彼は勝ち誇った発言があまり好きではない。だれであろうと人が屈辱をあじわっているのには耐えられないので、どこかで勝利が見えてくると、〈ほかのところ〉へ行きたく鳴る(彼が神だったら、たえず勝利を覆していることだろう――いや、そもそも神がおこなっていることではないか)。きわめて正当な勝利でも、発言という点になると、悪しき言語価値、つまり〈傲慢さ〉となってしまう。この言葉はバタイユのなかで見つけたものだ。彼はどこかで学問の傲慢さについて語っていた。この言葉は今や、あらゆる勝ち誇った言述へと広げられたのである。したがって、わたしは三つの傲慢さに耐えている。「学問」の傲慢さ、〈ドクサ〉の傲慢さ、「闘士」の傲慢さである。
〈ドクサ〉(この語はしばしば本書に登場することになる)とは、「世論」であり、「多数の人の精神」であり、「プチブルジョワ的なコンセンサス」であり、「自然の声」であり、「先入観の暴力」である。体裁や世論や慣行に合わせた話しかたは、どれも〈ドクソロジー〉(ライプニッツの用語だ)と呼ぶことができる。
彼は言葉におじけづいたことがあるのをときおり後悔した。すると、ある人が彼に言った。でも、言葉がなければ、あなたは書くことができなかったのですから、と。傲慢さはまわってゆく。テクストをあじわう会食者たちのあいだを強い酒がまわってゆくように。間テクストとは、細やかにえらばれて、ひそかに愛され、自由で、慎ましく、寛大であるテクストだけが含まれているのではない。陳腐で、勝ち誇ったテクストも含まれている。あなた自身が、べつのテクストにとっては傲慢なテクストになるかもしれないのだ。
「支配的なイデオロギー」という言いかたをするのは、あまり有益なことではない。冗語法だからだ。イデオロギーとは、支配するものとしての観念にほかならないのである(『テクストの快楽』より)。だがわたしとしては、個人的な思いによって言葉をつよめて、〈傲慢なイデオロギー〉と言ってもいいだろう。
(石川美子訳『ロラン・バルトによるロラン・バルト』(みすず書房、二〇一八年)、54~55; 「傲慢さ(l'arrogance)」)
- 一度、八時よりも前に、はやく覚めた記憶がある。それだと三時間くらいしか眠れていないわけで、当然起きる手はない。それからだらだらと眠りつづけて一一時半。とはいえ、滞在としては七時間半ほどだ。(……)と(……)と自宅で共同生活をしている夢を見た。居間にいて、(……)が台所で何か飯をつくっていてくれたのだと思ったが、(……)が頭が痛いと言い出して、コロナウイルスではないかという可能性が当然持ち上がる。もしくは、(……)が頭痛を言い出したのが先で、その時点ではまだ(……)は姿をあらわしていなかったかもしれない。どちらでも良いが、いずれにしても(……)は居間を離れて休みに行った。(……)がいないあいだに、もし(……)がコロナウイルスにかかっていたら、われわれも終わりだなと、たぶん苦笑気味に(……)と話し合ったおぼえがある。休みに行ったと思っていた(……)は、実は休んでおらず、階段下の室で何か作業をしているようだった。というのは、居間から見下ろして、そこに明かりがついていたからだ。
- ほか、この夢よりも前だったと思うのだが、杭のようなかたちをした太くて長いピアスを左耳につけている夢があった。当然、耳にあけられた穴はかなり大きく、ピアスそのものも耳たぶの前後に長く突き出るような感じだった。夢のなかの自分は、それをわりと気に入っていたようだ。ただ、どこかから帰ってきて、自宅の向かい、現実にもある木造家屋の脇でそれを外す場面もあったはず。なぜそこで外したのかはわからない。家族に見られたくなかったということなのか。たぶんそれで家に入って、共同生活の夢に移行したという流れではなかったか。
- 水場に行き、顔を洗うとともにトイレで濃い黄色に染まった尿を放出して、もどると瞑想。最近また夜更しが深くなっているから、ふたたび着実に消灯をはやめていかねばとの心を新たにする。一八分座って正午まで来ると上階へ。カレーうどんだと言う。どこかに行っていた父親がちょうど帰宅。ジャージに着替えると、洗面所でうがいをしずかに、くり返し丹念におこなった。余談なのだけれど、「くり返し」という語は悩ましい語で、漢字とひらがなの表記上のバランスが難しい。「くりかえし」とすべてひらがなにしてしまうと、どうも字の範囲が長すぎるように感じられ、その間延びした占領感がやや苛立たしい。「繰」を漢字にするかどうかも、どちらが良いのかまるでわからない。とりあえずいまは上記のかたちにしているが。日記の場合は、べつに表記をすべて統一しなくても良いので、そのとき、当該の語を打ちこんだときの気分で変えても良いわけだが。
- カレーうどんを食べながら新聞。日曜版の薄いほうのやつの一面は、最近はニッポン絵解きなんとかみたいな名前のシリーズになっているのだけれど、今日はたしか古賀なんとかみたいな、「古」という字がついた名前の、シュルレアリスム方面の画家の作品が取り上げられていた。美術方面はまるで知らないので、新たな画家や作品を色々と知ることができそうで、ありがたい連載だ。それにも興味は向いたがひとまず本版のほうをめくって、書評面を見る。入り口では、たしか明日読売文学賞が発表されるとかで、選考委員の辻原登が小文を寄せていた。その横では沼野充義がアイザック・バシェヴィス・シンガーの作品を何か紹介していた。書評面入り口の右隣のページはエリックなんとかみたいな歴史家のインタビューで、米連邦議会議事堂乱入事件について話しているようだったのでそれも読みたいが、とりあえず書評欄に入ると、藤原辰史の、たしか『縁食論』とかいう名前の本が取り上げられていた。たしか藤原辰史という名前だと思ったのだが、『分解の哲学』のひと。左側には、スヴェトラーナ・アレクシエーヴィチ『戦争は女の顔をしていない』の漫画版の紹介。作画担当の小梅けいとというひとはたしかもともとエロ漫画を描いていたはずだが、よく急にこんなシリアスな仕事に行ったなと思う。あとそうだ、『狼と香辛料』の漫画も描いていたのだ。漫画についてなどちっともわからんが、絵は相当にうまいのだと思うし、『戦争は女の顔をしていない』も以前ネット上でちょっと絵を見た限りでは、読むべき漫画のように思っている。原作のほうもむろん読みたい。ノーベル文学賞が、文学賞としてこういう仕事に、つまりある種ジャーナリスト的と言って良いのかわからないが、証言を記録するという仕事に賞をあたえ、そういう試みと営みに注目を集めさせてその産物を普及させたということは、二〇一五年当時には全然そんなことを考えなかったのだけれど、相当に価値のあることだったのではないか。
- あとは一面から二面にかけての猪木武徳の寄稿を読んだ。政治にしても経済にしても長期的に見てその活力を担保するのは言論の自由であり、節度を持ちながら自由にひらかれた空間における様々な発想のやりとりがなければ、社会は全体として弱体化していくばかりだ、みたいな話。その点、昨今の日本は萎縮の雰囲気が強く、言論を主要な仕事にしているはずの政治家が、みずからの理想や信念をはっきりと語らなくなったことにもそれはあらわれているとのこと。記事中、Harper's Magazine上で、Noam Chomskyやサルマン・ラシュディやフランシス・フクヤマなどが、言論の自由を擁護するような旨の文書を発表したと触れられており、米国でも萎縮や不寛容の状況は同様に高まっているようだ。昨年来の情勢を見ていればあきらかなことではあるが。この文書というのはこれ(https://harpers.org/a-letter-on-justice-and-open-debate/(https://harpers.org/a-letter-on-justice-and-open-debate/))のことだろう。日付は二〇二〇年七月七日。一五〇人ほどが署名をしているらしい。名前一覧を見てみると、Anne Applebaum、Margaret Atwood、John Banville、Eva Hoffman、Michael Ignatieff、Wynton Marsalis、Steven Pinker、J.K. Rowling、Michael Walzer、Cornel Westあたりが明確に同定できる名前か。ほか、Mark Lillaというひとと、Yascha Mounkというひとは、ヤン=ヴェルナー・ミュラー『ポピュリズムとは何か』のなかで名前を見かけたようなおぼえがある。Anne Applebaumは昔、The Washington Postで、原爆投下にかんする五つの神話、みたいな文章を寄稿していたような記憶があるのだが、検索しても出てこない。べつのひとだったか? あと、Primo Leviを英訳したひとが似た名前だったような気もする。これは、Ann Goldsteinというひとだった。Anne ApplebaumはたしかにThe Washington Postに長く寄稿をしているようなのだが、Evernoteを見返したところ、五つの神話の記事は、Barry Blechman and Alex Bollfrass, "5 myths about getting rid of the bomb"(https://www.washingtonpost.com/wp-dyn/content/article/2010/06/25/AR2010062502157.html(https://www.washingtonpost.com/wp-dyn/content/article/2010/06/25/AR2010062502157.html))というやつだった。二〇一三年七月に読んでいる。Anne Applebaumの記事としては、"Europe has survived terrorist attacks before"(https://www.washingtonpost.com/opinions/anne-applebaum-europe-has-survived-terrorist-attacks-before/2015/01/23/63354328-a2ff-11e4-b146-577832eafcb4_story.html(https://www.washingtonpost.com/opinions/anne-applebaum-europe-has-survived-terrorist-attacks-before/2015/01/23/63354328-a2ff-11e4-b146-577832eafcb4_story.html))というのを二〇一五年二月に読んでいる。広島・長崎・原爆・核兵器あたりの記事をAnne Applebaumの名前で読んだような記憶があったのだけれど、どうも記憶違いだったらしい。Ward Wilsonが名前を出していたのでは? とも思ったが、そうでもないようだ。
- 音楽界隈からは、名をつらねているのはたぶんWynton Marsalisだけだろうか? こういうメンツと一緒に署名をできるというのは、Wynton Marsalisってやはりめちゃくちゃ意識が高いほうで、インテリなんだろうなと思う。
- (……)くんが二九日で一歳をむかえたので、祝いの動画が送られてきていたのを見せてもらった。ひとつは、色々な職業の絵と名がかかれたたくさんのカードのなかからひとつを選ぶという趣向のもので、(……)くんは、teacherのものをつかんでいたと思う。もうひとつは、米だか何かを背負って歩かせるというものだが、一歳児にはまだまだ重かったらしく、(……)くんは背中から見事にずてんと倒れてしまい、大泣きしていた。ただ、荷物がなければ彼はもう容易に歩き回っていて、一歳児にしては足腰はかなり強い。
- 食後はいつもどおり皿洗いと風呂洗い。外は風がよく流れているようで、浴室内にも清涼な空気がすこし入りこんで肌に触れてくるし、ほそくわずかにひらいた窓の隙間、網戸の向こうでは、隣の土地に立った旗がばたばた揺れるとともに、快晴の、透明でいたいけなような光によってガードレールに投影されたその黒い分身もふるふる揺らいでいるし、その先、林の縁を構成しているあかるい緑の葉の帯も、焚き火の伸縮のように、あるいは虫の足のように、柔軟かつ緩慢にうごめいている。
- 緑茶を持って帰室。飲みながらNotionを用意し、今日のことをここまで記録。Harper's MagazineからAnne Applebaumについて調べるのに時間を使ってしまった。彼女がThe Washington Postに寄稿している記事はどれもこちらの興味の範疇にあるのだけれど、The Washington Postもいまは金を払って登録しないと読めないようになっているようで、しかしこれ以上メディアに金を払う余裕はない。New York Timesのほうだって、登録しているくせに全然読めていないし。それにしてもいまだに無料ですべてを読めるGuardianはとてもすごい。
- ここ最近、音読をあまりできていないので、今日はなるべくはやいうちにやりたい。
- しかしまずは書見。ポール・ド・マン/宮﨑裕助・木内久美子訳『盲目と洞察 現代批評の修辞学における試論』(月曜社、二〇一二年/叢書・エクリチュールの冒険)。読みつつ、ゴルフボールを踏んで足の裏を和らげる。足裏を刺激するとマジでからだは楽になる。ド・マンを読みながら思ったのだが、というか昨日か一昨日の時点で思っていたのだが、彼はたとえば一七世紀高一八世紀あたりのフランスの、日本ではほぼ知られていないようなマイナーな作家とかを普通に引いている。しかしひるがえって日本人のわれわれ、というか自分個人を考えると、一六〇〇年代とか江戸時代とか、あるいはそれ以前の物書きたちを読んでいたり引けたりするかというと、そんなことはないわけである。なんだかこれはやはり、妙なことなのではないかという気がする。日本の政治経済的歴史の特殊性とか、言語の変遷とか、いわゆる近代化などもろもろの事情はあるにせよ、おおまかに言って、文学やら思想やらを学ぼう、やろうというひとびとのあいだにおいても、日本の、ひろく言って古典的文章作品というものが、共通教養として確立的に根付いてはいないように思われる。イギリスを考えれば、シェイクスピアは一五六四年生まれ一六一六年没(「人殺し色々」でおぼえられる)でほぼ一六世紀の人間だから、四〇〇年以上前の人間である。英語に多少の異同はあるにしても、一般の英国人だってシェイクスピアはおそらく普通に読めるだろうし、文学研究者や愛好家のあいだでは、実際にきちんと読むかはべつとしても、読んでいなければ話にならないビッグネームとしての地位が揺るがず確立されているだろう。日本の江戸時代には、そのような、正典としての一般的地位を得るにいたった書き手はいないのではないか? 四〇〇年以上も前の作家が、その国の文学の基盤に据えられているという現象が観察されない。一〇〇〇年飛んで平安まで行けば、『源氏物語』と『枕草子』があるけれど、『源氏物語』は文学愛好者のあいだでもおいそれと読めるものでないだろうし、『枕草子』も、一般的日本人にとっては原文でそのまま行くのは厳しいだろう。和歌の伝統があるにはあるが、総合的に見て、こういう状況はやはり何か妙な事態のような気がする。江戸から明治を経て一九〇〇年代に入るあたりで、言語的・文学的にあきらかな断絶が生じているのだ。そこに断絶・切断を見るか、継承と連続性を見るかはまたひとつの問題だが、すくなくとも、明示的に、屈折なくストレートにそのままつながっているという風には見なせないはずだろう。もろもろ考えてみると、そういう話が出てくる。ただド・マンが一六〇〇年代だか一七〇〇年代あたりのフランス作家を引いていて思ったのは、やはり自分も自国の古典を読まなければなあということで、ただそういう素朴な雑感を得たというだけの話だった。自国文化の愛国的礼賛という身振りはまったく好きではないが、一応せっかく日本と呼ばれている地理的文化的圏域に生まれ育って、日本語というものにそれなりに馴染んできたのだから、その伝統のなかに赴いて色々調べたり探ったりしてみることは重要なことであるはずだろう。そこにはまちがいなく、すばらしく、貴重なものがあるはずである。そして、文化的多元主義の立場に立ってきわめて単純に想定するなら、日本などという、地理範囲的に見れば世界のなかでまるでちっぽけな一片でしかない島国領域にもそのようにすばらしく貴重な何らかの特殊性があり、また同時に地域的多様性もあるのだから、世界のほかのどの地域やどの国にも、おなじように豊かなものがあってもまったくおかしくはないだろう。
- 四時まで書見。トイレに立って上階に行った際、母親が、「まるごと苺」というのが半分残っているから食べればとすすめてきたので、いただく。パンのなかに生クリームと苺が挟まれたスイーツの類。「まるごとバナナ」という品もある。この生クリームが、腹が減っており同時にからだから水も抜けていたから鮮やかに感じられたのかもしれないが、なかなかうまくて、しっかりと甘いのだけれどくどくはなく、爽やかさがあるようで、薄青いような清涼感、といった感じの甘味だった。その後、部屋にもどり、Thelonious Monk『Solo Monk』をバックに「記憶」を音読。Ward Wilsonの文章。原爆神話の根拠薄弱さについて。一項目が長いので苦労する。もっといくつかに分ければ良かった。手首や指を伸ばしたり、ダンベルを持って腕を温めたりしながら五時過ぎまで。
- 食事の支度。とはいえ、カレーうどんの残りがあるのでこちらはそれで良い。米を新しく炊くため、三合半を骨に染みる冷水で磨ぐ。それから味噌汁を製作。母親がおそらくストーブの上に放置してすでに茹でた小さなジャガイモがたくさんあったので、その皮を剝いて輪切りにし、具として鍋に。ほか、乾燥ワカメと春菊。味噌を加えて仕上げると、ほかにやることもなかったので帰室。そうして音楽を聞いた。
- まず、Bill Evans Trio, "All of You (take 2)", "Detour Ahead (take 1)"(『The Complete Village Vanguard Recordings, 1961』: D2#3, #4)。"All of You (take 2)"ではLaFaroのベースソロの途中、声のようなニュアンスを感じる瞬間があった。彼はソロ中の音程にかんしては正確無比というほどではない。この時代だと、まだ速弾きやハイポジションになってもめちゃくちゃ正確に音を当てるようなタイプのベースはほぼいないはず。この曲の場合、高いほうに移る際だった気がするが、勢い余ってすこしだけ上擦るみたいなところがあって、それがかえって喋っているような調子に聞こえた。Motianのドラムソロは、先日聞いたときにも思ったがやはりごちゃごちゃしていて空間占領的である。キックを明確な基準がなさそうな様子でやたら踏むし、シズル付きシンバルもどんどん鳴らす。それらが上底と下底みたいな感じで上下を画すそのあいだに挟まれて、ブラシによる(と思うのだが)主にスネアの連打が泡立っている、というような構成。音像としては、五〇年代のそれであれ六〇年代以降のそれであれ、一般的なドラムソロのものとはかなり違うような印象。
- "Detour Ahead"はバラードまでは行かないにしても穏和でいかにも優しげな曲なのだが(たしか作曲者のひとりにHerb Ellisが入っていたはず)、倍テンになって演奏が活気づくとけっこうあかるく、軽快な感じになる。ベースソロも意外と音数を多く埋めるような調子で元気が良い。EvansとLaFaroは、この曲のピアノソロの部分(ベースソロに入る手前)では完全に並行的もしくは複流的なあり方をしていると思う。
- Jesse van Ruller & Bert van den Brink, "Stablemates"(『In Pursuit』: #9)。昨日これを聞いてマジでぶっ飛んだのだが、今日もう一度聞いてみても疑いなくとんでもない演奏だと思われた。二人とも何かに導かれているかのような、超越的なものの介在を思ってしまうような凄みがある。完全に霊感を注ぎこまれている。これが音楽だ。実のところ昨日も感動して涙を催してしまったのだけれど、今日も、このような九分半がこの世に存在したという事実に撃たれてやや涙を誘われてしまった。Bert van den Brinkは、高音で速弾きをするときに、その雪崩れるようなあかるさ鮮やかさにKeith Jarrettを連想した瞬間があったのだが、それはその一瞬だけのことで、スタイル全体としては特に似てはいないし、おそらく彼ほど情念に身をまかせるタイプではなくて、もっと端正に音をとらえている気がする。ただ、知性的な統御を放棄することがない一方で、音がいざない教える方向へひらいていく契機を逃さずきわめて鋭敏につかんでいるという感じがあり、ここではJesse van Rullerもそうで、結果として高度に自律発展的というか、この流れで来て次にそう弾ける? みたいな瞬間が大量に詰まった九分半になっていると思う。まったく油断ができない。完全に、本領が発揮されている。
- もうすこし何か聞くことに。Jesse van Ruller & Bert van den Brink『In Pursuit』は一応これでひととおり聞いたので、べつのアルバムに。何にしようかなと迷ったのだが、なんとなく現代ジャズを続けて、Ambrose Akinmusire『A Rift In Decorum: Live At The Village Vanguard』に。二枚組。冒頭の、"Maurice & Michael ( Sorry I Didn't Say Hello)"と"Response"を続けて。どういうことをやろうとしているのか、ある程度まではわかるつもりなのだけれど、ある程度までしかわからず、また、成功しているのかどうかもよくわからない。基本的には和音による色彩感を旨とした音楽だと思う。で、メンバー構成はAmbrose Akinmusire(tp)、Sam Harris(p)、Harish Raghavan(b)、Justin Brown(ds)の四人で、和音を主体とする楽器はピアノしかないから、当然Sam Harrisが音楽性の要になっている。実際、このひとのコードワーク、その感覚というのはかなり精妙で、ほかにあまりないようにも感じられる。曲構成はこの二曲にかんしては複雑ではなく、リズムも、ドラムはともかくとしてもベースのほうは基本的に、ルートを中心として一定のビートを刻みつづけている。ただ、コード進行とか、ワンコーラスの範囲がどこからどこまでなのかというのは、分析計算をせずに普通に聞いているだけではなんだかよくわからない。むしろ、それをわからないようにして、切れ目のない円環の感覚をつくろうとしているのではないか。色調は終始ダークというか、陰々としており、翳が晴れる瞬間がない。そういう、翳の、明白な分節のない持続を大きな枠組みもしくは下地にして、Sam Harrisが色々コードを展開し、操作し、彩りを試すというのが基本的なやり方ではないか。それはバッキングでもソロでも、あまり変わらないと思う。もちろんソロのほうが多彩でアグレッシヴにはなるわけだけれど。ただ、ここからここまでがソロだというのが、一応はあるのだろうけれど、あまりあきらかにわかりやすく印付けられている感じではない。伝統的なかたちの、明瞭に範囲を区切られた曲の枠組みで個々人が順番に、おのおの独占的なソロを披露して交替交替で個人技を提示する、という様相があまり強くない。たとえば一曲目ではAkinmusireのソロとみなされる時間の途中に、彼が奇妙に間をあけるときがあって、そういうときにはSam Harrisが多少動きを見せて、代補みたいな感じで音を埋めてくる。ただ、それが正式なやり方として固まっている感じでもない。つまり、ソロを二人で分け合って相互交通を出現させようという目論見があるようにも聞こえない。Sam Harrisというひとは単音で旋律を奏でるよりはあきらかに和音の生成変容を旨としているプレイヤーで、アヴァンギャルド方面への志向も明確に見て取られる。バンド全体の音楽性からしても、小難しいような色合いで、一見知的と聞こえ、実際、おそらく音楽全体の枠組みにかんしてはこういう風にやろうというのを知的に考えているのではないかと思うが、Sam Harris個人にかんして言えば、けっこう直感的に弾いている瞬間があるのではないかという気もした。リズムを妙にずらすというか、ベースとドラムに合わせてきちんと嵌めない瞬間などもそうだし、コードをいくらかぐしゃぐしゃ歪めてフリーに近づくところもたぶんそうだろう。ただ、彼は崩れきることはない。おそらく、フリーに行くか行かないかの境あたりまで接近して、解体の瀬戸際でつかの間あらわれる美みたいなものをつかもうというか、呼びこもうとしているのではないかという気がするのだけれど、本人の意図はわからない。ただ、そういう目論見がもし自覚的にあるのだとしたら、その点はある程度まで成功しているようにも思う。二曲目などはしかし、テーマとみなすべき部分のコードがけっこう綺麗なものだったのに、Sam Harrisがソロをはじめると途端に崩し、塗り替えていて、そんなに最初から解体してしまって良いのか? まずはもっとベースの範囲でやって、徐々に移行していったほうが良かったんじゃないか? と思ったが。Sam Harrisにかんしてはそんな感じで、もしかするとピアノでアクション・ペインティングをやっているような感じなのかなとも思ったが、アクション・ペインティングについて何も知らないので単なる連想的な思いつきでしかない。よくわからないのは、Ambrose Akinmusireである。彼が、音楽全体としてもそうだけれど、ソロおよびトランペットでもって何をやろうとしているのかがいまいちつかめない。トーンとしては硬さ鋭さがなく、高音部などほそく震えるし、フレージングもかなり抑制的なほうだ。と言って、そういうスタイルで、繊細ながら明瞭に旋律を奏でようという感じではなく、歌う、歌い上げる、という感じが全然ない。朗々、という言葉がちっとも合わない。なんとなくそこに、Robert Glasper以降の感性を、つまり断片化への志向を見たいような気もしないでもないのだが、それは根拠のある印象ではない。構築の論理が通常と違うような気がするし、そもそも構築を目指しているのかもよくわからない。曲の色調に合致してはいるのだろうが、煮え切らなさのようなものをおぼえもする。先に触れた奇妙な間など特にそうだ。その空隙にかんしては、ライブだから、そのときの気分というか流れでそうなったのかもしれないが。ジャズの花形は管楽器だという通念はひろくあるようでわりとよく聞かれ、そのなかでもトランペットという楽器は音域も高く派手だから、Dizzy GillespieやFats NavarroやMiles Davis以来、Clifford Brownを筆頭として、Freddie HubbardやLee Morganなど、トランペット・ヒーローと呼ぶべきプレイヤーが多く誕生してきた。いまのシーンでそういうプレイヤーが誰なのかまったくわからないが、ここ一〇年くらいにかんして言えば、たぶんFabrizio Bossoはそういう系譜に属するひとりと言って良いのではないか。で、Ambrose Akinmusireは、すくなくともこのライブ盤の冒頭二曲に限っては、そういうトランペット・ヒーロー的な様相が微塵もない。華々しさをまったく志向していないように聞こえる。バンドリーダーとしてメンバーを率い、自分の名前を冠して、しかもライブ盤を出していながらこのひかえめさというか、曖昧さというのは奇妙にも思える。二曲聞いた感じでは、音楽の中核を成しているのはあきらかにSam Harrisで、Akinmusireがそのなかでどういう役割を担おうとしているのか、また担っているのかがよくわからない。
- メモ: 呼吸(あらためて): 現在への回帰・立ち返り(の手段)としての。
- メモ: "Stablemates" → 日記(ブログ)の閉鎖性 → 自分語りに対するかつての嫌悪・忌避: 承認欲求 = 自己承認の代替・埋め合わせとしての他者からの承認。 → 現在: むしろ、ひとり言的自分語りに徹すること? 閉鎖的自律性 → とはいえ、純粋閉鎖性は不可能で、回路は不可避的にひらく。そもそもネットに提示しているのだから。 → 明示的な経路作成は避けたいが、ネットに投稿していること自体が回路である。 → 一方的な送付。となれば、(あまりにもありがちだが)いわゆる「投壜通信」。フランス思想的に言えば、エクリチュールを用いた活動の本質的(根源的?)構造だと思うが: それは時空・現前を超える。もしくは現前をべつのところへ連れていく。「超える」というより、通り抜ける(パウル・ツェランによれば): 彼は、「飛躍」ではなく「通過」を見ている: 言葉の到来にかんしても: 「くぐり抜けてきた」
- この日にかんしてもあとは特段の記憶はない。日記を書いたりド・マンを読んだり音読をしたり。音読は「記憶」を一時間ほど、「英語」を三〇分ほどできてなかなか良かった。