2021/2/22, Mon.

 ファレーズの町の薬局で、ブヴァールとペキュシェは、ナツメのペーストを水に入れて実験する。「ペーストは豚脂の外皮のようになった。ゼラチンが入っていることを外示していた」。
 デノテーション[外示]とは、学問的な神話なのであろう。言語活動の「真の」状態という神話で(end88)ある。あたかも、いかなる文のなかにも〈エティモン〉(起源と真実)があるかのようだ。したがって、〈デノテーションコノテーション〉という対概念は、真実の領域でしか価値をもっていない。わたしは、ひとつのメッセージを検証する必要(神話をあばく必要)を感じるたびに、そのメッセージを外部のなんらかの具体的言行為に入れて実験し、真の基層をなしている醜い外皮のようなものに変えてみる。したがって、対比させることは、化学の分析実験に似た批評的作業の枠内でしか役に立たない。真実だと思うと、そのたびにデノテーションが必要となってくるのである。
 (石川美子訳『ロラン・バルトによるロラン・バルト』(みすず書房、二〇一八年)、88~89; 「言語の真実としてのデノテーション(La dénotation comme verité du langage)」)



  • 一〇時二〇分頃に意識が一応まとまった。先夜は油断して消灯が四時二〇分過ぎになってしまったのだが、意外とはやく現世に復帰することができた。普段よりはやいくらいだ。まぶしく熱い陽を顔に浴びながら膝を立ててからだの感覚が調うのを待ち、その後、こめかみや眼窩を揉んでから一〇時四五分頃起床。背伸びをしたり、肩を回したり、鼻の穴にティッシュを突っこんで掃除したりする。それから水場へ。気温はあきらかに高く、端的に春の陽気で、ダウンジャケットを着る必要など存在しない。洗面所で顔を洗い、うがいも少々して、トイレで放尿してもどってくると瞑想をおこなった。一〇時五四分から一一時一一分まで。からだの感覚はなめらかである。基本的にはやはり、身体になるべく動きを生まないという単純な原則にその都度立ちもどるべきだ。そうするとおのずと現在が見えてくるし、自分の内のこともよく見通せるようになり、おのれにとっての重要事や問題や方針などがわかってくる。
  • 上階へ。母親に挨拶。父親は今日から新しい掃除の仕事に出ていて、七時頃にはもう行ったとか。ジャージに着替える。窓外には光が非常に旺盛で、あたりのものものはかすむようにあかるみ、大気に流れもいくらか含まれているらしく、(……)さんの宅の魚幟はややうねっている。屈伸を何度もくり返し、ゆっくりおこなって脚の筋を和らげたあと、うがいをまた念入りにやっておいた。このときではなく、食後のことだったかもしれないが。食事は昨日の桜ご飯や天麩羅の残り。新聞からは国際面を少々読む。中国で元記者だった著名ブロガーが拘束されたとあった。昨年にあったカシミール地方でのインドとの衝突で四人の中国兵が死んだと当局は発表しているのだが、SNSでその死者数に疑義を呈したことでつかまったとかいう。「死者数に疑義を呈した」というのは、本当はもっと多いだろうと言ったのか、それともそんなにいないだろうと言ったのか? 不明。ただ当局からは、「英雄」のイメージを損ない、「民族感情を傷つけた」という非難が出ていたと言い、そこから容易にうかがわれるように、政府としてはこの四人の中国兵の死をひとびとの「愛国心」の発揚に活用したいと意図している様子。この元記者のブロガーというのは、仇子明みたいな名前だったと思う。「仇」の字が入っていたのは確か。同様の投稿をした二八歳のべつの男性も拘束されたとのこと。
  • もうひとつはミャンマーの記事。抗議活動は引き続いており、当局による取り締まりもエスカレートしている。二〇日までで五五〇人くらいが拘束されている様子。その二〇日に警官隊がデモ参加者に発泡して二人が死亡したという報を昨日読んだはずだが、さらに二〇日の夜には、ヤンゴンで居住区の見張りをしていたひとも撃たれて死亡したという情報が今日の記事の図のなかにあった。警察の取り締まりに対抗して居住区では自警団が形成され、主に老人が見張りをつとめているらしい。取り締まりは深夜や早朝に自宅にいるところを狙ってくるらしく、それは午前一時から九時までインターネットが規制されているので、SNSなどで連携できない時間を突いてくるのだろうということだ。このたびは、「不服従運動」を呼びかけていた俳優がそういうかたちで拘束されたとのこと。地方からヤンゴンに向けて軍部隊が集結している動きもあるらしく、過去にそのような動きが見られたときには多くの死者が出たとして、弾圧の巨大化を危惧する声が聞かれるという。
  • 食事を終えると皿洗い。そうして風呂も。窓をちょっと開けて風を取り入れながら蓋と浴槽を洗う。済ませると出て、緑茶を支度。持って部屋に帰るとNotionを準備し、それからまずLINEにアクセスした。昨晩(……)からメールが届いていて、グループに投稿したメッセージを確認してほしいとあったからだ。それなので目を通し、返信しておく。また、二月二八日および三月に通話をしたいと提案されていたので、二八日は了承し、三月は五日六日なら行けるとこたえておいた。
  • そうして今日のことを書きはじめて、ここまで記せばもう一時が目前に迫っている。今日は労働。いつもどおり五時には家を出るようだ。それまでに前日の記事を仕上げたいが、果たせるかどうか。音読と柔軟調身もしっかりこなしたい。
  • 書見に入った。新本史斉/F・ヒンターエーダー=エムデ訳『ローベルト・ヴァルザー作品集 1 タンナー兄弟姉妹』(鳥影社、二〇一〇年)。ベッドに身を投げ出し、仰向けの状態で文字を追う。なるべく一日のはやいうちに書見をできるのがやはり望ましい。最近は全然読めていないし。ベッドにコンピューターを持ちこまず、臥位になって読むのは読書本線の書物のみという原則をやはり守ったほうが良いか? 窓ガラスを埋め尽くしてひろがる空は、とてもあかるいが淡い。雲があらわれる時間がすこしもなかった。
  • ヴァルザーの逆説的性向にかんしては昨日の記事でも触れたところだが、通常の常識的な価値観ではマイナスと思えるような事柄に快やよろこびや美を見出して肯定し、反対に、一般的にはプラスと感じられるだろう物事を忌避し嫌がるという振舞いは、彼の作品のいたるところに観察される。それはこの『タンナー兄弟姉妹』から、いわゆる「ミクログラム」として綴られた後年の『盗賊』までずっと一貫していると思われ、意味の秩序や物事の関係を嬉々としてひっくり返してばかりいる天邪鬼がローベルト・ヴァルザーだ。そして、そういう詭弁的性質はカフカに受け継がれている。カフカがお得意の論理の攪乱を実際にヴァルザーの作品から学んだのかどうかは不明だが、ヴァルザーは彼のお気に入りの作家だったし、おのずと得たものはあったのではないか。影響関係が実証できるか否かは重要なことではなく、二人とも詭弁家としての天邪鬼な振舞いを自家薬籠中のものとして共有しているということだ。ただ、ヴァルザーにかんしては反 - 常識的逆説だけでなく、ときにめちゃくちゃ紋切型の、いかにもありふれたような定型文を何のこだわりもなしにあっけらかんと放ってみせるところがある。そういう二面性というか分裂性みたいなものからして、ヴァルザーの人物や文章は、おのれが口にしていることそこに書きつけられていることを、すこしも信じていないというような印象をもたらす。そもそもそこでは、「思想」そのものが信じられていないのではないか、というような感触だ。それは、何日か前の記事に書いた「まがい物」の手触りとおそらくつながっているだろう。現実らしい人間としての執着のたぐいや、内面の深みにひそむ複雑な襞のようなものや、構成の芯や軸となるような本質的中核の存在をまるで感じさせないということだ。よく言われる言葉を使えばそれは「表層的」ということになるのだと思うが、ところが同時に、その言葉に付随しがちな否定性、上辺だけの不誠実な軽薄さというようなニュアンスを、こちらはまったく感じない。ヴァルザーの文章は、スカスカであると言えばたしかにそうなのだろうけれど、だからと言ってそれは空疎な、格好だけの上滑りではない。たとえば上に記したように、その文章がみずから発した言葉に信を置いていないという印象があったとしても、そこにニヒルな気取りのにおいとか、実際には信じていないことを信じているかのように装って戯れるアイロニーの身振りとかはすこしも感知できない。だから、むしろこのように言いたくなってくる。つまり、ヴァルザーの言葉は、みずからが述べることを信じていないのではなくて、(あるいはもしかしたらすべてを信じていないがゆえに)一瞬一瞬、その都度発された言葉の意味を疑うことなく本気で信じこんでいる、ただ、その信が続くのは一瞬だけで、次の文に移るやいなや、言葉はみずからが信じていた意味を、そして自分がそれを信じていたということ自体を忘れてしまうのだ、と。そのように言わせてしまうような、なんらかの、まごうことなき真正さが、ローベルト・ヴァルザーには確かにあると思う。彼は道化である。しかし、どんな作家よりも真面目で、紳士的で、誠実な道化である。
  • そういうヴァルザーにおいて、自然だけは常に夢想的に美しいものとして提示されている。その作品にあって自然はかならず豊かで、色彩の快に満ちており、風景と太陽の光は絶えず漫遊と放心を誘う。自然世界とのあいだに生じる幻視的な官能の震えをヴァルザーが手放すことは一度もなく、そこに逆説は存在しない。
  • 読書は三時まで。それから調身。脚の裏の肉をほぐすのが難しい。前屈をよくやったと思っても、一晩明ければまた固まっている。からだをやわらげたのち、三時半過ぎから書き物をはじめた。昨日、二一日のことを書いたが、仕上げられないままに四時を越えたので中断。さすがにそろそろ準備をしなければならないので。残り、そんなに書くこともなかったと思うし。
  • 上階に行って食事。豆腐と即席の味噌汁である。木綿豆腐をパックから出して手に乗せて水を切っていると、インターフォンが鳴った。豆腐を皿に乗せておいて出れば、資源回収の金を届けに来たとかなんとか。それで玄関へ。扉をあけると中年の男性が立っており、封筒を渡されるので礼を言って受け取った。ついでに外に出て郵便物も回収しておくが、そのときの感覚やこの男性とのやりとりの感じからして、外界に対する緊張のようなものが身中にわずかながらあるのを感知した。ぎこちなく、反発的なからだの感覚というか。林縁の畑に人の姿があり、よく見なかったが、あれが(……)さんだったのだろうか。
  • もどって食事。かたわら新聞で、三面にあった米国のパリ協定復帰についての記事を読む。バイデン政権は地球温暖化対策および脱炭素政策に熱心に取り組む計画で、連邦政府の公有地からの石炭だか石油だかの採掘を制限すると言っているらしいが、当然業界からは米国民の莫大な雇用が失われるという反発が出ている。共和党のみならず民主党でも、そういう産業が盛んらしいテキサス州選出の議員から、コロナウイルスの問題が終わっていないいまは国民の雇用を減らし経済をリスクにさらすときではない、という声が聞かれるという。自動車業界はむしろ、電気自動車の普及を目指しているので、足並みを揃えるという歓迎の反応を示したようだが。
  • 乾燥機の食器を片づけておき、洗い物。そして米を新たに磨ぐ。気温のわりに手にそそがれる水が冷たく、芯までしみて痛い。味噌汁もつくっておくことにして、米を磨いでいるあいだにすでに水を汲んだ小鍋を火にかけておいた。冷蔵庫に余っていたタマネギを切り、ワカメや麩が入った即席の味噌汁の素と一緒に加え、煮ているあいだにタオルをたたんだり脚を伸ばしたりした。そうして素に付属している味噌で味付けし、それだけではたぶん薄いだろうと思われたので普通の味噌も少々足して溶かしておいた。
  • そうして下階に下り、歯磨きや着替えをして身支度。一〇分だけ余ったので「英語」を読み、そして部屋を出る。居間のカーテンを閉めて食卓灯を点けておき、出発。気温が高いから大丈夫だろうと思ってマフラーをつけずバッグにおさめていたが、問題なかった。コートの前もひらいていて、むしろ着なくとも平気なくらい。首元がちょっと涼しいには涼しいが、ひやりという感覚が生まれる瞬間はない。坂を上りながら、やはり緑茶を飲む習慣は廃して、なるべくカフェインを摂取しないようにするのが良いのだろうなと考えた。たまに飲むくらいなら問題ないだろうし、べつに飲んで生まれる緊張も大したものでないどころか相当にささやかなものなのだが、しかし鬱陶しいには鬱陶しく、パニック障害になって以来こちらの生の根本的なテーマのひとつは可能な限り不安を殺すという闘争になってしまい、最大限に落ち着いた心身でいたいという神経症的執着があるので、毎日飲むのはやめたほうが良さそうだ。茶を飲むとたしかに、カフェインの作用なのだと思うが、心身がわずかながらある種の戦闘態勢になるというか、気が立つ、というような状態になるところがある。外界に対して敵対的になるというか。そしてそのなかに緊張と不安が含まれてくる。外から見ても誰もわからないだろうしほとんど何の変化も観察されないに違いないが、こちら自身としては確かにそういう変化を感じる。
  • 駅に着くと無人。自販機が押しボタンをかわるがわる青くして、その地味な光を横に流しているのみ。ベンチに就いて手帳にメモ書きをした。外出先の待ち時間では本を読まず、基本的にまたメモを取って書き物の助けにする習慣にしたい。それか目をつぶって休むかのどちらか。電車が来ると乗り、車内は揺れて書きにくいので瞑目に休み、着いて降りると職場に行く前にまたベンチにかけてしばらく記録した。そのあいだも、からだに薄い緊張感があった。肌の感覚と、鼓動の響き方と、胸のあたりの引っかかり具合でわかる。物音や人の声などが周囲で生じると、それも普段よりすこしだけ耳につくような感じだった。
  • だからと言って問題ではない。職場へ行って勤務に従事する。(……)
  • (……)
  • (……)
  • (……)
  • (……)
  • (……)
  • (……)そうして一〇時半頃退勤。
  • 駅に入り、ホームに出るとちょうど電車が来るところだった。立ち尽くし、入線してくる電車のフロントライトが二つ、白々と膨らんでいるのを見ながら待つ。乗って座ると今日は休まず、手帳にまた書きつけをした。発車すると止めて休息し、最寄りに降り立つとほぼ半月にいたった月が左上に向けた弦をやや曖昧にかすませて、先だけちょっとかじられたスイカのような姿で白く浮かんでおり、べつのところには星も映っていて空は明澄、たびたび見上げながらその下をゆるゆる歩いて駅を出る。夜もすすんでさすがに多少気温は落ちたが、それでもマフラーをつけなくとも問題のない夜気だった。
  • 帰宅して自室で休息。ベッドでまた新本史斉/F・ヒンターエーダー=エムデ訳『ローベルト・ヴァルザー作品集 1 タンナー兄弟姉妹』(鳥影社、二〇一〇年)を読む。192では、街中で声をかけられた婦人から召使いになるよう打診されたジーモンは、質問にこたえた自己紹介のなかで、「このような場合、奥さまの関心はそのまま僕の関心であり、それ以外にはいかなる関心も存在しないのです」、「僕自身の関心ですって! 自分自身の関心を持つなんて、いったいそんなことありえるでしょうか?」と、例によってほとんどよろこびを感じているかのごとく大げさに、芝居がかった調子で述べている。このような自己放棄ぶりというか、自己の無化、言うなればみずからを「ゼロ」と化すことへの志向のようなものは、ヴァルザーの主人公たちが固く共有している基本的信念である。『ヤーコプ・フォン・グンテン』のヤーコプも、作品がはじまってまだ二ページも経たないうちにはやくも、「(……)一つ確かなことがある。将来僕は魅力的なまんまるの零になる。老人になってから、若くて自信家で躾の悪い粗野な主人に仕えなければならないだろう」(若林恵訳『ローベルト・ヴァルザー作品集3 長編小説と散文集』鳥影社、二〇一三年、8)と宣言している。自分自身をまるで取るに足らないものと考え、実際にそうなろうとすること、みずからの中身を一掃して空虚と化し、空っぽであるがゆえに自己を最大限、他人に捧げることができるというあり方は、ヴァルザーの小説でたびたび表明されている。192ページの、上とおなじ括弧のなかで、ジーモンはこうも言っている。「僕はこれまで自分の人生を無駄に過ごしてきました、まったく価値のないものに思えたので、望んでそう生きてきたのです。自分とは無縁の利害であれば僕は真剣になるでしょう。当然のことです、自分自身の目的を持たない者は、他の人の目標、関心、意図のために生きるものです」。他者に対して自分を全面的に差し出し、投げ出して、奉仕心をあらわにすることは彼の得意の言明であり、すでにクララとの関係においてそれはあらわれていた。84のジーモンにいわく、「あなたが望むなら、僕はあなたのために死ぬことができる」。なぜなら、「僕は自分の生に何の価値もおいてはおらず、価値があると思っているのは別の人間の生で、にもかかわらず、僕が生を愛するのは、それをふさわしい形で投げ捨てる機会を生が与えてくれることを望んでいるからなのです」。またそのすぐあと、この前日の記事でも触れたところだが、彼は自身を他者に対する「贈り物」なのだと称し、「僕は贈り物となるべく生まれついた人間で、いつも誰かにしっかり結びつけられていて、まる一日歩きまわって僕自身を差し出せる相手が見つからないようなことがあると、ふさいだ気持ちになるのです」(85)と説明している。そういうジーモンの大仰な自己放棄はなぜかクララを感化すらしたようで、彼女もまた、「彼は自分自身をわたしに投げ出し、そしてわたしは、わたし自身をあなたに投げ出したいのです」と、ジーモンの姉であるヘドヴィヒに書き送ることになる。
  • あと、202では地の文で、「お肉やお野菜を買う、お店に入って行きそして家に戻ってくる」という言い方が見られる。台詞ではなく、一応中立的と見なされうる語りの領分で、ある種の名詞に丁寧辞の「お」がつけられるのだ。ヴァルザーの翻訳全五巻においては、たぶん訳者が若林恵の巻でも、太陽のことを「お日さま」と言う姿勢が一貫していたと思うし、「お天気」という言い方もどこかにあった。些細なところではあるが、このあたり原文にもともとそういうニュアンスが含まれているのか、それとも訳者の創意工夫なのかが気になる。
  • 一一時四四分で書見を切り上げて食事へ。食事中、そして入浴のあいだの大きな印象は残っていない。もどってくると一時過ぎから二一日の記述に取りかかって二時で完成。その後しばらくウェブを閲覧したあと、またヴァルザーをすこし読んで三時四分に消灯した。疲労も嵩んでおり、最後のほうはあまり頭が働かず、言語をうまく読み取る力もなくなっていたはず。