2021/3/4, Thu.

 〈主体とは、言語活動によって生みだされた結果にすぎない〉という原則のもとに書かれたすべてのものに、彼は連帯感をもっている。ついには学者が学問の叙述のなかに含みこまれてしまうような、そんな非常に壮大な学問を彼は思い描いている。それは、言語活動のさまざまな効果についての学問となるであろう。
 (石川美子訳『ロラン・バルトによるロラン・バルト』(みすず書房、二〇一八年)、106; 「新しい主体、新しい学問(Nouveau sujet, nouvelle science)」)



  • おどろくべきことに、この日のことはすこしも記述されていない。手帳にほんのすこしメモを取ってあるだけだ。一方では、怠け者の体たらくだと言わざるをえないが、もう一方ではむしろ良いことなのではないかとも思う。つまり、なるべくすべてを、生の全体をできるかぎり詳細に記録しなければならないという強迫観念から逃れ、そのようなfundamentalismを意に介さなくなってきているということだからだ。そういうわけで、この日のことは断片的に、みじかくさっと終えようと思っている。
  • 起床は久々に一二時にいたった。メモにもあるとおり、この日は起き抜けから勤務後まで頭痛がわだかまっていたおぼえがある。大した威力のものではなかたったが、頭蓋がずいぶん固まっているような感じだったのだ。それで頭とか額をマッサージもしたのだが、頭痛はなかなか溶けなかった。なくなったのは夜半前だったはず。
  • ミャンマーで八人だか死亡したという報を読んだらしい。あと、マイルズ・ユーとかいったか、忘れたが、前政権で米国の対中政策を統括していたひとのインタビュー。漢字だと、たしか余茂なんとかという表記の名前だったと思う。マイク・ポンペオの片腕みたいなポジションだったらしく、オフィスもポンペオの部屋のすぐそばに置かれていていつでも相談に行けるようにされていたとか。いままでの米国の中国に対する、いわゆる「関与政策」は失敗だったと断じており、また、「新冷戦」という呼び方もそぐわないとも言っていた。中国共産党はそもそも建国以来ずっと米国に敵対的だったわけで、ベルリンの壁は崩れソ連も消えたとはいえ、中国の姿勢は冷戦時代から根本的には変わっておらず一貫しているからだ、と。そのあたり確かなのかわからないが、「関与政策」にかんして考えれば、たしかに社会主義国家中国を国際的市場経済に招き入れることで爆発的な経済力を身につけさせてしまったにもかかわらず、目論見だった人権意識とか民主主義的価値観とかのインストールは達成できず、結果として、巨大な経済力にものを言わせた貿易攻勢によって小国にも大国にも影響力をおよぼしてその急所を握りながら、国内でも国外でもやりたい放題というモンスターみたいな国をつくりだしてしまったのは現在の事実なわけで、それを思うとたしかになあ、という気にはなる。
  • 食事中、窓外で風にさそわれた白梅の花びらが、白さの上に光を乗せながら、ただ落ちて過ぎていくばかりでなく上方に向かっても浮かび上がり、舞い踊っていた。
  • 往路は寒くなかったようだ。曇り気味で太陽は雲に溶けていたが。(……)さんの宅の前あたり、林につながる斜面の足もと、道の端にある段に腰掛けて雑談している老女二人を見た。一方が威勢の良い声でつぎつぎとしゃべっていた。いかにものトーン。実に井戸端会議的というか。
  • 勤務中のことは多少おぼえているが、記述しておく気が起こるほどのことはない。そのほかも、特筆事としては、Mike Wendling, "Proud Boys and antifa: When a right-wing activist met a left-wing anti-fascist"(2019/3/8)(https://www.bbc.com/news/blogs-trending-47332054(https://www.bbc.com/news/blogs-trending-47332054))を途中まで読んだことと、音楽を聞いたことくらい。音楽はBill Evans Trio, "Alice In Wonderland (take 2)"(『The Complete Village Vanguard Recordings, 1961』: D2#7)と、Jesse van Ruller & Bert van den Brink, "Stablemates"(『In Pursuit』: #9)。"Alice In Wonderland (take 2)"を聞いているあいだに思ったのだけれど、音楽が成立するというのはそもそも尋常のことではないのだ。われわれはそれをいつも当たり前の事態だとみなしてたいていの場合なにも疑問をいだいていないけれど、このBill Evans Trioの演奏を聞いていると、ひとが楽器を演奏して音を出し、べつの人間が楽器を演奏して出した音とそれが組み合わさって、調和とか齟齬とか一致とか離反とか交流とか併存とかさまざまな状態をその都度生みながら、それら無数の状況をときにスムーズにときに苦しみながら通過していき、しかしともかくも最終的にはひとつの音楽としてかたちをなして、まとまったものが成立したかのように聞こえてしまうということ、それはすこしも常識的な事態ではないのだということがよくわかる、と思った。それは決してあらかじめ約束された当然の事態などではなく、その都度かりそめになんとか成り立っているものにすぎず、その流れがいつ崩れて停まってしまったとしてもちっともおかしくないのであって、演奏家はつねに底のところでその危険におびやかされながら音を発し、発された音を感じ、つぎの音を発していくのだ。そういうことが直感的に確信され、理解されたような気がした。