2021/3/5, Fri.

 言語学とは、メッセージあるいは言語活動を対象としなければならないのだろうか。すなわちこの場面では、〈耳にするとおりの表層的な意味〉を対象とすることになってしまうのだろうか。そうではないあのほんとうの言語学を、コノテーション言語学を、何とよべばいいのだろう。

 かつて彼はこう書いた。「テクストとは、政治的な『父』にお尻をみせる磊落な人物である(あるべきだろう)」(『テクストの快楽』より)。これをある批評家は、慎みによって「ケツ」のかわりに「お尻」の語を用いたのだ [訳注113: 俗語表現に「ケツを見せる」(怖じ気づく、逃げ出す、の意)があるからであろう。] と信じるふりをしている。その人はコノテーションをどう考えているのか。いたずらっ子 [訳注114: 『いたずらっ子』(一八六五年)は、セギュール夫人(一七九九―一八七四)によって書かれた子ども向け小説であり、マックミッシュ未亡人に育てられた孤児シャルルの物語である。数多くの映画化や演劇化がなされた。] はマックミッシュおばさんにケツを見せたりはしない。お尻を見せるのだ。この子どもっぽい言葉こそが必要であった。「父」にかかわる文だからである。この例のように、ほんとうに読むとは、つまりはコノテーションに入ってゆくことなのだ。だが、ちぐはぐになっている。実証的な言語学は、デノテーションの意味ばかりを対象として、ありそうにもない非現実的で漠然とした意味をあつかっているので、意味は疲弊してしまっている。そうした言語学は、明るい意味や、輝かしい意味、表現されつつある主体の意味などは軽蔑して、空想的な言語学のほうへと押しやってしまっている(明るい意味とは何か。そう、夢のなかのように、光につつまれている意味だ。わたしは夢のなかでは、ある状況における苦悩や満足や欺瞞性を鋭敏に感じとっている。夢のなかで起こりつつある(end107)できごとよりもずっと鮮明に)。
 (石川美子訳『ロラン・バルトによるロラン・バルト』(みすず書房、二〇一八年)、107~108; 「あなたなの、エリーズ……(Est-ce toi, chère Élise...)」)



  • だらだら寝過ごして、一一時半の起床。今日はやや濁った感じの白い曇りの日。寝床にいるあいだ一度だけ光線が強くなったときがあり、そのときの光は熱かったが、あとの時間は太陽も雲に隠れてなんの感触も届いてこない。今日も瞑想はせず、コンピューターを点けておいて伸びなどしてから上階へ。両親ともいる。ただ、母親は勤務である。洗顔したり、うがいを何度も念入りにやったり、トイレに行ったりしてから食事。天麩羅と煮込みうどん。新聞からはミャンマーの報。二月一日のクーデター以降でデモに関連した死者が五四人だかをかぞえると。昨日かおととい、一気に三〇人くらいが亡くなったはず。そういう報を昨日かおとといあたりの新聞で目にした。弾圧は強まっており、デモ参加者のみならずその支援をする団体の事務所が軍か警察によって急襲されたり、また怪我人を運ぶ救急車も襲われて救急隊員が攻撃されたりしているらしい。警告なしの実弾水平射撃も多くなっていると。
  • 食後は母親の分も合わせて食器を洗い、風呂へ。蓋の裏側がぬるぬるしていたので、まずそれを細い毛のブラシで擦って通常の質感にもどす。それから浴槽内。入ったときにからだのすぐ両側になるあたりは今日も丁寧に擦っておいた。出ると茶を用意し、「ユースキン」を左手の甲、指の付け根付近にちょっと塗っておいて下階へ。Notionを用意すると茶を飲みながらClaire Bates, "I was a neo-Nazi. Then I fell in love with a black woman"(2017/8/28)(https://www.bbc.com/news/magazine-40779377(https://www.bbc.com/news/magazine-40779377))を今日はまず読んだ。なんとなく英語を読みたい気分だったので。ベッド縁でボールを踏みながら最後まで。それからJoseph E. Stiglitz, "A global recovery’s leading variables"(2021/1/6, Wed.)(https://www.japantimes.co.jp/opinion/2021/01/06/commentary/world-commentary/covid-global-recovery/(https://www.japantimes.co.jp/opinion/2021/01/06/commentary/world-commentary/covid-global-recovery/))もすこしだけ読んだが、便意が固まったのでトイレに行くところで中断し、用を足してくると一時五〇分、「英語」の音読。474から498までで一時間半。手の爪を揉んだり、手首を曲げて伸ばしたり、立位になって腰の裏を揉みほぐしたりしながら読む。柔軟とか調身において大事なのは気持ち良さを感じる範囲でやることであって、とにかくからだを和らげたいという観念で、揉んだり伸ばしたりすること自体が目的化しても良くないということを思い出した。気持ち良さを感じないことを無理にやる必要はないということだ。そして、それは柔軟に限らず音読とか読み書きとかもそうで、自分が気持ち良いというか、楽しいというか、まあやっていて苦しかったり疲れたり退屈だったり無理があったりしない範囲でやるのがなんでも吉だろう。義務的な仕事だったらまた違うだろうが、こちらの場合はべつに誰に課されているわけでもないのだし。快楽にしたがうのが一番だろう。快楽というほどの感覚も特に生じない場合も多いが、なんとなくそちらの方向に引き寄せられるような書き方だったり、やり方だったり、行動の選択だったりをするということ。楽にやる。
  • 音読は『Solo Monk』などをBGMにして三時一六分まで。それから今日のことをここまで記した。二月二八日から記事が完成していないので、今日と明日の休みで現在時に追いつけたい。
  • あとこの深夜はなぜか途方もない夜ふかしをしてしまい、朝をむかえて六時二〇分まで起きていた。なぜそのような事態が発生したのかわからない。