2021/3/2, Tue.

 彼をとりまく諸体系との関係において、彼はいったい何なのであろうか。むしろ残響室であろう。彼は考えたことを再現するのが苦手なので、ただ言葉についてゆく。語彙をおとずれる。すなわち語彙に敬意を表するのだ。概念を〈援用〉し、それらの概念をひとつの名称のもとに繰りかえす。その名称を紋章のように用いる(そのようにして、一種の哲学的表示文字法を実践しているのだ)。そうした紋章は、自分がそのシニフィアンとなっている(たんに連絡の役目を担っている)体系を深めることを彼に免除してくれる。たとえば〈転移〉という概念は、精神分析から来ており、その意味にとどまっているように見えるが、オイディプス的な状況からは無頓着に離れてしまっている。ラカンの概念である〈想像界〉は、古典的な「自己愛」の境界あたりまで広がっている。〈欺瞞〉は、サルトルの体系から外れて、神話批評のほうに入っている。〈ブルジョワ〉は、マルクス主義的な重圧を大いに担っているのだが、しかしたえずそれをはみだして、美学や倫理のほうへと流れてゆく。このよ(end100 / 101は図版)うに、たしかに語は移動し、諸体系は連結し、現代性がこころみられているのであるが(ラジオの使いかたがわからないときに、あらゆるボタンを押してみるようなものだ)、そのようにして生み出された間テクストは文字どおり〈表層的な〉ものとなっている。〈鷹揚に〉くっつけられるのだ。(哲学的、精神分析的、政治的、科学的な)名称は、もともとの体系とむすびつく紐を保持しており、その紐は切られずに残っている。紐は強靭で、風にたなびいている。その理由はおそらく、ひとつの語を深く掘りさげながら、同時に欲望することはできない、ということであろう。彼の場合は、語への欲望のほうが勝っているが、しかしその快楽には学説の震えのようなものが含まれているのである。
 (石川美子訳『ロラン・バルトによるロラン・バルト』(みすず書房、二〇一八年)、100~102; 「残響室(la chambre d'échos)」)



  • 八時半だったか九時だったかに覚醒。しかもそこそこ軽く、はっきりとした目覚めだった。とはいえ再度、ちょっとまどろみ、それでも九時半に復活。いつもよりはやくてよろしい。今日は空は白さが多く、明確な陽射しというほどのものもない曇りである。布団の下に入ったまま膝を立て、しばらく深呼吸を繰り返す。そうしてからだがほぐれてくると、こめかみと眼窩を揉みほぐしてから起き上がった。携帯を見ると、ぴったり一〇時だった。コンピューターを点けておき、ティッシュを鼻に突っこんで掃除し、水場へ。顔を洗ってうがいをおこない、放尿してもどってくると瞑想。「アレグラFX」をさっそく飲んだのだが、座っていると鼻がまだすこしムズムズして、鼻水も少量湧いて垂れてくるので集中できない。それで一三分、短く座ったのみで仕舞い。
  • 上階へ。居間は無人。両親は揃って買い物に行ったのではないか。炊飯器が米を炊いている最中だったので、先に風呂を洗うことに。今日は脚がけっこう固い。また、くしゃみをするとやはり腰に響く。出てくると炊飯器はあと四分になっていたが、先にさっそく音読をして、一一時を過ぎてから食事にしようと考え、下階へ。Notionを支度し、一〇時四四分から『Solo Monk』とともに読みはじめた。401番から。二〇分。
  • そうして食事へ。例によって卵を焼くことに。ハムがなかったので、冷凍に肉が余っていただろうと探し、小さなかけらをレンジで加熱。一方でフライパンに油を垂らしてよく温めておく。ところがここで炊飯器を覗いて気づいたのだが、炊かれたのは普通の白米ではなく牡蠣ご飯だった。それだと卵を乗せて黄身をかき混ぜて食うのにはそぐわないので、とはいえ肉ももう解凍してしまったので、普通に黄身を固めるくらいに焼いておかずとして食べるかと判断。それでそのように調理し、卓に行って食事を取った。新聞一面はわいせつ教員を排除し、教壇に復帰できなくする新法を自民公明が計画していると。国際面から香港の話を読む。昨年七月だったかの立法会予備選に参加したりそれを運営したりした四七人が起訴され、審理がすすんでいると。当局は、議会で過半数を握り政府予算を否決したり機関を麻痺させたりすることを目論んだ、とかいう罪状を挙げているのだが、立法会選挙に出馬する候補者を絞る予備選の段階で逮捕したのは、あまりにも強引なやり口と言わざるをえないのではないか。親中派内にも、おそらく疑問を持つひともいるだろう。それだけはやく、できる限り前もって民主派勢力を潰しておき、影響力を完全に排除したいということなのだろうが。
  • 食後、皿を洗うと帰室。そうして一一時半からふたたび音読。「英語」をすすめる。400番台くらいになると、一項目ごとの引用が話題の切れ目に添っていて、場合によっては複数段落にまたがったりして長くなるから、番号としてはなかなかすすまない。力を抜いて、気楽に、ある種ぼんやりとしたような感触で、楽に読んでいきたいのだが、けっこう力みは生じる。一二時半で、いったん切るかという気になった。ちょうど一時間。そうして、昨晩仕上げた二七日の記事をブログに投稿したあと、今日のことをここまで記せば、一時直前。
  • この日のことであとおぼえているのは、四時になって出勤前に食事を取ったあいだのこと。この頃には雨が降っていたのだが、そのなかで味噌汁をすすっていると、なぜか心身がひどく落ち着く感じがしたのだった。しずかな響きを生みつづける雨音も、南窓の向こうの宙に無数の縦線を描きあつめて空間をかすかにふるわせ乱している景色も、両方ともそういう作用をもたらした。母親がなんだかんだと話しているが、その声もあまり耳に入らないような落ち着き。精神安定剤を服用したかのようなダウナーな心地良さだった。久しぶりに雨が降ったのと、からだがよくほぐれていたためだろうか。
  • 「記憶」ノートの音読中にたしかChristian Piccioliniについての記事があったのだったか、それでPiccioliniの著作はちょっと読んでみたいなとAmazonで見ると、Kindle版もあってそちらのほうがよほど安い。パソコンでもKindleって読めるのだろうか、たぶんそういうソフトあるだろうと思って調べてみるとKindle PCとかいうものがやはりあったので、とりあえずダウンロードしておいた。寝床で読むことを考えるとタブレットサイズのほうが楽ではあるが、これで一応、英語の電子書籍を読める。こころみにVirginia Woolfとか検索してみても色々あるので、良い時代だ。いずれ、何年かあと、英語に一区切りがついたら次の言語に行くつもりでいるが、そのときにも電子書籍が大いに役立つだろう。しかもその頃にはデータでの読書がもっと普及しているだろうから、さらに読みやすいツールやサービスも出てきているだろうし、読める書物も格段に増えているはず。
  • この日の勤務は授業ではなく、新年度からの学習指導要領改訂と教科書の更新にともなって教材が新しくなるのでそれに合わせたマニュアルを相談して考えるというもの。特筆事はないので省略する。帰路、(……)に出くわした。駅に入って通路を歩いていると、階段にかかったところで前から来た男が声をかけてきて、見れば(……)だったのだ。声をかけられなければ気づかなかっただろう。以前会ったときは普通の顔だったのだが、この日見たところでは、またちょっと太ったのではないかという気がした。コンビニ行こうぜと言うので付き合うことにして、改札を通りなおし、店へ。どうせなので俺もなんか菓子でも買うかと籠を持ち、(……)よりも長く見て回った。ポテトチップスにポップコーン、あとはエノキダケと即席の味噌汁のセット。味噌汁が切れていたのでちょうど良かった。あちらは酒かなにか買っていた様子。それで駅へもどり、電車に乗る。最初は携帯をまだ変えないのかというような話。これで以外とサービス期間が長くて、あと一年くらいは使えるのだとこたえる。(……)は最近LINEで(……)グループみたいなものをつくって「(……)」とかいう掲示板サイトに貼り、ひとを募って飯に行ったりしていると言う。そういう、一昔前だったら出会い系とか言われていたようなことをやるタイプだったのか、とちょっと意外に思った。たぶんそれだけ刺激がないというか、生活に満足しておらず退屈を感じているということなのではないか。自足していない人間はむやみやたらに新しい出会いをもとめる。しかし来る人間はだいたい「変なやつ」で、やばいようなひとばっかりだ、と言う。だが、やばいと言ったところで所詮(……)だから大したことはないだろうし、せいぜい気晴らしに異性とセックスしたくて寄ってくる色事師くらいだろう。その後は旅行の話。最近家族で小田原城に行ったり、すこし前には三重に行ったりしたと言う。小田原城近辺で撮った写真や動画を見せてもらったのだが、いや画質めっちゃいいなとおどろいた。特に海沿いを走っているときの動画で、海面の微細なうねりが明晰にとらえられていたのは印象的だった。梅の木にメジロが来てうろついているのをズームでとらえたものも良かった。たかだか携帯でこれだけきれいな映像を撮れるのだったら、そりゃあみんなパシャパシャやるわけだわ、と思った。(……)のやつはその高画質を目当てにして選んだらしく、とりわけきれいに撮れるようだ。
  • あちらの家のほうから帰る。車の運転の話題から、ベルギーに行ったときはみんな運転が荒くて事故も多くて怖かったと話したり、最近眠れないと言うのに脹脛を揉めとすすめたりなど。そうして家の前で別れて夜道をひとり行く。
  • 帰宅後の印象はとりたててない。日記の読み返しをしており、その際に以下の部分を記しておいた。読んだのは、2020/3/2, Mon. / 2020/3/1, Sun. / 2020/2/20, Thu. / 2020/2/21, Fri.
  • 二〇二〇年二月二〇日を読むと、起床のために一〇時にアラームをかけており、しかしそれに応じることができずに一二時四五分までだらだら寝ている。この頃に比べると、いまの生活は、まだしも良い睡眠習慣になっているのではないか。すくなくとも正午を越えることは最近はほぼないし、時間としても、長くても八時間台にとどまっているはず。からだがだんだん調ってきているのだろう。
  • この日のテレビのニュースいわく、「福岡でも新型コロナウイルスの感染者が発見されたとのことだった。クルーズ船からは続々と乗客が下船しているようだが、以前に感染が確認されて病院に運ばれていた八〇代の男女が新型肺炎で死亡したとの知らせもあった。これで神奈川県の八〇代女性と合わせて国内での死者は三人となる」。
  • 2020/2/21, Fri.も。「一年前の日記を読み返したところ、分量としては長いわりに特に印象に引っかかる記述がなかったので、もっと気張れよ、もっと文を形成することに苦しめよと思った」というので笑う。この日は冒頭、「朝食を取りながら視線を南の窓外に送り出すと、近所のある屋根を形成している面のうち、北側の三角形が溶けた金属の海のように輝いて、襞を完全に失っている。光は大気中に豊富に混ざって景色はいくらか霞んだように白んでおり、川沿いの樹々の爽やかな薄緑も柔らかな質感を帯びている。風はないのかと見ているうちに枝葉が軟体生物のように緩慢に撓みはじめたその川向こうの木叢のなかには、何なのか正体は知れないものの陽射しを収束・反射させる小断片がいくつか覗き、白昼でも光を失わない地上の星のごとくである。しばらく経つと鳥が三匹、川の上空を右から左へと渡っていったが、その姿は鳥と言うよりも、はたはたと細かく上下に震えながら白さを跳ね返す薄い円盤状の光点そのものだった」という風景描写をしたためているので、このときの自分としてはたぶんがんばったつもりなのだろう。たしかにそこそこ力を入れたような気配がないでもないが、全体的なトーンは堅苦しいし、力みと構えが感じられる。そのような努力はもはや不要だ。
  • 「我々はよく「心の奥」という言い方をするものだが、これは一種のメタフォリックな捉え方であるはずで、心とか内的意識というものに、奥とか前面とかそういう階層のようなものがあるということが確かなのかどうか、本当のところはわからないのではないかとも思った。無意識という観念が人間の思考のうちに登場するのはいつからなのだろう。明確に理論化したのは無論フロイトなのだろうが」「もしかすると意識には表層しかないのではないか、という気もちょっとしないでもない。その時その時の表層が仮初めに縫合されて何とか繋がっている、というような」とも。
  • 昨年の三月頭はやる気が出なくて怠けており、三月二日か一日のどちらかは一〇〇〇字も書いておらず、いまから考えると意味のわからないような乏しさだが、でも、二〇一三年に書き物をはじめた頃は、一〇〇〇字書くのにもめちゃくちゃがんばってひいひい言っていたなと思い出した。がんばってがんばって記憶をかき集めてもそのくらいにしかならなかったはず。それを思うと、ずいぶん遠いところに来たものだ。