2021/1/21, Thu.

 (……)たまたまその翌日、運命が私にまた違った種類の、比類のない贈り物を用意していた。若い、生身の女性との出会いだった。外套を通しても、寄りそう体のぬくもりが感じられた。彼女は通りに漂う湿った霧に包まれても快活で、まだ瓦礫が両脇に残る道を歩いていても、辛抱強く、賢く、自信に満ちていた。私たちは数時間のうちに、一時の出会いではなく、一生、お互いを分かちあえることが分かり、事実、そうなったのだった。数時間のうちに、私は自分が新しくなり、新しい力に満ち、体は洗われ、長い病から癒え、やっと人生に喜びと活力を抱きながら入っていけると感じた。私のまわりの世界も同じように不意に癒え、私とともに地獄に降りて戻ってこなかった女性の名と顔ははらい清められた。本を書くことも違った冒険になった。もはや病み上がりの患者がたどる苦痛な道のりでも、他人に同情や思いやりを乞うことでもなく、明晰に構成する行為になり、しかもひとりぼっちの営みではなくなった。それは化学者の作業に似てきた。重量を計り、分割し、計測し、確実な検査を基に判断し、なぜという疑問に答えるよう努める化学者の仕事に。私は生き残りが語る時に感ずるほっとするような解放感以外に、書くことに、強烈で、新しい、複雑な喜びを覚えるようになった。それは学生時代に、微分という厳粛な秩序の中に分け入る時に感じたのと同じ喜びだった。正しい言葉を探し、見つけること、あるいは創造すること、つまり、短かくて、強力な、つり合いの取れた言葉を探すことは、胸のおどるような体験だった。それは思い出の中から事物を取り出し、それを最大限に厳密に、少しの邪魔物もなく描くことだった。逆説的なのだが、私の恐ろしい記憶の荷物は、富に、種子になった。私は書くことで、植物のように成長していると感じていた。
 (プリーモ・レーヴィ/竹山博英訳『周期律――元素追想』(工作舎、一九九二年)、237~238; 「12 クロム」)



  • 一〇時に起床することに成功。今日は正午に美容室を予約していたので、遅れるわけにはいかなかったのだ。天気はまたしても晴天。一〇時五分から二一分まで瞑想した。昨晩床についたのが四時ちょうどで、滞在としては六時間なのでやはりいくらか眠いらしく、瞑目の内の意識はいつもよりあまりはっきりしない様子だった。上階へ行くと父親は新聞を読んでいる。母親は一〇時から仕事と聞いていてすでに不在だったが、今日は会議だけだったらしく、こちらが外出からもどった昼過ぎには帰宅していた。この日はうがいをするのを忘れた。ハムがなかったので冷凍の、簡便に使える業務用の豚肉のこま切れと合わせて卵を焼き、丼の米に乗せて食う。新聞は、炬燵テーブルの天板上に移った父親が白い陽射しを浴びながら読んでいたので、このときは読まなかった。それでなんとなく短歌を考え、「故郷とは罪の記憶と性の色 都会の空は今日も儚い」という一首をつくった。「故郷とは罪の記憶と性の色」はすぐにできた。最初は、「罪と呪いと性の色」にしようとしていたが。下の句の「都会の空は」もすぐに出てきたが、これはまあたぶん、封建的で閉塞的な田舎から匿名的な解放感と孤独の幸不幸にあふれた都市へと出てきた若者、というありがちなイメージがあったのだろう。あったというか、上の句がまとまった時点でそういう肖像=物語が出てきたのだろう。「都会の空は」以降にちょっとかかった。「今日も儚い」もありがちだし、感傷に寄ってもいるが、まあ良いかな、と。先のイメージにもとづいて、自分のことをまったく知らない、という種類の内容にするか、あとは中村佳穂 "忘れっぽい天使"のなかにある「街の上に正論が渦を巻いてる」というフレーズを思い出して、「正論」という語を入れたいなという気もしたのだが、「都会の空は今日も~~」という締め方がなんとなく一番はまるような気がしたので、あとは最後の四音だけが問題となった。色々考えはしたのだけれど、「~~ない」が音の流れとして一番落ち着くような気がして、わかりやすくて面白味はないが、儚い、でいいやと。この場合は、「はかない」にひらくとあまりピンとこなかったので、漢字表記にした。平仮名の「は」が面倒臭いのは、入れるところによっては「わ」と読み違える可能性が生まれてくるというか、読み違えまでは行かないとしても、「わ」の音が同時に想起されて一瞬道を乱す場合があるという点だ。
  • 風呂を洗って帰室。居間に上がってジャージに着替えるときに南窓の向こうをちょっとながめたのだが、陽射しは満ち満ちていて近所の瓦屋根も白々と濡れていたものの、風もけっこう流れている様子で、(……)さんの屋根の上に取りつけられた鮎の幟が、左右に身を回しひねりながら水平に生き生きと泳いでいたのだ。室に帰ると一一時頃だった。Notionを用意し、出かける前に足裏をほぐしておきたかったので書見。飯吉光夫編・訳『パウル・ツェラン詩文集』(白水社、二〇一二年)。詩だろうが小説だろうが思想書だろうが新聞だろうがそれ以外の本だろうが、どれも言語であることには変わりないのだから、結局は身とその内をしずかに落ち着かせてじっくりと対峙し、言葉と文のひとつひとつに視線をつかの間宿らせて、そこで発生するものを待ち、招き、拾う、というだけのことだ。そして拾ったもののうちで自分に明確なかたちを成して見えたものを記せば良い。言葉に限らず、音楽であれ風景であれ、自分自身であれ、人間関係であれ、全部そうだ。結局はすべて世界であることに変わりはない。意識が明晰になると、自己忘却的に対象に没入することも、自分自身のほうに退却して拘泥することもすくなくなり、常にあちらとこちらのあいだの中間地帯に身を置いて周囲からそこに流れてくるものを(もしくはその空間の内から発生してくるものを)ただキャッチするだけ、というような意識及び感覚のあり方になるような気がする。ヴィパッサナー瞑想やマインドフルネス方面の技法が目指している現在時への恒常的集中、いわゆるいま・ここを絶えず観察しつづけること、というのはそういう感じなのではないか。仏教が言う不即不離というのもたぶんそういう方向性のあり方なのではないか。
  • 最近では外を歩いて風景を見たりするときも、見た風景を言語化しようとすることをやめようという気持ちのほうにやや傾いている。やめよう、といっても生きている限り勝手に言語は湧いてくるのでやめようはないわけだけれど、以前のように、見聞きしたものをなるべくその場で十分に言語化しておこうという意識はもうなくなったし、能動的にそういう思考操作をすることをやめようということだ。それよりも、見聞きしているその感覚のほうに意識をより差し向けるようになってきているつもり。というか、能動的に向かっていくのではなくて、起こるものを待ち受け、自然に来るものを自然に受け取る、というような感じ。
  • 一一時四五分頃で書見を切り、服を着替えて出発。正午なので道には陽射しがまだまだ濃く、のろのろと殊更にゆっくり歩を踏んで温みを身に吸収する。林中を通る細い坂を上っていった。出る前にすこしだけ開脚して筋を伸ばしたが、脚が思いのほかに軽く、上り坂でもスムーズにひらいてからだを送っていく。ただあまりはやく行くと鼓動が高くなって、美容室でマスクをつけて仰向けになって洗髪するときに苦しいだろうと思われたので、急がずゆっくり上っていった。上ったところの脇で、茶髪の若い男性と中年以上の男性が向かい合ってカップ麺を食っていたが、たぶんあれは(……)さんではないか。そこは(……)の持っている小さなスペースのはずだし。若者のほうが息子なのかどうかはわからない。普通に息子ではなくて雇っている人かもしれない。(……)家の、おそらく長男に当たる人はたしかこちらのひとつ下で、小学生のときにこちらはそろばん塾に通っていたのだけれど、そこで一緒だったはずだ。当時はそれなりに仲良くする時間があったはずだが、しかしもはやほとんど何もおぼえていない。
  • そろばん塾にはまた(……)という、これも一学年下の男子が通っていたのだが、あるときに、おそらく塾が終わったあとで道が薄暗かった気がするのだけれど、塾がひらかれていた家屋の前で彼と喧嘩だかふざけ合いだかになり、こちらが振り回した自転車のチェーンがあちらの側頭部に勢いよく当たり、出血させてしまったという出来事があった。普通にかなり痛かったと思う。それで非常に臆病でおとなしい少年だったこちらは、自分が他者に対して暴力をふるって痛苦を与え、血を流すような怪我をさせてしまったという事実に恐れおののき、強い罪悪感をおぼえて泣き出さんばかりに謝った記憶がある。もちろんそれまでに子ども同士で多少の喧嘩をしたり暴力をふるいあったりとかは何度もしていたし(ただしこちらは気が弱くからだも強くなかったから、だいたいいつも負ける側というか、主に暴力をふるわれる側だったと思うし、小学校三年生か四年生のときには、いじめまでは行かないけれど、(……)という同級生に頻繁に肘打ちをされたりすることが辛くてちょっと問題になったことがあった)、小学校五、六年あたりにかけては人を殴ったり蹴ったりは多少やっていた記憶があるのだが、血が出るほどの傷と怪我を相手に負わせたというのはたぶんこのときがはじめてだったと思う。それでかなりビビったのでいまだにおぼえているのだろう。行き過ぎた、一線を越えた、という感覚がおそらくあったように思う。いまから考えるとそこまで大したことではないし、相手も許してくれたのだけれど、ああいう、致命的ではない程度の痛みと傷と暴力の交換経験というのは、やはり抑止力としてある程度は必要だなという気はする。べつに必要ではないのかもしれないが、ただ、学びにはなったなとは思う。そういう経験があったからというわけではないが、その後こちらは、中学二年生あたりを最後に、たぶん一度も他人に明確な物理的暴力をふるっていないと思う。つまり、他者を殴ったり蹴ったりということは、中学校三年間を通してたぶん二、三回しかやらなかったと思うし、そのあとはおそらく一度もやっていない。忘れているかもしれないが。また、首をつかむということは、昨年父親と悶着を起こしたときにあった。
  • 美容室に到着。客はこちらだけ。コロナウイルス対策で受け入れる客をすくなくしているようだ。たぶん、一時間にひとりくらいのペースにしているのではないか。消毒をしてから洗髪してもらい、鏡の前へ。前回切ったときは(……)夫妻のフォトウェディング直前で、せっかくそういう席に行くのにあまり短くそろえて書生みたいな見た目にしても、ということで、側頭部を刈って頭頂のほうはやや残し、ワックスでうまく流すみたいなちょっと洒落っ気のある髪型にしたのだけれど、やっぱりショートが楽でいいなと思いましたというわけで、今回は普通に短く書生にしてもらった。とはいえ、なんかもうすこし格好良い髪型を探りたいなという色気は、以前よりは感じないでもない。髪を染めようとはまだ思わないが。
  • この店でもコロナウイルス対策の給付金を申請して、エアコンを替えたり換気のできる設備を取りつけたりしたというのだが、その金はまだ来ていないらしい。申請するにしても書類を一八個も書かなければならなかったらしく、また、不正給付が出てきたからだろう、次第に審査が厳しくなって、登記証明が必要だとか写真が必要だとか手続きが面倒臭くなってきて、煩雑で大変なので途中でやめてしまったという同業者もいるという話だった。そうなると食事系の店の人とか、マジでいまは存亡の危機で未来が見えず気が滅入っている人が多いだろうに、そのような煩瑣な事務手続きを頑張ってやろうという気力もなかなか湧かないのではないかと思った。役所のほうも役所のほうで、人手が足りないわけだろう、アルバイトの人員なのか、臨時職員的な人が多くなっているといい、質問をしてもわからなくて少々お待ち下さいねという感じになることが多かったと。あっちはあっちで大変なのがわかるから、あんまり強くも言えないよねえ、と苦笑していた。
  • そのほかに印象深くおぼえている話は特にいま浮かび上がってこない。もうすこし何か話したはずだが。ちょうど一時間くらいで散髪を終えた。会計をして退店をしようという段で、次の客である老婆がやってきたので、それを機に雑談を切り上げて、礼を言って退店。小さいカレンダーをいただいた。ビニール袋に入ったそれを右手に提げながら、天気も良いし歩く時間をつくろうというわけで、遠回りして帰ることに。街道の北側を、温かな陽に照らされつつまれながらゆるゆると行く。最寄り駅前のフェンスまで来ると、いつもだったらこの天気この時刻ならその向こうの枯れ茎の茂みのなかでスズメたちがガサガサやっているのだけれど、今日はその音がまったくなく、道を渡って向かいにあるススキの茂みや、そのそばに立っている裸木のほうから鳴き声が頻りに、無数に降りそそいでいた。なんだろう、あちらに根城をうつしたのか? どういう原理で場所が変わっているのかまったくわからない。
  • もうすこし夕方に近くなって太陽が西に寄ってくるとだいたい街道の北側のほうに日向が多くなるのだけれど、このときはまだ南側がいっぱいに光を浴びていたのでそちらに渡った。するとそこは、眼下が斜面になっていて、片側から下っていく一面にはススキの群れなどが見られ、反対側の上部縁には家が宙に接し、そちらの下方は林がひろがっていて、ここは北側背後にあたる線路の向こうから水路が続いているはずなので、谷間にはその水の道が通っていると思うのだが、その姿や水の流れは草や斜面に隠れて見えない。こうして見るとかなりなんというか、単純に我が町ってやはり自然が豊かだというか、もっと都心に近いほうだとこのくらいの草地のひろがりも見る機会はないのだろうなと思う。最近はますます、そういう身の回りの自然の様態が、以前よりもはっきりと、明晰に目に映るようになってきている。
  • 街道をそのまま西へ。表通りを歩くと車の音が絶えず横を過ぎていき、それはやはりけっこう鬱陶しい。一律に続き、ほかの音が塗りつぶされてしまうので。しずかなほうがやはり歩いていると落ち着くし面白いところはある。途中、右方の、道路と段を越えた先の木から鳥が一羽飛び立って、青空のなかを、鳴き声を落としつつ、上下に不規則に波打つ軌跡を描きながら、街道の上を渡り、左側の家並みの上も越えて、人間の目には誰であれそこに道があるとは認識できないであろう道行きをたどって、裏路地の向こうにある木立へと移っていった。鳥というのは右のあそこから左のあそこまで、三秒か五秒くらいで移動できるのだなあと思った。
  • 今日はなぜかわからないが、鳥が、鳴き声だけでなくその姿を木の表に見せていることが多い道だった。いつもは往路からの折返しに当たる地点から逆方向に裏路地に入って、陽を背にし、刈られたばかりで髪の防護のなくなった首もとに快い熱をあたえられながら今度は東に向かうのだが、その途中でも、竹林にまつわるようにして、たぶんヒヨドリだと思うのだけれど結構まるまるとした体躯の鳥が二、三匹、若緑の表面に寄り添っていたり、何か止まれるものの上に止まって鳴いたりしていた。あと、おなじところで聞き覚えのある特徴的な鳥声を聞いたのだけれど、あれがなんの鳥なのか固有種族名がわからない。坂道を下っていくと十字路の角に自販機がある。何かコーラでも飲みたいなという気分が差していたのだが、見ればコーラはなかったので、代わりにカルピスでも飲むかと思って、ストロベリー&ヨーグルトみたいな味のカルピスのボトルを一三〇円で買った。そうして帰宅。
  • ほか、この日のことはよくおぼえていない。夕刊でジョー・バイデンの就任演説の要旨を読んだことくらいか。演説会場にまつわる歴史=記憶としてキング牧師に言及したり、一〇八年前と言っていたか、ここは選挙権をもとめる女性たちが声を上げた場所だと述べていた。自分たちがどのような道をたどってどのような地点にいまいるのかを明確化し、過去のなかから継承していくべきものを継承していくという決意をはっきりと表明しているという意味で、悪くなく良心的だったように思う。そういう姿勢こそが本当は保守という言葉の、基本的な意味ではないのか? そのほか、「何度でも、向井豊昭と『骨踊り』を~岡和田晃×東條慎生×山城むつみ」: 岡和田晃「1:「脱殻(カイセイエ)」収録の意義、モチーフの連続と反復」(2020/9/2)(https://shimirubon.jp/columns/1701637(https://shimirubon.jp/columns/1701637))、Justin McCurry, "Doe your bit: Japan invents bags deer can eat after

plastic-related deaths"(2020/10/21)(https://www.theguardian.com/environment/2020/oct/21/japan-bags-nara-deer-eat-plastic-deaths(https://www.theguardian.com/environment/2020/oct/21/japan-bags-nara-deer-eat-plastic-deaths))、Justin McCurry, "Hospitals in Japan close to collapse as serious Covid cases soar"(2021/1/19, Tue.)(https://www.theguardian.com/world/2021/jan/19/hospitals-japan-close-collapse-serious-covid-cases-soar(https://www.theguardian.com/world/2021/jan/19/hospitals-japan-close-collapse-serious-covid-cases-soar))といったウェブ記事を読んだ。あとはツェラン。そのくらいだろう。

Hospitals in Covid-hit regions of Japan are on the brink of collapse, medical experts have warned, as the country battles a third wave of infections that has caused record numbers of people to fall seriously ill.

Japan reported more than 4,900 coronavirus infections on Monday, with serious cases rising to a record high of 973, local media reported.

Although Japan has avoided the huge caseloads and death tolls seen in some other countries, infections have doubled over the past six weeks to about 338,000, according to the public broadcaster NHK, with 4,623 deaths.

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Suga, whose handling of the pandemic has caused his approval rating to plummet, declared a month-long state of emergency in the greater Tokyo area on 7 January that was quickly expanded to cover half the country’s 126 million people.

But his own advisers have warned the measures, which include asking bars and restaurants to close early and people to avoid non-essential outings, are unlikely to have much effect.

Shigeru Omi, the head of the government’s subcommittee on the pandemic, said they would need to be in place for longer than a month, while the president of the Japan Medical Association, Toshio Nakagawa, said Suga should consider bringing the entire country under a state of emergency.

Nakagawa was also dismissive of government plans to offer subsidies to hospitals that free up more beds for Covid patients. “There aren’t enough doctors or nurses,” he said. “Even if hospitals are told to increase the number of beds, what can’t be done, can’t be done. If the number of infection cases keeps rising, the healthcare system could be wiped out.”

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With the number of deaths projected to exceed 5,000 by the end of the month, some hospitals are reporting a shortage of ventilators and other equipment used to treat patients with severe symptoms.

“They are waiting for the end of their lives without ventilators after available drugs failed to turn around their condition,” Hideaki Oka, a professor of infectious disease at the Saitama Medical Centre near Tokyo, told the Asahi Shimbun newspaper.

“As far as seriously ill Covid-19 patients are concerned, hospitals have already lost the ability to treat them all,” he said. “Fatalities could rise sharply in the days ahead.”

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More than 30,000 people with no or mild Covid symptoms have been asked to recuperate at home as more hospitals near capacity. As of last weekend, 14,806 people were being treated in hospital, while a further 7,781 were staying at specially designated hotels and other accommodations, Kyodo said.