2021/2/11, Thu.

 (……)彼はなにかを発明することはないし、組み合わせることさえしない。移動させるだけだ。彼にとって、たとえることは論拠になるのである。(……)
 (石川美子訳『ロラン・バルトによるロラン・バルト』(みすず書房、二〇一八年)、73; 「たとえは論拠になる(Comparaison est raison)」)



  • 一一時前に覚醒。いつもの調子である。顔面の肌を刺激する陽射しの感触が強くなってきている。こめかみを揉んでから一一時ちょうどに起床。今日はなんとなく瞑想はする気にならなかった。水場に行ってきてからもどってコンピューターを点けておき、ゴミ箱や茶器を持って上へ。寝床にいるあいだに来客を知らせるチャイムが何度も鳴っているのを聞いており、母親がたぶん下階で音楽を聞いているようで気づかない様子なのを察してもいながら動こうとしなかったのだけれど、しばらくすると窓外で、(……)さんが、(……)ちゃんいないの、とそのあたりにいた父親に訊いているのが聞こえ、それで無事取り次ぎがなされたのだった。おばさん、なんだって、と訊くと、このあいだ天麩羅をあげたからそのお礼でリンゴだかなんだかくれたとのこと。ジャージに着替えたこちらは南の窓辺に寄って、さざなみのようにガラスのもとを通り抜けてくるあかるみにあたりながら眼下を少々ながめた。いまは風が盛っていて風景はどこもさわさわ揺れてかき混ぜられており、なんの区画なのか知らないが畑の端に敷かれた黒いシートは光の粒をたくさん乗せながら、短い範囲ではあるもののくり返しくり返し波を送り出し続けていて、襞といい光の帯び方といい、まさしくさながら川面である。隣家の庭と我が家の敷地を画している柵のもとにはわりと大きなからだのヒヨドリが一匹降り立って、背や腰の悪い老人のようにかがみながら地面をしきりにつついていた。
  • 食事は天麩羅や鮭の残りなど。米はフキノトウご飯とやらになっていた。新聞を読みながらそれらを食べる。ミャンマーでは抗議活動とそれに対する政府・警察側の対処が続いており、しかし抗議には政府職員や国営紙のスタッフなども参加する様子が見られると言う。ものを平らげると皿を洗い、そのまま風呂も。出ると洗面所でうがいをしておき、それからいったんベランダに出た。日向のなかで屈伸をくり返して脚の筋をやわらげておく。風がおりおりあって(……)さんの宅の魚の幟も横にまっすぐ持ち上がって泳いでいるものの、気流は冷たさにまで固結することはなく、しばらく集まったあと、力が足りずに耐えられずほどけていく。空は端的な青の快晴で、雲はゆるされていない。
  • 茶を持って帰室し、Notionで今日の記事を用意すると、今日もすぐさま音読をはじめた。「英語」。George Steinerの書評から取った文など。やはり最初は口が動きづらいが、三分くらいすればすぐに軽くなる。英語を声に出して読むのはなぜかわからないがやたら楽しくて、長時間読んでいると口と舌の稼働もなめらかになってよく流れるので、マジでちょっと快楽的になってくる。それで一時間一〇分、まず読んだ。途中、関口存男のことを思い出してちょっと検索した。ドイツ語はまだとても手が出せる段階ではないが、いずれやるときには世話になるかもしれない。あと、彼の語学学習の心構えみたいなものを知って参考にできないかと思ったのだが、三修社というところがその著作集を出しているものの、どれも八〇〇〇円とか一万円とかでクソ高い。どうも、『関口存男の生涯と業績』という本にエピソードや本人談などがいくらかふくまれているようで、これを読めば良い気がするのだが、やたら高くて手が出ない。まあ、こちらの外国語および日本語の学習方針としては、いまやっているように、とにかく音読をする時間を多く取るにかぎる、という方向でもう固まっているのだけれど。ただ、関口存男は翻訳も色々やっているので、それはちょっと読んでみたい。
  • このひとはマジでドイツ語ができたらしく、Wikipediaにも書かれているけれど、カール・レーヴィットが仙台に来て東北帝国大学にいたあいだ、彼の書いたドイツ語の手紙を読む機会があり、それがあまりにもすぐれていたために、これは本場のドイツ人が書いた文だろう、もしやナチスの連中ではないか、と疑った、ということがあったという。「ナチを逃れて仙台に亡命していたカール・レーヴィットが、森田草平(法政大学の予科で関口と同僚であった)から送られてきたドイツ語で書かれた手紙を読んで、すこぶる達者なドイツ語だったので、「若しやこれを譯したのはナツィ系の獨逸人ではないか」と気味悪がり、文体から見て日本人ではないことはもちろん、「惡質のJournalist」が介在するのではないかと推測していたというが、実際にはこの手紙は関口が訳したものであり、しかも森田が口で言うことを端からドイツ語でタイプライターで打っていったという[9: 澤柳大五郎「レェヸット事件」世界54号(1950年)107-114頁(関口について触れているのは112頁)]。ドイツ文学者の小塩節(中央大学名誉教授)も、レーヴィットが、関口をして「ドイツ人よりドイツ語が出来る」と評していた旨を述懐している[10: 産経新聞2001年8月6日夕刊4頁]」とのこと。その前には、「「ドイツ語の鬼」と言われるほど、あまりにドイツ語ができたために、人に憎まれていたという」という記述もあって笑う。語学ができることで他人に憎まれるってどういうことやねん。
  • 一時二〇分を越えたところで便意が固まったので一度中断してトイレに行き、腸のなかを多少軽くしてきてからふたたびちょっとだけ「英語」を音読した。合わせて、二六三番から三〇二番まで。それから今日のことをここまで綴ると二時過ぎ。
  • それからなんとなく、先日見つけていた保坂和志・若竹千佐子「主婦から小説家へ──第54回文藝賞受賞作『おらおらでひとりいぐも』刊行記念対談」(https://www.bookbang.jp/review/article/542411?all=1(https://www.bookbang.jp/review/article/542411?all=1))を読んだ。以下の引用の最初の部分にある、「どこにいても寂しいんだから、外に出ろ」というはげましの言葉は、なんだかわからないがけっこう良いなと思った。二つ目の最後に出てくる津村節子という名前は初耳。一九二八年生まれだがまだ存命らしい。吉村昭の連れ合いだという。このひとも名前をときおり聞くだけで、読んだことはない。

若竹 今回のような小説を書こうと思った一番のきっかけとなったのは、八年前に夫が亡くなったことで、そこで本当の悲しみが分かりました。それまでの私は、首から上で悲しみを理解していたと思います。本当に悲しいことがあると、全身で毛穴の隅々まで悲しいんです。今まで私は何をわかっていたんだろうと、揺り起こされるものがありました。「あの人が死んでしまった」と草や木に話しかけると、一緒に悲しんで、応えてくれるような気さえしました。時間が経つとどうやらその声は自分の内側から聞こえてくるとわかって、あれ、私の中に大勢の人がいるんじゃないか、と思ったんです。それで孤独なおばあさんが自分の中の大勢の人と一緒に生きて寂しさを乗り越えよう、みたいな小説を書きたくなりました。
保坂 すると、旦那さんが亡くなった頃が大きな転機になったということ?
若竹 そうです。実は息子のすすめで、夫の四十九日の次の日から八丁堀の小説講座に通いはじめたんです。みんな呆れるかもしれないけど。夫の死を悲しんで家にいる私を見て息子が、「どこにいても寂しいんだから、外に出ろ」といって。元々私が小説を書きたがっているのを知っているから、調べてくれて。夫の死は悲しかったけれども、いま思えば、同時にそれまで見えなかった世界が一気に開かれた感じがありました。喜びと言うと語弊があるけれども、そういうものが書いてみたいなって思って。

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保坂 この小説の新しいところは、老いと理屈っぽさが共存しているところなんですよ。老いっていうのは理屈から離れていくことだと思われているじゃないですか。無我の境地に近づいていったり、理屈が漂白されていくというのが普通ですよね。たとえば、奥さんに先立たれた旦那というと、城山三郎江藤淳がいるけど、いずれも残された旦那は、ただ嘆き悲しんでいるだけ(笑)。実際、旦那は女房に先立たれると長くは生きていられない。トースターでパンも焼けなければ、電子レンジも使えない。そういう人が残されると呆然としてしまって、できることがなにもなくなる。すると老いが弱いものになる。
 この作品みたいに、旦那に先立たれた悲しみを書いた小説って過去にありましたか?
若竹 まだちゃんと読んだことはないですが、津村節子さんの『紅梅』という小説があったと思います。

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保坂 この作品は旦那に先立たれた奥さんを描いた小説だけど、桃子さんの中で、老いは強いものなんだよね。桃子さんはとにかく問いや意味を欲する。「新しい問いを見つけ」て、「問いがあればさらに深められる」と言う。「桃子さんはつくづく意味を探したい人なのだ」と。意味を欲して、「場合によっては意味そのものを作り上げる」。桃子さんにとっては、問いがあれば、意味を探すことで生きていけるんだよ。小説中盤のここではっきり書いているけど、桃子さんは最初からそうだよね。東北弁についてや自分について、とにかく考えている。これは、小説を進めることでもあるんだよ。小説というものは先へ進めるのがとても大変で、ストーリーのない小説は特にそう。問いや意味は、先へ進むための発見になる。
若竹 ああ、なるほど。
保坂 でも桃子さんにとっての問いや意味はあくまで進むための杖であって、桃子さん本体ではないんだよね。この小説では、「桃子さんは〜」という主語の使い方をしていて、それが呼びかけなんだか自問自答なんだかよくわからない、主人公自体を一人称と三人称の未分化なイメージとして提示している。それは人間が生きている時のいちばん構えのない状態の、意識の中のイメージなんだよね。選考会では「これは一人称なのか、三人称なのか」という話が出たんです。その時僕はなんとなく「一人称なんじゃないの」と答えたんだけど、そういうことじゃない。ご本人としてはどうなんでしょうか?
若竹 今生きていれば百歳の私の父が、広沢虎造浪曲が好きでよく唸っていました。「石松三十石船道中」で、あの寿司食いねぇの話ですが、子供の頃はよくわからなかったんです。あれは、本当はどんな話だろうと思ってYouTubeで聞いてみたら、衝撃的でした。地の文が低い声で語られていて、その中で登場人物ごとに声音を変えて、船内の描写をする。これを小説の文体にしてみようと思いました。
保坂 広沢虎造って、浪花節の人ですよね。
若竹 そうです。この作品は桃子さんひとりの話ですが、脳内の登場人物を立体的に表すためにも方言を使いました。また、話を推進するための客観的な要素は三人称で標準語で書いて、主観的なことは一人称で方言で書く、という方法をとりました。
保坂 考えてみたら、自己イメージって幽体離脱的なもので、「俺」と言った時一人称だけど、人は必ず自己像を外からの目で見ている。だから一人称か三人称かという機械的な分け方は当てはまらない。この小説で「桃子さん」と書くことは、そこをちゃんと指摘しているんだよ。皆やっぱり一人称か三人称か決めて書く感じがある。今流行りの移人称問題とかそういうのは、全然ピントがずれているんだよね。書く人の違和感がスルーされているから、技巧的な意味での人称の問題にしかならない。そういうことじゃ全然なくて、小説で一人称や三人称を使って何かを書く時はもう、自分とは切り離されたフィクションなんだよね。僕は候補作が面白いと妻に読ませるんだけど、妻も面白がって読んでいました。妻はヴァージニア・ウルフが専門で、「これは意識の流れとも違うんだよね」と言っていたけど、たしかに違う。「意識の流れ」では一人称の私が一人しかいないけど、これは桃子さんの中で複数の声がするのが大事なんです。このいちばん自然な描き方を、よくぞ摑んだという感じがするんだよね。

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保坂 桃子さんは考えることにこだわって、問いとか意味とか一見頭でっかちなことを言うけど、作者が偉かったのは、最後の、行列する女たちのシーンがあることだよ。終盤の墓参りで霊園へ続く山道の上り坂を歩きながら、だんだん足が限界になってくる。痛いけどがんばって、心の中の声に耳を傾けているところで、「大勢の桃子さんがいる」と書きますね。この時点ではまだ桃子さんの内面を描いていて、外側からみたら、桃子さんはまだひとり。それがその後、周造が死んだ頃の記憶を描写して、白昼夢で女たちの長い行列を見たと書く。ここで、外見上でも複数になるんだよね。つまり、イメージの地平に開けるんだよ。問いや意味といった理屈から入って、その理屈を杖にしながら進んでいって、イメージへたどり着く。表面上では理屈を使いながら、イメージへと開くことに軽快さや明るさがあるわけ。
若竹 そうですね。理屈は、積み重ねればできるけど、最終的には網膜に映る様々なイメージを言葉でもって表現したいという欲望はあります。ある時期、目をつむれば、見たこともない女の人の顔が次々に現れては消えて行ったり、極彩色の絵が脈絡なく動いては消えていくということがありました。いったいこれはなんだろう、とびっくりして。悲しみをきっかけに、脳内の元型が賦活したのではと……ずっと河合隼雄さんの本を読んで来たので、先生が言われたまさに同じことが、私に起こっているのではと、驚いたんです。絵心があれば絵で表現したいけれど、私は言葉でイメージに近づくしかないんです。
保坂 それと、この小説は普通ではない流れ方をしていて、たとえば娘の直美の話があります。直美は結婚して家を出ていて、「いつごろからか疎遠になった」。普通というか、ありがちな小説だとこの後には疎遠になった理由が延々と続いて鬱陶しくなるけど、桃子さんはそれをしない。つまり、内面の暗いところへと小説を深めないんだよね。さらにまた別のシーンで、病院の待合室ではす向かいに座った女が、ハンドバッグから物を出したりしまったりしているのを見て、「ふと、こんな光景にどこかで出くわしたことがあると思った」と言って、娘時代に夜行列車で出会った男の話になる。ここも普通は自分の内面に入っていくんだけど、この病院と夜行列車のふたつの出来事を結ぶのは、「眺めている自分のあり方」であって、昔から自分は「見るだけ、眺めるだけの人生なのだもの」と、自分という人間を描くのに内面の奥へ奥へと深めないから、小説全体が伸びやかで軽やかになる。普通の、ありがちな小説を書く人は、こういうところで自分の内面へ降りていかないといけないと思っているんだよね。

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保坂 この子ども時代のくだりは最初のところで「嫁ぐ前の叔母たちの住むにぎやかな故郷の家」と書いてあって、この感じは多くの人が共有している。僕の場合はおふくろの実家で、田舎の大家族を知っている人はこの一言でにぎやかな家の雰囲気がわかる。年をとるとそれがない時間を生きているという感覚を、みんなが持っているから。だからこそ普通だったら、こうしたにぎやかさがなくなってしまったことの悲しみ一色で描いて失敗するんだよ。でも若竹さんは年齢を重ねているから、人の心が一色ではないことがわかっている。だから小説自体の気持ちも一色にならないんだよね。すべて小説に関わる人は、この作品でもう一度、ちゃんと自分を思い出すべきだなと思う。桃子さんには、自分が生きてきた時代や信じてきたものが噓だったんじゃないか、みたいな感覚があるんじゃないですか。
若竹 噓というか、若い頃はその場その場でものを見ていたのが、年をとると、長いスパンで見るようになります。人も物もこうなってああなってしまったんだと、若い時とはまったく違った枠組みで捉えられるようになります。大事だったものが、なあんだこんなものに拘っていたのかとか、過去をすべて美化はしないけれど、滅びてなくなってしまうものに、たまらなく悲しいと思うことはあります。
保坂 桃子さんの年代の人は年をとってから、違うやり方をすべきだったんじゃないかって、みんな思っているよね。時代はどんどん悪くなる一方だから。磯﨑憲一郎なんてそればっかり書いている。
若竹 そうですね。私の実家はすでに空き家で、両親が一生懸命がんばって大事にした家だから、思い出すとふと泣きそうになります。でもそれは私たちが大人になったということだからしょうがないことでもある。時間がそうなったんだから。生きるというのは、そういうことなんですよね。
保坂 にぎやかな家にいた子どもの頃には、まさかその家から人がいなくなるとは思っていないでしょう。
若竹 思わなかったですよね。
保坂 僕らのお祖父さんの世代の頃には、この家はずっと大家族でいくんだと思っていたんです。そして親の世代というのが大家族最後の住人で、大家族ではなくなっていくことを目撃した人たち。僕らは、そんな親たちを見ていた世代ですよね。
若竹 そうですよね。親世代は、家の存続みたいなことを自分の生きる柱にしてきて、ところが私たちは都会に出て学問をさせてもらって、その結果、都会の住人になって、親の望んでいたこととは別の形になった。私は十歳の時に東京オリンピックがあって、当時親は四十代ですけど、これから新しい時代が始まる高揚感があった。親世代は自分たちの世界を取るに足らないと思い、自分ができなかった学問を子どもにはさせて、羽ばたいていってほしいと思って、一生懸命働いた親たちなんですよね。それが彼らの死後いまのようになることは寂しいし、申し訳ないと思うんです。でも私なんかはいま、逆に土俗性に回帰して、親がここから羽ばたいて欲しいと思っていた遠野の風土とか、そういうものに帰っていきたいと思っています。家といった形では残せなくても、父や母の想いは、言葉で残してあげたいと思います。だから、私のベースは土俗性とか方言なんですが、それで生活感の滲む言葉の厚みを描きたいと思っています。

  • そのあと、一時間ほどギターを弾いた。あいも変わらず似非ブルース。そこそこ流れるようになってきている気はする。
  • その後のことは大しておぼえていない。日記にけっこう取り組んで、七日分を三時間書き足して完成させ、そのあとの数日も適当に省略しながら片づけて、前日分まで投稿することができた。
  • また、今日は音読をたくさんできたのが明確に良かったことだ。「英語」と「記憶」を合わせて二時間四〇分ほどやっている。基本的には音読の時間を多く取れば取るほど良いという方針に確信をいだいた。もちろんほかのことも色々あるので極端に多くはできないが、休日にはなるべく頑張りたい。勤務のある日は一時間できれば文句なくよろしい、というくらいではないか。