2021/1/18, Mon.

 (……)朝の一〇時頃、空襲警報[フリーゲルアラルム]のサイレンが突然鳴り響いた。それはもはや目新しいことではなかったが、警報が響くたびに、私や残りの全員は、骨の髄まで恐怖に打ちのめされる気分になるのだった。それは、この地上の、たとえば工場のサイレンのような音ではなかった。耳を聾さんばかりの大音響が、全地域で同時に、律動的に、けいれん性の金属音にまで高まり、雷のつぶやきのように低まるのだった。それは偶然の発明ではないに違いなかった。ドイツでは何ごとも偶然ではありえないし、背景にも、目的にも、あまりにも適合していたからだ。ある悪意に満ちた音楽家が、その中に怒りと嘆きを、台風の風の音と狼の月への遠吠えを閉じこめて作ったのではないか、と私はしばしば考えた。騎士アストルフォの角笛はこう響いたのではないかと思えた。それは恐慌状態を引き起こした。爆撃を知らせているだけでなく、その音が本来持つ恐怖感のためだった。まるで地平線全体を埋め尽くす巨大な獣が、傷ついた時の嘆きの声のようだった。
 (プリーモ・レーヴィ/竹山博英訳『周期律――元素追想』(工作舎、一九九二年)、222; 「11 セリウム」)



  • あとは国際面からイスラエルコロナウイルス対策について。軍の情報機関が政策に大いに寄与しているらしい。「新型コロナウイルス国家情報・知識センター」みたいな部門が保健省管轄下につくられたというが、それを主導しているのが「N大佐」と呼ばれる四二歳の軍部のひとで、昨年の二月に部下からの報告を受けた際、コロナウイルスの危険性と世界および自国にあたえるだろう影響の大きさとを鋭敏に察知し、単身保健省に乗りこんで協力を申し出たという。それでセンターがつくられ、そこで収集されている世界の感染状況をもとに政策が決定され、イスラエルは、WHOがパンデミックを宣言した二〇二〇年三月一一日より二週間ほどはやく、外国人の入国禁止措置を取った。ロックダウンもいままでに二度おこなわれているが、その都度動きがはやいと評価されているらしい。ただ、ロックダウンの解除後にまた感染が拡大してしまうという、やはり難儀な状況にあるようだが。それでも一方でまたワクチン開発競争を分析してその確保にもはやばやとこぎ着け、一二月末からすでに接種がはじまっており、三月には一六歳以上の国民全員が二回の接種を終える予定だという。
  • 今日の天気は晴れとも曇りともあまりはっきりしないような感じで、空には薄青さが見えながらも淡い雲もかかっているが、このときには居間の南側や西側には陽のあかるさが射しこんでいて、南窓から斜めに流れこんで床の上に浮かんでいる日だまりのなかに、窓外で鳥が翼をひるがえして飛び上がっていく影が一瞬ひらめいた。椅子から立ち上がって背伸びをしながら窓を見通すと、梅の木の細枝がもう蕾をたくさん、ぽつぽつつけながら、微風にわずか、左右にやさしく揺らいでいる。
  • 風呂を洗って帰室。Notionを準備。すると一時前。今日は昨日などと比べればいくらか空気が冷たいように感じられ、脚もやや冷えていたので、先に書見をするかという心になった。それでベッド縁でゴルフボールを踏みながらハーマン・メルヴィル千石英世訳『白鯨 モービィ・ディック 下』(講談社文芸文庫、二〇〇〇年)を読む。547ページからなので、もう終盤である。いよいよそろそろ白鯨と邂逅して闘いがはじまりそうというところだが、不穏な雰囲気が満ちてきていてなかなか面白いし、記述も締まっているように感じられる。書見の際に重要なのはやはりからだをなるべく動かさないことだという基礎に立ち返った。つまり瞑想をしているときとおなじような感じで読むのが良い。書見に限らず、何かに集中したければなんでもそうであるわけだが。その後、寝転んで脹脛マッサージなどもしつつ、二時直前まで一時間読んだ。それから今日のことをここまで書き足して二時半。明日が休みなので、昨日の記述はまあそんなに急がないでも良いかな、というゆるい気分になっている。
  • (……)と(……)さんへのメールは昨日書いたので、あとは兄のメールに返信しなければならない。
  • 今日のことを上まで綴ったあとは、洗濯物のタオルを入れてきてから(天気があまり良くないので乾ききっていなかった)調身した。一時間。「橋のポーズ」というやつ、要するにブリッジの類だが、あれを久しぶりにやった。これは腰回りをほぐせるかなと思ってやってみたのだが、これが難しい。全然さまにならない。本当は背のほうまで持ち上げられると綺麗なのだと思うのだけれど、腰の付近をちょっと上げるだけで精一杯である。それで、腰回りがほぐれるかどうかもよくわからないのだが、停まっていれば力が入って温まることは確かだし、余裕があったらやるようにしようと思った。下半身の伸ばし方温め方はだいたいもう確立してきたので、次は腰や背面だろう。
  • 三時四〇分に至ったので、小さなカップヌードルを持ってきてエネルギーを補給しながら(……)さんのブログを読んだ。一月四日分。國分功一郎/熊谷晋一郎『〈責任〉の生成――中動態と当事者研究』を読んでのまとめや敷衍が以下で、わかりやすく、また面白い。「出来事を出来事として、特異的なものを特異的なものとしてそのまままとめあげることができず(物語化できず)、たえず責め苛まれるようにして生きているのはむしろASDであり、これは自閉症的主体の特徴といったほうが適切であることが当事者研究によって明らかになりつつある(この点については松本卓也も『症例でわかる精神病理学』で、ドゥルーズのいう分裂病者はむしろ自閉症者に近いというかたちで指摘していた)」という点ははじめて知って、そうだったのかと思った。あとは、「予測(カントのいう想像力)。それがまず人間のベースにある(これは時間がまず存在するというのとほとんど同義かもしれない)」というのがこちらにとっては重要そう。

まずスピノザ由来の概念であるところのコナトゥスというものがある。これを熊谷晋一郎は「恒常性の維持」とパラフレーズする。主体は基本的に「恒常性の維持」を目指している。これは精神分析の用語でいえば、快感原則ということになるだろう。緊張(刺激)をなるべく避けるという傾向。

主体は常に予測している。予測したものと到来したものとの差を予測誤差という。予測誤差は緊張をもたらす。それはコナトゥス(恒常性の維持)をおびやかすものであり、一種の傷である。到来したものが予測したものと大きく違った場合、それはおそらく精神分析的な意味での外傷となる。しかるがゆえに主体は予測したものと到来したものとの誤差を常に調整し続けることになる。調整することで予測誤差を最小にしようとする。傷を避けるようになる。

現実の出来事はそのひとつひとつが特異的であり、〈これ性〉を帯びているものであるが、定型発達者はそれらを容易にパターン化(カテゴライズ)して処理する。特異的なものを一般化し、出来事を物語化し、現実的なものを象徴的なものとして、いわば低い解像度で処理する。つまり、到来したものと予測したものの誤差を、その解像度の低さでうやむやにし、「同じ」もしくは「近似」として処理する。その処理のシステムを仮に学習とした場合、学習をもっともブーストさせるのはやはり言語ということになるだろう。言語の習得(象徴界への参入)とは、既成の共有可能なカテゴリー(伝統的な知)のインストールと同義である。この場合の定型発達者とは、精神分析でいうところの神経症的主体にひとしい。

この文脈で去勢をどのように考えるかという問題がある。妥当なものとしては、伝統的な知と引き換えに、高い解像度を失い、出来事のひとつひとつを特異的に体験することができなくなることという理解がある。くりかえしになるが、これは分裂症的主体に対する神経症的主体の特徴とほぼ同じである。しかし、出来事を出来事として、特異的なものを特異的なものとしてそのまままとめあげることができず(物語化できず)、たえず責め苛まれるようにして生きているのはむしろASDであり、これは自閉症的主体の特徴といったほうが適切であることが当事者研究によって明らかになりつつある(この点については松本卓也も『症例でわかる精神病理学』で、ドゥルーズのいう分裂病者はむしろ自閉症者に近いというかたちで指摘していた)。

分裂病的主体を去勢の適切になされていない主体であるとする前期から中期にかけてのラカンの理解にしたがってみるとき、去勢の理解とはすなわち、自閉症的主体という四つ目の主体があらわになったいま(そしてその主体が従来分裂症的主体として理解されていたものにきわめて近いことがあきらかになったいま)、分裂症的主体をどう理解するかという問題になる。図式的になってしまうことをおそれず仮説をたててみるなら、自閉症的主体と神経症的主体を両極端とするその中央に分裂症的主体を位置づけることができるだろう。解像度が高すぎるがゆえに出来事を物語化しそこねる自閉症的主体と、解像度が低すぎる(出来合いの知に全面的に依拠している)ゆえに過度に物語化してしまう神経症的主体のあいだで、刃の雨のように降りそそぐ出来事の特異性によって傷つけられることもなければ、全体主義的に容易に短絡する物語のなまぬるい一般性によって「規格化」(これは自由の対義語である)されることもなく、独自の知の履歴(真理=症状)を蓄積しつづける主体。中途半端であること。そしてみずからの症状=真理とうまくやっていくこと。出来事の特異性を生きるのでもなければ、物語の一般性を生きるのでもなく、特異的な物語(主体の真理=症状としての物語)を生きるということ。

去勢の問題のほかに享楽の問題も残っている。ひとはコナトゥスにしたがって(恒常性の維持を目的として)生きる。そしてそのために常に予測誤差を修正し、外傷を呼び込まないように学習を重ねていく。ただ、そのようなコナトゥスを裏切るものとして死の欲動があると考えることもできる。死の欲動とは主体の死にむかう傾向である。学習の集積、予測誤差の履歴こそが主体であると考えた場合、主体がみずからの死をもとめるとはつまり、それらの集積と履歴をリセットをもとめることであるといえる。神経症的主体にとってそれは伝統的な知を排除(アンイストール)するということであり、自閉症的主体のほうに向かうことを意味する。調整を重ねてきた予測/カテゴリー/パターンを大きく逸脱したもの(現実的なものとしての享楽)に触れることで、コナトゥスをおびやかしみずからに外傷を与えること。それは別の言い方をすれば、奪われた特異性=出来事を取り戻そうとする動きである。

予測(カントのいう想像力)。それがまず人間のベースにある(これは時間がまず存在するというのとほとんど同義かもしれない)。外部から到来する出来事をひとつひとつ外傷として傷だらけになりながら受け止めつつも、パターンとカテゴリーを特異的に学習していく特異的な主体が、言語を習得し、他者の世界(象徴界)に参入し、去勢される(特異的なその予測誤差の履歴——個性的な傷跡?——を失う)代わりに、すでに大枠のできあがったパターンとカテゴリーを一挙に得る(個性的な傷跡を、一様の傷跡で上書きする?)。主体はしかし同時に、コナトゥス(快感原則/生の欲動)にあらがうように、失われた特異性を求めようともする(死の欲動)。

  • 四時で切って、口をゆすいできてから音読。「英語」。一五分しかできなかったが、一五分程度であってももちろんやらないよりはやったほうが良い。そうして仕事着に着替えて、出発。父親は炬燵テーブルの天板の上に胡座で乗って本を読んでいた。たぶん藤沢周平だと思う。
  • 空気は冷たかった。もうだいぶ伸びた前髪による防護の隙間をかいくぐってくる風が、額を明確に冷やす。近所のどこかで犬が何度もくりかえし鳴いていたのだが、一応わぅーん、という感じに聞こえるその声が、細くながく甲高く、嘆きの調子そのものといった声色で、歌舞伎役者の演技のときの声をちょっと思わせた。なぜあんなにも、悲しげ、と人間だったら感じるほかはない声でくりかえし鳴いていたのか。
  • 坂道に入ると、今日は無音ではなく、鳥の声がいくつもまだ散っている。四時半である。普段はこれよりいくらか遅くて五時一〇分頃にここを通る。四時半だとまだ空にあかるさが結構残っているから、鳥たちも活動を続けているのだろうが、ここから三〇分ほどのあいだにたぶんもう塒に帰って大人しく休み、鳴くのをやめるのだろう。林の枝と梢の葉っぱが織りなす網目によってモザイク状のこまかなかけらとなった空には、西陽の赤味がまだ浮かんでいるところがあって、葉の緑と陽の朱色とがつぶつぶと接し合ってちらついている。
  • 最寄り駅に着くとちょうど電車が入線してきたところで、まだ二分ほどあったから大丈夫だとは思っていたが、それでも一応急ぐ心になり、階段通路をややせわしなく登り降りして電車に乗った。マスクをつけて着席。しかし、するといましがたちょっと急いで動いたばかりだから、息がけっこう苦しくて呼吸がおのずと大きくなる。そうしているうちに思ったのだけれど、呼吸に使う筋肉をストレッチしたり鍛えたりしたことはないなと気づいた。というか昔、つまりパニック障害に苛まれた時期には、呼吸をゆっくり深くすると自律神経が調うとかいうよく聞かれる話にもとづいて、呼吸法の類を色々調べ、なかには吐ききった状態あるいは吸いきった状態で数秒止まるのが良いとか主張しているものもあったから、とりわけ吐いたところで止まるという方式はけっこうやっていた時期もあったのだが(ヨガはたしか基本的には吐いたところで二、三秒止めるやり方を取ると聞いたような記憶がある)、いつからかそういったことはまったく気にしなくなり、瞑想をするにしてもとにかく力を入れず意思的なコントロールを働かせず能動性を殺すということだけが旨となった。しかし、筋肉を温めてやわらげるという観点から行くと、吐くにせよ吸うにせよその極の状態で静止するというのは、いまこちらがやっているストレッチで筋を伸ばした状態で停まって肉が柔らかくなるのを待つというのとだいたいおなじことであるわけで、そういう訓練もまたちょっとやってみても良いかもしれないと思った。ただ、呼吸をあまりいじりすぎると結構心身への影響が大きいというのは体感的経験的に理解しているから、そんなに熱心にやらないほうがたぶん良い。
  • (……)駅に着いて降り、ホームを行く。線路をはさんで向かいの小学校の校庭で、地から水の、白く太い帯状の流れが斜めに放射されていた。スプリンクラーというか、自動水撒き装置みたいなやつだろう。その校庭の、駅から見て正面にあたる、つまりこちらからすると一番近い辺となる横に長くひろい端のあたり(そのすぐ手前には高いフェンスもしくはネットがある)には、色々と木が立っているのだが、そのなかの一本が紅梅のようで、すでに枝に強いピンクの色をいくらか塗っていた。
  • 勤務。(……)
  • (……)
  • (……)くんが、すくなくとも中学校を卒業するまで、ことによると高校を卒業するまでは、いまの職場を辞められないな、彼の道行きに付き合っていかないといけないなという心になった。
  • (……)
  • (……)
  • (……)
  • (……)
  • (……)
  • (……)
  • 先日、結局のところ生徒と仲良くなってなついてもらうのが顧客を存続させるための最たる手段であり、一応経営方面に微量ながら貢献するための可能な方策であるというごくごく当たり前の結論に至ったわけだが、そのためには普通に考えて、生徒とより話すようにすれば良いわけである。話題は何でも良いと思う。あまりにも常軌を逸したものだったり、相手を不快にしたりしなければ、勉強のことだろうがその他のことだろうが何でも良くて、ただ言葉と表情と声と身振りと意味を交わす時間を取れば、多少なりとも人間の関係というものは結ばれる。そのようにしてできた基盤が敷かれていれば、授業もよりやりやすくなる。そういうわけで、もう帰るのを急がずに、授業後の時間は基本的に生徒をきちんと見送ったり、いくらか話したりするのに使おうかなと思った。やはり信頼が肝要だ。経営への貢献などということは、むろん大方こちらにとってはどうでも良いことだ。それよりも、生徒からの信頼をいくらかなりとも獲得し、なんらかの学びを彼らにあたえることができたなら、そちらのほうがよほどすばらしいことではないか。べつにそれを殊更頑張って目指さなくとも良いが、そうできるかできないかだったら、できたほうがどちらかと言えば良い。世間的に見てあまり立派とは言えないかもしれないが、一応それなりにものを考えながら生きている年上の人間として彼らに対し立ちあらわれたいという気持ちはある。一〇代の若人にとって、ともかくも周囲の人間にきちんと受け止めてもらい、対峙してもらったという経験は、それがあるとないとではたぶん結構変わってくると思う。つまり端的に言って、生徒たちにとってクソみたいな主体として現前したくない。
  • 一〇時過ぎで退勤。急いで駅に入って乗車。最寄り駅で降りて帰路。木の間の下り坂を行っている途中で、思考もしくは勤務時の記憶に没入していることに気づき、気づくとともに今現在の目の前の空間に意識が行って、木々や暗闇が視覚にはっきりあらわれてきて、覚めたという感じがあったのだが、しかし瞬間同時に、覚めたとは言ってもだからと言ってこの現実もしくは現在があまり現在らしくもないというか、たしかに現実であり現在であるには違いないが、あまり現在という感じもしないなあみたいな感覚もあって、それはべつにいわゆる離人感とか非現実感とかではないのだけれど、これが実在かというとそうでもないだろうみたいなところがあり、荘子じみた話になるけれど夢や記憶や思考から覚めたその先がまたべつの夢や記憶や思考であるということもありうるだろうというありがちなことや、今現在を離れた記憶や思考のほうが実在的に、リアリティを帯びて感じられることだってあるだろうというようなことを考えた。そういうことを思っただけで、それ以上だからなんだということは何もない。
  • それで夜道をゆっくりしずかに行くと、歩を進める拍子に揺れるからだの動きや、まばたきの都度に、正面奥に灯っているいくつかの電灯が、真っ白でやわらかく伸び縮みする光の針を、顔や瞳に向けて慕うように放ってきてはまた離れていく。周囲は無音である。ただ、響きはある。左方は林だが、身に触れるものは何もないのにそのなかではもしくはその上の梢あたりでは微風が流れているらしく、しずかに籠った、音ではなくて響きが確かに伝わってくるし、右方の家並みをずっと越えて下っていった先には川があるので、その水の響きも午後一〇時のクリアな暗闇のなかを渡ってくるようだ。家のそばまで来て林のほうを見上げれば、木々のならびは大方黒い壁となっているが、その前、林縁付近に立っている裸木の二つ三つは黒影を背後にその枝ぶりを幻影じみて浮かび上がらせており、そこに街灯の光が、距離をはさんでいるから減退して薄く延べられつつも、やはりフィルターをかけるようにして夜の事物を煙らせ、またこもらせている。
  • 帰宅して自室でメルヴィルを読む。昨晩眠る前、そしてこの日の昼間にもボールを踏んだので、脚の感じやからだの感覚に余裕があり、二〇分ほど読んだだけで、一一時で食事に行くことができた。食事中にかんして特に印象は残っていない。そのまま入浴すると、まずい茶がなくなったので隣の(……)さんにもらったという「(……)」の「(……)」という品を新たにあけて茶壺に入れた。用意して自室に帰ると、その後は日記を書いたりだらだらしたりメルヴィルを読んだり。そのほかにそういえば、久しぶりに詩に取り組んだ。なぜだかわからないが書きたくなったので。詩というか、行替えをはさみながら言葉とイメージをつなげるだけのことなのだが、「(……)」からはじまるやつの序盤を改稿した。一応、仮に1番としておく。前のかたちは消してしまい、その当時の日記を探らなければ提示できないが、改稿後はとりあえず以下のところまで。三七分だけ取り組んだ。

 (……)

  • それでメルヴィルを読み進めたあと、三時四五分に消灯。また遅くなってきている。