2021/2/10, Wed.

 (こんなことを書くとすぐに、それが想像界による告白であるように思えてくる。むしろわたしは、なぜ抵抗したり欲望したりするのかを知ろうと夢想して口にする言葉のように、ただ自分の考えを言えばよかったのだろう。しかし不幸なことに、わたしは断言することを強いられている。知的懐疑ではなく、理論に変容しようとする価値を〈軽やかに〉語りうるような文法的叙法が、フランス語には(おそらくいかなる言語にも)欠如しているのだ(フランス語の条件法はかなり重すぎる)。)
 (石川美子訳『ロラン・バルトによるロラン・バルト』(みすず書房、二〇一八年)、68~69; 「映画の充満性(Le plein du cinéma)」)



  • 相変わらずの一一時離床。しかし滞在は七時間で、悪くはない。瞑想も二〇分間できた。
  • 昼に何を食べたかもはや忘れた。いや、鮭だ。鮭をおかずにしながら白米を食い、また、ほうれん草などの菜っ葉が入った汁物も飲んだ。新聞からは、読売文学賞の翻訳部門を得た角田光代にかんしての記事を読む。池澤夏樹が編纂した河出書房の日本文学全集の仕事で『源氏物語』を訳して受賞したわけだが、古文の特徴である敬語表現を思い切って使わない訳になっているとか。角田光代はいま五三歳だかで、こちらのイメージよりもいくらか年若だった。なぜかわからないが、もっと年嵩のひとだと思っていた。六〇歳になったらもう一度訳してみたいと思っている、余計なところもしくは冗長なところを削って大胆に意訳すれば、もっとスピード感のある物語にできるのではないか、というようなことを言っていた。『失われた時を求めて』を縮約していたときもそうだけれど、こういったたぐいの作品を「スピード感のある物語」に仕立て直したとして、それでどうすんの? という気持ちがこちらにはぬぐえない。それで作品に触れやすく、手が出やすくなり、文学というものに興味を持つ人間が増えれば、それはそれでむろん良いのだろうけれど。それに、プルーストはともかくとしても、『源氏物語』の場合はもともと「物語」ともついているわけだし、一〇〇〇年も前の日本の作品だからこちらがつねづね親しんでいる近代以降の小説とおなじ基準で考えなくても良いかもしれない(おそらく「源氏物語」の「物語」という語がはらむ意味合いも、こちらが思うそれとは多少違っているだろう)。また、小説の執筆をいったん止めて五年間この仕事に専念したとあったから、おそらく先行訳はいくつか読んだのだろうし、真摯な仕事をしているのではないか。
  • 帰室後は真っ先に音読。「英語」を一時間。よろしい。最初のうちはあまり舌や口が回らず空転する感があったが、だんだん良い感触になってきた。一日の活動のうちはじめにまず音読をする習慣を確立するつもり。音読をすると前頭前野だかなんだかが刺激を受けて活性化し、ここは自制心とかをつかさどる部分だから精神的に安定するうんぬんとかいう俗説があり、正直胡散臭いのだけれど、ただ、実際やっている身としては、たしかに音読をすると心身が落ち着くという体感はある。ことさらにしずけさが深まるわけではないものの、何かとにかく精神が落ち着き、軽くなると同時に安定性が高くなるという感覚はおぼえる。中性的というか、非常にニュートラルな状態というか。感情的な乱れがほぼなくなり(普段から大して乱れているわけでないけれど)、嫌なことがあってもこだわらず流しやすくなり、端的に不快をおぼえにくくなり、不快事に対する抵抗性が強まる気がする。
  • しかしこの日中はその後、少々調身をしたあとはひたすらベッドでだらだらと怠けてしまった。それであっという間に四時過ぎ。小さな豆腐と即席の味噌汁を用意してきて食すともう身支度の時間。歯磨きをしてスーツに着替えれば猶予は残り少ないものの、その少ない時間でふたたび文を声に出すことにした。今度は「記憶」のほう。ジョルジョ・アガンベンの『アウシュヴィッツの残りのもの』からの引用。この本もまた読み返す必要があるが、もう少し色々なものを回ってからのほうが良い気もする。
  • それで五時を回って出発。玄関を出ると隣の敷地に立っているいくつかの旗が、激しくではないけれど絶えずゆらゆらうねっており、風というほどではないが空気の流れが道にとおっていることがうかがわれ、歩き出せば実際、寒々とした肌触りの気が服を抜けてきて皮膚を少々たじろがせる。歩いていくと、途中、(……)さんの宅の横から猫が一匹、姿をあらわした。黒い猫で、四つの足だけが白い。のそのそとてくてくのあいだみたいな歩調で歩いていたが、やがて背後から近づきつつあるこちらに気づき、するとおりおり振り返ってうかがってくるようになったが、逃げ出しはしない。彼もしくは彼女の横まで行き、立ち止まって見返してみると、相手は数歩だけ、ちょっと駆けてすぐに止まり、また見つめてきた。なかなか可愛らしい黒猫だった。当然ながら戯れたかったのだけれど、近づけば逃げそうな気配があったし、あまり遊んでいる時間もなかったので断念し、マスクの裏でにやにやしながら先にすすんだ。猫は身をやや低くしながら視線をずっとこちらに固定していた。
  • 午後五時の空がもうかなりあかるい時節になってきた。地上は散文的に淡い暮れが混ざってきているが、西空などつやのようなあかるみがまだいくらか残り、白と水色が綯い交ぜになってあられもなく交情しているその下で、下端の雲は暖色をふくんでいる。それを見ている最中、ほんの一瞬だけ、どこでもなくいつでもない時空に連れていかれそうな兆しが揺らいだが、それは本当に一瞬のことで、日常的な歩みの脚は止まりも乱れも逸れもしない。坂道に折れるとマスクをずらし、冷たい大気から酸素を取りこみながらゆっくり上っていった。途中、頭頂に何か当たる感触があって、鳥の糞でも降ってきたかと思って反射的に手をやり髪をこすったが、何にも当たらない。道の真ん中の宙まで垂れ下がってきている細枝が当たったのだった。
  • 最寄り駅に着くとホームのベンチに座り、手帳にすこしだけメモ。まもなく電車が来たので乗り、座席に就くと手帳をジャケットの懐にしまって、目を閉じて到着を待った。そうして停まるとふたたびすこしだけメモ書きをしてから降車。ホームをたらたら行って出口へ向かう。勤務に向かって歩いているあいだも、たしかに高度に落ち着いた心身だった。先日のように、クソ面倒臭えという感じや、自分の内に閉じた感覚や、社会的領域でひととコミュニケーションを取らなければならないことに対する倦怠などはなく、だからと言ってことさらに気持ちが高まっているわけでもなく、本当に中立、という感じのさらさらとした落ち着き。駅を出れば地上の空間にもそろそろ青さが忍びはじめているものの、やはりまだあかるさの印象が強く、駅前に停まっている車の色も容易に見えるし、裏路地の先では純粋な水色一色の東空を背景として、マンションがその壁の灰色を明瞭にとどめている。
  • 勤務。(……)
  • (……)八時一〇分頃退勤。なんだか今日は、時間が短かったこともあるだろうが、かなり楽な感じで、軽く働けたような気がする。駅へ。入り口のすぐ脇に女子高生がひとり立っていた。通りがかりに、過去の生徒でないかと顔を上げて目を向けてみたところ、あちらもちょうどうつむかせていた顔を上げて視線があったが、どうも知己ではなさそうだった。彼女が顔を上げたのは、待っていた迎えの車がちょうど来たからだったらしく、そのままこちらの脇をすれ違っていった。振り返っていないので本当に迎えを待っていたのか、車のもとに行ったのかわからないが、雰囲気や様子からしてたぶんそうだっただろう。
  • 駅舎内に入り、ホームに上がって乗車。席で瞑目し、休みながら到着を待つ。降りると右手をバッグの持ち手のなかに通し、手首に鞄を引っかけたかたちでそのままコートのポケットに両手とも突っこんで足を運ぶ。空気に流れはあって、やはりけっこう寒い。多少震えつつ、なぜかこの夜は早足気味に帰った。
  • 帰るとマスクにアルコールを吹きかけて始末し、手も洗って帰室。忘れていたが、父親はこの日、(……)の掃除の仕事の面接に行ってきて、無事決めてきた、採用されたということを出勤前に聞いていた。部屋にもどって服を着替えたあと、コンピューターでLINEをひらくと、Woolf会が今日は休みになっていた。日記がすすんでいない現状なので、正直助かった面はある。それでベッドに転がってふたたびだらだらしながら脚をほぐし、一〇時で食事へ。天麩羅ほか。テレビは『クローズアップ現代+』で、出生前診断で子がダウン症だとわかったときに生むことを選ぶか中絶を選ぶか、実際にその立場に置かれたひとの葛藤を伝えるみたいな内容だった。炬燵テーブルに就いている父親は、途中まではスマートフォンでべつの番組を見ていたようで、その時点ですでにひとり言をいくらも漏らしていたが、じきにテレビの『クローズアップ現代+』のほうを見はじめて、なんだかんだと思う存分、映像を受けて絶えず反応を発している。番組の内容自体は重要なものだと思うのだけれど、その独言がうるさく、鬱陶しくて、そのためにきちんと注視して見ようという気持ちが失せてしまう。動画を見ているときに、横から絶え間なく、訊いてもいない、どうでも良いコメントをずっと副音声として添えられているようなものだ。それで新聞を読むのだが、それはそれでやはりテレビや父親の声に妨げられて、あまりうまく文字が読み取れない。ミャンマーではヤンゴン(だったと思うが)にあるNLDの本部が警察の捜査を受けたと言う。国軍に対する抗議活動は続いており、当局は放水や催涙弾のたぐいで対処しているという報が、この日か前日の朝刊にも出ていたはずだ。ほか、ドナルド・トランプの弾劾審査が米上院ではじまったと。初日の九日は弾劾をもとめる側と弁護団とが、今回の弾劾要求決議が合憲か否かということを論議し、結果、五六対四四で手続きの続行が決まったと。いま上院は共和党民主党でぴったり五〇ずつ分け合っており、票が同数になった場合は副大統領が兼任する議長(すなわち現在はカマラ・ハリス)が投票するので民主党が事実上、すこしだけ優勢なわけだが、今回は共和党から六人、弾劾審査続行に賛成する議員が出ているわけだ。
  • 食事を終えると洗い物を片づけ、茶を淹れて帰室。Crimson Jazz Trio『King Crimson Songbook Volume 2』を聞きつつ、熊野純彦『西洋哲学史 古代から中世へ』(岩波書店、二〇〇六年)とポール・ド・マン/宮﨑裕助・木内久美子訳『盲目と洞察 現代批評の修辞学における試論』(月曜社、二〇一二年/叢書・エクリチュールの冒険)を書抜き。先日、本を読みながら読書ノートにメモを取る方針に復帰したはずだったが、やはり実際読んでいる最中に何度もノートと本を持ち替えたり、手書きで長く写したりするのは面倒臭くて、気になったところのページと行番号をメモするだけにもどってしまったので、結局また、コンピューターのほうで写していくことにした。正式な書抜きは毎日一箇所ずつ、日々やっていく。より短い、メモ的な抜き出しもなるべく毎日、日記の下に添えるかたちで何箇所かやっておく。数箇所なら大した分量でないし、未来に日記を読み返す際にも手間でないだろう。
  • そうして一一時過ぎで入浴へ。風呂のなかでは背中やこめかみや眼窩などを揉んだ。デスクの前で椅子に就きながらものを書いたり読んだりしていると、どうしても背中、とりわけ肩甲骨のまわりやそのあいだに位置する背骨のあたりが凝ってきて長く作業をできないのだけれど、これはもう、やはり単純に揉めば良いのではないかと思ったわけだ。それでぐりぐりと、円を描くように肉を押してやわらげておいた。あとは、ダンベルを持つ時間もなるべく毎日つくりたいなと思った。すこしずつ筋トレのたぐいもして、多少は肉をつけていきたい。ヘッドフォンをつけて音楽を聞きながらやるのが良い気がする。
  • 風呂を上がると部屋にもどり、日付が変わった直後から今日のことを書き出した。椅子に就いていると背が固まり、立っていたほうが背面への負担はすくないようなので、このときは立位で打鍵をしたが、実際これなら背の肉はかなり保つ。一方で当然、今度は脚のほうが疲れるわけだが。しかし、コンピューターを扱うときは基本的に立つようにしたほうが良いような気がする。最初からここまで今日のことを記して、いまは一時四七分をむかえた。
  • なぜかこの日の昼間に、「早稲田文学」で川上未映子蓮實重彦がやっていた対談(http://www.bungaku.net/wasebun/read/pdf/wb22_hasumi_kawakami.pdf(http://www.bungaku.net/wasebun/read/pdf/wb22_hasumi_kawakami.pdf))のことを思い出し、インターネット上にデータで置かれてあるのを以前読んだのだけれど、また読んでみるかと検索してメモしておいたのを、ベッド縁でボールを踏みつつ読んだ。PDFファイルなのにうまくコピーできず、いちいち打ちこんで書き抜かないといけないので面倒臭いのだが、蓮實の発言をいくらか引いておくと、まず、「ずいぶん誤解されているのですが、わたくし自身は、物語のない小説がいい小説だ、などとはどこでも言ったことがない。小説は題材として「物語」を絶対に必要とする。ただし、物語というのは読めてしまう。書いていないことまでも読めてしまう。『物語批判序説』などでは、そのことを批判したんです」とのことで、わかりやすい。続いて、「川上さんはそう [『ヘヴン』でコジマが死んだと] 書いていないのに、そう読んで物語を自分に都合よく完結させてしまう。(……)結局ひとびとは、小説なんか読みたくない。小説が物語として消費できるかぎりにおいて読むだけです。どこにコジマが死んだと書いてあるのか証拠を出せといいたくなりますが(笑)、そうすることで物語が完結して、余韻が生まれる――そんなふうに考えるひとが多いんですよね。小説はそのような完結性は求めていないのに」。
  • その次に、中原中也を例に挙げて、三点リーダーを使って曖昧模糊とした妙な情趣を醸し出そうとするやり口を、批判、もしくは嘲笑している。三点リーダーによって生まれる「雰囲気は、散文のものではないんです。あれが許されるのは歌謡曲の世界でしょう。あとは丹生谷貴志さんくらい」とのこと。「「――」まではいいんです。許せないのは、「……」に含まれる曖昧な情緒です。そこに、コジマを勝手に死なせてしまうときと同じ「余韻」が働いている。わたくしの「物語批判」というのは、そのような物語の使われ方への批判であって、小説から物語を引き離せなどということはまったく言っていない。「ただ書かれていることばを読みましょうよ」と」。
  • 「物語」というのは「表象」という概念と、一致はしないにしても多くの割合で重なり合う意味をはらんでいる概念だと思うのだけれど、したがってそこではまた、模倣、すなわちミメーシスのテーマが重要なものになってくるはずである。ミメーシスというテーマはさまざまな分野でおそらくもはや論じ尽くされるほどに論じられてきていて、すさまじい量の議論や研究の蓄積があるのだと思うが、そのあたりも多少は触れて思考の助けにしたいものだ。すなわち、なぜひとは書かれていないことまで読めてしまうのか? という疑問や、現実には存在していないはずのフィクション的な人物や出来事が、人間が現実を生きるにあたってのひとつの例として機能しうるのはなぜなのか? という疑問など。また、ひとが書かれていないことまでみずから補って読むときの、認識の意味論的展開や、そのイメージのつながり方や射程はどうなっているのか、そこで何が起こっているのか、ということ。ただ書かれてあることを書かれてあることに忠実に読むという姿勢は、読むというおこないをきちんとやろうとするならば最低限身につけておくべきわきまえだとは思うけれど、一方で、人間はおそらく本質的に、書かれてあることをただそのまま読むことなどできないのだとも思う。しかし、なぜそうなのか?
  • そのあとは三時過ぎから新本史斉/F・ヒンターエーダー=エムデ訳『ローベルト・ヴァルザー作品集 1 タンナー兄弟姉妹』(鳥影社、二〇一〇年)をいくらか読み、三時四六分に消灯。