2021/1/19, Tue.

 ブルーニが話したクロム酸塩防蝕塗料と塩化アンモニウムの話は、時をさかのぼらせ、一九四六年の、厳寒の一月に私を連れ戻した。その頃、肉や石炭はまだ配給制で、誰も自動車など持たなかったが、イタリアに希望と自由があれほどあふれていたことはなかった。
 だが私は虜囚状態から戻ってきて三ヵ月しかたってなく、苦しい人生を送っていた。この目で見て、耐え忍んだことがまだ心の中で生々しく燃えていた。生者よりも死者に近く、人間であることに罪があると感じていた。なぜならアウシュヴィッツを作ったのは人間で、アウシュヴィッツが何百万人という人たちを呑みこんでしまったからだ。その中には私の多くの友人と、心にかけていた一人の女性がいた。私は話をすることで浄化されるような気がした。路上でパーティへの招待客をつかまえ、悪事の話を押しつける、コールリッジの「老水夫」になったような気分だった。私は短い血まみれの詩を書き、声に出したり、文章で、めまいのするような事々を語った。そうすることで徐々に本が生まれ出た。私は書くことで短い平安を得て、また人間になったと感じた。殉教者でも、卑劣漢でも、聖人でもなく、みなと同じで、家庭を営み、過去よりも未来を見る人間になったと思った。
 (プリーモ・レーヴィ/竹山博英訳『周期律――元素追想』(工作舎、一九九二年)、233~234; 「12 クロム」)



  • 一一時二二分の起床。一一時前には覚めて、布団のなかで自律訓練法めいてからだを平らにし、静止していた。起き上がって水場に行ってくると、瞑想。一一時二九分から四九分までちょうど二〇分。悪くはない。しかし、もうすこし長く座りたい気はする。これくらいでいいかなと思って目を開けて姿勢を解くと、思ったよりも経っていないのだ。三〇分をコンスタントに座るくらいにしたいような気はする。
  • 上階へ行き、ゴミを始末したり洗面所で髪を梳かしたり。髪の毛は二日後の木曜日にようやく切れる。前回散髪に行ったのが九月末のようなので、四か月くらい切っていなかった。うがいをして出てくると、電気代がやたら高くなっているという話があった。冬なので家中で暖房を使いまくっているから当然のことだが、こちらが今冬になって、階段下の室にあったのをかっぱらってきたヒーターも結構金を使っているのではないかと思われたので、エアコンかべつのストーブを使うことにした。エアコンのほうが安くなるのかどうなのかわからないのだが。ストーブにしても、以前使っていた小型のやつがいまは居間のこちらの席の脇に置かれてあって、食事を取るときのみ足もとを温めることがあるのだけれど、それをいま自室に持ってきたところ、定格消費電力は一二〇〇Wとなっている。で、昨日まで使っていた縦に長いタイプの遠赤外線ヒーターは、先ほど隣の兄の部屋に移してしまったのだが、それは四五〇Wと九〇〇Wとを選択できるもので、裏面の消費電力も九〇〇Wとあった。定格消費電力というのは機能を最大限発揮したときの消費電力ということらしいのだが、普通に考えれば、一二〇〇Wのほうが電気代がかかるはずではないか。だから旧来のストーブにもどしたほうがむしろ電気料金がかさんでしまうのではないか? だが、暖房効果や出力としては、あきらかにヒーターのほうが強い。ひとまず自室にいて冷たいのは主に足もとで、あとは暖房がなかろうとからだをよくほぐせばどうにでもなるし、最悪エアコンも使えるので、この小型ストーブをまた使ってみようかと思うが。ちょうどいい具合に、デスクの下にローランドの小さなギターアンプを置いてあったのだが、その上に載せれば椅子に就いた状態でうまく足先に温風が当たる位置関係になる。
  • 食事とともに新聞。金原ひとみのインタビューというかその類の記事を読んだが、特に面白い言葉はない。それから国際面。パレスチナ自治区で評議会選と議長選がおこなわれる予定と。いま、ヨルダン川西岸はファタハが、ガザ地区ハマスがそれぞれ統治している。二〇〇六年の選挙でハマスが圧勝したあと、翌〇七年にはガザ地区を実効支配したという話だったはず。現議長のマフムード・アッバスは二〇〇五年から現職にあるようで、批判が出ているとかいう。ファタハ側とハマス側が折り合うのかという問いもあるが、コロナウイルス蔓延下でもあるし、普通にイスラエルが選挙活動とか集会とかを取り締まってやらせないようにするのでは? という気もする。
  • また、西部スーダンダルフール地域で衝突、と。アラブ系の人が殺された事件をきっかけにして、アラブ系と非アラブ系で戦闘に至ったようだ。八三人が死亡と書かれてあったと思う。ダルフール紛争というのは名前しか知らないが、二〇〇三年あたりにはじまったらしい。
  • その他、アレクセイ・ナワリヌイの拘束にかんして。昨日の朝刊に帰国が報じられ、そこで、ロシアに着いたら直後に拘束される見通しとすでにあって、夕刊にはその情報通り空港での審査中に拘束されたという記事が載っていた。もともとナワリヌイはブヌなんとかみたいな、名前を忘れたが四文字の名の空港に到着する予定だったところ、直前でシェレメチェボという空港に行き先が変更されたという。このシェレメチェボ空港という名は、モスクワにいる兄の口から名前を聞いたことがあるようなおぼえがある。もともとのブヌなんとかみたいなところには支持者や記者が集まっていたのだが、そのうちの六〇人ほどが逮捕だか拘束だかされた。で、ナワリヌイも拘束されたが、裁判前手続きみたいなものが正式なステップを踏まず警察署内でおこなわれたとかで、弁護士を呼ぶのもその段にならないと許されなかったというのだけれど、そこでナワリヌイは、引きこもっている老人が恐れをなしてどうのこうのみたいな、文言をほぼ忘れてしまったがプーチンを批判する言葉を発したらしい。ナワリヌイの帰国から拘束までの様子は、独立系のメディアが終始インターネットで中継していたという。政権側もそれを弾圧せず、さしあたって一応は容認したようだ。
  • 食後、皿を洗い、風呂も洗う。蓋に洗髪剤だか何かの染みが生まれていたのでそれも擦って取っておいた。非常に天気の良い快晴なので散歩に出たいが、日記も二日前の一七日からまだ終わっていないし、歩きに出ればそれだけで書くことがかなり増えてしまうので躊躇うところがある。本当はそういう思考は良くないと思うのだけれど。歩きに出たければ出て、書くのが面倒臭ければ面倒臭いことは書かないか、短く済ませるという風にすれば良いのだけれど。そういうわけで、やはり散歩に行こうという気にいまなった。
  • 散歩に行こうという気になったのは二時過ぎの時点である。その前、部屋にもどってきてからはまずボールを踏みながらハーマン・メルヴィル千石英世訳『白鯨 モービィ・ディック 下』(講談社文芸文庫、二〇〇〇年)を読んだ。三五分読んだあとに上まで綴ってから、ちょっと柔軟をするとともに着替えて散歩に出かけた。すでに二時半だったから太陽も林のてっぺんで細長くいびつな三角を描く木々の間に見え隠れするくらいにくだってきており、家のそばの道はもう全面蔭をかけられて青くなっていた。そのなかを行けばやはり多少冷え冷えとする。この記述をしたためている現在は二一日の午後四時前なので、記憶がだいぶ薄れてしまって印象が蘇ってこないのがやはり残念ではある。散歩から帰ってきてすぐに書けば、見聞きし感じたことをもっと色々と詳細に記せたのにという思いは捨てがたい。だが仕方のないことだ。
  • すこし進んで公営住宅のあたりまで来れば日向がひろがり、まぶしさが顔と瞳に迫ってきた。たしかこの日はけっこう風が強かったようなおぼえがある。それで、(……)さんや(……)さんの宅の裏にあたる枯木の斜面が、風を受けながら、わずかに残った草や葉をすれ合わせて音を立てていた。空はあかるく、雲の気配もひとしずくも窺われず端的に晴れ渡っており、公営住宅の敷地に下りていく階段通路の手すりが、銀色のなかに空の青を映し取って青銅色になっていたくらいだ。小橋のところで沢のほうや宙空をうかがってみたが、羽虫はほとんどいなかった。陽射しはそれなりに温かくとも、空気は冷たく締まっているので、これでは虫たちも発生して遊泳する余地がないようだ。
  • 坂を上っていくとここでも風が道脇の木々を鳴らしており、左方にひらいた斜面の向こうでも、竹の、冬でもあかるい若緑が葉擦れを撒きながら左右にゆらゆら緩慢にかしいでおり、なにかパーティーで音楽に合わせて歌い踊りながらからだを揺らすひとびとの賑やかなさんざめきを思わせる。幹をはさんで風を受けている側の葉房だけが、つらなりをひるがえして葉裏の白っぽさを覗かせていた。そのままいつもどおり裏通りを西へと進む。ここは道がまっすぐ西方に向けて続いているので、歩いているあいだはずっと光を正面からまともに浴びる位置関係になって、その熱によってかなり気持ちよく快楽的な心地が起こる。先日も見留めた道脇の草場の脇、道からは一段下がったところに木造りの古い家が一軒あることに気づいたが、ひとが住んでいるのかどうかはわからない。道がゆるやかに曲がるその角にツバキだかサンザシ [註: サンザシではなくてサザンカのまちがい] だかの低い植木が一本あって紅色をつけているのだが、その濃緑の葉っぱがどこもかしこも白光を溜めて、なおかついまは空気の流れがないからそのまま揺らがずしずかに停まっている姿がすごかった。葉っぱのことごとくが宝玉と化したようとか、光を吸って凍りついたようとか、わかりやすい比喩をいくら使っても良いのだが、本当に白いかがやきがおのおのの葉にいっぱいに膨らんでおり、光に占領されたような具合で、緑色よりもその白さのほうが葉であるかのような様子だった。その先で駐車場代わりに空いた土地の表面も、石やら砂利やらよくわからないゴミみたいな草やら薄赤色やら何やらごちゃごちゃと入り混じって、大層複雑でありながらも乱脈で散文的な様相をひろげているが、陽光がその上を走りつつんでいると、それだけでテクスチャー全体が見えない根底部分で縫い合わされたかのように整い、精妙な質感を放ってくるから参る。
  • 街道を渡って北側の上り小道へ。坂から南方の木々や家並みや山の景色を見ながら思ったのだが、どうも最近、自分がいままで生まれ育ってきた空間の見慣れているはずの風景が、見慣れないもの、自分が住んだことのないべつの土地のもののように見えることが多くて、そんなに物たちの具体性特殊性を感知し感銘を受けてばかりいて大丈夫かな、また頭がおかしくなりはじめないかなとちょっと気になる。まあ人間、基本的に目の前にあるものを見てなどいないし、きちんと見ていても時空が変われば見え方も変わるし、見慣れるなどということは本当は嘘だとも思うが。寺の裏の斜面に設けられた墓地の墓石には、空の青さや、寺の屋根のやや褪せた朱色が映りこみ、また太陽を隠す木立が風に触れられて開閉弁の役割を果たすらしく、小さなあかるみが間をみじかく時々訪れては去っていた。
  • 保育園のフェンス内、つまり園舎のそばの狭い範囲に、先日までは恐竜を模したような、あれは滑り台だったのかなんなのか忘れたが、上ったりして遊べる遊具が設置されていたのだけれど、この日通るとそれがなくなっていた。なぜなくなったのかわからない。それから今度は東向きにだいたいまっすぐ、家々のあいだの裏道を進んでいく。ここもここで背後から陽射しがよく通って、背や首のあたりが気持ち良い。空が明晰なので、それに接している丘の姿もずいぶんと整って見える。もう緑色というほどの色味はなく、まだ春まで距離もあるので、なんとも言えない、緑の残骸みたいに沈んで地味な色や裸木の枝がくゆらせる煙色などを無造作につなぎ合わせた様子なのだが、それがどうも整然としたたたずまいで悪くない。そちらに目を向けながら通りがかった一軒の家先で、高年の男性が大きな音を立ててやたら痰を吐いていた。
  • このあともいつもどおり街道を東へ進み、交差部で裏にもどって川を望める下り坂の帰路を行ったのだが、とりたてて回帰してくる印象がないので省略する。帰宅後は日記。一七日を仕上げ、この日はのちの時間も合わせて一八日も仕上げた。あとこの日のことでおぼえていることもさほど多くはないと思う。飯の支度はしたはずだが書くほどの印象は残っていないし、夜半もけっこう怠けてしまった。夕刊では「日本史アップデート」で蝦夷に対する評価の変化について読んだ。従来思われていたほど「野蛮」な生活形態を取っていたわけでなく、農耕もしていたし、朝廷側の住人と生活様式にさほどの差はなく、交易もしていたと。平定されたあと蝦夷のひとびとは各地に分散移配されたらしいのだが、そこでも問題が起こったら国司、朝廷、ととりあえずはきちんと上訴していき、反乱を起こすのは最後の手段だったと。参考文献として挙げられているのは、工藤雅樹『古代蝦夷』(吉川弘文館)、鈴木拓也編『三十八年戦争と蝦夷政策の転換』(吉川弘文館)、熊谷公男編『アテルイと東北古代史』(高志書院)、『蝦夷 ―古代エミシと律令国家―』(東北歴史博物館)。
  • あとはこの翌日がWoolf会だったので、担当箇所を訳したくらい。原文と私訳を以下に掲げる。

 'It suddenly gets cold. The sun seems to give less heat,' she said, looking about her, for it was bright enough, the grass still a soft deep green, the house starred in its greenery with purple passion flowers, and rooks dropping cool cries from the high blue. But something moved, flashed, turned a silver wing in the air. It was September after all, the middle of September, and past six in the evening. So off they strolled down the garden in the usual direction, past the tennis lawn, past the pampas grass, to that break in the thick hedge, guarded by red-hot pokers like braziers of clear burning coal, between which the blue waters of the bay looked bluer than ever.


 「なんだか急に寒くなってきましたね。太陽がもう、あんまり暖かくないみたい」 あたりを見回しながら彼女はそう言った。たしかに大気は明るさを十分に残し、芝生もいまだやわらかな深緑色を地に広げ、家屋はその緑のなかでトケイソウの紫を散りばめられて、青空の高みからはミヤマガラスが物静かな声を落としてくる。だが、空中では何かが活動し、きらめき、銀色の翼をひるがえしていた。やはりもう九月、しかもそのなかばだったし、夕方の六時を回ってもいたのだ。そうして二人はその場を離れ、いつもの方角に向けて庭をぶらぶら歩きはじめた。テニスコートを通り過ぎ、パンパスグラスの茂みも過ぎて、厚く生い茂った垣根が途切れたところに向かっていく。そこは鮮やかに燃え立つ炭の火鉢を並べたごとく、真っ赤なトリトマの群れに守られており、それを通して望む湾の青い水は、より一層青さを湛えて映るのだった。

  • 内容としても文のかたちや表現としても難解な箇所ではないと思うのだけれど、一時間半かかった。ごく普通の文でも、訳すとなると音調とかもろもろ感じ分けてよりよい手触りを探らないといけないから、うまい言葉を招き寄せるのに時間がかかる。"The sun seems to give less heat"なんていう言い方も、日本語にうつすとなると意外と困るものだ。「芝生もいまだやわらかな深緑色を地に広げ」の「地に広げ」はちょっとした意訳。ここは"the grass still a soft deep green"で、前にwasが一度出てきているのでそのくりかえしを省略しているわけで、動詞としてはbe動詞であり、だから「芝生もまだやわらかで深い緑色だった」がもっとも直訳調なのだが、そのあとで家がその緑色のなかにあると言われているので、まあなんか芝生もしくは下草みたいなものが九月の夕刻ではあるもののまだ陽光を受けてはっきりとした色味を湛えながら地面を覆いあたりにひろがっていて、そういう視像のなかに家屋があるわけなのだろうとイメージし、「深緑色を地に広げ」という訳にした。その次の、"But something moved, flashed, turned a silver wing in the air."は、突然やや詩的というか、曖昧で、物理的事実とは思えない描写になっているのだけれど、前から逆接でつながれていることを考えるに、まだ陽射しが残っていて空気はあかるいけれど、それでもやはり日が暮れていってだんだんと暗くなり冷えていくような、大気のなかにはそういう変容の気配や雰囲気が感じられるということを比喩的に言ったものだと思う。岩波文庫もそのように取っている。ただそちらでは、「何かが動いたような、何かがきらめき、銀色の翼を空中でひるがえしたような気配があった」と、「気配」を明言して比喩のニュアンスを強めているが、こちらは一応、動詞が尋常の過去形で並べられていることを尊重するかと思って、「だが、空中では何かが活動し、きらめき、銀色の翼をひるがえしていた」という断定の言い方にした。あとそこそこ頑張ったというか、多少工夫をはさんだところとしては、最後のトリトマの描写くらい。「そこは鮮やかに燃え立つ炭の火鉢を並べたごとく、真っ赤なトリトマの群れに守られており」の部分。原文は"guarded by red-hot pokers like braziers of clear burning coal"なので、そのまま行くなら、あかるくはっきりと燃える炭を収めた火鉢のようなトリトマに守られて、という感じなのだけれど、ここもこの言葉から想像される風景をイメージし、なんか垣根の切れ目の付近を赤くて太いトリトマ(画像検索すると、巨大に成長しすぎたケイトウみたいな花が出てくる)が何本も立って埋めているのだろうと思い、とすると火鉢をいくつも並べたみたいな光景だろうというわけで、じゃあ並べておくか、と上記の言い方にした。あとはなんとなく「群れ」も足して、多数の感じを強めておいた。ところでトリトマの原語にあたるred-hot pokerというのは真っ赤に燃え上がった火掻き棒という意味にもなるわけで、炭と類語である。もしかしたらそれで火鉢の比喩が出てきたのかもしれない。また、この語は同時に、卑語では「ビンビンに勃起したペニス」を言うらしい。