2021/2/19, Fri.

 倒錯(ここでは、ホモセクシュアリティとハシッシュというふたつのHの倒錯)による悦楽のちからは、つねに過小評価されている。倒錯とは、ただ〈幸せな気分にする〉のだということを「法」や「ドクサ」や「学問」は理解しようとしない。あるいはもっと明確に言うと、〈より以上のこと〉を生みだすのだということを理解しようとしない。わたしは、より敏感になり、知覚がより鋭くなり、より饒舌になり、より放心できる、などということを。――そして、この〈より以上のこと〉のなかにこそ、差異が(それゆえに人生の「テクスト」が、テクストとしての人生が)、やどりに来るのだ。したがってそれは、女神、加護を祈る像、とりなしの道なのである。
 (石川美子訳『ロラン・バルトによるロラン・バルト』(みすず書房、二〇一八年)、83; 「女神H(La déesse H)」)



  • 一一時前の覚醒。相変わらず。しばらく陽を浴びながら停止のうちにベッドにとどまり、一一時二〇分に離床。部屋を出て洗面所へ。顔を洗い、トイレで用も済ませてからもどって瞑想。一一時二九分から五〇分まで。悪くない感じだった。瞑想中に不安になったり、負の感覚が生じることはもうまったくない。だからと言ってことさら気持ち良くなるわけでもないが、実に中性的で中立的な、クリアに落ち着いた心身の状態にはなる。現在の瞬間に集中する、もしくは持続を見るということがどういうことなのか、身体としてだんだん理解してきているような気がする。
  • 上階へ。母親に挨拶し、煮込みうどんとおにぎりで食事。新聞はまず、社会面の右端に、愛知県知事へのリコール請求で不正な疑いのある署名が見つかり、業者がひとを雇って名簿の書き写しをさせていたという記事を発見した。これは昨日だかおとといに(……)さんのブログでも触れられていたはずだ。まだその引用を読んではいないが。記事によれば、リコール活動をしていた団体がハガキの配布を依頼した広告会社の下請けが、署名収集の期限である二〇二〇年一〇月二五日を過ぎてからもアルバイトを雇って名簿の書き写しに従事させていたとのことで、日付も期限内と偽って記すように指示があったとのこと。記事中に取材にこたえたと挙げられていたのは二人で、ひとりの男性は佐賀市でその仕事をやり、もうひとりの女性も福岡県在住だと言う。愛知県内在住の人間の情報リストがあり、それを複写したということらしい。一〇月二七日二八日に送られた求人メールの写真も載っていた。
  • もうひとつ、国際面から、ニューヨーク州のアンドリュー・クオモ州知事コロナウイルスによる死者を過少に偽っていた疑い、との記事を読んだ。今年一月までに発生した高齢者施設での死者を八〇〇〇人だかそのくらいと集計していたところ、州司法長官からすくなくともその一. 五倍はいるだろうとの疑問が入り、それで再調査して一五〇〇〇人ほどに修正したと。施設から病院に搬送されてから亡くなったひとを含めていなかったというのが州の説明で、だから全体としての死者数は変わらないと言う。ただ、クオモ知事はもともと昨年の三月あたりに、感染が拡大しても高齢者施設への入居を拒否するのはいただけないという方針を出しており、ところがその後、施設での感染者が増加したので五月にはその指針を撤回することになった。したがって、自分の指針のために死者が増えたことを隠蔽しようとしたのではないか、という疑いを向けられているとの話だ。
  • 食事を終えると食器を片づけ、風呂も洗った。そうして下階の自室に帰るとNotionを用意。そのままコンピューターを持って、ベッド縁でボールを踏んだり、仰向けに転がって脹脛を揉んだりしながらだらけるといういつもの流れ。すでに花粉は飛んでいる。ベッドにいるあいだも何度かくしゃみが湧いた。二時過ぎで切り上げると上階に行き、洗濯物を取りこむ。(……)あかるい陽射しのなかで洗濯物を取りこんで、タオル類をたたむ。それからベランダにまた出て、日向でちょっと体操をした。寒くはないが、空気が流れるとちょっと締まる感じもあり、それほど温暖にゆるんでいるという感触でもない。梅の木はもうだいぶ雪白の装いをひろげている。
  • 帰還すると二時半前。今日のことをまずここまで記した。
  • それから「記憶」を音読。三時半まで。そのあとは、この日は勤務があるから時間がすくないにもかかわらず怠けた様子。四時半までだらだら過ごし、何かしらのものを食べたり歯磨きしたり身支度を整えたりして、いつもどおり五時過ぎに発ったはずだ。職場までの道行きの印象はもはや残っておらず、忘れてしまった。(……)
  • (……)
  • 帰路の印象ももはや失われた。帰宅後は休身。そうしながら過去の日記を読み返し、検閲する。一年前の二月一八日と一九日。二月一九日の冒頭の書抜きが以下の町屋良平の文章で、きちんと読み返したがなかなか良いように思われた。

 久伊豆神社に参拝し、錦鯉や巨大亀のひそむ庭園をながめる、木洩れ日が水面をまだらにすると、パチパチと土が弾けてい、湿った土が乾いてゆく。高校生のときは人並みの登下校や青春にかまけていて、まともに池を眺めたことなんてなかった。だから小学校の周辺地図に比べて、高校の周辺地図はあたらしく、においたつような並行宇宙の香りがしない。自分が自分じゃなくてもこの場所はこうだった、とおもえる。ようするに、かれが感慨喪失なんてしてもしなくても、あたりまえにここにある景色のようにおもえる。小学校の周囲をまわっているときは、かれは自分がお化けみたいだとおもえた。以前は濃くあったノスタルジーの、手足の細く短いたよりない、犬や猫みたいな数秒ごとにうつりかわるかわいい情緒で、そこに通っていて、ラムネで二十分、アメで十五分、集中して時間をおくればあとはひたすら暇だった。そうしたことが、急激に脳裏にあらわれて、うしなったことが丸ごと襲いかかってくるようで、かれはつかの間自分がなにかを、失ったのか暴力的に与えられているのかわからない。ノスタルジーの凝縮が徴兵みたいに、ショックだった。もうかえってこられない、血縁をぶつ切りにされながらも同時に、ちがう故郷を蹂躙するような気分になった。人為的災害があって、カタストロフがあって、そのあいだにたくさんの思惑があって、霊感がとびかい、自分のたくさんが死んで、それでも語っているその暴力に、小学校の外周を回っているときだけひたされて、皮膚のしたがシュワシュワはじけていた。さわれない校庭の砂の感触を、記憶のなかでたしかめようともその記憶と情緒が切り離されていてからだが反応しない。切断は日常をおびやかして小学校を離れたら語りえなかった。小学校をあやうい息切れとともに離れて、道なりに幼稚園、中学校と進んでゆくとだいぶ回復し、忘れてしまった。池をみてまたおもいだした。あらゆる差異に敏くあっても、語りのなかで暴力と結びついてだれかの故郷を踏みにじる、靴底が足の裏と想像力で切り離されて、まなうらで希望をみてしまうから、白目をむいて生活を生きている。
 かといって、安穏と日常をいとなんでいる。暴力じゃない顔をして飯をくって資本を拡大しているふりをしに会社にいく。元荒川に群生する草花の、生きる叫びのようなのをきいている。鉄筋コンクリート桁橋が跨ぐ、四角く五十センチのたかさでかかげられた親柱が斜めに傾き、深く掘られた堤防の、人類の安全地帯のたかさにまで草は伸びてせまってきていて、そこにきゅうな雨がふってかれはもってきた折り畳み傘をひらいた。出がけに草生に予言された雨だった。二十分ですぐにやむと、積乱雲が去って両手のひらぐらいのサイズで陽がさした。葉にしたたる滴がひかりを反射すると、川がごうごうながれ、かれは、なにかを閃いた。なにか、天啓が。物語なら物語に、絵なら絵に、音楽なら音楽に、ビジネスならビジネスへのモチベーションにすべきインスピレーションかもしれなかった。傘を折り畳んでしまい歩を進めると、五歩でその天啓を忘れ、忘れたあとに、このままで生きていこう、とかれはおもった。とくにインスピレーションの要らない人生だった。なにかを表現したらたちまち暴力になってしまうのでかれはこわい。(……)
 (町屋良平『愛が嫌い』文藝春秋、二〇一九年、249~251; 「生きるからだ」)

  • 「めくって二面には現時点での世界の新型コロナウイルス感染者数のリストが載っており、感染者は中国国内で七万二六〇〇人ほど、死者は一八六八人だったと思う」ともある。また、以下の場面も。この記述からするに、去年のほうが梅の咲きがはやく、旺盛だったのではないかという気がする。花粉にかんしても、今年はまだこれほどの症状を体験していない。単純に、日中外に出ないからかもしれないが。

 食後、食器を洗い、風呂洗いも済ませて出てくると空気に陽射しが通っているので、久しぶりにベランダで書見をすることにした。自室からロラン・バルト/藤本治訳『ミシュレ』を持ってきてベランダに出ると、外気のなかに踏み入った途端に花粉が鼻粘膜に襲いかかったようで、早速くしゃみが連発される。洗濯物は戸口の方に寄せられてあり、床のなかほどにひらいている日向を邪魔するものはなかった。こちらの黒い肌着が一枚落ちていたので、拾い上げて吊るし直し、そうして白い陽だまりのなかに胡座を搔いて本を読んだのだが、肌着が落ちていたことからも推測されるように風がなかなか強く吹き流れ、洗濯物はひっきりなしに揺らされて、いくつものフェイスタオルを留められた集合ハンガーはくるくると旋回する。眼下の梅の樹は花をだいぶ厚く広げて清潔そうな雪白を枝に膨らませながら揺らいでいるが、花と枝の接合、花弁同士の結合はまだまだ確かなようで、そこから剝がれて零れ落ちるものはない。こちらは姿勢を固めて微塵も動かずただ文字を読み取るだけの主体へと変化[へんげ]しようと試みるのだが、花粉の猛攻のために鼻水がしばしば湧き、それをたびたび啜ったり鼻腔の入口辺りをちょっと拭ったりする必要があり、どうしても身体を動かさないわけには行かない。それでもなるべく動かず頑張っていると、今度は右足を乗せられていた左足が段々と痺れてきたので、胡座をほどいて姿勢を崩しながら本を読み続けた。

  • 食事と風呂のことも忘れた。いや、ひとつだけ思い出したことがある。夕食時、『ドキュランドへようこそ』というドキュメンタリー番組がやっており、ノルウェーのハルデン刑務所という施設が取り上げられていた。最高度に豪華な設備が整えられた刑務所。あまりよく見なかったのだけれど、きちんと見れば面白かっただろう。「更生」という観点からすれば犯罪を犯した人間を人間として取り扱うということは不可欠だと思われるが、目的が犯罪を抑止する圧力を生み出すとか社会的なはみ出し者をぶちこんで隔離しておくとかいう段階に限られるのだったら、犯罪者に充分な人権などいらないという理屈に接近するだろう。ハルデン刑務所は一定の効果を上げているようだったが、それにしてもそこまで豪華で豊かな環境にする必要があるのかという疑問は当然あってしかるべきだ。出所者の再犯率がどうなっているのかとか、そこにもどりたくてわざわざまた犯罪をはたらくひとがいないのかとか、データにもとづいた有効性の評価を確立させるとともに、実際に刑務所で過ごしたひとに対する聞き取りやその後の生活にかんする追跡調査をおこなうことが必須だろう。あと、ノルウェースウェーデンあたりの北欧諸国は社会民主主義が強くて高負担・高福祉の国家制度になっているというのはよく聞くところだが、そういう国家モデルが採用され確立するにいたった歴史的経緯や、なぜ北欧にそういう国が集まっているのかという地域的背景や思想的発展についても知りたい。
  • 風呂を出て部屋にもどったあと、ふたたび二〇二〇年一月四日の記録を読んだ。この日は芝健介『ホロコースト』を読んでいる。ショアー関連の記述。

 (……)トレブリンカは、一九四二年の七月二三日に始動したのだが、ここにはワルシャワ・ゲットーの住民が大量に移送され、「九月末までにワルシャワ・ゲットー住民男性の87・4%、住民女性の92・6%がガス殺される」(183)とあって、思わず、は? と思った。マジで? と思った。本当に意味がわからないと言うか、信じがたいとしか言いようがない。九割だぞ? 今読んだウィキペディアの記事の記述も引いておこう。


 1942年7月22日、ラインハルト作戦の執行責任者であるオディロ・グロボクニク親衛隊少将の強制移住部隊のヘルマン・ヘフレ(Hermann Höfle)親衛隊大尉がワルシャワ・ゲットーのユダヤ人評議会を訪れた。ユダヤ人評議会議長チェルニアコフはヘフレから「特定のグループを除いて、性別や年齢にかかわらず、ユダヤ人全員を『東部』へ移送する」旨を通達された。チェルニアコフはドイツ政府との完全協力によるゲットー解体の阻止に賭けていた自分の政策が敗れたことに気づかされ、絶望した。せめて子供と孤児は移送対象から外してほしいと要請したが、それも拒絶された。7月22日、チェルニアコフは青酸カリを飲んで自殺した[29]。
 チェルニアコフ自殺を受けて、ユダヤ人評議会は即座に議長代理マレク・リヒテンバウム(Marek Lichtenbaum)を後継の議長に選出した[30]。リヒテンバウムはドイツの命令に機械的に従い続けた。ゲットー警察が次々とゲットー住民を検束してウムシュラークプラッツ(集荷場)ヘ連行した。連行された人々は親衛隊の列車に乗せられてトレブリンカ絶滅収容所へと移送されていった。なお移送対象者の狩りたては初めゲットー警察が中心に行っていたが、移送が急ピッチになってくると、ドイツ兵やウクライナ人補助兵もゲットーの中に入って来て狩りたてに参加した[31]。
 1942年7月末までに6万人が移送され、8月15日までにはゲットーの人口の半分が移送された。そして第一次移送が終了した9月13日までには総計30万人が移送されていた[32]。移送作戦中に殺害された者も多く出た。ユダヤ人評議会の報告によるとゲットー住民のうち、銃創による死者数は、1942年8月には2305人、9月には3158人としている[33]。
 この時点でゲットー内に残っていたのはせいぜい7万人程度だった。半数が労働者登録されており、残りの半数は隠れた者たちである。大多数が20歳から39歳の間であった。ゲットーの規模は急速に小さくなり、ユダヤ人の住居はゲットー内の北東部の隅に限定された。しかし工場などの作業場はレシュノ通り、カルメリッカ通り、トヴァルダ通り、プロスタ通りなどにいまだ存在していた。ゲットーの他の部分は空になった[33]。第二次移送作戦は1943年1月18日に開始されたが、抵抗運動の激化のせいで四日間で打ち切られ、6,500人程度の移送しかできなかった[34][35][36]。
 (https://ja.wikipedia.org/wiki/ワルシャワ・ゲットー)(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AF%E3%83%AB%E3%82%B7%E3%83%A3%E3%83%AF%E3%83%BB%E3%82%B2%E3%83%83%E3%83%88%E3%83%BC%EF%BC%89)


 トレブリンカでは諸説あるものの、七〇万から九〇万人のユダヤ人が殺されたらしい。これはアウシュヴィッツ=ビルケナウにも匹敵する数だ。トレブリンカ及びソビブルでは、収容者の武装蜂起が起こっていたこと、それが遠因的にかもしれないが、収容所の閉鎖に繋がったことも記憶しておくべきだろう。絶望的としか言いようがないはずの状況下で、それでも抵抗した無名の人間たちがいたという事実を、やはり記憶しておくべきだろう。「トレブリンカ絶滅収容所では、一九四三年八月二日に収容されていたユダヤ人が武装蜂起する。結局鎮圧されたが、収容所はその後、閉鎖・解体されることになる」(185)。「一九四三年一〇月一四日、収容所内でソ連軍捕虜とユダヤ人が中心となり武装蜂起する。その日のうちに鎮圧されたが、数十名は地雷原を越えて森に脱出し、戦後まで生き延びた人もいる。その直後、ソビブル絶滅収容所は閉鎖・解体が決定された」(182)。

  • 絶滅収容所にて武装蜂起を実行し抵抗した人間たちがいたという事実を記憶しておくべきだという言い分には同意するが、「それが遠因的にかもしれないが、収容所の閉鎖に繋がった」という点にかんしては、本当にそうなのかどうか慎重でなければならない。そこにたしかに因果関係が認められるのかどうか。それを調べて証明できるほどのはっきりとした史料が残っているのか不明だが。残っているならもうすでに研究しているひとがいるだろう。

 (……)ラーゲルとは人間を動物に変える巨大な機械だ。だからこそ、我々は動物になってはいけない。ここでも生きのびることはできる、だから生きのびる意志を持たねばならない。証拠を持ち帰り、語るためだ。そして生きのびるには、少なくとも文明の形式、枠組、残骸だけでも残すことが大切だ。我々は奴隷で、いかなる権利も奪われ、意のままに危害を加えられ、確実な死にさらされている。だがそれでも一つだけ能力が残っている。だから全力を尽くしてそれを守らねばならない。なぜなら最後のものだからだ。それはつまり同意を拒否する能力のことだ。そこで、我々はもちろん石けんがなく、水がよごれていても、顔を洗い、上着でぬぐわねばならない。また規則に従うためではなく、人間固有の特質と尊厳を守るために、靴に墨を塗らねばならない。そして木靴を引きずるのではなく、体をまっすぐ伸ばして歩かねばならない。プロシア流の規律に敬意を表するのではなく、生き続けるため、死の意志に屈しないためだ。
 (プリーモ・レーヴィ/竹山博英訳『これが人間か』朝日新聞出版、二〇一七年、46~47; 「通過儀礼」)

  • 「同意を拒否する能力」。これはきわめて重要な主題である。ハンナ・アーレントが『責任と判断』のなかに入っていた論考において、第三帝国で体制に加担することを避けられたひとびとのあり方にかんして考えていたのも、これと同種の能力だったはずだ。否定性という力の射程について考えなければならない。
  • 「「愛」ではなくて、〈慈しみ〉という概念を思考の内に導入するのはどうか」とあるが、この思いつきはちょっと気になる。
  • 一時半で読み返しは終わり、それから一七日水曜日の記事をすすめ、ようやく完成させることができた。総計で四時間二〇分を費やしたらしい。その後、新本史斉/F・ヒンターエーダー=エムデ訳『ローベルト・ヴァルザー作品集 1 タンナー兄弟姉妹』(鳥影社、二〇一〇年)をほんのすこしだけ読んで三時一三分に消灯。