという記憶が残っている。もちろんそのときこちらは、The Rolling Stonesならこちらも知っているから話に加わりたいという承認欲求をおぼえつつも、素通りした。知っていると言ったところで、(……)が持っていたライブ盤を一枚、やつの家でちょっと耳にしたことがあった程度で、"Jumpin' Jack Flash"と"(I Can't Get No) Satisfaction"をかろうじて同定できるくらいだったと思うが(そしていまもそこからさほど変わっていない)。こうして記憶を思い返してみると、意外と中学校でかかわりを持った大人たちは音楽にかんしてはおのおの悪くない知識や出来事をこちらにあたえてくれたな、と思う。とりわけ(……)氏がたまに授業中に音楽を流してじっくり聞くという時間を取ったのは価値あることだったと思う。もちろんせいぜい流行のJ-POPか童謡くらいしかそれまで耳にしたことがなかったそのへんの中坊にKeith Jarrettだのクラシックだのを聞かせたところでわかりはしないし、真剣に聞いているやつなどさほどいなかったはずだが、それでもそのときともかくもなんらかの反応はおのおののうちに発生したはずだし、現にこちらはこのようにしてそういう時間があったということ自体は記憶しているわけである。彼は、自分の音楽の授業は、ともかくも君たちが将来、そんなにうまくはなくとも、人前で一曲歌を歌えるくらいの度胸を身につけさせるのが目的だ、と言っていたが。Keith Jarrett以外には、スメタナの"モルダウ”とラヴェルの"ボレロ"も流したときがあったはずだ。
  • 余談に逸れたが、こちらが子どもの頃はまだしも生き残っていたように推測されるThe Beatlesの普遍性と伝説性が、たぶんいまはもう完全になくなっているのだろうなと思った、というだけの話だ。端的に言って、いま職場の中学生たちにThe Beatlesという名前を出しても、おそらく知らない生徒が多いのではないかと思う。そういうことを考えつつ『Please Please Me』の流れるなかで柔軟をしていたのだが、アルバムが終わってそのまま『Revolver』に入り、冒頭の"Taxman"を聞いたところ、これが格好良かった。ベースもずいぶんすばやいし、ちょっと電子風味が入ってぐしゃっと潰れたようなギターの音色も良いし、それらの楽器に比して歌が、音域にしても歌い方にしてもあまりハードさや熱を持たずに気だるいような雰囲気を帯びているのも良い。
  • 一時間弱柔軟した。昨日だか一昨日だかに書いた通り、左右に上体をひねる運動をくわえた。これもやはりやったほうが良い。そこからふたたびデスクに就いて今日のことを書き記し、現在時まで追いつかなかったが、五時を回ったところで切って上階に行った。台所に入って手を洗い、大根の葉を炒めるというので、焼豚とカニカマをこまかく切り、胡麻油でもってソテーした。油というものが調理などに使えるぞということを最初に発見した人間はすごい。なんでもそうだが。とりわけ、胡麻だとかなんだとかから油というものが取れるぞということに、どうしたら気づくのかわからない。というか、そもそも胡麻ってなんやねん。なぜ胡麻などというものに着目して食用にしたり油を取ったりしようと思ったのか。
  • そのほかスンドゥブをつくるのをちょっと手伝い、洗い物をして、茹でてあったほうれん草を絞って切ると、まだ六時前で米も炊けていなかったし、いったん下階に帰った。今日は八時から通話。したがってその時間にいたると音読はもうできなくなるので、それまでにいくらかなりとも声を出しておきたかったが、今日の日記も記してしまいたかった。記述はThe Beatlesの普遍性から逸れた余談の途中まで来ており、あともう書くことはそんなにないだろうということで、書き物を先にやることに。それで五時四五分から三〇分でここまで記して、現在、六時一六分に至っている。ともすれば、というか、普通に書いているとやはり忘れてしまうというか、指の動きがはやくなったり、心身が性急になったりする。打鍵と書記においてしずけさとつつましさとひろい視野を保ちたい。
  • それから「英語」を音読した。三五分間。のち、食事。食事中のことは特におぼえていない。ニュースで阪神淡路大震災から二六年という話題が流れたことだけ思い出した。コロナウイルス騒動下でもこれだけはやらなければならないということで、式典の類が多少おこなわれたようだ。炬燵テーブルに入った母親は、ニュースに合わせてひどかったねえと漏らし(おそらく道路が崩壊した様子など思い起こしていたのではないか)、映像内で黙祷がなされるのに合わせて自分も顔の前で手を合わせ、目を伏せて拝むようにしていた。その後、なんとかいう、大震災を伝えるための歌というか、震災で生徒を失った小学校(だったと思うのだが)の教師が失意のなかで、しかしおそらく希望をこめて作曲した合唱曲について報道された。たぶん普通にかなり有名なもので、父親など合わせてメロディを歌えるくらいだったのだが、こちらは全然知らなかった。この作曲者の教師はこの春で定年をむかえると言う。
  • 自室にもどると七時半頃。八時から通話なのでもうさほど猶予はない。(……)へのメールを作成した。時間が来る前に、なんとか以下のように完成。

(……)

  • 携帯のほうに来たメールには、何かホワイトボードアニメだというURLが付されていて、もはや旧時代の遺物となりつつあるガラケーではそれをひらけないので、わざわざパソコンでURLをカチカチ打ちこんでみたところ、「(……)」のサイトにあるものだった。(……)としてはたぶん、できればこちらを入信させるか、そこまで行かなくとも聖書の教えをひろめたいという頭があるのだろうが、こちらはいまのところ、新興宗教であれ伝統的な普遍宗教であれ、なんらかの既成の信仰に帰依するつもりはない。だからと言って、(……)と話したり交流を持ったりするのを嫌がったり拒否したりするほどの不都合はいまのところ特にない。
  • そうして八時過ぎから隣室で通話。(……)
  • (……)
  • (……)
  • (……)通話は零時頃終了した。それから入浴。出てからいくらかだらだらして、二時から(……)さんへの返信を綴った。兄からも誕生日祝いのメールが来ているのだが、そちらに返事を書くのはそこそこかかりそうなので、まず短く来ていた(……)さんのほうに返しておくことにしたのだ。二〇分で以下のように仕上げる。

(……)