2021/2/18, Thu.

 知識人(あるいは作家)の歴史的使命とは、今日においては、ブルジョワ意識を〈解体〉することを継続し、強めてゆくことである、と仮定しよう。そうすると、解体のイメージについて、きわめて明確でありつづけなければならない。すなわち、わざとブルジョワ意識の内部にとどまるふりをして、そこでブルジョワ意識を荒廃させ、衰弱させ、打ちのめす、ということである。ひとかけらの角砂糖に水をしみ込ませて溶かしてゆくように。つまりこの場合、〈解体〉は〈破壊〉とは対照的である。ブルジョワ意識を〈破壊〉するためには、それから離れねばならないが、そのように外部に位置することは革命的な状況においてしか可能ではない。たとえば中国では、今日、階級意識が破壊されつつあるが、それは解体されているのではない。だがほかの状況(今、ここ)においては、〈破壊〉するとは、結局は外在性だけが唯一の特徴であるような語りの場を再現することにほかならないだろう。外部にあって不動である語りの場を。それは教条的な言語である。ようするに、破壊するには〈飛び(end82)移る〉ことができなければならないのだ。だがどこへ飛び移るというのか。どのような言語活動の中にか。良心と欺瞞のどのような場所にか。だが解体のほうは、解体するあいだに、わたしもその解体とともに歩んで、だんだんと自分自身も解体することを受け入れてゆくことになる。すなわち、逸脱し、しがみつき、引きずってゆくのである。
 (石川美子訳『ロラン・バルトによるロラン・バルト』(みすず書房、二〇一八年)、82~83; 「解体する/破壊する(Décomposer/détruire)」)



  • 一一時半まで意識を失ってしまった。ここ最近のなかでは長い滞在。八時間半ほどになる。やはり通話のある日は終えたらすぐに寝るか、すくなくともベッドに移ったほうが良いのだろう。カーテンをひらき、陽射しを顔に吸収しながらしばらく停止して、肌の輪郭が調いからだに力が寄ってくるのを待ち、一一時四四分に離床した。
  • 水場に行ってきてから引き返し、枕の上で瞑想。今日は長めにおこなった。もろもろの存在や事象の生起を追う。(……)さんから聞いた話だと柄谷行人がどこかで瞑想実践のことを不断の自己生成もしくは自己差異化を観察しつづける技術として定義しているらしいのだが、それは正しいものの、自己だけにフォーカスするわけでもなく、外的世界の生成のほうも同等に対象に入れるのが実際のところである。あまり自己観察だけに淫しすぎると、たぶん自家中毒的な感じになって良くないのではないか。以前からたびたび言っていることではあるが、瞑想的な時間においては、自己と世界はひとつの同一平面上にある感覚知覚の散発的集合として、おなじ領野にて接し合いつながったものとなる。そこでその対象化された自己を観察し感じる自己がいったいどこに行くのかという面倒な問題は措く。また、自他がひとつの同一平面上に置かれて対象としてあまり違いのないものになるという感じはたしかにあるのだが、それはあくまで比喩のたぐいであると思われ、自分とその外の世界の区別や境が消え去るということはむろんない。いちいち判断するまでもなく、感受される情報のうちのどれが自己に属するものでどれが外界に属するものなのかは、生起の瞬間にすでに前提として振り分けられており、その分類が乱れることはない。そこが曖昧になってくると、これは統合失調症的な症状ということになり、おそらく不安を惹起するだろう。瞑想状態がもっと深いものになると自己が解体してくるということをわりと聞くから、もしかしたらもっと長く集中的にやれば自他の境が崩れてくるのかもしれないが、べつにそれをもとめてはいない。こちらとしては、からだの感覚がすっきりとまとまって意識がクリアになればそれで十分である。
  • 一一時五〇分から一二時一四分まで座り、上階へ。すでに食事を終えて台所に立っている父親に挨拶。冷蔵庫を見るとフライパンのカレーが残っていたのでそれを出して火にかける。しばらくかき混ぜながら熱したあと米の上にかけ、きちんと温まっているか怪しかったので電子レンジで加熱を重ねる。そうして食卓へ。テレビは大坂なおみとSerena Williamsの試合を映していた。メルボルンでやっているらしい。父親はそれを見ながら試合の展開や大坂の活躍に応じて言葉を発したり声を上げたりする。テニスもそうだし、スポーツというもの全般も、なんでもきちんと腰を入れて見れば面白いのだろうとは思う。(……)の叔父すなわち(……)ちゃんがいずれ野球場に連れて行ってくれるという話が以前あったので、コロナウイルスの問題が解消したら実現してもらおう。
  • Serena WilliamsはショットのたびにAh! Ah!といって、やや雄々しい感じの叫びやうなりを上げるのだが、それに対し大坂は何の声も出さずにただ黙々とプレイしており、そのしずけさはすでに好感を持てる。とはいえ、たしか大声を出すと筋肉の動きが良くなるとか力が入るというのは実際あるということが証明されていたはずだから、Serena Williamsのやり方のほうが理にかなってはいるのだろうが。マリア・シャラポワとかもプレイしながら激しい雄叫びを上げていたおぼえがあるけれど、海外の選手はわりとそういうひとが多いのだろうか。
  • 新聞はまず文化面。武漢在住の蘭なんとかという書道家が都市封鎖およびウイルス騒動のあいだに書いた日記が翻訳されたという話があった。親族など五人が次々に感染し、うち二人だったか三人だったかを亡くしたと言い、なかでも親しくしていた義兄が死んだこと、また最期の日々に彼が自分ではなくて同僚のほうに電話をかけて、自分とは話さずに逝ったことが著者の心に「一生なくならない傷」を残した、というようなあれこれが記されているらしい。このひとはどうも中国の書道界ではけっこう中心的なほうの人物らしい。王羲之など引いて生死についての感慨を述べているとかなんとか。
  • この書道家は、蘭干武というひとだったと思う。検索してもなかなか名前が出てこなかったし、日記についての情報はまったくなかったが。たしか浅野なんとかという、当地に留学している学者だったか書家だったかが個人的に翻訳を頼まれたという話だったと思うので、出版されたということではないのかもしれない。
  • 食器を洗い、風呂も洗うとうがいを何度もくり返しやっておき、そうして茶を用意して自室へ。Notionを準備したのち、コンピューターをデスクからはずしてベッド縁へ。ボールを踏みながらウェブをちょっと見たあと、そのまま(……)さんのブログもすこしだけ読む。二〇二一年一月一〇日。冒頭の引用は以下。

 いずれにしろ、対象aはわれわれの周囲のどこにでもあり、ラカンが体験したようにわれわれをその光り輝くまなざしで貫通こそすれ、それを摑もうとすればすぐに姿を消してしまうといった消去をその本質とするわれわれにとっての世界の極北をなすものである。
 ところが、世界の果てに収束していたはずのこの空無が、放っておけばメビウスの輪のように表裏を反転させていつの間にか世界のありとあらゆる隙間に忍びこみ、地上を虚なる深みで充たしてしまう。もちろん、それは失われたという条件つきでしか現れはしないが、われわれは世界のどの場所でもそれと出くわすことになる。言葉を換えていえば、対象aとは存在と意味との不可能な重なりの点、つまり我というものの消失の地点にはどこにでも見いだせるものであり、みずからの消失を覆い隠すヴェールとしての機能も併せ持つものとしてあった。その意味で対象aは、有りたいと思いつつ有ではありえなかった主体の喪失を覆い隠し、そこにヴェールを張ることでいまだ主体が存在しているかのような幻想を作りだす装置でもあったのである。
 このように対象aは主体に可能性の次元を与えて世界にあいたその穴を塞ぎつつ、逆説的には主体の喪失を演出する。それゆえ、これは主体に間接的ではあれ、その空虚な本質を告知することになる。それはあくまでヴェールの向こう側から決定的な叫び声を発することで主体に呼びかけ、主体の欲望を喚起するブラック・ホールのような場所でしかない。その叫び声を聴いた主体は、世界の外に投げ捨てられたみずからの失われた存在と唯一関係することのできるこの場所に有無を言わさず呼び出されることになる。
(福原泰平『ラカン 鏡像段階』 p.185-186)

  • この文章のうち、「いずれにしろ、対象aはわれわれの周囲のどこにでもあり、ラカンが体験したようにわれわれをその光り輝くまなざしで貫通こそすれ、それを摑もうとすればすぐに姿を消してしまうといった消去をその本質とするわれわれにとっての世界の極北をなすものである。/ところが、世界の果てに収束していたはずのこの空無が、放っておけばメビウスの輪のように表裏を反転させていつの間にか世界のありとあらゆる隙間に忍びこみ、地上を虚なる深みで充たしてしまう」までがちょっと良いように感じられたのだが、ここは純粋な説明というよりは、イメージも利用しながらの描写に近いものである。その点、やはりこちらの根本的趣味がわかるな、という気がした。結局は物事や事物の動勢や動態を追う記述が好きなのだろう。

 次にデカルトは、今度はメランコリーではなく悪霊をもちだして、同じような疑いを発します。


 〔…〕ある悪しき霊(genium aliquem malignum)で、しかも最高の力と狡知をもった霊が、あらゆる努力を傾注して私を欺こうとしている、と想定してみよう。天、空気、地、色、形、音、その他外界のすべては夢のだましにほかならず、それによってこの霊は信じやすい私の心に罠をかけていると、私は考えよう。〔…〕
 〔…〕何か最高に有能で狡猾な欺き手がいて、私を常に欺こうと工夫をこらしている。〔とすると、すべての知識は不確実であるが〕それでも、かれが私を欺くなら、疑いもなく私もまた存在するのである。できるかぎり私を欺くがよい。しかし、私が何ものかであると考えている間は、かれは、私を何ものでもないようにすることは、けっしてできないだろう。それゆえ、すべてのことを十二分に熟慮したあげく、最後にこう結論しなければならない。「私は在る、私は存在する」 Ego sum, ego exiso という命題は、私がそれを言い表すたびごとに、あるいは精神で把握するたびごとに必然的に真である、と。(同書、四一―四五頁)

  • ここを読んだとき、デカルトのいわゆる「コギト」というのは、近代的主体の自律性を確固たるものとして打ち立てたというより、いわゆる構造主義以降の言語学(エミール・バンヴェニストなど)が主張した、主体に対する言語の先行性・起源性・優位性を先取りしているように思った。「私がそれを言い表すたびごとに」という言い方がとりわけそうだ。松本卓也もこのあとの註釈で、コギトの宣言は一般に思われているよりも堅固な土台ではなく、主体の確立としてはもっとあやふやで不安定なものであるという方向の説明をしている。そこではべつに構造主義がどうとか言語の先行性がどうとかいう話はされていないのだけれど、「私がそれを言い表すたびごとに」の文句からこちらが連想したのは、以下のアガンベンの本のなかの解説である。とりわけ、二つ目の引用のなかの、「わたしたちの文化がもっとも堅固な土台だと思いこんできた主体性、意識は、世界にあるもののうちでもっとも脆くてはかないもの、すなわち発語というできごとに依拠しているのである。しかし、この移ろいやすい土台は、自己と他者たちにひとたび言葉が与えられさえすれば、どれほどうわついたおしゃべりによってであろうと、わたしたちが話そうとして言語を働かせるたびに再建される。そして、その行為が終了するとともにまたもや崩れ去ってしまうのである」の部分。

 (……)現代の言語学によって得られた原理のひとつは、言語(lingua, langue)と現におこなわれている言述行為〔話[わ]〕(discorso, discours)とは完全に分裂した二つの世界であって、両者のあいだには移行も交流もないということである。すでにソシュールが指摘していたことによれば、言語のなかには一連の記号(たとえば、「牛、湖、天、赤、悲しい、五、割る、見る」)が用意されているが、言述〔話〕を形成しようとする場合に、どのようなしかたで、またどのような操作によって、これらの記号が働かされるのかを予見させ、理解させてくれるものは、言語自体のうちにはなにもない。「この一連の単語は、それが思い起こさせる諸観念がどれほど豊富にあろうとも、人間の個体がそれを口にして、なにかを伝えようとしているということを、別の個体に教えることはけっしてない」。その数十年後に、バンヴェニストは、ソシュールの二律背反をふたたび取り上げ、敷衍して、こう付け加えた。「記号の世界は閉じている。記号から文へは、連辞化によってであろうと、ほかのやり方によってであろうと、移行はない。ひとつの裂け目が両者を分け隔てている」(Benveniste, E., Problèmes de linguistique générale, vol. 2, Gallimard, Paris 1974., p.65)。
 その一方で、いかなる言語も、個体が言語をわがものとし、働かせることを可能にするための一連の記号(言語学者たちはこれをシフター[shifter]、もしくは陳述指示語と呼んでおり、そのなかには、とくに代名詞の「わたし」、「あなた」、「これ」や副詞の「ここ」、「いま」などが含まれる)を持ち合わせている。これらの記号すべてに共通する特徴は、それらはほかの単語とちがって事物に関する用語によって定義できるような辞書的な意味をもっておらず、それらの記号(end156)の意味はそれらを含む具体的な言述行為を参照することによってしかつきとめることができないということである。(……)
 (ジョルジョ・アガンベン/上村忠男・廣石正和訳『アウシュヴィッツの残りのもの――アルシーヴと証人』(月曜社、二〇〇一年)、156~157)

     *

 奇妙な生物のことを考えてみよう。幼児のことである。かれが「わたし」と言い、話すようになるとき、かれのうちで、そしてかれにとって、なにが起こるのだろうか。「わたし」、すなわちかれが到達する主体性は、すでに見たように、純粋に言述行為〔話[わ]〕的なものであり、それは概念も現実の個体も指示してはいない。生の多様な総体を超越する統一性として、わたしたちが意識と呼んでいるものの永続性を保証するこの「わたし」は、もっぱら言語的な特性が存在のうちにあらわれるということにほかならない。バンヴェニストが書いているように、「話し手が自分を主体〔主辞〕として言表するのは、わたし[﹅3]がそれの話し手を指している現におこなわれている話〔言述行為〕においてである。それゆえ、主体性の根拠が言語の行使にあるというのは、文字どおり真実なのである」(Benveniste, E., Problèmes de linguistique générale, vol. 1, Gallimard, Paris 1966.(岸本通夫監訳『一般言語学の諸問題』みすず書房、1983年), p.262)。言語学者たちは、主体性を言語活動のうちに据えることが言語の構造におよぼす影響については分析してきた。しかし、その主体性が生物としての個体におよぼす影響については、まだ大部分が分析されていない。わたし[﹅3]としての、言述行為〔話〕における話し手としての、自己自身のもとへのこの前代未聞の現前のおかげでこそ、もろもろの生ともろもろの行為が帰属する統一的中心のようなもの、もろもろの感覚ともろもろの心理状態のうずまく大洋の外にあって、それらの感覚と心理状態があたかも所有主に帰属するかのようにして統合的に帰属する不動の一点のようなものが、生物学的な生を生きている存在(il vivente)のうちに生まれるのである。そして、バンヴェニストが明らかにしたところでは、言表の行為が可能にする自己と世界への現前をとおしてこそ、人間の時間性が生まれるのであり、一般に、人間は、言述行為〔話〕を世界のうちに挿入することをとおして言表の行為を実行するこ(end165)とによってしか、すなわち、「わたし」、「いま」と言うことによってしか、〈いま〉を生きるすべをもっていないのである。しかし、まさにこのために、まさに言述行為〔話〕という現実しかないために、〈いま〉は――現在の一瞬をつかもうとするあらゆる試みから明らかなように――還元不可能な否定性によってしか告げられない。まさに意識は言語活動という内実しかもっていないために、哲学と心理学が意識のうちに発見したと思いこんできたもののすべては、言語の影でしかなく、「夢想された実体」でしかない。わたしたちの文化がもっとも堅固な土台だと思いこんできた主体性、意識は、世界にあるもののうちでもっとも脆くてはかないもの、すなわち発語というできごとに依拠しているのである。しかし、この移ろいやすい土台は、自己と他者たちにひとたび言葉が与えられさえすれば、どれほどうわついたおしゃべりによってであろうと、わたしたちが話そうとして言語を働かせるたびに再建される。そして、その行為が終了するとともにまたもや崩れ去ってしまうのである。
 (165~166)

  • 途中まで読んだところで足裏も十分にほぐれた感じがあったし二時にも達したので、上階に行った。しかし洗濯物はすでに入れられてあった。母親もちょうど帰ってきたところらしかった。足拭きマットだけ洗面所にもどして、ついでに煮込みうどんを食いたいと宣言しておき、冷蔵庫のなかにうどんがあるのを確認してから部屋にもどると、音読をはじめた。「英語」。今日はかなり落ち着いて、丁寧に、一語一語に集中しながら読めた感じがある。やはり瞑想と柔軟をやって意識と肉体をともども綺麗に総合しておくとそうできるのだろうか。焦りがまったくなかった。労働がない日だということも影響してはいるだろう。気づかぬうちに一時間が経過した、という感じだった。Dee Dee Bridgewater『Live At Yoshi's』を流していたのだが、途中、ちょっと音読を休んで腕を伸ばしたりする間があり、そこでちょうど流れていた"Cherokee"のオルガンソロを聞いたのだけれど、流麗で、あまり切れ目なく音符を埋めて長くつらねていくタイプの、つまりビバップ以降のジャズの典型的なソロのかたちではあるのだが、嵌まり方がきちんとしているし、後半で和音に移行して炭酸みたいにシュワシュワ刺激的にやるのも定型ではあるものの単純に格好良くて、このアルバムの演奏はやはり質が高いなと思った。鍵盤はThierry Eliez、ベースがThomas Bramerie、ドラムはAli Jacksonである。誰もうまく、優れた仕事をしている。鍵盤の名に見覚えはないが、Thomas Bramerieはヨーロッパのほう、たしかAndre Ceccarelliまわりで見かけたような気がするし、Ali JacksonもWynton Marsalisの方面か何かで名を見たようなおぼえがある。しかし後者の記憶には自信がない。
  • 三時を回ったところで音読を切り上げ、今日のことをまずここまで記述。すると四時一八分である。書きぶりもなかなかに落ち着いていて悪くなかった。とても良いとまでは言えないにしても。とにかくひとつひとつ、一文一文、一語一語だ。まず目前のことだ。常にそう。
  • その後、この前日、水曜日のことをすこしだけ書き足してから柔軟。そして五時を越えて上階へ。たしかすでに茹でられてあった菜の花の葉と茎を絞り、切り分けて辛子や醤油やマヨネーズで和えた。そのほかの品はすでにできていたはずで、それがなんだったかおぼえていないが、やることはなく、アイロン掛けに入った。エプロンなどもろもろ処理し、するとほぼ六時になったので食事。夕刊の音楽面を見ると、青葉市子の新作が取り上げられていた。この名前はたしか昔、(……)さんが好きだと言っていて知ったようなおぼえがあるが、その音楽を聞いたことはまだない。「架空の映画のサウンドトラック」みたいなコンセプトでつくられたものだと言い、少女が言葉のない島に追放されたみたいな筋立てになっているとか。世相柄色々とはっきりした区別を立ててそのあいだの葛藤や対立が絶えない時代ではあるが、そういう境とか区分けとかを曖昧にしたかった、みたいな発言が紹介されていた。ただそのあと、人間はみんなはるか昔はプランクトンで、そのあいだに境などなかったとか、プランクトンは寂しくて、個としての自分に気づいてもらいたくて光を発しはじめたとか、我々がみんなかつてはプランクトンだったということを日常的に意識して心に留めていれば、対立や戦争もなくなるんではないか、というようなことが述べられていたのには、これはなんだか、あまりよろしくない意味で「文学的」な、飛躍的な想像ではないか? と思ってしまった。作品づくりの手がかりとか足場としてそういうイメージを保持する分にはべつに良いのだろうが。
  • もうひとり、波多野睦美というメゾソプラノ歌手についても。クラシック方面はまるで知らないので初見だが、高橋悠治の曲を取り上げたアルバムをつくったということで興味を惹かれる。
  • 食事のあいだ、テレビではなんだかよくわからん銭湯を舞台にしたコントドラマみたいなものがはじまっていたのだが、そのオープニング曲のギターのカッティングがやたらすばやく、Stevie Salasばりに切れが良くてファンキーなものだった。歌はなし。キャストのなかにSexyZoneという文字が見えたので、男性アイドルが出ていたらしい。そのひとなのかわからんが見目の良い若い男性が劇中で着ていたTシャツに"Sunny Day's"と記されてあって、これはまさかFISHMANSを参照しているわけではないよな? と思いながらもさすがにないなと払ったのだったが、そもそもFISHMANSの曲名に含まれていたのはSunny DaysではなくてSmilin' Daysである("Smilin' Days Summer Holiday")。
  • 食後は一七日水曜日の記録をさらにすすめる。六時四〇分頃から八時二〇分まで一時間四〇分。それから「記憶」を音読。スレブレニツァの虐殺について主には読んだはず。なぜかわからないが、ドイツ第三帝国の所業のみならず、ジェノサイド一般についてできるかぎり知らなければならないという気持ちがある。九時まで読み、ちょっと調身してから入浴へ。風呂のなかではこの日も静止したはず。しかしよくおぼえていない。出てきたあとはやたらだらだらしてしまった。それであっという間に日をまたぐ。
  • 零時四〇分。ふたたび(……)さんのブログ。先ほどの記事の続き。綾屋紗月+熊谷晋一郎『発達障害当事者研究 ゆっくりていねいにつながりたい』にかんして。どの話も面白い。

発達障害当事者研究』で気になった箇所。まず「夢侵入」のひとつとして紹介されている「フラッシュバック」について。「夢侵入」とは、「体の内側から来る感覚であれ、外側から来る感覚であれ、絞り込みやまとめあげなしに入ってくる感覚」が「そのまま次々に記憶にストックされて感覚飽和にな」り、「整理されないままかさばりつづける情報記憶によって頭の中が埋め尽くされるとき、それらを絞り込み、まとめあげて記憶容量を減らさなくては身動きがとれなくなる」がゆえに、「意志とは関係なく、ときおり、堰を切ったように再生される」現象のこと。そしてそのような「夢侵入」の一種である「フラッシュバック」とは、「ヒトやモノの〈自己紹介〉を知る以前の〈刺激〉段階でストックされた記憶が、鮮明なままありありと再生される段階である」とされる(「ヒトやモノの〈自己紹介〉を知る以前」とは対象が象徴化される前と考えればよい)。


旅行や散歩などで新しい環境を体験した日、たくさんの人や初対面の人に会った日、突然の出来事に見舞われた日、あれこれと忙しかった日。そんな一日の途中で疲れのあまり「ふうっ」と気を抜いた瞬間や、一日を終えた夜、眠りにつこうとする際、その日にインプットされたおびただしい数の視覚記憶が、スナップショットのように次々とランダムに再生されはじめる。たとえるなら、「大量に撮りためた写真を時間軸も項目もめちゃくちゃに紙封筒に詰め込んでいたところ、紙封筒が破けて底が抜けてしまい、写真がバラバラととめどなくあふれ出て脳裏に降り注ぐ」といった感じである。(88)

     *

それから「オハナシ」と夢について。「オハナシ」とは「フラッシュバック」とは異なる「夢侵入」の形態。これは「断片的な〈刺激〉段階の記憶を、まったく新たなストーリーにまとめ直して再生される段階であ」り、「現実にあった文脈のなかで意味づけしようとする」働きではなく、「まったく新たな時間軸に編集しなおして記憶の意味をつくりあげている」ものだという。そしてそのような「オハナシ」は、ときに「あまりにも鮮明なため、ときどき「もしかしたらほんとうの記憶だったかもしれない」とわからなくなり、考え込み、不安になることがある」ものだ、と。「たとえば、「入所施設における知的障害者性的虐待」の話を聞いた後、私は実際に施設に入所したこともないのに、「自分がかつて施設にいたとき、男性スタッフが部屋にやってきて、介助と称して私にしたあの行為も、じつは性的虐待だったのだろうか」と、それがまるで過去の記憶であるかのように、鮮明で具体的な映像が浮かび、猛烈に不安になったりするのである。それはちょうど夢から覚めた直後のようであり、それが真実だと信じ込むことはないが、しばらく自信がなくなる、という感覚と同じである」。(94-95)


そしてそのような「オハナシ」と夢の違いは、端的に、前者が「起きているあいだに見てしまう」ものであり、後者が「寝ているあいだに見ている」ものであるとされる。


 私の夢はオハナシと同様、主に過去の記憶の部品と、将来に対する不安や予想が、好き勝手に話をつくりあげるものである。それはとても構成が単純で、「ああ、あれとこれとあれがまざったな」とすぐに分析できる代物である。「明日は子どもの幼稚園の運動会だ」という緊張と、寝る前に見た「フラダンスの映画」がまざって、「幼児が運動会の演目でフラダンスをとても上手に踊っていて驚く夢を見る」といった具合だ。
 夢を構成するのは、最近考えていることや気がかりなこと、前日に見たものの細かい記憶であり、それらがランダムに選択されながら、「よくもまあムリヤリひとつの夢としてまとめあげられたものだ」と他人事のように感心するほど、うまく同居して世界をつくりだす。(97)

     *

177頁から188頁にかけては、聴覚優位である綾屋紗月が、はじめておとずれた喫茶店の店内を把握するにあたって、エコーロケーションを駆使するようすが記述されている。曰く、「店内のあちこちから戻ってくる音で感覚飽和気味になりながらも、左右に首を振り、横目でとらえる世界と反響音を照合させていく。しばらくすると、それまで平面的に見えていた薄暗い店内の奥行きや天井の高さがしだいにわかりはじめる。壁のようだった視界が、凸凹をもちながらぐうっと奥に向かって一〜二メートル伸びて遠ざかり、ふわっと室内が広くなる瞬間が訪れるのである」とのことだが、「凸凹をも」たない「壁のようだった視界」という奥行き不在のようすを想像したとき、不意に、カスパー・ハウザーのことがあたまに浮かんだ。より具体的にいえば、カスパー・ハウザーが遠近感をつかむことができなかったというエピソードを思い出したのだが、はたして本当にそんなエピソードがあったろうか? これを書いているいま、不安になってきた。フォイエルバッハの『カスパー・ハウザー』はすでに売却してしまった気がするが、あれはいまこそ再読すべきなのではないかという気がする。

     *

ほかに、アフォーダンスを物や植物からの声として記述しているのも印象に残った。動植物や無生物と交わすことのできるものとして「会話」という概念を更新・拡張できそうな予感がする。また、熊谷晋一郎のいう「行動のまとめあげパターン」(208)を一種のダンスとして見ることもできるかもしれないと思った。固有の身体と周囲の環境をすりよせた結果ねりあげられていく行動のまとめあげパターンとは、脳性麻痺の熊谷晋一郎やASDの綾屋紗月が、健常者や定型発達者をベースとして設計された環境で生活をする上でのさまざまな工夫を例とすればわかりやすいが、そのような行動のまとめあげパターンとは、健常者であり定型発達者である人間も当然(日々微調整しながら)身につけているものである。こちらがすぐに思いつくのは、たとえば実家でも職場でもいいのだが、日頃長い時間身を置いている環境でのあの動線が決まりきっている感じ、そしてその動線にしたがって移動する足音の数やリズムや響きだけでだれが移動しているのか理解できるあの感じで、そういうパターン化された日常の所作も含めてダンスといってしまってもいいのではないかというのが、書見中、ふとひらめいたことであるのだが、このような概念拡張の先になにがあるのかはまだわからない。

     *

いちばん印象に残ったのはやはり、『〈責任〉の生成』でも言及されていたが、差異というものが苦痛であり、主体に傷をもたらすものであるという観点だろう。これはポストモダン的な差異の称揚に対して完璧な一石を投じているし、無限にたいして有限を、接続にたいして切断を強調してみせた千葉雅也の戦略とも共鳴する部分がある。徹底的に微分化されたたえまない差異の奔流に身をさらすことは苦痛であるということ、そこにユートピアはないということ(これはかつての分裂症神話、そしてその代替わりとしてもちあげられかねない自閉症神話にたいしてしっかりと釘を刺す)、そう考えるとやはり重要なのは程度問題であり、中途半端さであるのだということになるだろう。物語と出来事の配分、象徴秩序とそこにおさまらない現実的なものの配分、一般性と特異性の配分——「配分」と「度合い」という、決して華やかではなくむしろ地味な概念こそが、今後の哲学をうらなうことになるのだと、部外者だからこそ可能な放言をここでひとつしておこう。そしてそれは「調停」というテーマと大きくかかわるのだ。

     *

(……)自閉症的主体は解像度が高すぎるがゆえに「情報」をまとめあげることができない(象徴化/意味化/物語化/パターン化できない)のに対し、大麻による酩酊状態にある主体は解像度が低すぎるがゆえに本来は複雑極まりない「情報」をたやすく一本化してしまう、つまり「解像度の低下」を引き換えにして入力情報が単純化されてしまうのを「感度の上昇」と理解しているにすぎないというわけだ。酩酊状態のいわゆる「勘ぐり」、それから大麻常用者と陰謀論の相性の良さなども、解像度の低さゆえに物語化が過度に進行してしまうのが原因だろう。ガンギマリの果てに「すべてがわかった」としかいえなくなる状態など、物語化の進行がその極点に達しただけにすぎない(……)。

  • ブログを読んだあとは新聞を書抜き。昨年の七月一八日のもの。意味がわからない遅れ具合。米政府が、専門的な知識を持つ技術者などに発給される「H―1B」ビザを停止したのに対し、グーグルやハーバード大学などが反発したという記事。一〇分でそれを写したあとは、ふたたび前日の記事に取り組んで、三時を回ってから切りとして消灯した。この日は水曜日の記事を三時間ほど書けており、この木曜日当日の分も一時間以上綴ったので四時間強は作文にかかずらったわけで、そこそこ悪くない。ひとのブログを読めたのも良い。