2021/2/5, Fri.

 リュクサンブール公園で陣取り遊びをしていたとき、わたしの最大の楽しみは、敵を挑発して、無謀に自分の身を敵の捕獲権にさらすことではなく、捕虜たちを救い出すことであった――その結果、すべての勝負を循環状態にしてしまうことになり、遊びは振り出しにもどっていた。
 (石川美子訳『ロラン・バルトによるロラン・バルト』(みすず書房、二〇一八年)、60; 「陣取り遊びをしていたとき……(Quand je jouais aux barres)」)



  • 一〇時半頃に覚醒。悪くない。カーテンを開け、陽を顔に浴びながらこめかみや眼窩をぐりぐり指圧して柔らかくする。最近やっていなかったが、そうするとやはり気づかないうちにかなり固くなっている。読み書きを旨としている身だから、目のまわりをほぐしていたわるのは大事だ。一一時を越えてからだを起こした。ちょっと肩を回したりしたのち、水場に行ってきてから瞑想。一一時一五分から三五分まで。悪くない充実感。肉体的統合の感触は比較的高い。無為、もしくは「しぜん」ではなく「じねん」としての自然をけっこう実現できたような印象。
  • 上階へ行き、燃えるゴミを始末してから着替え。外はあかるく陽に満たされており、梅の木の梢の先端に来た小鳥の姿も黒っぽくなって襞がよく見分けられない。メジロか何かか? 大きさはそのくらいだったように思うが、緑色をしているかどうかわからなかった。洗面所でうがいをしたあと食事。ハムエッグを焼いて米に乗せた。ほか、野菜スープ。ミャンマーの件を新聞で読む。国軍は一年以内に再選挙をおこなうと言っているのだけれど、昨年の選挙では六六〇くらいの議席のうち三九四だかをNLDが取っているわけで、軍側はその結果に不正があったと主張してはいるものの、普通にもう一度やったところで普通にNLDがまた勝つのではないのか? しかも今回のクーデターで国軍に反感を持った層がNLD支持にまわれば、余計にNLDの勝利は定かになるのではないのか? 国軍支持のひとびとも一定層いるようで、新聞にはそのデモ活動の写真も載せられていたが。ASEANの国々は基本的にそろって傍観というか内政不干渉の原則をつらぬき、せいぜい「懸念」を表明する程度の姿勢だと言う。これは、宗教など文化的に異なる東南アジアの国々が結束して欧米や中露の大国に対抗するため、ASEAN内では基本的に内政不干渉にするという伝統的原則があることがひとつ、またタイやカンボジアなどではミャンマーの強行的軍政を批判すれば自国政府にもそういう批判が差し向けられることになる、という事情があるらしい。タイのプラユット・チャンオーチャーは軍部のトップだったわけだし、カンボジアのフン・センという首相も三〇年以上政権を握っているらしい。独裁じゃないか。カンボジアの歴史についても学びたいのだが。ポル・ポトにかんしても名前だけで何も知らない。あとはASEAN諸国にはもちろん中国に対する遠慮もあって、米中が厳しく対立しているいま、ミャンマーのクーデターに批判を向けるということはすなわち欧米と足並みをそろえて米国の側に立つということと同義であり、そうなると経済面で中国に大きく助けられている諸国としては具合が悪い。くわえて、コロナウイルスのワクチンにかんしても中国に頼らざるをえないから、すくなくともいまはとても中国に喧嘩を売るようなことはできない、というわけだろう。
  • 皿洗いと風呂洗い。風呂の窓はわずかに空いている。風は強く吹くというほどはないようだ。音が聞こえないし、冷たい感触もなかに入ってこない。隣の土地の旗はそこそこ騒いでいるから、大気に動きはふくまれているが。洗い終えると出て帰室。Notionで日記記事を準備すると、足裏をほぐそうということで書見に入った。ポール・ド・マン/宮﨑裕助・木内久美子訳『盲目と洞察 現代批評の修辞学における試論』(月曜社、二〇一二年/叢書・エクリチュールの冒険)。もう終盤。ボールをしばらく踏んだらすぐに日記にかかろうと思っていたところが、そのうちベッドに仰向けになってしまい、結局そのまま訳者あとがきもふくめて最後まで読んでしまった。最終章の「抒情詩とモダニティ」は面白く、すばらしい論考だった気がする。と言って、結論はすごく目新しいわけでもないが。「いかなる表象的な詩も、当の詩が自覚しているかどうかにかかわらず、つねにアレゴリー的でもある。言語のアレゴリー的な力が、理解の営みに開かれた表象のもつ文字通りに特定の意味を浸食し、曖昧なものにしてしまう。だが、いかなるアレゴリー的な詩も、理解の営みを促し可能にする表象的要素を含まなければならない。ただその場合にのみ、そうした表象によって到達された理解が必然的に誤っているということが発見されるからである」(321)という話で、こういう性質が遺伝的比喩にあてはまるような時間的発展段階として展開されるのではなく、文学の言語に本源的に内在した、非連続で、かつしかし表裏に接し合っているものだよ、というようことを述べた話だと思う。マラルメの詩を論じた批評の読解および詩そのものの読解から得られたこの結論はこちらがこれまで培ってきた思考やスタンスに相応するものなので、それでこの論考をすばらしいと感じたのかもしれない。つまり、こちらが考えていたことの裏付けをしてもらい、あなたの思考は正しいですよと言ってもらったがために、好意と高評価が生じただけのことなのかもしれない。上で言われているようなことは小説にも、厳密な適用には慎重でなければならないが、大雑把には当てはまると思われ、ド・マンが言う「表象的要素」、言語の外部指示 - 表象的な側面というのが、小説においては「物語」にあたるわけだろう。
  • その他、全体的にクソ勉強になるという感じの本だったが、いかんせんこまかいところが難しくてよくわからず、詳細に理解できたとは思えない。ルソーとともにルソーを読むデリダを読む「盲目性の修辞学」が白眉と目されていて、分量にせよ熱量にせよなんかすごいというのはわかるが、いかんせん細部がわからないので、そのすごさを十分に体感できたとは思えない。まだレベルが足りない。
  • 書見は二時二〇分まで。それから洗濯物を入れに行った。もう多少空気に冷たさの細片が混ざりはじめてもいるが、西の高みから照射される光もまだあって、二月に入ったからその熱もだんだん厚くなってきており、肌への刺激がいままでとは違い、辛いようなというのかそれとも逆に甘いようななのか、なんと言えばわからないのだけれどなんらかの味覚刺激に比喩的に転化しそうな肌触りをしている。陽を浴びながらものを取りこんだあと、タオルなどをたたんで運び、帰室。やるべきタスクや心掛けの類を手帳にメモしておいたあと、日記に取りかかってまずここまで記述した。するともう三時半である。
  • そのまま三日の記事も三〇分のみ記述。四時。一〇分だけ柔軟をしたのち、上階へ。豆腐を電子レンジで熱して食ったはず。もどると身支度をし、「記憶」を二〇分だけ読むと出発へ。五時過ぎですでにかなり寒かったおぼえがある。風の冷たさがマスクもコートもことごとく抜けてきて、身をわずかに震わせた。空は正面、西の方角はすっきり晴れていたはずだが、左方の南を見ると雲がいくらかよどんで、こびりついたようになっている。坂道に折れるとまもなく後ろにひとの気配が生じ、なにやら話しているがひとりの様子だったので電話かと判じた。いつもこの時間に見るオールバック風の髪型の男性ではないかと思っていると、こちらを抜かしていった姿がやはりそうで、カブトムシかクワガタのメスの小さな個体のような、茶色で丸い、小型のリュックサックを背負っていた。
  • 最寄り駅以後のことは忘れた。職場に飛ぶ。(……)
  • (……)
  • (……)
  • (……)そうして一〇時半過ぎに退勤。駅に入って乗車。瞑目で待つ。
  • 最寄りからの帰路のことはさしておぼえていない。坂道の途中で、ずいぶんとしずかですぐ横のガードレールを越えて下方にあるはずの沢の音がまったく聞こえないので、ここのところほとんど雨も降っていないし水がなくなったのか? と思ったが、出口に近くなって沢への距離も近づくと、かすかな水音がはじまった。
  • 帰宅。休身しながら(……)さんのブログを読み、零時前で上階へ。食事。お笑い番組がやっていた。きちんと見てはいないが、たいがいの場面は特に面白くはない。そのうちに大喜利に移って、あるシチュエーションのひとに何か声をかける形式で面白い一言を、という趣向だった。なかにひとり、「高校生あるある」というのを毎日SNSでつぶやいているという、自身も制服を着た姿の男性がいて、その芸人が劈頭、受験勉強中の学生に一言、というお題に対し、「そこでないよ」と低く告げたのが一番面白かった。発想としては誰でも思いつきそうなものではあるが、なんかシンプルに笑ってしまった。
  • 新聞から読んだことは忘れた。入浴。湯のなかで瞑目していると時計が秒を刻む音が空間のなかと聴覚に響き、際立ってくる。以前から思っていたのだけれど、この時計の刻みは、ところによって微妙に音質に差異がある。一回一回が違う、というほどではないにしても、やや波のような変化があり、音量もいくらか上下するし、詰まって伸びないときや、薄い余白をともなってよく響くときなど、多少の幅がある。時計の内部機構がどうなっているのか知らないしわからないが、秒針の位置によって響き方が変わるらしい。また、この時計は丸い表面にガラスが嵌めこまれた型のものなのだけれど、いつだか誰かが落としたようでそのガラスに罅が走り入っているので、それで反響の仕方が変わるということもたぶんあるのだと思う。
  • そののちはいつもどおり。日記を五〇分弱書き、書見して三時半に就寝。ポール・ド・マンの次は新本史斉/F・ヒンターエーダー=エムデ訳『ローベルト・ヴァルザー作品集 1 タンナー兄弟姉妹』(鳥影社、二〇一〇年)を読みはじめた。最高。はじまりからしてすでに面白い。多弁さに笑ってしまう。