2021/2/20, Sat.

 彼は、ニーチェのなかで読んだ「道徳性」という言葉(古代ギリシア人における身体の道徳性)の(end83)定義をさがしており、この言葉を道徳と対立させて考えている。だが、概念化することができない。ただ、実践の場のようなものを、ひとつの〈トピカ〉を認めうるだけである。その場とは、彼にとっては明らかに、友情の場である。いや、(ラテン語のこの言葉はあまりにも堅苦しくてあまりにも上品ぶっているので)、むしろ友人たちの場と言ったほうがいいだろう(友人たちについて話しながら、結局、わたしは自分を、友人を、ある偶然性において――ある差異において――しかとらえることができない)。この〈はぐくまれた〉情の空間において、彼は、その理論化が今や求められているあの新しい主体による実践を見いだすのである。友人たちは互いに交際網を形成しており、会話をかわすたびに異所性の問題を課せられるので、各人が〈外部/内部〉として自分をとらえねばならない。それらの欲望のなかで、わたしはどこにいるのか、わたしは欲望のどこにとどまっているのか、というふうに。その疑問は、友情をめぐる予期せぬできごとがおびただしく繰り広げられることで、わたしに提起される。こうして、けっして終わることのない情熱的なテクストが、魔法のテクストが、日ごとに書かれてゆく。「解放された本」という輝かしいイメージである。

 すみれの香りとお茶の味は、どちらもきわめて特殊で、たぐいまれで、〈えも言われぬ〉ものであるように見えるが、それらはいくつかの要素に分解することができて、その微妙な配合によってまさしく物質の独自性が生まれているのである。同様に、それぞれの友人を〈感じよく〉している独自性も、ひとつの配合にあるのだと彼は感じていた。日々のつかのまの場面のなかで集められた小さな特徴が微妙に調合されて、それゆえ完全に独自のものとなっている配合なのである。そのようにして、(end84)彼の前で、友人のひとりひとりが自分の個性をあざやかに演出して見せていたのである。

 ときおり、昔の文学のなかで、愚かしく見えるこの表現を目にすることがある。〈友情という宗教〉(誠実さ、英雄的精神、性欲の不在など)という表現だ。とはいえ、宗教のなかにも儀式の魅力だけはまだ残っているので、彼は友情のささやかな儀式はつづけたいと思ったのである。たとえば、仕事から解放されたことや、心配が遠のいたことを友人と祝うのである。祝いの儀式をすると、できごとの価値がより大きくなるし、無益な追加や倒錯的な悦びがふえてゆく。そういうわけで、不思議な力によって、この断章は、すべての断章のあとに最後に書かれたのだった。いわゆる献辞のように(一九七四年九月三日)。
 (石川美子訳『ロラン・バルトによるロラン・バルト』(みすず書房、二〇一八年)、83~85; 「友人たち(Les amis)」)



  • 一〇時半頃に意識が復帰した。カーテンを開けると、熱く晴れ晴れしい光が射しこんでくる。しばらくそれを顔に浴びながら静止。何か夢を見たと思うが、忘れてしまった。携帯を見るとメールが入っており、(……)からだった。元気かと問う短いものだったので、生きてると返してそちらはと訊いておく。そうして一〇時三六分に離床。水場に行ってきてから瞑想。一〇時四三分から一一時五分まで。悪くない落ち着き。
  • 上階へ。両親とも不在。ジャージに着替える。(……)さんの家の魚の幟を見るかぎりでは風というほどの空気の動きはなく、流れはしずかな様子。窓ガラスの右下に覗く梅の梢も揺らいでいないし、ベランダのガラス戸にあかるみとともに映っている洗濯物も弱く身じろぎするのみである。洗面所でうがいを念入りにやっておく。すでに花粉が飛んでいるので、起き抜けの喉が少々乾いているような感じがあるし、くしゃみの回数も増えた。
  • ハムエッグを焼いて食事。新聞は二面にあったミャンマーの記事のみ読んだ。抗議活動ではじめての死者が出たと。九日に警察によって頭部を撃たれ、ヘルメットを貫通したその銃弾のために重体におちいっていた二〇歳の女性が亡くなったとのこと。当局側はゴム弾を使用したと主張していたが、医師によると実弾だったと言う。国軍側に対する反発と抗議が強まることは必定だろう。
  • 食器と風呂を洗い、階段をくだって自室へ。Notionを準備したあと、今日もまた足を和らげながら長くだらだらしてしまった。なかなかすぐにやる気を出して活動に入ろうというからだにならない。ただそのおかげで、下半身は相当軽く、楽になったが。ボールを踏んだり、ベッドでゴロゴロしながら太腿から脛まで一帯を揉んだりし続けて、あっという間に二時半をむかえてしまった。上階へ。両親ともいないが、洗濯物はすでに取りこまれていたから、父親が入れたのだろう。吊るされてあるタオルなどを取ってたたみ、そのまま二度目の食事へ。豆腐と即席の味噌汁を用意。その最中に父親がなかに入ってきたので、母親はまだ出かけているのかと訊けば、柚子をもらいに行ったとかいうことだった。台所に寿司や惣菜が置かれてあったので、一度帰ってきてまた出たようだ。
  • 豆腐と味噌汁を持って部屋にもどり、食したあと、三時過ぎからまず今日のことをここまで綴った。今日も勤務。五時の電車で行かなければならない。それまでに一八日の記事を仕上げ、音読をし、いくらかでも柔軟をできればさらに良い。
  • 一八日の文章を進行。四時まで。完成には至らなかったが、音読や柔軟の時間を確保するために途中で切った。トイレに行ってきてから、「英語」を読む。いつもどおり、Thelonious Monk『Solo Monk』がBGM。フィンランドのOlkiluotoという核燃料貯蔵施設について触れた文章など。足を尻のほうに引っ張り上げながら読んで、これも一五分で短く切り、柔軟をおこなった。まず開脚から。最近やっていなかったが、前後に脚をひらいて筋を伸ばすのも効果的である。あと、ベッドに足先を乗せれば太腿の内側あたりを簡単に和らげることもできる。その他、合蹠と前屈。四時四〇分までからだを整えた。携帯には(……)からの返信と、二五日の通話についての(……)くんのメールが届いていた。返信は後回しにすることに。
  • 食器を持って上階に行くと母親が帰ってきており、台所でもう食事の支度をしている。一パックだけあった寿司は食ってよかったらしい。帰ってから食べるとこたえ、もう時間がないと言いながら靴下を履き、下階に帰るとスーツに着替えた。そうしてバッグを用意し、コートも羽織って洗面所に行くと手短かに歯磨きを済ませ、階段を上る。行ってくると告げて出発。
  • この日は空気のしずかな夕方だった。流れはあまりなく、まったく止まってしまい何の感触も生まないときもあったし、寒さも含まれていなかったはず。公営住宅前を通って十字路に近づいた頃にも大気から動きが消え、そのなかであたりの木々から鳥の囀りが多数、立っては散る。坂道へ折れるとマスクをずらして上っていく。出口付近では頭上の竹がさらさらかすかに響く時間があった。
  • ボタンを押して街道の車を止め、横断歩道を渡って駅へ。階段を行くあいだこちらの横を、黒いジーンズで耳にはイヤフォンを挿しこんだ若い男性が追い抜かして上っていく。ホームのベンチには外国人の親子連れの姿があった。二、三年前に坂下の一軒に越してきたひとだろうかと思ったが不明。ベンチを過ぎてすすむと父親と幼子の二人連れもあったが、その子どもも英語を話しているように聞こえた。そういえばこの前日、職場から帰るときにも、乗った電車の端の席を異国のひとびとが占めており、大きな声の英語でにぎやかに話していたが、あの時間から山のほうに行くというのはどういうことなのだろう。いずれにしても、数年前に比べて身のまわりで英語が聞こえる機会が格段に増えている印象。この田舎にしてそうなのだ。
  • ホームの先へ。中年以上の男性が二人おり、(……)がどうとか話していた。正面、丘の麓にひろがる土地には新しい家が建てられている最中で、シートに囲まれた家組みが見える。空はすっきりと雲なく、ほとんど白にいたるくらい醒めた淡さに晴れていたはず。やって来た電車に乗ると着席して瞑目に沈み、着いてもすぐには降りずに数分だけ手帳にメモを取った。それから降車して駅を抜ける。出口に向かうあいだ、心身の状態に際立ったことはなく、倦怠もなく落ち着いていたと思う。
  • (……)
  • (……)
  • (……)
  • (……)
  • (……)
  • (……)それで急いで駅に入り、小走りにホームまで行って乗車。(……)
  • 最寄りで降りてホームを行けば、ベンチにずいぶん大荷物の女性(だったと思うのだが)がおり、こちらのほうをそこそこ長く見てきたので、何か困っているのかなと思ったものの声はかけなかった。というのも、いましがた階段を上りはじめた男性がそのひとの連れらしかったからだ。荷物はやたら多く、ベンチ上にそれらが置かれているのを一瞬、ひとが寝ているのか? と錯覚しかけたくらいで、格好は男女とも全身防寒的につつまれるような感じで洒落っ気はまったくなかったが、山帰りなのかなんなのか、なぜこんな時間にそんな様子でこんなところにいるのかわからなかった。よく見なかったので年齢もわからないが、わりと年嵩のほうだったのではないか。階段を上っていく男性はトイレに向かうらしいのだが、めちゃくちゃ疲れているような雰囲気で、足取りはこちらに負けないくらいのろかった。
  • 駅を出ると木の間の坂へ。ここで風がちょっと流れて木々の鳴りが生じるとともに道を縁取る葉っぱたちの最前線がふるふると親しげなように震えるのを見た記憶があるのだが、この日は風がなかったはずで、前日の金曜日の記憶かもしれない。判断がつかない。その後の帰路の印象は特になし。おそらく(……)くんのことを考えていたためである。難しい仕事や場面に出くわした日の帰路は、自分の言動や振舞いを思い出して、あれで良かっただろうか、と顧みることがわりとある。そうするとその思考に入りがちになるので、周囲のことをあまり感得しなくなる。この夜道でおぼえているのは、ひとり対向者とすれ違ったことくらい。
  • 帰り着くと手洗いなど済ませて部屋に帰り、ジャージに着替えて休身。ベッドに転がって新本史斉/F・ヒンターエーダー=エムデ訳『ローベルト・ヴァルザー作品集 1 タンナー兄弟姉妹』(鳥影社、二〇一〇年)を読んだ。147に「さしずめ」という語が出てくるが、これ自分の文章のなかで使ったことたぶん一度もないなと思った。他人が使っているものとしては、(……)さんの『亜人』のなかで、たしか亜人がうろつく領主の館のなかの様子の、高くひろい吹き抜けになっていて歴代の領主の巨大な像だかが鎮座しているみたいな描写があるあたりで、「さしずめはなやかな閉塞感」というフレーズがあったのを明確に記憶している。表記が「さしずめ」だったか「さしづめ」だったかまではおぼえていない。漢字で書けば「差し詰め」で、もとは「さしあたり」とおなじ意味のようだが、「言わば」「言ってみれば」というようなニュアンスでも使われ、ここでのヴァルザー/新本もそういう使い方だ。「(……)丘に嵌め込まれたように建つ一軒の家があり、それは詩人のことばでいうならさしずめ「奥には一軒の家が佇んでいた」とでも言えそうな家だった」という調子だが、このほぼ無特徴で簡素な一節描写のどこが「詩人のことば」やねん、と思ってちょっと笑ってしまう。この無意味で冗長な、まったく必要のない迂回的補足はなんやねん、と。
  • 160~161にはいかにもヴァルザーらしい夢想的な春の風景の描写があるのだが、このけばけばしさ、色をこれでもかと塗りたくられたような記述の分厚さはやはりひとつのもので、不可解な執拗さ、執念のようなものすら感じてしまうくらいだ。いずれ書抜くことにした。自然の風景の描写にかんしてはヴァルザーはけっこう派手にゴテゴテとやるところがあって、そのあたりいかにもロマン主義的な風潮のなかにいてそれを受け継いでいるのだが、それにしても尋常のやり口から抜きん出ているような、ちょっとまちがえればキッチュに転じかねないような過剰さをおぼえる。
  • 一〇時頃まで読んで食事へ。(……)
  • 夕刊からは池辺晋一郎「耳の渚」を読む。このひとは作曲家で、けっこう面白い話題を綴っていることがあって、たまに読んでいる。今回は二五年前の一九九六年二月に柴田南雄というひとと武満徹が相次いで亡くなったという枕からはじまる回顧および「アニヴァーサリー」の話で、知らない作曲家の名が色々出てくるのでメモしておくことにした。柴田南雄というひとは「48年には、井口基成、斎藤秀雄吉田秀和などの諸氏とともに「子供のための音楽教室」を立ち上げ、これはやがて桐朋学園大学音楽学部に発展した。小澤征爾中村紘子をはじめ多くの逸材を生んだのは周知の通りだ。さらに、吉田秀和を所長として黛敏郎、入野義朗、諸井誠らとともに「二十世紀音楽研究所」を開設」したらしい。『西洋音楽史 印象派以後』などの著作もあると。入野義朗というひとは今年で生誕一〇〇年であり(一九二一~一九八〇)、彼は柴田南雄や戸田邦雄というひととともに日本で最初に「一二音技法」を実践したというのだが、シェーンベルクがこれを完成させたのもちょうど一〇〇年前の一九二一年だとのこと。池辺氏のコラムの左には、先崎彰容 [あきなか] 『鏡の中のアメリカ』(亜紀書房)の刊行が伝えられている。
  • ほか、朝刊もまためくったが、九面の解説欄に、イタリアでマリオ・ドラギ政権が成立したのを期して、村上信一郎という神戸市外国語大学名誉教授による近年のイタリア政治の要約解説があったので読んだ。現政権にいたるまでの経緯や制度の変化について簡略だがポイントを押さえたわかりやすい説明という印象なので、いずれ書き抜いておくことにして、紙面を部屋に持ってきている。
  • 食後、風呂の前に緑茶をつくって帰室。飲みながら一八日の記事を記して完成させ、投稿。そうして入浴へ。
  • 風呂のなかでは例によって、からだを低く伸ばすのではなく背を浴槽の壁にややあずけるようなかたちで上体を立て、足は適当に、あぐらになりきらない程度に丸め、両手をゆるく組んで股間の上にぼんやり浮かせながら瞑想じみた静止状態を取っていたのだが、そうしながら思ったことに、未来というものが本当は存在しない仮構物であるということが最近とみに実感されてきている。次の瞬間、などというものは存在しない、と言ってしまうと、「次の瞬間」という言葉を考える瞬間に次の瞬間が来てしまっているので体感に即さないのだが、たとえば五分後の時間は存在していないということが、非常によくわかってきた。というかそもそも、そのように、時間というものを数量的な厚みで考えることが本当はまちがっているのだと思う。まちがってはいないのかもしれないが、それは我々の思考に仕掛けられたもっとも大いなる罠のひとつだと思う。そういうわけで、ベルクソンが言っていることがだんだんとよくわかってきた。ベルクソンが言っていることと言ったってこちらはまだベルクソンの著作をひとつも読んだことがないので聞きかじりだが、彼は、時間はいままでずっと、常に誤って空間化されてきた、しかし本来、時間は空間化によって把握できるものではない、というようなことを主張していたらしい。「空間化」というのは、この文脈に即して言えば、「数量的な厚みで考える」ということだろう。未来は存在しない。したがって、日本語が未来を「未来」という言葉で、すなわち、いまだ来たらぬものとしてあらわしたのはきわめて正しい。ただ、本当はより突っこんで、まだ来ていないどころか、未来永劫来ることがないというのが、未来というものの根本的本質ではないかとも思う。だからと言って未来のことを考えなくて良い、ということではもちろんない。未来のことを考えなければ生きられないのが人間であり、人はほとんど常にそれを考えるように何らかの力によって仕向けられているし、場合によってはむしろ積極的に考えていくべきですらある。ただ、本当はそれは存在しないのだ。存在するとしても、実体としてではなく、潜在体として(アリストテレスの言う潜勢態として?)、我々の頭のなかのイメージとしてしか存在しない。その未来の、観念としての手触りを、多くのひとは忘れている。
  • 時間を空間化してとらえるのは誤りだとベルクソンは言ったらしいのだが、そしてその言葉の意味がわりと実感としてわかりつつあるような気がしているのだが、だったらもう、未来どころか、そもそも時間などというものは存在しない、と言ってしまっても良いのではないかという気もする。時間を数量的な厚みとして空間的に考えるのは本来のあり方ではなく、なにかしら妙でおかしいということはこちらも同意するが、そうだとして、空間的でない時間のとらえ方とはどのようなものなのか、という点についてはよくわからない。そもそも、時間が「ある」と言った時点で、そこにはすでになんらかの空間的イメージのたぐいが発生してしまうのではないか。何かが「ある」という存在の事態を考えるときに、我々は、それが実体や具現例を持たない抽象的観念であったとしても、空間性としてのイメージを要請せざるをえないのではないか。おなじように、未来が「来る」とか、まだ「来ていない」とかいう言い方も、空間性を引き寄せる。「来る」と言った瞬間に、そのものがそこから「来る」もとの場が想定され、そことこことのあいだにひらきが生まれるからである。「来る」とは根本的に幅をともなう言葉なのだ。しかるに、時間は距離ではない。あるいは時間に距離はない。この大いなるフィクションとしての擬似空間に完全無欠に支えられているのが人間の生と歴史の総体であり、そのなかでもとりわけ文学と小説である。この錯覚(とそれをそう言っても良いのなら)がなければ、小説はない。
  • 時間に空間性はない。しかし、時間をあるものとして想定すれば、空間性を招来せずにはいられない。とすれば、時間はそもそもない。これはたぶん、いわゆる否定神学的思考ということになってしまうと思われ、それはそれで問題がある気もするのだが、ひとまずそのように考えておく。というか、こちらが風呂場で思ったことの要諦は、時間がないという点よりは、本当は空間しかないのではないか、ということのほうだ。もし世界に実は空間しかないのだとすれば、時間のあり方として考えられるのは二つである。すなわち、時間はそもそも存在しないか、時間とは本当は空間のことであるか。ベルクソンを逆転して、人間はいままでずっと、空間を誤って時間化してとらえ続けてきたという可能性が考えうるのではないか。
  • 本来的には未来は存在しない、あるいは時間は存在しないと言ってみたとして、そこで当然、もろもろの未来のなかでも人間に強大な重力を投げかけてくる最たる未来としての死の問題が出てくるだろう。死の問題はきわめて重要である。なぜなら、それをどうとらえ、どう扱うかによって、人間の実存が変わってくるからであり、より限定的には、ハイデガーをどのように考えるかが決まってくるからである。これも単なる思いつきにすぎないが、死のとらえ方を考え直すことによって、ハイデガー的実存性を乗り越えていかなければならないのではないか、という発想はたびたび書きつけているところだ。死を思い、その根本性を徹底的に認識することによって、日常的な気晴らしのたぐいに頽落した生の本来性を回復することができるというのが、これも聞きかじりなので相当に矮小化されているに違いないが、いまのところのこちらのハイデガーの理解である。こういう側面があることは確かだと思うし、それがある程度まで機能することもまちがいないと思う。ただ、この論理は自己犠牲的ヒロイズムや全体主義的独善性の神秘化に転じる危険がある。ハイデガーナチス支持者だった。ハイデガー存在論と政治的立場に本質的接続があるのかどうか、その点もきわめて慎重にならなければならないはずだが、やはりどこかしらでつながっているのではないかとこちらは根拠なく思う。ハイデガー的実存性を乗り越えなければならないと何度も言っているのはそういうことで、ハイデガーを可能なかぎり丁寧かつ真摯に清算しつくさなければ、二〇世紀は次にすすめるはずなどなかったのだ。死を思うところまでは大いに良い。ただそのあとで、死の重力やその拘束を遡行的に(というか先取り - 遡行的、すなわち往復的に)生に投げかけることから逃れなければならないのではないか、というのがいまなんとなく思っている路線だ。我々は死を思うことを通して、その先で、死と生を切り離さなければならないのではないか。ということは、死や、時間や、未来が、まるで存在しないかのように、生きなければならないのではないか? それはどこまでいってもせいぜい「かのように」にとどまるほかはなく、実際にはそれすらなかなかおぼつかないはずだが、すくなくともそういう方向に向かうことによって、死の拘束を多少なりともゆるめることができるのではないか。あるいは、反対なのかもしれない。つまり、死と生を切り離すのではなくて、生のなかにつねにすでに侵入しており、散乱的に分布して綯い交ぜになったものとして、ほどきがたく撚り合わさったものとして死をとらえなければならないのかもしれない。それは、細胞単位ではひとは絶えず死んでは生まれ変わっているとか、眠りは死の代理的類似物であるとか、そういう話ではまったくない。しかし、それではどういう話なのかということはまだ説明できない。
  • 部屋に帰ると、本当は前日一九日のことを書こうと思っていたのだが、上記の、風呂のなかで思ったことを先に書き出すと思いのほかに長くて時間がかかってしまい、なぜか疲労感もかなり強かったので、一時四〇分まで一時間二〇分ほどかけて上の数段落を記したあとはもうベッドに移ってだらだら休んだ。三時一二分に消灯。