2021/2/16, Tue.

 (……)たとえば「構造」は、はじめは良い価値であったが、あまりにも多くの人が不動の形態(「設計図」、「図式」、「型」など)だと受けとめているとわかったとき、価値は失墜した。幸いなことに「構造化」という語があり、それがあとを引き継いで、〈行為〉(end80)や倒錯的な(「無益な」)消費という、きわめて強い価値をふくむようになったのである。

 おなじように、だがもっと特殊であるが、〈エロティック〉ではなく〈エロティック化〉のほうが良い価値である。エロティック化とは、エロティックを生みだす活動である。軽やかに、拡散するように、水銀のように生みだすこと。それは凝固せずに流れてゆく。(……)
 (石川美子訳『ロラン・バルトによるロラン・バルト』(みすず書房、二〇一八年)、80~81; 「対になった価値 - 語(Couples de mots-valeurs)」)



  • いつものように一一時付近の覚醒。なぜかかなりはやい時間、六時か七時かそこらにも一度覚めた記憶があるが。カーテンを開けて陽を浴びながらしばらくじっとし、一一時二二分に起床。じっとしているあいだ、窓外で父親と(……)さんが話している声が聞こえていた。(……)さんというのはすこし前から我が家のまわりで畑をやろうとあらわれたひとで、本業としては(……)で寿司屋をやっているとかいう。結局いまは、林の縁にある小さな土地を借りていくらか野菜を育てているようだ。
  • 水場に行って洗顔やうがいや放尿を済ませてくるともどって瞑想。風がある日のようで、空間の遠くに低いうなりの生まれるのがおりおり聞こえる。しかし、なぜか家にはぶつかってこない。一五分座って上階に行くと、母親に挨拶してジャージに着替える。母親も風がすごいよと言い、(……)さんの家の幟を見ればそれがよくわかると加える。たしかに紙だか布でできた魚はまっすぐ横に浮かび上がって悠々と泳いでおり、あたりには光がかよって、近間の瓦屋根は襞のうち出っ張った部分に白さを乗せて、平面を整然と区切る線条模様を描いている。
  • 食事は煮込みうどんや天麩羅など。新聞から国際面をすこしだけ読む。ドナルド・トランプに対する弾劾否決の件。造反した共和党の七人というのも、改選がまだ遠いかもう今期で引退だからそれができたようで、来年秋に中間選挙をひかえるたいていの共和党議員にとってはドナルド・トランプ支持者の票は失うわけにはいかない頼みの綱だから、弾劾賛成は取れなかったという事情のようだ。クソの一言。ミッチ・マコーネル上院院内総務は、議事堂乱入事件にかんしてドナルド・トランプが道徳的にも実際的にも責任を負っているのはあきらかだが、憲法上の規定からしてすでに退任した民間人を公職者として弾劾訴追することはできないので、有罪票を投じることはしないという立場を取ったらしい。その理屈と信条はまだわかる。
  • 食器を洗い、テーブル上を拭くと風呂場へ。窓を開けて浴槽をこすっていると、風がすぐそばの林の木々を大きく騒がせているのがよく聞こえる。見れば薄緑の竹の葉の群れが風に煽られて炎のようにうごめき回っている。食事中にも、南窓の先の川周りの木々、それに対岸の集落のなかに差しこまれた木が、光の粒をいっぱいにはらんできらきらと立ち騒いでいるさまが見られていた。それらは気づかぬうちに、だんだんと緑の色を取り戻してきているようだった。
  • 緑茶を持って下階に帰ると、Notionを準備し、前日の記事をわずかに足して仕上げるとベッド縁に移ってコンピューターをスツール椅子に乗せ、英語の記事を読んだ。というかその前に先日読んだ記事のなかから「英語」ノートにコピーしておいた部分を読み返し、わからない単語の意味を記していったのだけれど、臥位で英文記事を読むとその場で付記ができずこのように二度手間になって面倒臭いので、英語は基本的にデスクか座位で読んだほうが良い。それが終わると以下の記事をリーディング。そんなに面白い内容のあるものではなく、わりとありがちな話で、文学をやる人間ならだいたい誰でも持っているような心性の紹介に要約される記事だが、氷河にかんする地学関連の語が色々出てきたのはちょっと面白かった。

Doing Safety Case-inspired deep time exercises can not only help us imagine local landscapes over decades, centuries, and millennia. It can also help us take a step back from our everyday lives – transporting our minds to different places and times, and feeling rejuvenated when we return.

There are several benefits to this. Cognitive scientists have shown how creativity can be sparked by perceiving "something one has not seen before (but that was probably always there)". Corporate coaches have recommended taking breaks from our familiar thinking patterns to experience the world in new ways and overcome mental blocks. Contemplating deep time can cultivate a thoughtful appreciation of our species’ and planet’s longer-term histories and futures.

Yet it can also help us refresh during frazzled moments of unrest. Setting aside a few minutes each day for deep time contemplation can enrich us by evoking a momentary sense of awe. A Stanford University study has shown how awe can expand our sense of time and promote well-being. Anthropologist Barbara King has shown how awe can be "mind- and heart-expanding".

  • その後、「英語」を音読。The Beatlesを流しっぱなしにして一時間二〇分ほど。ストレッチと音読をうまく並行させるのが難しい。切りをつけると今日のことをここまで記し、四時四五分。
  • 上階へ。クソ腹が減っていた。胃のなかが完全に空になっている感覚で、わずかながら手が震え、緊張感のたぐいがからだに塗られていた。それでこれは血糖値が下がっているなと思い、戸棚にあった「ハーベスト」の抹茶味を一袋だけいただいた。緑茶を飲むと空腹時にこういう感じになることが多い。血糖値に影響があるのだろうか。カフェインの作用だろうか。「ハーベスト」をパリパリ食べながらザルに米を用意し、流水で磨ぐ。今日は気温が高いので、右手を水にさらしていても痛いというほどではない。鶏肉を買ってきたと母親が言うので、それをタマネギ・椎茸と炒めることに。おのおの切り分け、フライパンに油を垂らし、チューブのニンニクを少量落とし、くわえて生姜も、こちらは生のものをすりおろし、木べらでいくらかかき混ぜながら最小の火でしばらく熱したのち、小さく分割した鶏のササミを投入した。蓋をかぶせながら弱火でじわじわ加熱し、待つあいだは例によって開脚などでからだをほぐす。ときおりかき混ぜながら焼き、ある程度白くなると味醂と料理酒を先に入れて鶏肉に照りを出しておき、そうしてタマネギと茸も追加。火を強めて一気に炒め、焼き肉のタレで味をつければ完成。
  • あとは煮込みうどんの残りがあったのでこちらはもうそれで良いというわけで、ほかの品は母親に任せ、居間に移ってアイロン掛けをした。五時半を過ぎたので外はすでに青く暗い。窓ガラスにこちらの姿がうっすら映るが、そのからだの動きが、自分のものでないように、こちらを離れ独立して勝手に動いているように見えた。しかしこれは離人感というものではなく、単に位置と明度からして像が不明瞭だったことやジャージの襞の映り具合による印象だったようだ。もろもろのシャツを片づけておくともう六時で米もちょうど炊けるところだったので、そのままはやばやと食事。そういえばこのあたりで、台所にいた母親がラジカセで何か音楽を流しはじめ、鳴りはじめたイントロのギターのコードプレイがわりとメロウで柔和なもので、八〇年代くらいのシティポップスめいた感触があり、竹内まりやとか山下達郎とかを連想させるようなものだったのだが、まもなくキックの四つ打ちがはじまって野暮ったいボーカルも入ってくると、それがケツメイシだと知れた。あのギターの和音とニュアンスをよくここまでダサくできるな、と思った。その後の曲中でも、ピアノソロやギターソロはけっこう洒落ていて普通にスマートですばやく流れる感じのものになっているのだけれど、どうしてこういうプレイに対してあのリズムとあの声色とあの歌唱とあのメロディで良いと思ったのかまるでわからない。それぞれ食べ物をよそって食卓に就いたあとには、例の"さくら"が流れる時間があったが、これはイントロからさっそく顕著な甘ったるく最大限に迎合的な叙情性が、芋臭さを辛うじて逃れて素朴さになんとか入った声色にけっこう調和しているように聞こえ、なるほどこれはたしかに大衆的に流通してもおかしくないなと思った。こちらは全然良いとは思わないし質も高いとは思わないが、売れそうな曲として一応まとまっていないこともないように思われた。桜の散花とか忘却 - 回想とか、これ以上なく抽象化されたセンチメンタリズムもたぶん受ける部分なのだろう。
  • ものを食べながら新聞を読む。夕刊の「日本史アップデート」は大和政権について。いまはもうあまり「朝廷」とか言わないらしく、また表記も「ヤマト政権」とカタカナになってきていると言う。というのも、「やまと」というのはもともと「山と山のあいだ」みたいな語源らしく、奈良県天理市にあるとかいう大和 [おおやまと] 神社近在の狭い範囲しかあらわしていなかったのだと。それが「大和」という漢字表記と結びつくのは奈良時代以降なので、いわゆる古墳時代とか飛鳥時代とかの王権を漢字で書くのはふさわしくないだろうということらしい。そもそも「朝廷」という言い方もいまはあまりせず、大王もしくは天皇の権威権力主導で体制を築いていった時期を「王権」、それ以降、官僚制度が成立してのちを「国家」だったか、そういう用語で指すことが多いとか。王権の時期の天皇と豪族の関係は、朝貢や下賜を媒介にした人格的関係だったと考えられているらしい。高校の教科書にも載っている埼玉県行田市稲荷山古墳出土の例のワカタケルの名が入っている鉄剣を見てもそれがわかると。あれは八代くらいに渡って「杖刀人」、すなわち天皇の親衛隊をつとめた一族がもらった品と考えられるらしい。
  • 左下のほうには補足的な感じで短い関連事項の説明があるのだが、そこで、「渡来人」が昔は「帰化人」と呼ばれていたことを知った。こちらが子どもの頃にはすでに「渡来人」だった。この語を提唱したのは上田正昭という京都大学名誉教授だと言い、記者が本人に話を聞いたときには、帰化すべき戸籍もないようなところで帰化人など存在するわけがないんですよ、と笑っていたと言う。明快な理屈ではある。庚午年籍は七世紀のことだ。また、「帰化」というのはもともと、中国皇帝の徳を慕って周辺民族が移住してくることを指して言ったらしく、日本中心主義的なニュアンスが含まれるのも良くない、という考えだったようだ。いまWikipediaを見ると、この件で「右翼からの脅迫を受けたこともあった」とのこと。略歴として、「中学2年生のとき、発売禁止になっていた津田左右吉の『古事記及び日本書紀の新研究』を教師から借り、学校で習う上代史と学問の違いを感じた。第2次世界大戦中の1944年(昭和19年)4月に國學院大學専門部に入り、折口信夫らに師事した。在学中に古書店から津田の著書を入手し、『古事記』・『日本書紀』に対する文献批判に衝撃を受けた。津田と会うことはなかったが、強い影響を受けたという」とある。「折口信夫らに師事した」人物がつい数年前まで生きていたことの飲みこめなさ。死去は二〇一六年で、五〇年代から死の年まで多くの単著を出している。すごい。
  • それから朝刊一面の地震の報を読んだが、怪我人はいまのところ一五七人、一七〇〇棟が損壊とのこと。東北は明日か明後日から大雪や暴風雪が見込まれていると言う。過酷だ。東北新幹線の全線復旧は二四日くらいになる予定らしい。地震が起こったのは一三日の午後一一時八分から九分のあたりである。
  • 食事を終えると食器を洗って片づけ、緑茶をまた用意して(ただし茶葉はかなりすくなめにした)帰室。飲みながら書抜き。しかし今回のこの茶はそこまで美味くはない。まずくもないが、とりたてて快楽を感じない。ポール・ド・マン熊野純彦をすこしずつ写すと、それから書き物へ。今日のことをここまで記せば八時一七分。書きぶりとしてそんなに悪くなかったが、一時、面前を離れて意識が先やべつの場所に行ったところがあった。
  • 歯磨きするなどしてちょっと間をはさんでから音読。今度は「記憶」。日本語はなく、英文記事からの引用が続く。空襲の非常に手短かな歴史など。飛行機による空からの攻撃または爆撃がはじめて導入されたのは一九一四年、ベルギーはアントワープにおいてだと言われるのが一般的らしいが、実はそれ以前に、イタリアとトルコの戦争や第一次バルカン戦争やメキシコ革命で使われていたとか。飛行機という条件を除けば、宋朝時代の中国がすでにincendiary kiteを活用していたらしい。いったいどういったものなのかよくわからないが。
  • 九時で切りとして、入浴前に柔軟。二〇分ほど。最近きちんと正式な時間を取ったストレッチをしていないが、やはり基本の四種は日々やるべきだと再実感した。特に、わりとおろそかにしがちだったのが座位前屈で、これによって脚の裏側の筋を伸ばせば膝周りなどかなり楽になるように感じられる。そうして入浴へ。今日も湯のなかで静止。風はもうまったく吹いていない様子で、窓外に動きの気配はすこしも感知されない。髭を剃った。放置するとT字カミソリで剃るのがけっこう大変なのだが、短いうちだとそもそも剃る気にならない。なんとなく顎が鬱陶しくなってこないと剃ろうという気が起こらない。
  • 風呂は一時間弱、長く入って、自室にもどると詩を書いた。ひとまず第一番としている、「(……)」からはじまるやつを改稿したりすすめたり。一応最後まで行ったというか、とりあえずまとめることはできたのだけれど、そのまとめ方が性急ではないか? という気も大いにしており、最後で急に、わかりやすい「メッセージ」に還元されるかたちに吸いこまれてしまったような感じがある。第一連に切りがつき、そこの流れが停まったところで、でもこれで全体のかたちができたとは言えないし、どうやって落とすかと困りながら言葉が寄ってくるのを待ったのだけれど、やすきに流れてしまったような気がする。まだ完成とは言えないし、このまま仕上がったとしても公開するほどに自分で満足の行くものにはならないような気もする。しかしいずれにしても、日々の書き物を離れて言葉をつらねるこのような時間を取れたのは良かったし、これからもおりおり取っていかねばならない。さしあたりはこの第一番を完成にまで持っていくこと。

 (……)

  • それから豆腐や味噌汁の夜食を持ってきて食いながらウェブを見たあと、新聞の書抜き。溜まっている新聞もすこしずつ片づけていかなければ。その後怠けて、二時直前から今日のことをまた書き足し、いま二時一八分。
  • その後、新本史斉/F・ヒンターエーダー=エムデ訳『ローベルト・ヴァルザー作品集 1 タンナー兄弟姉妹』(鳥影社、二〇一〇年)を一時間強読んで就寝へ。ジーモンの主要な性質としては「夢想家」であることがあり、その点は本人も自認している。また、この日読んだところでは、ジーモンが夜に雪山を徒歩で越えている最中にゼバスチャンが凍死しているのに行き会うのだが、この突然の、何の前兆もない詩人の死はいかにも必然性がなく、ご都合主義的だ。ただ、そう言ったとして、その場合の「ご都合」とはなんなのか不明だし、もとよりそんなものがあるわけでもなさそうだ。そもそもゼバスチャンはこれ以前にはまだ一度しか登場しておらず、野心だけを肥え太らせた未熟で大したことのない詩人として嘲笑されるような扱いだったはずで、カスパールが彼になんとか説教めいたことを垂れていたのはおぼえているが、括弧にくくられた本人の台詞があったかどうかすら記憶にない。そんな完全に傍流的な人物が、そこから展開させられることもなく、二度目に登場するときにはもう死んでいるわけだ。しかもその死に何かしらの重要な意味があるわけではまったくない。あと、ジーモンの女友達であるローザも、今日読んだなかでは急にカスパールを愛していることになっている。この唐突さも、ゼバスチャンの死とおなじく、適当に思いつきでやっているような印象を受ける。そもそも序盤ではローザは、ジーモンのことをひそかに愛しているという設定だったはずなのだ。彼女がその次に出てくるのはジーモンの一度目の徒歩行の途中で、ちょっと立ち寄ったときに訪いがないのを非難しながらソーセージを食べさせてくれたのだけれど、その次に出てきたと思ったらもうカスパールを愛している。とはいえ、ローザがカスパールを愛しているというのはジーモンが彼女の様子から直感したことで、ローザ当人はそれについて何の確証的な言葉も与えていないが。ジーモンの周囲にいる女性としてはいまのところ、姉のヘドヴィヒを除けばローザとクララしかいないと思うが、その二人とも、ジーモン自身にも優しく親愛を抱いているらしき態度で接していながら、恋愛の情はカスパールのほうに向けることになる。「恋愛の情」と言ったってそれが近代小説的に詳しくこまごまと書かれるわけでなく、いかにも書き割り的な、既製品的にチープな描かれ方なのだけれど、しかしいずれにしても、この小説は、女性たちにジーモンを愛させることを拒否しているかのような感じだ。
  • 消灯したあと、ベッド上で少々柔軟してから就寝。