2021/2/25, Thu.

 しばしば彼は、〈複数主義〉と曖昧によばれている一種の哲学に頼ることがある。
 彼がこのように複数的なものに固執するのは、性の二元性を否定するためのひとつの方法だからではないだろうか。ふたつの性が対立することが、「自然」の法則であってはならないのだ。したがって、対立とパラディグムとを解消して、意味と性の両方を複数化しなければならない。意味のほうは、増殖や(「テクスト」理論における)散逸のほうへと向かってゆくだろう。そして性のほうは、いかなる類型論にもとらえられなくなるだろう(たとえば〈さまざまな〉同性愛があるだけとなり、構成されて中心の決まっている言述はどれも、同性愛の複数性によって裏をかかれることになるだろう。そんな言述について語ることなど無駄だと思われるようになるほどに)。

 おなじく、くりかえし用いられ、褒めそやされている言葉である〈差異〉は、とくに価値がある。差異は、衝突をなくすか、衝突を抑えるからである。衝突は性にかかわり、意味にかかわるが、差異のほうは複数的で、官能的で、テクスト的である。意味や性は、構成や構成内容についての原則なのであるが、差異はほこりのように舞い上がり、散らばって、きらめく様子そのものである。重要なのは、もはや世界や主体の解読において対立を見出すことではなく、氾濫、浸食、流出、滑走、転位、逸脱などを見出すことである。(end92)

 フロイトが言うところによると(『モーセ一神教』)、すこしの差異は人を人種的差別へと導く。だが、おびただしい差異は、差別からどうしようもなく遠ざからせる。平等化すること、民主化すること、大衆化することなど、こうした努力すべては、人種的不寛容の根源である「ごくわずかな違い」を排することはできない。とめどもなく複数化してゆくことや置きかえてゆくことこそが必要なのであろう。
 (石川美子訳『ロラン・バルトによるロラン・バルト』(みすず書房、二〇一八年)、92~93; 「複数、差異、衝突(Pluriel, différence, conflit)」)



  • ちょうど一一時頃に覚醒。カーテンをひらいて太陽光を取りこみつつ、こめかみを揉む。今日は頭を左右にゴロゴロ転がすこともやった。首周りがけっこうやわらぐ。しばらくそうして、一一時二三分に起床。コンピューターを点けておいて上階へ。母親に挨拶。煮込み素麺にすると言う。ジャージに着替えて顔を洗うと、すでに汁がこしらえてあった鍋に麺が投入されはじめたので、菜箸でかき混ぜておき、居間のほうに移動して屈伸をおこなった。起き抜けの脚というものは本当に固まっている。そうしてできた素麺とおにぎりで食事。向かいの母親がメルカリで全然メッセージを返してこない相手について話してきたが、これはどうでも良いので割愛。新聞からはミャンマーの記事。国軍が、アウン・サン・スー・チーが就いていた国家顧問の役職を廃止していたと。もともとNLDが政権を取ったとき(二〇一六年とあったか?)に、軍が定めた憲法の規定上アウン・サン・スー・チーは大統領になれないみたいな状況があったらしく、そこを国家顧問という地位を新たにもうけることで彼女を実質的なトップに置いたという経緯があったようだ。当然軍部は、憲法違反であると反発していた。それで今回の廃止にいたったわけだ。
  • 食後はいつもどおり食器を洗い、そのまま風呂も。浴槽内をよく擦り、蛇口の台座みたいな固定された銀色の塊の際も、毛の細いブラシで汚れを取っておく。出ると下階へ。コンピューターでNotionを準備すると、今日のことをさっそくここまで記述。一二時三六分になっている。なぜかからだが、とりわけ腰周りが固い。手の爪が伸びてきていておりおりに皮膚に固い感触が生じるのも地味に鬱陶しい。
  • ベッドに避難してからだを休め、またやわらげた様子。インターネットサーフィンをしたようだ。一時四〇分からは新本史斉/F・ヒンターエーダー=エムデ訳『ローベルト・ヴァルザー作品集 1 タンナー兄弟姉妹』(鳥影社、二〇一〇年)を読んでいる。これもベッドに転がったまま読んだはずだからずいぶんだらだらしたものだが、そのまま三時一〇分までちょうど一時間半書見をしていて、それは悪くない。この日読んだなかだと、246から250あたり、ジーモンが、酒場で偶然相席になった男が自分の兄のことを語っているのだと気づき、その破滅譚を受けて、お得意の逆説というか天邪鬼で、不幸とは親しむべき友なのです、なぜならそれは人間をより良くし、高みへ導いてくれるものなのですから! みたいなことをつらつらならべるくだりがあるのだけれど、ここの勢いは、こういうときのヴァルザーってやっぱりすごいなと思った。詭弁にほかならないと言えばそうだし、なんというか、中核的な逆説すなわち論理の逆転をまずともかくも提示してしまって、色々な装飾なり例証なりを(それが本当に例証としてふさわしいものなのかどうかも疑わしいようだが)強引に、半分くらいは辻褄合わせのようにして、その周囲にひたすらならべたてていく、みたいな感じでだいたいできているように思うのだけれど、こういうときのヴァルザーの人物の実に生き生きとした語りぶりはいつも印象的だし、詭弁でありながら完全に空疎にならず一抹の真実とか説得力をふくんでいるところがさすがだ。こういう詭弁への情熱は読んでいて不思議な感じで、このあいだも書いたけれど、これは言葉だけのことというか、言葉によって浮かされている、先行する言葉によって導かれ、言わされている、というような印象はあるし、こいつ(というのが人物なのかヴァルザーなのかわからないが)、ここで言ってることを信じてねえだろ、という感触も大いにあるのだが、それでいて同時に、みずから信じていない嘘、虚言をただぺちゃくちゃ、表面的なだけの言葉としてまくし立てているという感じはなく、むしろ心底から信じきっているような気もする。そういうわけで先日書いたような感想、「ヴァルザーの言葉は、みずからが述べることを信じていないのではなくて、(あるいはもしかしたらすべてを信じていないがゆえに)一瞬一瞬、その都度発された言葉の意味を疑うことなく本気で信じこんでいる、ただ、その信が続くのは一瞬だけで、次の文に移るやいなや、言葉はみずからが信じていた意味を、そして自分がそれを信じていたということ自体を忘れてしまうのだ」という表現が出てくる。まあもっぱら印象批評というか、こちらが文章から受けた感触を記述しただけなので、批評というほどのものでないが。ただ、信でもないし不信でもないところにいるなというこの感じというのはなんなのだろう、という不思議さはあるし、空虚さに向かってのめりこむようなこの熱情を、感動的だと感じてしまう自分がいる。
  • その後、「英語」を音読。四時一〇分まで。そうして調身。五〇分ほど、長くやっている。何をそんなにやったのか思い出せない。そうして五時を越えて上階へ。大根の葉を切ってシーチキンと炒めた。その前に何かやったような気もするが。ほうれん草を茹でたのだったか? 忘れた。大根の葉はすでに茹でられてあったので、すこしこまかく切り、普通にフライパンで炒める。缶のシーチキンもそこに投入された。あと、「日高屋」の手羽先みたいなものがあったので湯煎で温めておき、そうしてアイロン掛けに移ったのだ。済ませるともう食事に入ったはず。夕刊で何か読んだ気がするのだが。一面に米国関連のことが載っていなかったか? これも忘れた。食事を終えると帰って、新聞写し。この日は(……)くんと通話することになっていた。(……)くんというのは先日職場を辞めた後輩にあたる同僚で、彼が中学三年生で生徒だった時代からの付き合いになる。就職が決まって卒業するわけなので、せっかくなので飯でもと思っていたところが、コロナウイルスが蔓延して緊急事態宣言が出たので仕方なくビデオ通話となった。もともと八時からの予定だったが、物件の内見がちょうど入ってしまったとのことで、九時からにすることに。
  • 新聞写しというのは、このあいだ、二〇日土曜日の朝刊の解説面に載っていた近年のイタリア政治の概観みたいな記事。村上信一郎というひとによる。イタリアは一九九三年に、いま大統領になっているマッタレッラというひとの名にちなんだマッタレルム法というのが成立し、比例代表から小選挙区比例代表並立制に変わったのだが、その後ベルルスコーニなどに代表されるもろもろの反動的な動きとか、「五つ星運動」の台頭とかによる混乱があり、目標だった政治改革がすすんでいない、という話。もともとは二大政党制を目指していたらしいのだが。比例代表制のもとでは多党分散が起こって政治があまり安定的に進行しなかった、ということなのだろう。並立制を導入して二大政党制を目指した点で日本と比較的に研究する価値がある、というような話でもあるらしいが、日本は小選挙区制導入以前は自民党がずっと政権を握っていたのだから、むしろ状況としては反対だったのではないか。なぜ日本が選挙制度改革をして並立制にしたのか、理解していないのだが。一応たしか、政権交代を目指せる制度にするということだったのだっけ?
  • 新聞記事を写したあとはまた「英語」を音読することに。それで八時にいたって上階に行ったが、父親がまだ風呂に入っている最中だった。聞けば、風呂を沸かすのを忘れていて遅くなったのだと言う。それなので便所で用を足してもどり、またすこしだけ音読して、出たのを聞きつけると入浴へ。
  • 風呂のなかでは特段のことはなかった。出るともうほぼ九時だったので、コンピューターを持って隣室に移動し、携帯に送られてきていたZOOMのURLをわざわざ一文字ずつ手動で打ちこんでいき、会議にアクセス。お疲れさまです、と挨拶を交わす。一時間遅くなってしまってすみませんという言がまずあったので、全然大丈夫、と受けて、そのあたりの話から聞いた。物件は今日見に行って、即決してきたと。場所は(……)。それ以上詳しい場所は聞かなかったが、(……)っていうと(……)とかがあるよね、(……)だけは何回か行ったことあるわ、と言う。「(……)」のメンバーたちとスタジオ「(……)」に赴いたときのことだが、しかしそれ以上こまかな話は語らない。(……)が(……)だというのは、(……)さんのブログで記憶したことだ。あと(……)とか、(……)なんか住みやすいってよく聞くけど、と言ったこれも、主には(……)さんのブログで形成されたイメージだろう。下町風情が残ってますね、というような返答があった。あのへんだともう千葉がけっこう近いから、あまり都市って感じでもないよね、とこちら。そう言ったときに思い起こされていたのは、大学時代に(……)さんとバンドをやっていたあいだの一時期、週一だったか二週に一回だったかそれくらいのペースで出向いていた葛飾区のことで、いま検索したところでは、あれはたしか新柴又駅だったと思う。帝釈天が近くにあるという話だったし、「柴又」とか「葛飾」とかではなく、何か一語その前についていたはずなのだ。(……)さんが当時そのあたりに住んでいて、のちに離婚することになる連れ合いの女性ともまだ一緒にいたはずだが、その地域の小さな公民館みたいなところが無料で練習室を貸してくれるということで、わざわざ出向いていたのだ。こちらの家からだとたぶん三時間くらいかかっていたと思う。大変だったが、楽しかった。公民館はマジで小さな、下町の寄合所みたいな感じで、暇そうなおばちゃんみたいなひとが受付などをやっていたと思うし、一階にはこじんまりとした食堂のたぐいがあって、そこで何度か飯を食ったのもおぼえている。
  • 新居の話のあと、(……)くんに職場はどこなのかと訊いてみると、(……)だと言う。全然わからん。そもそも都心に頻繁に出る人種でないから、そちらのほうの地名も、二三区の配置などもまるで知らない。一応住居からは一本で行けるらしいが、四〇分かかると言うのでそれは長いなという顔をしていると、でも高校大学でずっと一時間半くらいかけて通ってたのでもう慣れました、それに比べれば全然ですよ、という補足があった。
  • そのあとはだいたい最近読んでいる本の話とか、思想方面や政治についてなど。まず先にこちらがいま読んでいる本を訊かれて、ローベルト・ヴァルザーっていうスイス出身の作家を読んでるよとこたえながらもすぐにはそれ以上詳しく説明せず、フリーターみたいなのらくら者が仕事を見つけては辞めるだけの話だとか言おうかなと思っていると、それを待たずあちらから、自分は卒論を書くためにレヴィナス関連の本ばかり読んでいましたという言があった。その六冊くらいを画面に映しながら紹介してもらう。ひとつ目が、熊野純彦ちくま新書で出している『レヴィナス入門』で、二つ目は岩波現代文庫の『レヴィナス』。新書のほうはさすがにわかりやすく、具体的な体験などに落としこんで説明してくれるのが助かったとのこと。しかし岩波現代文庫のほうは言葉遣いが抽象的で難しかったと。この本はこちらも、たしか去年の三月だったと思うのだが、読んでいる。そしてそれにもかかわらずまだ書抜きできていないので、写すべき言葉を写していない本は相当溜まっている。熊野の『レヴィナス』はたしかにわりと難しかったというか、つまりどんなことを扱ったり語ったりしていたかがまるで思い出せないあたりがその証左だと思うのだけれど、しかし書き抜こうと思う箇所はたくさんあったはず。それに、こちらはもう本を読むときに難しいとかわからないとかはあまり問題視していない。わかるかどうかというより、何か引っかかるか、気になるか、書き写したくなるかどうかという基準になっていると思う。
  • 三冊目は以前も聞いたことがあるが、講談社学術文庫佐藤義之レヴィナス 「顔」と形而上学のはざまで』。四冊目は合田正人レヴィナスを読む』。ちくま学芸文庫で、レヴィナス研究者というと合田正人の名が第一に挙がるが、この本ははじめて認知した。しかし、(……)くんとしてはこの本は難解すぎてついていけなかった、おすすめしない、ということらしい。レヴィナスの思想を説明するのに色々な詩とか映画とかを引いてきて話題をひろげるのが彼には合わなかった、という感じだったようだ。五冊目が「現代思想冒険者たち」シリーズの一冊で、港道隆というひとが書いたもの。全然知らなかったが、廣松渉と共著を出している世代のひとで、デリダを訳したりもしているようだ。最後が西谷修訳の『実存から実存者へ』。あとほかに、内田樹の『レヴィナスと愛の現象学』も挙がったのだった。レヴィナスを日本に輸入した人間としては内田樹がポピュラーだと思うが、西谷修も最初期のひとだったのだと思う。(……)くんが以前そんなことを言っていた。(……)くんは主にはこの『実存から実存者へ』にもとづいて書いたらしく、解説も非常に助かったと言っていた。
  • そのほか思想というか、もろもろの事柄についての考えまたは雑感とか、米中対立の話とか、日本社会の全体的雰囲気もしくは一般的趨勢みたいなことについてなど話したのだけれど、こちらが述べたのはいままでおりおり書きつけてきたようなことばかりだったようで、だからあまり目新しい感触として強く印象に残っていないし、そんなにこまかく記す気にもならない。ひとつにはいわゆる加速主義の話があった。話というか、こちらが知っていることを説明しただけだが。何かの拍子に(……)くんから、最近は加速主義とかいうのがあるらしいですねとそのワードが出たので引き受け、ニック・ランドというひとがその有力な主唱者で、いまは中国、たしか上海だかに住んでいるらしい、彼からしてみればいまの中国は理想的な社会なんだよね、つまり、技術と結びついた管理社会の経済大国ということ、資本主義も取り入れて高速に経済発展して繁栄しながら、一党独裁でひとびとの生活をがっちり管理している、自由はあまり認めないかもしれないけれど、生活の安全はきちんと保障しますよというわけで、実際コロナウイルスも、権力の強固さを発揮して都市をすぐに閉鎖して、一応、世界で最初に終息させちゃったわけだ、実際そういう、ある意味で実績をつくっちゃったから、時間と手間のかかる民主主義よりそっちのほうがいいじゃんっていう風潮は今後かならず出てくる(というかすでに、大いにはじまっているのだろうが)、そこで思想的・制度的な面でも米中の対立があるよね、米国は一応、まあ民主主義、自由、人権、そういった価値を守っていこうと……まあ、そういう米国の大統領が、このあいだまではドナルド・トランプだったわけですよ(と言って互いに爆笑する)、まあでもバイデンに変わったからね、そういう状況のなかでバイデンが大統領に選ばれたっていうのは、なんというか、まあちょっと希望っていうか、意外とかなり良いことなんじゃないか、バイデンは、優等生的なっていうか、イメージだけど優等生的な感じだと思うし、就任演説も新聞で訳されてたのを読んだけど、良心的っていう感じだったよ、この流れでバイデンを選ぶことができたのはなんか良かった気がする、とは言っても実際に仕事をうまくすすめられるかっていうと怪しいと思うけど、分断はこれからも続いてそんなにすぐにはなくならないわけだし、史上一番弱い立場の大統領として即位するなんていう評言もあるしね、でもドナルド・トランプがあれだけまあ、ものすごいようなやつだったから、その反動でもう一度古き良き民主主義を守っていこうっていう動きは出てくると思う、だからまあだんだん、良い方向に向かっていくんじゃないかな、とかなんとかつらつら話した。こうして記してみると、そうだったのか、と思う。つまり、俺、意外と楽観的だな、と。そんなに単純に行くかな、という気ももちろんするのだけれど、自分のなかに絶望感とか悲観のようなにおいがまったく感じられない。ただまあ、米国とか国際的な状況よりも、足もと、自国である日本のことを考えるべきなのだろうけれど。たしか二〇一二年の末から安倍晋三で、その次が菅義偉で、この二人でもう八年ほどになるわけだから。とはいえこちらが一番気になるというかやばいと思うのはやはり中国的風潮、もしくはその趨勢である。ウイグルのひとびとのこともある。あと、加速主義ってアメリカの一部にも受容されていて、企業家とかなんだけど、ピーター・ティールっていう、たしかPayPalだったかな、PayPalかなんかつくったひとがそうなんだよね、彼らはもう都市国家みたいにしよう、と、都市単位で、経営者が運営するようなかたちで良くない、ってことを言ってるみたいで、民主主義は駄目だ、と、とにかく効率的に、意思決定の手間を省いて、っていう感じらしい、で、経済的利益をどんどん上げていこうと、という感じの補足情報もくわえておいたが、このあたりきちんと調べていないので理解が正しいかあやしい。
  • (……)くんは、反出生主義とか思弁的実在論とかも最近目にするワードとして気になっていたようだが、これらにかんしてはこちらは全然知らないので、何も説明することはできなかった。カンタン・メイヤスーとか、あとマルクス・ガブリエルとかがなんかやたら有名になってるよね、全然知らんけど、と笑うのみだ。(……)くんとしてはまた、世のひとびとの多くがどうも自省とか内省とかをせずにぼんやりと、自分と向き合って自己を知ろう理解しようとせずに生きているなあという印象があるようだ。まあそれはわりとそうだと思うが、彼としてはもっとみんな内に、自分の内面のほうに籠って自己を探究したほうが良い、みたいな思いがあるらしい。それによって確固たる自己とか世界観とかが形成されて、苦しまないということは無理かもしれないが多少は苦しみを軽減しながら生きられる、というような考えがおそらくあるのだろう。あとは単純に、深く思考する人間が増えたほうが世の中にとっても良い、という頭があるのではないか。そういう気持ちはわからないでもない。彼ももろもろ実存的な事柄に悩んでいた時期があったようだが、そのフェイズは突破して、いまは吹っ切れたような感じになっているようだ。実存で言うとこちらは、いわゆる実存の危機と呼ばれるようなことって、けっこう年齢に関係なく、歳を取ったひとでもあるみたいだね、と話した。実存の危機ってなんかいかにも若者っていうか、大学生くらいの人間が、自分がわからないとか、人生の意味が見出せないとかでおちいるイメージがあるでしょ、でも歳を取ってからそうなるひともいてさ、俺のまわりにも何人かあったんだよね、ひとり近所に住んでた、まあ老女、女性がいて、そのひとは昔は社交的で、騒々しいくらいのひとだったんだけど、年取ってだんだんひととのかかわりがなくなってきてさ、あと詳しくは知らないんだけど、家のなかでもなんか冷たく扱われてたらしいのよ、それでノイローゼになっちゃって、最終的に自殺しちゃったんだわ、と述べる。これは(……)さんのことである。それまで他人とのかかわりがあって、それで支えられてたのが、人間関係がなくなっちゃうと、急に不安定になって精神を崩すっていうね、べつに外に出るは出るでいいんだけど、ある種、まあ依存でもないけど、他人に自分をあずけすぎちゃうとさ、その支えがなくなったときにやっぱりあやういんだろうね、だから人間やっぱどっかで自分とひとりで向き合っておかないと、歳を取ってからそういう風に、つかまる、空虚感につかまえられるってことがあるんじゃないかな、死ぬまで逃げ切れるってあんまりないような気がするんだけど。コロナウイルスでそういう風になったひとも多いでしょうね、と(……)くんは言った。それはまちがいのないところだろう。コロナウイルスによって、社会的価値観が一挙に変化したということも(……)くんは述べた。ひとりであることを楽しめるということが、積極的な価値として推奨されるようになったということだ。それ以前は、社交的に外に出てひととかかわるということが大きな価値としてあかるくもてはやされ(もう死語かも知れないが、いわゆる「リア充」、もしくは最近のことばで言えば「陽キャ」だろうか)、反対に家に籠ってひとりでいるような人種は孤独だの根暗だの陰キャだのと言われていたわけだが、それがまったく逆転した、と。だから、そういうのって本質的じゃないっていうか、本当に、状況に依存したものだったんだなってことがよくわかりました、とのこと。
  • 内省によって確固たる自己を見出すうんぬんのあたりで、國分功一郎講談社現代新書で出しているスピノザについての解説本が紹介された。実にわかりやすくて良かったと言う。もともと「100分de名著」で『エチカ』を取り上げており、それをもとにした本なのだとか。スピノザなどまるで読んだことがないしちっとも知らんが、(……)くんによれば、彼は「思考の幸福」とかいうものに至った、みたいなことをみずから語っているらしい。「思考の幸福」ってなんやねん、哲学者ってどいつもこいつも具体的な事柄を切り捨てて純粋な観念の世界に到達しようとするよね、だから信用できないんだよ、と冗談を言って二人で爆笑する。「思考の幸福」とやらがどんなものかまるでわからないが、スピノザ的にはそれが一種の悟りみたいなものらしく、とすればやはり真理に至ろうとすることを永遠に続けること、それを終えることができないこと、みたいな話なのだろうか? まあそういう感じはこちら自身、わからないでもないが。
  • (……)くんはここで社会人になるわけだが、いままで哲学なんて浮世離れしたことに関心を寄せてきたけれど、社会人として世間のなかでがんばっていこうという気持ちがけっこうあるようで、しっかり適応していきたいと言っていた。ただ同時に、そちらの価値観に完全に呑まれてしまうのではないか、また、忙しさのなかで本を読んだりものを考えたりするような余裕がまったくなくなってしまうのではないか、という懸念もあるらしい。まあ実際、そういうことは往々にしてあるだろう。それとはべつのときだったように思うが、いまは至極簡単に暇をつぶせる、何もしない時間というものがなくなった時代だから、それでみんなあんまり内省したりしないんじゃないかな、という話もあった。気晴らしがいくらでも見つかって、いつでもどこでもアクセスできるからね、と。ハイデガー的に言えばおそらく、頽落と存在忘却の極みに到達した時代、ということになるのだろう。なんか何もせずにひとりでぼけっとしたり、寝転がってたり、そういうときじゃないと人間、考えないからね、昔はもうすこし、何もしない時間っていうのがあったんじゃないかな、そうでもないのか? いまは家のなかに籠ってたとしても、いくらでも時間をつぶせるし、こうやって、他人と話すこともできるわけだ。だから、孤独ってものがむしろもう手に入りにくいのかもね、でもそう考えてみると、たとえば鴨長明とかすごいよね、都をはなれてなんか山のなかに住んでたわけでしょ? ひとりで。ひとと話すこと全然なかったんじゃない? 一日のなかで声を出すことなかったんじゃないかな。で、なんか書いてるわけでしょ? そういう孤独はたぶんもうないよね。こちら自身としてはそういう、世捨て人的な隠居生活にロマンティックにあこがれる性向がないでもないが、いま書きながら思い出したことに、『釣りキチ三平』の一話がある。詳細をまったくおぼえていないが、三平の縁者だったのかなんなのか、爺さんがひとりで山のなかに住んでいて、たぶん猟師をやっていたのではないかと思う。そのひとが、他人と遭遇しないから本当に声を出す機会がまったくない、せいぜい出くわした鹿とかの動物に声をかけるか、てめえでひった屁のにおいを嗅いでみて、くっせぇ~! と叫ぶくらいだ、みたいなことを語っている場面があったはず。たぶん『釣りキチ三平』だったと思うのだけれど。もしかしたらほかの漫画かもしれない。こんな記憶はもう二〇年以上昔のものなのではないか。おそらくここ一五年くらいは想起したことがなかったはずで、それが自分のなかによみがえってきたということ自体に驚きをおぼえるくらいだ。
  • で、人間、何もしない時間がないとなかなかものを考えない、という話で、何かやっていることが詰まったときに、風呂に入ったりトイレに行ったりすると打開的なアイディアが思いついたりする、というのも似たようなことだろう。能動的な行動のなかにいると、視野が狭くなって、思考が固くなり、おのれの内に目が向かなくなるということだ。だから、逆に言えば、考えることを続けたければ、何もしない時間をつくれば良い、と助言した。たとえば電車のなかで、スマートフォンを見るのでもなく、本を読むでもなく、ただ座って目をつぶってればいい、まあ寝ちゃうこともあると思うけどね、と。これはこちらがいつもやっていることである。べつにものを考えたいと思ってやっているわけではないが。アドバイスなどしたいとも思っていなかったし、そんなに有効な助言とも思えないが、(……)くんは、なるほどと受けて、そこそこ感心したような様子だった。
  • 思い出せるのはそんなところだろうか。あと、ゲームの話がすこしだけあった。話の切れ目のときに、普段、家でなにやってんの、とありがちなことを訊いてみると、このうしろに映ってるテレビでゲームをやったり、という返答があったのだ(そのテレビはなぜか、日本赤十字の、すなわちJapan Red Crossみたいな文字が書かれた布で覆われていたので、こちらはそれまでそれがテレビだとは認識していなかった)。PS4ですね、とのこと。銃撃アクションみたいなものをやると言うので、いわゆるFPSというやつか、と返せば、そうだと。(……)なんかとよくやっているらしい。PS4はグラフィックがとにかくいいだろうから、それだけでもう楽しいだろうね、とこちら。ただ、やっぱり色々人生経験が積まれてきたから、昔、子どもの頃にゲームをやっていたときのようなまじり気なしの楽しさではなく、楽しいけどなんか弱いな、という感じがあるらしい。あと、プレイ時間を見るとむなしくなるって友人が言ってたわと向けてみると、たしかにそういうところはちょっとあるらしい。それもやはり幼少期のように、時間を気にせずやるということもできないからだろう。それでも、友だちとゲームやるとか、いいじゃん、と向けると、楽しいですよ、と(……)くんはうなずいた。そちらはゲームをやるかと訊かれたので、いや俺はもう全然やらない、中学でやらなくなった、ってのはさあ、僕の家はゲームにかんしては後進国で、ハードがスーファミまでだったのよ、あとかろうじてゲームボーイアドバンス、だからプレステとロクヨンをやるのに友だちの家に行かなきゃならなかったんだよね、それでやらなくなっちゃったな、あとあれだ、中学二年でギターをはじめたからさ、それでそっちに行っちゃったんだね、とこたえる。
  • 一一時半頃におひらき。最後に、社会人になってもものを考えつづけてくださいみたいなことをこちらが言うと、(……)くんは、できるかどうか、という様子をたしか見せたのだったか。それでも、社会人として考えていきたい、みたいなことをたしか言ったはずで、それに対してこちらが、そうだね、やっぱり実社会のなかで哲学的に生きるのが大事だと思う、と口にすると、わりと感心したような反応があった。まあ世間ずれしていないこちらがあまり言えることでもないのだが。
  • あとそうだ、アガンベンの名が出たときがあったので、『アウシュヴィッツの残りのもの』についてちょっと説明したりしたのだけれど、そのときウェブをアガンベンでサーチしてみたところ、岡田温司アガンベンは間違っているのか?」(https://www.repre.org/repre/vol39/greeting/(https://www.repre.org/repre/vol39/greeting/))という文章が出てきたのでメモしておく。もうひとつ、この表象文化論学会のページには過去ログというか、この「REPRE」のバックナンバーもあるのだが、通話後にそれをちょっと見ていたところ、松浦寿輝・菊地浩平「対談 金森修『人形論』(平凡社、2018年)を読む」(https://www.repre.org/repre/vol36/special/36-s1/(https://www.repre.org/repre/vol36/special/36-s1/))というのも見つかった。金森修科学史方面のひとで、ジョルジュ・カンギレムの訳者。前からわりと興味はある。すこしだけ中身を覗いたが、松浦寿輝いわく、「金森修さんは、東京大学教養学部教養学科フランス分科で私の1年後輩にあたっています。西成彦さんの同級生ということになります」。西成彦というひとはたしか、境界横断的な世界文学の研究、みたいなやつで、読売文学賞かなにか取っていたはず。それともイディッシュ語の関連だったか? 忘れた。「金森は2016年の5月にいきなり──私はそう感じたのですが──亡くなってしまいました。享年61。平均寿命がこんなに延びているこのご時世では、早逝と言うべきでしょう。著書の数から明らかなように、彼はものすごくエネルギッシュな学者だったわけです。これだけの博覧強記、これだけの思弁的な力を備えた研究者なのですから、60代、70代以降、さらに見識と学識を深め、またそのすべてを綜合し、新たな領域にチャレンジして、もっともっとたくさん本を書いて成熟していくことができたはずです。そういう成熟の途が、大腸癌によってとつぜん断たれてしまった。私は大きなショックを受け、悲しみと憤りを覚えました。若い頃の友人というのは何か特別なものなんですね。そのあと会わなくなってしまった時期がどんなに長く続いても、自己形成期に密な交流があった友人に対しては、心の底に深い親近感を持ち続けているものです。そういう友人を亡くしたという痛切な喪失感があり、またその一方、彼のこうむった不運に対する公憤のようなものもありました。まあ、癌に対して憤ってもはじまらないのですが……。ともかく私は彼の業績にずっと敬意を覚えていたので、いくつもの仕事を未完のまま早逝しなければならなかった金森は、さぞかし無念だったろうと思わざるをえませんでした」とのこと。
  • その後は大したことをやっていない模様。二時から下の記事を途中まで読んで、二時五五分に消灯したようだ。

Nicola Vincenzo Crane was born on 21 May 1958 in a semi-detached house on a leafy street in Bexley, south-east London. One of 10 siblings, he grew up in nearby Crayford, Kent.

As his name suggests, he had an unlikely background for a British nationalist and Aryan warrior. He was of Italian heritage through his mother Dorothy, whose maiden name was D'Ambrosio. His father worked as a structural draughtsman.

But from an early age Crane found a surrogate family in the south-east London skinhead scene.

Its members had developed a reputation for violence, starting fights and disrupting gigs by bands such as Sham 69 and Bad Manners. In the late 1970s, gangs like Crane's were widely feared.

     *

The south-east London skins also had close connections to the far right. Whereas the original skinheads in the late 1960s had borrowed the fashion of Caribbean immigrants and shared their love of ska and reggae music, a highly visible minority of skins during the movement's revival in the late 1970s were attaching themselves to groups like the resurgent National Front (NF).

In particular the openly neo-Nazi BM [British Movement] , under the leadership of Michael McLaughlin, was actively targeting young, disaffected working-class men from football terraces as well as the punk and skinhead scenes for recruitment.