2021/2/28, Sun.

 (……)そして最後に、つぎのことを言っておこう。期待されているであろうこととは反対なのだが、称賛され求められているのは、多義性(意味の多重性)ではなく、まさしく両義性や二重性であるということだ。願望としての幻想は、すべてを(何でも)聞くことではなく、〈ほかのこと〉を聞きとることである(その点で、わたしは自分が擁護しているテクスト理論よりも古典的なのである)。
 (石川美子訳『ロラン・バルトによるロラン・バルト』(みすず書房、二〇一八年)、99; 「両義的な語(Amphibologies)」)



  • この日も八時だかそのくらいに一度覚めたはず。しかし休みつづけて、一〇時半を越えたあたりで正式な意識になった。仰向けのまま深呼吸をしたりこめかみを揉んだりしたのち、一〇時五五分に離床。ティッシュで鼻のなかを掃除し、コンピューターを点ける。ダウンジャケットを羽織って水場へ。寝床で浴びた陽射しはなかなか旺盛だったものの、空気は寒く、カキンと張ったような冷たさがある。洗顔やうがいや用足し。もどってコンピューターを見ると、画面下端、タスクバーのなかで、いつもNotionのアイコンが表示されている箇所がなぜか白紙みたいな表示になっている。ショートカットの参照先がないときのあれだ。なぜなのかわからないが、一夜明けていつの間にかNotionがなくなったということなのか? スタートのほうから選択してみてもやはり同様。ウェブに入ってページにアクセスしてみるとしかしデータは普通に残っていたので、問題なかろうと払って上階へ。カレーの残りを使ったドリア的なものがあったのでそれをレンジで加熱。合間に寝間着からジャージに着替える。天気は良く、南窓の外はあかるくみずみずしい。空の色も光で希釈されたかのように淡く、風はそこそこあるようで魚の幟がうねり泳いでいたり、遠くの木の葉叢もうねうねうごめいていたりする。加熱が終わった皿を持ってきて食事。新聞では、御厨貴東日本大震災直後の民主党政権がつくった対策委員会みたいな組織について書いていた。途中まで適当にちょっと読む。中心的な役割の人物とか、意思決定を担保する権力構造とかがはっきりせず、行政や災害方面の専門家も多くはなく、いわば門外漢が多数ふくまれており、はじまる前から怪しいなという気配を感じていたが、実際、「会議は踊る、されど進まず」を地で行くような事態になって、ひとまずまとめられた提言文書みたいなものも、なかはともかく序文などは政府文書としてはそぐわないことに詩的な表現になってしまった、と。メンバーに東北の出身者が多く、地元への「思い」をかたちにしたいというそのひとたちの意向と、運営側というか議長側の、そうは言っても明確に、曖昧でない指針を打ち出さなければならない、という考えが衝突し、なんとか折り合った結果だったと言う。
  • ほか、ミャンマーでまた死者とかあったがまだきちんと見ず。書評欄もさほど興味を惹かれるものはなかった。苅部直が篠田英朗(このひとも書評子のひとりではなかったか?)の、紛争解決とはどういうことか、みたいな新書を取り上げていた。書評欄の入り口では、宮下遼というトルコ文学研究者が、オルハン・パムクの『わたしの名は赤』を紹介していた。この作品は昔、読んだことがある。二〇一三年一月に読み書きを本格的にはじめてまだまもない頃のことだ。というかもしかしたら、それ以前だったかもしれない。つまり、文学とかいうものに興味をいだいて、卒論を書き終えたあと、二〇一三年一月に(……)さんのブログに遭遇して自分でも日記のたぐいを本格的にやりはじめるまでの期間に何冊か読んでいた記憶があるのだが、そのあいだのことだったかもしれない。と思っていまEvernoteの記録を見返してみたところ、記事の作成日が二〇一三年二月一一日だったので、やはり書き物をはじめたあとだ。趣向としては絵師(宮廷絵師だったか?)の共同体が主な舞台で、そこで殺人事件が起こって犯人を探すというミステリー的プロットが軸にありつつ、個人の自律的創造性を認めないイスラーム的芸術観と、個の唯一的独創性にもとづいた西洋(近代・ロマン主義)的芸術観の対立も取り入れた、みたいな感じだったはず。記事では語りがどうとか言われていたと思うが、たしかに、なんか章によっては犬が語っているとか、絵のなかの人間か語りだすみたいなことがやられていた気がするな、と思い出した。ただ当時のこちらはいかんせんまだ文学のたぐいに全然馴染んでいなかったし、書抜きもやってはいたが反応する言葉といってアフォリズム的なものばかりだったと思うので、この作品にそんなに大きな印象を受けた記憶はない。いま読めば違うだろう。
  • 食事を終えて風呂を洗うと帰室。(……)に行くつもり。陽の出ているうちに行きたいので、二時か三時かそのくらいかと見積もる。今日は「(……)」の三人と通話の予定だったが、何時にするのかなとLINEを覗けば二〇時との提案があったので了承しておく。それでNotionをダウンロードし直して復活させたあと、正午ぴったりから音読をはじめた。「英語」。今日はそんなにテンションが上がってがしがしはやく読んでいくという感じでもない。わりとゆっくり読めた。ただ口はなめらかになるし、意識も晴れるような感じはある。一時半前まで。そうしてこの日のことをここまで記せば、二時を越えたところ。
  • 調身を少々してから、上階へ。母親に出かけると伝えておく。ひどく空腹だったので胡桃のパンをひとつだけ食べ、アイロン掛けをやっていくことに。シャツと母親のガウチョパンツの皺を伸ばしておくと、赤い靴下を履いて階段を下りる。歯磨きをするあいだ、(……)さんのブログをすこしだけ読んだ。口をゆすいでくると着替え。赤や白などがチェック模様になったやや固めのシャツに、褐色のズボンを久しぶりに履く。労働以外で外出するのが相当久々のことなので街着もずっと着ていなかったが、履いてみるとズボンはかなりゆるくなっていた。前からすこしゆったりした履き方だったが、それにも増して余裕が生まれており、ほぼぶかぶかになったと言っても良いかもしれない。腹まわりがずいぶん細くなったことがわかる。
  • 最近は、出先では本を読まずメモを取る方針にもどっている。それなので荷物はすくなく、財布と携帯のみで、あとは年金を払っておくための用紙。ただ、本を買う予定なのでそれを入れるためにリュックサックを選んだ。手帳はモッズコートのポケットにおさめ、ストールを持って上へ。
  • 母親は図書館で借りた本の貸出延長をしたいのだが、パスワードを忘れてしまい、ページにログインできずにまごまごしていた。大文字どうやるのと訊いてくるので、アルファベットを大文字に変換する左下のキーを教え、見守る。手を洗ったりトイレに行ったりしながらしばらく見ていたが、結局試した文字列はどれも違っていて入れず。図書館に聞いたほうがはやいと残して出発。
  • 父親が家の前に車を停めて何かしていたので、出かけてくると言って道へ。日なたはまだひろく路上に敷かれている。背後からあかるみと温もりを受けつつ東の方角へ。道端の柚子が実りをむかえており、黄色い実がひとつ、そこの青いベンチの上に置かれていて、そこから一段下った先は小さな花壇になっているが、その区画にも丸々と大きなものがいくつも散らばり、転がっていた。坂に入るところで花か何か、植物らしきにおいが一瞬香ったようだ。春めいて空気がゆるくなっているので、マスクをつけていても大気に香気が混ざっているのをおりおりに感じる。川の方を見やれば河原から一段上にあたる土地に人影があり、黒い姿で、老人らしく、腰の後ろに手を置きながら緩慢にうろついている。そのあたりは芝生のようなやわらかい枯れ色の下草がひろがっており、そばには梅なのか屈曲したかたちの低い木がいくつか生えていて、ああしていると人間も鳥と大して変わらないなと見た。河原は記憶よりひろくなっているように見え、水が減ったのだろうが、段上にあった家も一軒なくなったらしく、それで見えなかったところが見えるようになったのだ。
  • 坂を上っていく。風はあるものの、思いのほかに冷たくはない。空は快晴の、におやかなような水色で、西を振り向けば雲が少々乗せられているが、雲と言ってもパウダー状の、光が刻影されたような淡い白が塗られているのみ。
  • 坂の出口で若い、ベビーカーを連れた夫婦とすれ違った。その先を見通せば街道の向こうでちょうど電車が、右から左へ走っていくところで、鈍く薄い色の林の草々を背景にして今どきではない昭和風の家が二、三あるその後ろ、住宅と自然のあいだを通り抜けていく。そういう様子を見るにときどき小津安二郎の映画を思うのだけれど、電車がもっと古くて配色など昔風のものだったらわりと近い雰囲気になったかもしれない。『東京物語』か『麦秋』の冒頭に鉄道のシーンがあったはずで、その記憶がこういう印象のみなもとだろう。
  • 街道へ。交差部のガードレールの向こうでは紅梅が樹冠のほうにだけピンク色をひろげていた。下のほうはまだ空っぽで、枝の色だけ。表へ出ると一面日なた。三時だが、このくらいの時間でもまだ充分あかるいし、気持ちが良いなと思う。ランナーの姿も見られる。北に渡るために車の流れをうかがうと、西空に見られる雲は光が繭を成しているような、あるいは陽光が流れたあとの残り滓のような、染みついたような淡さである。過ぎていく車の顔もことごとくみずみずしさを帯びている。対岸に渡ると、フォークナーのほかに何か買いたい本があったかなと考えながらすすみ、老人ホームの前にかかると料理のにおいが鼻にあらわれた。ここを通るといつもその、ソースをかけたコロッケかメンチみたいなにおいがする。
  • 裏道へ。ここもまだ陽があってあたたかい。最近は雨も降っていないのに排水溝から水音が立っていた。通り沿いの家では年嵩の女性がまごまご動いていたり、家先で老人が話していたり。歩きながら線路の向こうの林のほうを見ると、枝なのか太い蔓なのか、触手みたいなものがごちゃごちゃ乱雑に密集して姿を覆われている木が外縁に一本あって、巨大な、ひどく歳を取って神聖な生き物になったようなヤギの髭を思わせる風だった。自然も長く手つかずで生きていると、様相が獣に近くなってくるなと思う。丘を構成する木々のなかには緑がふくまれているが、砂をかけたような、黴びたような錆びたような質感で、それでも緑色は増えてきているようだ。
  • 風がおりおり路上をまわる。鳥の声を聞いたおぼえがない。白猫は見当たらなかった。裏通りの中途にある塀の立派な旧家らしき一軒では、塀の内に紅梅のピンク、白梅の白、そのほか筒型の、寸胴的なかたちに刈りこまれた植木に灯った赤と取り揃えられている。近づいて塀の前まで来ると、一番手前にはサザンカだかツバキだかわからないがまたべつの赤い花もあり、緑の濃くて硬そうなその葉は陽のつやを乗せて油をすこし塗ったようになっている。梅の先にあらわれた筒型の植木の花はなんなのかわからず。見上げたかぎり、バラのような姿かたちだったが。塀の家を離れてその先にはハクモクレンの木があり、葉のなくなってさらされた枝の先に、小さなくちばしかランプの火芯みたいなつぼみが多数生まれている。
  • (……)を渡り、さらにすすんでいると、左から鳥が一羽出現し、特有の、浅い放物線を描いて落ちかけると思いきや復活して持ち上がるあの動き、かくかくとした軌道で飛んでいき、右の駐車場の奥の梅の木に移った。鳴き声からしヒヨドリらしい。風が流れていて、道端に立ったけっこう大きな木の、樹冠の葉叢の鳴りがさらさら賑やかに、持続的に降ってくるものの、寒さ冷たさは肌にない。文化センターが近づくにつれて吹奏楽の音が聞こえてきた。あの曲は、"聖者の行進"だっただろうか。ド・ミ・ファ・ソ(キーがCかどうかは知らないが)のメロディラインがそうではなかったか。メインメロディを担当している楽器の音色にざらつきがあって、最初、トランペットかと思ったのだが、音域がそこまで高くなかったのでたぶんトロンボーンだろう。あとでペットらしきソロも聞こえたし。最初は中高生がスペースを借りて練習しているのか、それとも(……)くんが率いている市民楽団かと思ったのだが、演奏がけっこう良い感じで、ソロもなかなか歌っていたので、普通にコンサートだったのかもしれない。グレン・ミラーとかベニー・グッドマンを思わせる、つまりスウィング期のジャズの雰囲気。
  • 美容院の店先では、店主と客の女性二人が立ち話をしていた。後ろから車が来たのを受けて、幼子を抱きかかえて道の端に避難させる若い父親。駅前に向かい、コンビニへ。入る前にリュックサックを下ろして財布と払込書を出しておき、入店。手を消毒するとまずATMで金をおろす。残高は(……)ほどだった。店の反対側の壁際に行ってならび、会計。外へ。
  • 尿意が溜まっていたので駅前を過ぎて公衆トイレへ。じめじめとして汚いなかで用を足し、手を洗い、出てハンカチで水気を拭う。西空の太陽がまぶしい光を遠慮会釈なしに送りつけてくる。太陽は大きく膨張的で、まだわりと高い位置にあり、視界が半分以上白光に侵食されて、タクシーの停まっている駅前の景色が見えにくくなる。
  • 駅内へ。ホームに渡って(……)行きの一号車へ向かう。小学校のほうから子どもの声が聞こえたが、一見して姿は見当たらず。学校の裏、丘上のグラウンドからだったのか。一号車に乗り、席につくと手帳に書きつけ。やはり車内は揺れて書きづらい。(……)まで乗るあいだ、今日のことをずっとメモに取っていたが、それでも文字の自分を老人ホームの前までしかすすめられなかった。
  • 車内は空いていた。席は大して埋まらず、空きが多い。途中で、イントネーションからしておそらく合成音声と思われる女性の声のアナウンスが入ったが、アクセントのずれによる異物感と、声色のざらつきと、わりと大きめの音量がすこし苛立たしい。しかも、あなたの今日の外出は不要不急ですか? よく考えて、不要不急の外出はひかえてください、みたいなことを言ってくるので、余計に、うるせえバーカ、という感じにはなる。実のところ、こちらの今日の外出だって絶対に必要というわけではない。フォークナーを買うのがメインの目的だが、それはAmazonでも入手できるわけだし。だが、そんなに萎縮、自粛しすぎるのも良くないだろう。
  • 三番線に到着。降りて移動し、階段を上る。人波は薄い印象。改札を出るとそれがあきらかになり、日曜としてはコンコースのひとの密度がかなり低く、余裕がある。LUMINEの入り口の前にスタンドも出ていない。出口付近の托鉢僧もいない。北口へ出て、まず図書館へ。借りる余裕はないが、せっかく(……)まで出てきたので、リサイクル資料を見ておきたかった。広場を渡り、通路へ入る。伊勢丹の前には北海道物産展と書かれた看板があり、その前に男女が立ってながめている。歩廊をすすんでいくあいだ、すぐ前にカップルがいて、その二人の歩みぶりがこちらとおなじくらいゆっくりで、横を次々とひとびとが抜かしていくなかこちらだけが彼らの後ろにとどまって距離がひらかないので、まるで意図的にストーキングしているみたいな感じになってちょっと妙だった。歩道橋前に出たところで、そこのビルにwelparkが入っていることを見て思い出し、花粉症の薬も買おうと思っていたのでここで買うかと決定した。それで歩道橋を渡る。左から陽光。まぶしく白い。そちらを向けば眼下の道路が伸びていく先、道の両側のビルの合間、そして町並みの向こうに太陽がまだまだ空にひらいてひろがっており、高島屋のビルの壁面にも接着剤のようにして薄オレンジ色が貼りついている。
  • 図書館の方向へ。高架歩廊の周囲に建っているビルやホテルは、窓に空や光や互いの姿を映しこんでおり、本物と影像とでは光の当たり方、陰影の描かれ方が違っている。正面には大原学園の建物があり、その向こうの空は無雲で、下端まで完全に塗り尽くされた水色である。図書館を距離のあるうちからながめるに、どうもやっていない様子だと思われた。窓はすべて幕をかけられてなかの様子が見えないし、入り口も暗くなっているように見える。それで着いてみると、実際、休館だった。特別休館にちょうど当たってしまったらしい。
  • それなのでとんぼ返り。衣服がたくさん入った段ボール箱をかかえる若い男性がこちらの横を過ぎて抜かしていく。重いらしく、ホテルの前で、柱に寄り、手すりに箱を乗せてからだで支えながら休んでいた。手を振ったり、首も勢いよく左右に振って骨をパキパキ鳴らしていたが、あれは危険で、気をつけないと筋をいためる。勢い余って頚椎を傷つけて死んだという例もあったはず。
  • 高架歩廊の途中、側面入り口から高島屋に入った。ひとはけっこういる。小綺麗なフロアにはさまざまな色の商品がならべられて店員が動いたりしずかに立って客を待ち受けたりしている。だいたい女性物の品のはずだが、バッグなど、けっこう良さそうだなと思うものもある。エスカレーターに乗って六階へ。淳久堂に踏み入る。まず手を消毒。そうして思想の区画へ。入ってすぐにはみすず書房の本が色々集められているのだが、そのなかに、たしかハロルド・ギャティとかいう名前のひとの、「ナチュラルナビゲーション」うんぬんみたいな書があった。要するに感覚をひらいて自然と交感することをうたうたぐいの本だと思うが、そういうテーマにはいつまでも興味がある。いま検索したところ、これはハロルド・ギャティ/岩崎晋也訳『自然は導く』である。Amazonの関連図書には、ロバート・ムーア『トレイルズ 「道」と歩くことの哲学』、トリスタン・グーリー『失われた、自然を読む力』が出てくる。トリスタン・グーリーは、ナチュラル・エクスプローラーうんぬんみたいな本を以前読んだが、たしかその後売ってしまったはず。頭がおかしくなりかけていた時期だったと思うので、いまから考えるとあまりちゃんと読めなかった気がする。全然有名でない色々な冒険家とか、自然と独自の感覚的関係を結んだ文章家連中がたくさん紹介されていたので、もう一度読んでも良いかもしれない。
  • 雑誌も見る。「多様体」という雑誌をはじめて認知した。三号目が「詩作/思索」という特集だったので。見てみた感じは良さそう。あと、中島隆博などがはじめた「未来哲学」の最初の号もあった。「ニュクス」もあらためて見るに良さそう。ただ、雑誌は、興味は惹かれるのだけれど、買ってもなかなか読まない。過去に買った雑誌も、いまのところたぶんひとつも読んでいないはず。
  • その後、思想の棚を見分。いくらでも読みたい本はある。金森修のことを思い出して著作を見てみようと思い、たしかカンギレムがこのあたりにあったからその付近に金森もあっただろうと認知哲学とか脳科学と関連した方面の下端を丹念に見るのだが、見当たらない。マッハとか、ダニエル・デネットとかがある棚だ。カンギレムもなかったので売れてしまったのかと思ったが、のちほど、海外の現代思想のほうに発見した。たぶんフーコーのそばだったと思う。カンギレムは科学史なんとかみたいなやつと、『正常と病理』とあと一冊くらいあったはず。『正常と病理』はほしいなと思ったのだったが、しかしいま書きながら気づいたのだけれど、この本はすでに持っていた。いつだったかに(……)書店で入手済みだ。金森修の本も三冊くらいあったはず。
  • あとは主には新着というか、表紙を見せてならべられている書を中心に確認。そんなに記憶に残っていないが、リオタールの崇高論が星野太訳で出ていたはず。あとリオタールで言うと、ハイデガー反ユダヤ主義みたいなテーマの本もあった。で、そのハイデガーの区画はじっくり見て、どれも読みたいものではあるが、いま読んでも太刀打ちできなさそうなものが多い。ただ、なかにギュンター・フィガール/[監訳]齋藤元紀・陶久明日香・関口浩・渡辺和典『問いと答え ハイデガーについて』(法政大学出版局/叢書・ウニベルシタス(1071)、二〇一七年)というやつがあり、このひとはドイツのハイデガー協会だかなんだか忘れたがそういう組織のトップをやっていたひとらしく、最初の二章くらいでおそらくハイデガーを知っていたひとの証言をもとにしつつ肖像を描き、あとはもろもろのテーマで切り込んだ論文がたくさん収録されているという構成で、なぜだかわからないがこの本が一番ピンときたので、これを買っておくことにした。思想の通路には終盤、わりと恰幅の良い背広姿の男性があらわれて、大学教授と言われればそうも思えるような雰囲気だった。
  • それから文学のほうへ。詩をちょっと見ておき、壁際の海外文学へ。ここも詩と、新刊を主にチェック。詩だと気になるのはマラルメとトラークルとツェランあたりか。ツェランとバッハマンの交換書簡集なども。プリーモ・レーヴィの研究書はまだ残っていて、ほしいが手を出せない。あと、エドゥアール・グリッサンだ。『ラマンタンの入り江』みたいなタイトルの本が詩だか評論だかの区画にあって、これが面白そう。詩と評論を混ぜたエッセイ、みたいな感じの本の様子。フォークナーはでかい伝記が一冊あった。
  • 引き返し、文庫のスペースに入る。ちくま学芸と講談社学術をさっと冷やかしたあと、角川ソフィアの前を通ったときに、角川ソフィアって侮っていたけれどけっこう面白そうな本あるんだよなと思いだして見分した。日本の古典文学をそろえているのがすばらしいが、日本の古典文学はわりと最初からもう全集で読みたいような気もする。藤田一照『現代坐禅講義――只管打坐への道』(角川ソフィア文庫、二〇一九年)というのを買うことに。これは以前ブックオフに行ったときに発見して存在を知りながら見送っていたやつだ。瞑想を習慣化したいま、読めばおそらく参考になるだろう。道元も学びたいのだが。
  • そうして岩波文庫へ。フォークナー『アブサロム、アブサロム!』を発見してすみやかに保持。付近や、岩波現代文庫もちょっと見て、選書からプリーモ・レーヴィ/竹山博英訳『改訂完全版 アウシュヴィッツは終わらない これが人間か』(朝日選書、二〇一七年)を取った。レーヴィのこの本は一〇〇〇年先まで残すべき書物で自分でももちろん持っていたいのだが、今日買ったのは(……)くんにあげようと思ってのことだ。それで会計。相手は若い、茶髪の女性。コミック担当らしい。名前は見なかった。ビニール袋に入れてもらう。他人とのやりとりに、かすかながら気後れをおぼえるような精神の雰囲気があった。礼を言って品物を受け取り、エスカレーターへ。乗る前にまた手を消毒しておき、本をリュックサックにおさめて下階へ。
  • 退館。空気が青くなってきており、歩道橋を渡りながら左方を見晴らせば、交差点へ向かってならぶ車の赤い尾灯や、町並みの明かりがだんだんと水っぽくなりはじめている。渡ったところでビルの三階に入り、フロアを行って花粉症の薬を探す。途中で龍角散のど飴を見つけたのでそれも買うことに。最近音読でよく声を出しているため。品をもとめてちょっとうろついたが、普通に壁際の、もろもろの薬のなかに花粉症用のものもあった。色々あるようだがいま使っている「アレグラFX」で有効な力を感じており特に困ってもいないのでそれを買うことに。二八日分の箱を選んだが、これで三五〇〇円以上するので花粉症の薬というものも高いなと思った。会計へ。若い男性を相手に金を払って退館。
  • ラーメンを食って帰ることに。高架歩廊を行き、エスカレーターで下の道に下りる。ギャル的な若い女性二人がたむろしている。裏通りのビルに行って細い口から入り、階段を上って「(……)」へ。入り口に置かれてある消毒スプレーをまた手にかけておき、入って、味噌チャーシュー麺の券を購入。店員は見たことがない顔だった。フロアにひとり、厨房にひとり。どちらも若い男。前はもうすこし歳上の、威勢の良いひとが厨房に入っていることが多かったが。コロナウイルス騒動で変化もあるのかもしれない。客は大していない。カウンターの短い右辺の角付近に座る。右手にはひとり先客がいたが、すぐに食べ終わって出ていった。こちらの食券を取りに来たひとは若く、ことによると高校生との印象すらおぼえないでもなく、お願いしますと券を渡しても無言で愛想はすくないが、右手の客が去ったあとを片づける際の仕事ぶりは、けっこう丁寧な様子だった。BGMは洋ロックのたぐいだが、以前良く聞いたメロコア的なものとはすこし違う雰囲気。ラップが入っている曲なども聞かれたし。もうすこし最近の印象というか、すくなくとも二〇〇〇年代以降の音楽ではないかと思われたが、このあたりはそのときにいる店員の趣味が反映されているのだろうか。手帳に書きつけをしながら待ったが、すぐに品はやって来た。
  • 黙々と食う。普通に美味いが、めちゃくちゃ快をおぼえるほど美味いわけではない。だからと言って不満を感じるわけでもない。ラーメンもひとつの職人的なジャンルであり、ことによると芸術的なジャンルですらあるのかもしれないが、自分ひとりで色々行って美味い店を開拓しようというほどの欲求が起こらない。食事にかんしては全般そうだが。だから、詳しい誰かに新しい店に連れて行ってもらいたい。麺や具をあらかた平らげるとスープもすくって飲むのだけれど、俺ももう三一だし、塩分とか血圧とかそういうことにもたぶん本当は気をつけなければならないのだろうなと思った。ストレッチはともかくとしても、運動らしい運動はしていないし。体調や肉体感覚としてはいまが人生のなかで一番安定的で良いくらいだが。健康診断というものを大学以来まったく受けたことがない。
  • 食事を終えると退店。一応またスプレーをしておき、ビルの外に出て駅へ。大気と空は夜。階段を上って高架歩廊へ。警備員のたぐいがうろついており、彼らが腰のあたりに携えた警棒は青く点滅していて、その青さはクリスマスシーズンにこの通路の頭上から垂れ下がる電飾の涼やかな青さとおなじ色である。駅舎へ。ひとびとのなかを行き、改札をくぐって二番線へ。電車はすでに来ていた。一号車に乗ってすぐそこに座る。右のほうには外国人が三人ほど。女性が幼子もしくは赤子を連れていた。大きな声の英語がおりおり聞こえてくるが、ほぼ単語単位でしか聞き取れない。こちらは手帳にメモをはじめる。しばらくして発車するとしかし、緊張をおぼえた。というか発車前からなんとなくおぼえていて、これは久しぶりに、ものを食ってすぐに電車に乗ったために軽い嘔吐恐怖がきざしたものだが、街に出たのが久々であることも一因なのかもしれない。人間がそれなりに多く詰まって圧迫的な密室内にいることに気後れするような感じがあった。それなので発車すると書きつけはいったんやめて、瞑目して休む。目を閉じれば車両内の様子が見えなくなるので、周囲に人間がいることをすくなくとも視覚的には意識せずに済む。目を閉じてかえって緊張が高まる場合もあるが、このときは奏功して、まもなく落ち着いた。それでもなんとなく休みつづける。正面に座っていた女性二人の片方が、(……)のようにも思われたのだが、本人か不明。金髪で、風貌と声も似ているような気がしたのだが。ただ、眼鏡は、こちらの知っている彼女はかけていなかったはず。それにこちらが瞑目しているうちに途中で降りていったので、やはり別人か。さらにもうひとり、(……)らしき姿もあって、これは(……)を越えてメモを再開してから気づいた。やはり風貌も声もそれらしく思われたし、(……)で降りていったので本人かもしれないが、べつにどちらでも良い。
  • (……)に着くと、なんとなくコーラでも買って帰ろうかなという気になっていたのだが、自販機を見てみるといまはコーラが売っていない。乗車し、最寄りに移動してからも、駅を抜けると木の間の坂にすぐ入らず、通り沿いに自販機のほうへ歩き、見たのだが、ここでも缶のものしかない。べつに缶でも良いがやはりペットボトルが飲みやすいというわけでさらに歩いて、けっこう冷たい夜気のなか、もう三つくらいチェックしたが、やはりペットボトルのコーラがない。それなので諦めて坂をくだり、帰宅。
  • 「(……)」のメンバーと通話の予定だった。八時からだったが、久しぶりに街に出て疲れたので休ませてくれと言って、あとから参加することに。それでベッドで休みながら新本史斉/F・ヒンターエーダー=エムデ訳『ローベルト・ヴァルザー作品集 1 タンナー兄弟姉妹』(鳥影社、二〇一〇年)を読んだ。このとき、本篇を読み終えたはず。結びの直前には、「僕はいまだに、生の扉の前に立っていて、もちろんそうっとですが、ノックしてノックして、誰かが来て鍵を開けてくれはしないかじっと耳を澄ましているのです」(343)とか、「僕は耳を澄ます者、待つ者にほかならず、そういう人間として完成しているのです」(同)とか、「世界にあるもので、僕のものといえるものなどありはしませんし、実際、僕には欲しいものなどないのです」(344)とか、「誰かがやってきて僕にこう言います。「おい、そこのおまえ! ちょっと来い! おまえが必要なんだ。おまえに仕事をやろう!」 こんな人が僕を幸福にするのです」(344)とか、「将来、僕が何らかの形をとることになるかどうか、そんなことは全然不安でありません。けれど、自分を最終的に形成してしまうのは、できうる限り、後回しにしたいのです」(345)とかいうジーモンの自己解説が見られる。ここには最近おりおり触れてきたジーモンの自己放棄、受動性、ほとんど全面的な他者への奉仕心、「ゼロ」への志向などが見られると思うが、そういう姿勢をもうひとつ言い換えれば、みずからでみずからの存在に意味をあたえて規定することの拒否、ということになるだろう。(……)さんのブログの最近の引用で見た言葉で言えばそれは「他力」ということになるはず。ジーモンはみずからを放棄しており、自分を何者かとすることを目指さず、他者からあたえられる意味や規定を待っているのだけれど、しかしそれは見たところ、みずからの存在の基盤を他者に依存しているという状態ではない。この作品内での彼の仕事ぶりを見る限り、他者に従属しているとは言えるのかもしれないが、それはだいたい行動の面に限られており、他人からお前はこの仕事をやるんだ、こういう存在なんだという規定や肩書きなどを授けられたとしても、ジーモンはあきらかにそれを自己の本質としてはいない。実際、彼がやった仕事はどれも短期的な、一時的な労働にすぎず、いつでもやめて、その意味規定を捨てることのできる束の間の身分にすぎないわけである。ジーモンは自己を名詞や肩書きなどによってかたちづくろうとしないのだが、それでいてその無規定になんの不安もおぼえておらず、いわゆる「自分探し」をまったくしていない。彼は作品の最初から最後まで、自分のことを理解しきっており、アイデンティティの動揺をまるで起こさない。したがって、この作品には主人公の成長も変化も存在しない。迂回的な原点への回帰、という運動すらたぶんないと思う。このジーモンの、自己を放棄していながらもしかし他者に依存しているわけでもない、という主体のあり方に興味をおぼえる。彼はみずから何かをもとめず、なりたい自分など持っておらず、他人から意味をあたえられることで動き、みずからを空っぽのものとして認識しているのだけれど、その空虚さにおいて満足し、自足している。空っぽであることの確固さ、とでもいうような、逆説的でもありなおかつ非常に順当に論理的でもある事態をジーモンはそなえているように思われる(ヴァルザーについて語ると、語るその言葉もおのずから逆説的な表現を招き寄せずにはいられない)。こういう主体のあり方は現実には可能なのかなあ、という関心がある。可能だったとしてべつに自分が完全にそれになりたいとは思わないのだが、ただ、そういう方向にいくらかの親近感はおぼえる。
  • 八時半まで読みながら休み、その後、文書を読んだり音源を聞いたりしてから隣室にうつって通話に参加。(……)
  • (……)
  • (……)
  • 通話を終えたのは零時頃だったか? 忘れた。入浴へ。その後、一時台後半からまたヴァルザーを読み、訳者あとがきもふくめて全篇を読了している。訳者あとがき中、357に『散歩』からの引用があり、いわく、「散歩する者は、きわめて愛情深く注意深く、いかなる極小の、生あるものをも、それが子どもであれ犬であれ蚊であれ蝶であれ雀であれ毛虫であれ花であれ男であれ家であれ木であれ垣根であれカタツムリであれ鼠であれ雲であれ山であれ一枚の葉っぱであれ、あるいはまたひょっとすると可愛らしい良い子の生徒がはじめて書きつけた慣れない手つきの文字が記されたかわいそうな捨てられた紙切れであれ、観察し見つめなければならないのです。最も高いものと最も低いもの、最も真面目なものと最も愉快なものが彼にとっては等しなみに愛おしく美しく価値のあるものなのです」ということで、我が意を得たりという感じだった。こちらの原則は読み書きをはじめてまもないとき以来、ここに書かれてあるようなことから変わっていないと思う。まあひとつの典型的な信仰形態だと思うし、それはあくまで理想的なものであっていつもこれを意識しているわけでもないが。
  • 『タンナー兄弟姉妹』発表当時の評言として、「非有機的、骨なし、ゼリー状」という形容が紹介されていて、「骨なし」と「ゼリー状」という言い方は良いなと思った。まさしくこの作品を言いあらわしている、適切な、うまい言い方だと思う。しかし当時の書評家は、そういう特徴を正確にとらえながらも、それをヴァルザーの作品の短所、不足、つたなさと見なして、彼の文章においてはそんなことはまるで問題ではないばかりか、場合によってはそれこそが魅力であり、またことによるといわゆる賭け金ですらあるかもしれない、ということを見抜く感性と思考を持てなかったのだ。ひとつには一九世紀を生きてきた連中の、それが限界だったのだろうし、またヴァルザーは当時はそのスタイルや文章が全然知られていない新人だったわけで、最初の長篇小説でその真価を測るというのも難しかったのだろう。
  • 370ページには、『タンナー兄弟姉妹』の草稿を見ると、「事務所にて」という自作の詩からの自己引用がふくまれていたのが、発表版ではそれが削除されている、したがってヴァルザーはジーモンを「詩人」、詩を書く存在として提示するのを避けたのだという説明がある。そしてその「事務所にて」の文言が引かれているのだが、これは以前も読んだことがあるものの、「月は夜空にひらく傷口」というフレーズがとても良いなとあらためて思った。一時期は月を見るたびにそのことを思い出して、日記にも書きつけていたはずだ。引かれている詩句を写しておくと、以下の通り。「月が僕らの仕事場に差しこんでくる/哀れな助手の僕をのぞきこんでいる[……]月は夜空にひらく傷口/星々は点々と散る血の滴/僕は花ひらく幸福には縁がないけれど/それは僕に定められたささやかな運命/月は夜空にひらく傷口」。「傷口」から拡張して、「星々」=「血の滴」のイメージまですすんでしまうと、すなわち意味の連鎖をひろげてしまうと、これはちょっとありきたりな感が出てきてしまい、この二つ目の比喩はそんなに良いとは思わないのだけれど、最初の、「月は夜空にひらく傷口」は簡潔ながら端的にすばらしいと思う。
  • あと、最後のほうでは各作家や批評家などがヴァルザーについて述べた評言が羅列的に紹介されており、そのなかにムージルのものがある。引用中の後半は何を言っているのかよくわからないが、前半部、「ヴァルザーは、世界の事物や内面の事物がもつ譲ることのできない要求、われわれに現実だと受け取って欲しいという要求に対しては、たえずそれを裏切る。野原はヴァルザーにとって、あるときは現実的な対象であるが、あるときは紙の上に書かれた何かでしかない」というのはよくわかる。たぶんここでムージルは、こちらが最近ヴァルザーの文章にかんしてくり返し書きつけてきた感触や印象とおなじようなものをとらえ、言及していると思う。つまり、ヴァルザーの文章ほど、「現実的な対象である」ということと、「紙の上に書かれた何かでしかない」ということを両立させている言葉は存在しない、ということだ。よくあるというか、尋常のすぐれた文学や文章だったら、「現実的な対象である」ということは高度に、巧みに提示できても、それとまったく同時に「紙の上に書かれた何かでしかない」ということをも示すということは、やりづらいのではないかと思う。普通だったら後者の様相をなんとか丹念に覆い隠すことで前者を成立させようとするものだろう。言語はみずからが言語でしかないということを絶えず自主的に宣言しつづけており、それは作品を根底で支えている絶対的原理なのだが、それが露呈してしまうことで読者を遠ざけたり、成立させたいことが成立しなくなったりする事態があるので、書き手はつねにその露呈の危険にさらされながらそれをどうにか隠蔽しようとつとめており、多くの作家はそのことを読者に忘れさせる技術に心を砕く。そして、そういうやり方ですばらしいものをつくりあげることに成功した作品も多くある。ただヴァルザーはそうではないし、彼の場合、「現実的な対象である」という感覚と、「紙の上に書かれた何かでしかない」という感覚が綯い交ぜになって、しかもそのどちらにおいても、ほかにはあまりない強度をそなえている。矛盾が齟齬と葛藤を生むのではなくて、相乗を招き寄せているかのように。両極が一致してつながっており、極から極へと瞬間移動をしつづけるのがヴァルザーの小説である。
  • 三時半まで書見して、おとなしく寝た模様。