2021/3/8, Mon.

 自分の〈プライバシー〉を打ち明けるときは、もちろん、わたしは自分をもっとも危険にさらしている。「スキャンダル」の危険ではない。そのときわたしは、自分の想像界をもっとも強い堅固な状態で見せているから危険なのだ。想像界とはまさしく、他人が優位な立場からながめるものである。いかに裏返して見せようと、いかに切り離して語ろうと、守られることのないものである。しかしながら、「プライバシー」は、それが語られる相手の〈ドクサ〉によって違ってくる。右派(ブルジョワあるいはプチブルジョワ、すなわち制度や規範やマスコミなど)のドクサであれば、もっとも危ない暴露となるのは性的なプライバシーだ。だが左派のドクサであれば、性的なことをさらけ出しても何の違反にもならない。そこで問題となる「プライバシー」は、ささいな習慣や、主体が打ち明けるブルジョワイデオロギーの痕跡である。こちらの〈ドクサ〉に向かって語るなら、ひとつの好みを述べるよりも、倒錯趣味を宣言するほうが暴露度が少ないのである。そうすると、情熱、友情、優しさ、感じやすさ、書く快楽などは、たんなる構造的転位によって、〈語ることのできない〉言葉になってしまう。それらは、言葉にできることや、あなたが言うと期待されていることに反しているのだが、しかしそれらこそがまさしく――想像界の声そのものであり――あなたが〈ただちに〉(媒介なしに)言うことができればいいと思っていることなのである。
 (石川美子訳『ロラン・バルトによるロラン・バルト』(みすず書房、二〇一八年)、112; 「プライバシー(Le privé)」)



  • 一〇時台後半にかけて意識を復活。曇りの日。こめかみをぐりぐりと円を描くように揉んだあと、頭も左右に転がして首筋をほぐし、一一時六分に起き上がった。鼻にティッシュを突っこんで掃除したり、背伸びしたりコンピューターを点けたりしてから水場へ。顔を洗い、うがいもしたあとトイレで放尿。そうしてもどると瞑想をした。一一時一六分から三六分まで。昨晩寝る前にやったときとは感覚が違う。身体感覚がなめらかになる度合いが違うし、あちらではけっこうやったと思っても一二分くらいしか経っていなかった。やはり一日の終わりだと疲労感が強いからだろう。
  • 上階へ。ジャージに着替える。今日は風はほぼないようで、魚の幟は完全に停止して支柱に貼りつくように、だらりとまっすぐ縦に垂れている。ちょっと屈伸などしてから食事。鮭と米と昨日の味噌汁の残り。新聞はまず文化面を見た。山本芳久『世界は善で満ちている』(新潮選書)が紹介されていたので。トマス・アクィナスの感情論を解説したものだと。アクィナスは感情を、それが向かう対象の性質によって分類しているらしい。たとえば、善か悪か、未来のものか現在のものか、獲得困難か容易か、獲得可能か不可能か、という具合で、「希望」だったら獲得が可能ではあるが困難な未来の善に向かうものだと。対象が現在になれば「喜び」となり、獲得が容易であれば「欲望」になる、とそういった感じらしい。そして、それらすべての感情のベースにはまず「愛」があり、ここで言う「愛」はそんなに大げさで高尚なものではなく、ちょっとした好みとか、何かを気にいるくらいのものだというが、それがなければ感情は何も成立しない、とアクィナスは論じているとかいうこと。
  • ほか、中国の王毅外相が全人代開催に合わせてオンラインで会見し、例の、「愛国者」でなければ立候補できなくするという香港の選挙制度改革を正当化したり、米国を牽制したりしたとのこと。国家への忠誠は公職につくものがそなえるべき基本的政治倫理だというが、彼らの言う「国家」とは、「国家」というより、その時の共産党政府のことだろう。中国においては党と国家総体は等置される。
  • 雨が弱く降ってきたようだった。食後は皿洗いと風呂洗い。そうして帰室。Notionを準備し、LINEを見ておき、とりあえず音読をはじめる。今日は「記憶」。BBC Futureの"Tomorrow's Gods"からの文。さしあたり一時過ぎまで二五分ほどでみじかく切った。それから少々柔軟運動をする。ベッドにはまだ乗らず、開脚などで脚の筋を伸ばし、また背伸びもおこなって背や腰もやわらげておく。そうして一時半前から書き物に入って、ここまで記せば一時四五分。今日は労働。水曜日の会にそなえてTo The Lighthouseの翻訳をはやめにやっておきたい。
  • それから間髪入れず、そのままひとつながりに、昨日のことも記述して、二時二〇分で完成・投稿した。そうして柔軟。ちょっとだけ肉を伸ばしてすぐにベッドに行くつもりだったが、三〇分ほどやってしまう。くるりの曲をいくつか流してうたいながら下半身を中心にやわらげた。合蹠と座位前屈もやっておく。脚の裏側を伸ばすには座位前屈が一番良い。
  • それで寝転がりながらウィリアム・フォークナ―/藤平育子訳『アブサロム、アブサロム!(上)』(岩波文庫、二〇一一年)を読む。やはり修飾関係がきれいに流れないような文の配置になっていることがあるが、原文の感じを出そうとしているのだろう。カンマで頻繁に区切りながらじれったいように長くつづく訳文の語りを見ていても、これは翻訳するのにだいぶ骨が折れる英語だったのではないかという感じがうかがわれる。四五分読んだ。終盤ちょっと眠気が香ったが、起き上がり、縁に座ってボールを踏むことで回避。
  • 四時で上階へ。母親が送っていってくれると言う。本当は歩いたほうが良いと思うのだけれど、なんであれ余裕は取りたいし、言葉に甘えようかなという気にいまはなっている。外出前にまた瞑想もしたいし。やはり起床時だけでなくて、もうすこし時間を増やしていったほうが良い気がする。木綿豆腐をレンジで加熱し、即席の味噌汁も用意して食事。新聞から、国際面にもあった王毅外相の会見内容を追う。米国に対して、中国の「核心的利益」を侵害することは絶対に許さない、と強い牽制をおくった様子。「核心的利益」というのは、たとえば新疆ウイグル自治区であり、たとえば台湾や香港のことであるらしい。米中関係においては内政不干渉を固い原則として堅持するべきだとも。米国は「民主主義」や「人権」を口実にして他国の内政に干渉し、それによって戦乱や混乱をまねいてきたと批判したという。それ自体はある程度まで確かなことだとは思うが。一方で日本には、東京オリンピック北京五輪を通して友好を深めることができる、みたいなことを言い、尖閣諸島についての言及は避けたらしく、「秋波を送った」という言葉が記事には使われていた。
  • あと、ミャンマーの国営紙が、デモ中に銃撃されて亡くなった女性の検死結果として、治安部隊が使用しているのとはべつの銃弾が摘出されたという情報を報道したと。国軍以外の勢力の存在を暗示して責任を逃れようとしているのではないか、という目で見られているようで、国民からはでっちあげだとの声が上がっているとのこと。
  • 食器を洗って乾燥機に片づけておくと、自室に帰ってきてここまで書き足した。それでいま、四時半。車でおくっていってもらえるなら五時半頃出れば良いので、一時間の猶予がある。
  • Woolf会にそなえてTo The Lighthouseの翻訳をもうすすめておくことに。今回こちらが担当する部分は、以下の箇所。一段落がけっこう長いので、半分くらいで切っている。

 The Ramsays were not rich, and it was a wonder how they managed to contrive it all. Eight children! To feed eight children on philosophy! Here was another of them, Jasper this time, strolling past, to have a shot at a bird, he said, nonchalantly, swinging Lily's hand like a pump-handle as he passed, which caused Mr. Bankes to say, bitterly, how she was a favourite. There was education now to be considered (true, Mrs. Ramsay had something of her own perhaps), let alone the daily wear and tear of shoes and stockings which those 'great fellows', all well grown, angular, ruthless youngsters, must require. As for being sure which was which, or in what order they came, that was beyond him. He called them privately after the kings and queens of England: Cam the Wicked, James the Ruthless, Andrew the Just, Prue the Fair — for Prue would have beauty, he thought, how could she help it? — and Andrew brains.(……)

  • この夕刻には三〇分ほど取り組み、how she was a favouriteの文までほぼ片づけたはず。五時を越えたところで中断し、出勤の支度をはじめた。歯を磨き、着替え。いや、そうではない。着替える前に、ジャージのまま、瞑想をしたのだ。その時点でもう五時一四分だったので、一〇分もかけずみじかく切り上げようと思っていた。実際そのようにできて七分座ったのみだったが、それでも眠気に押された意識があるところでひろがり晴れるような境があった。そうしてスーツに着替え、コートとマフラーを持って上へ。階段下の部屋にいる父親に行ってくると挨拶をして階を上がり、母親にそろそろ行く旨をつたえる。トイレに行って排便してから出発した。雨は止んでいる。
  • 母親が出した車の助手席に乗り、おくってもらう。道中、母親はまた父親の仕事についてなんだかんだ言ったが、このときは特に苛立ちをおぼえなかった。人手が足りなくて、三月いっぱいはなんとか出てほしいと言われているらしい。最初から週三回もやらないで週一くらいからはじめてみれば良かったのに、と母親が言うのはたしかにそのとおりだと思う。いきなり飛ばしすぎた感はいなめないし、それで結局、自分の首を絞めることになった。そういう話をしている最中に母親が、畑にもまたなんかつくって、どうせ片づけられなくなるんだから、(……)だよ、と口にしたのだけれど、「(……)」なんて言葉は生まれてはじめて耳にしたので、なにそれとたずねて、どうせあれだろ、またおばあさんが独自につくった言語だろ、と冷やかすと、普通にある言葉だと言う。そんなわけがあるまいといま調べてみたところ、Google検索で一番上に出てくるのは(……)なので、やはりこのあたりの土着的な言葉遣いなのだろう。祖母はわりとそういう特殊言語もしくは個人言語(イディオレクト)を使うことが多くて、たとえば、驚いた、びっくりした、というときに、「あっそろしい」といつも言っていた。おそらく、「おそろしい」から来たものだろう。
  • 駅前までおくってもらい、礼を言って降りて職場へ。空気はかなり冷たかったが、しかしすごく浸透的というわけでもなく、もはや冬ではなくて春の冷たさという印象。勤務。(……)
  • (……)ただ、なんというか、職場の人間を相手にすると、ちょっと軽薄ぶってしまうようなところがある。冗談とかをおりに口にしたり、どうでも良いような冗言をはさみがちになるというか。その程度の愛想と社交性はいままでの生で身につけたということで、他者と関係をつくり交流していこうという意志のあらわれなのだからまあ良いことではある。だからといってべつにことさら快活なわけではなく、「軽薄」と言ったってたかが知れており、相手からはそんな言葉で思われていないのはほぼ確実だと思うのだけれど、ただ自分としては、俺は本当はこんな柄じゃないだろう、という心が生じないでもない。なんかちょっと余計なこと言い過ぎちゃうな、みたいな。
  • 九時頃退勤。今日は歩いて帰ることにした。雨も止んでいたので。それでゆっくり歩を踏んで暗い裏通りを行く。歩くのはやはり良いなと思った。なによりゆっくりとした調子で歩くことが大事だ。結局、ストレッチも大事だけれど、脚の筋肉を全般的に動かしてほぐすには、歩くのが一番良いという気がする。肉が動くのを感じながらゆるゆる歩いているのは普通に心地よいし。夜だと道もしずかで、人もほとんどおらず、いたとしてもせいぜい動く影でしかないからなおさら良い。この夜にはひとり、後ろから来てこちらの横を抜かしていったひとがいたが、その歩調を見ると、こちらに比べるとよほどはやいのはもちろんそうなのだけれど、いかにも直線的というか最短距離的というか、目的地に向かって無駄なくずんずんすすんでいく、という感じだった。そのひとの家はちょうどすぐそこで、到着すると家の前に出されていたゴミを入れておく籠みたいなものを片づけてからなかに入っていたが。
  • 最初のうちはけっこう寒くて、飯を食って時間が経っているから腹も空だし血糖値も下がっているのだろう、冷たさが身のうちまで入ってくるような感じがあったが、歩いているうちにやはり血が温まってきた様子で、冷たさもおぼえるのだけれどそれが芯まで行かないというか、抵抗力をそなえたような感覚になった。裏路地の途中には坂が一本交差して丘のほうに上っていくが、そこにかかって右手の先を見やれば、木々に両側を囲まれた道が雨後の空気にやはり少々けむっている。街灯の光の質感が靄っぽかったのだ。それからちょっとすすんだところの家にはずいぶん立派な、大きな白梅があって、梢がひろく宙をつつんですくい上げるように、巨大な丸籠のようにひらいており、いまはそれがほぼ満開らしく夜気のなかにつややかで、足もとにも白い薄片が無数に落ちて粉っぽくひろがっており、金平糖か何か和菓子の粒がころがりまぶされたような感じ。ちょっと停まったのだけれど、あまり長くながめていてもあやしく見られるかと思ってすぐに歩を再開した。べつにあたりにひとはいなかったと思うが。
  • 靴をすすめるたびに、水っぽくじゃりじゃりとした砂の音が足の裏から立った。表に出るとこの時間でも車の通りがそこそこある。市街のほうに行くものも、僻地のほうへ帰っていくものもあり、路面が水をまだふくんでいるからタイヤの音がやや高く、沈黙にやすらいだ夜の空間を渡ってだいぶ遠くからでもつたわってくるが、それが完全に途切れる時間もたまにはあり、そうするとやはりしずかで落ち着く。たぶん最終だろうか、市街のほうに向かうバスが律儀に停留所に停まっていたが、この時間に利用する客などむろんいない。発車したバスを見てもなかには客はひとりも乗っていないようだったし、一応屋根がもうけられて座席も二辺ある半小屋みたいな小さい待合所にも、電灯だけで誰もいない。
  • 最後の坂を下りて家のそばまで来ると、黒く沈んだ近所の家並みのなかに街灯の光がぽつぽつたゆたっているさまがひろがり、闇の底から川音が昇ってきて、今日は雨後だから山影も希薄で半分くらいは隠れているものの、確かに山がそこにあることは見て取れ、影を浸食して曖昧化している灰色の霞はそのどこまでが空が降りてきたものなのか、どこまでが地上のとぼしい光が浮かび上がって混ざったものなのか、もちろん判別がつかない。
  • 帰宅して手を洗い、部屋に帰って服を替えて楽になると、ベッドで休みながらフォークナーを読んだ。ウィリアム・フォークナ―/藤平育子訳『アブサロム、アブサロム!(上)』(岩波文庫、二〇一一年)。今日読んだなかには書き抜きたいと思う場所がけっこうあった。読書の方法論もまたいまいち迷っている。書き抜きにかんしては問題なく、これは書き抜こうと思うところは疑いや迷いなく決定できるし、そこをメモしておいてあとで写せば良いだけなのだが、それ意外のメモ、もっと小規模で気になったところをどうすんの? ということ。読書ノートにメモしておいて、適当なときにパソコンで写すだけは写しておく、というやり方にまたかたむいているのだけれど、どうせふたたびすぐに面倒臭くなるに決まっているわけだ。しかしとりあえず、またそんな感じでやってみようかなと。このときは一時間強読んで一一時まで。部屋を出て廊下を通り、階段を上りながら、なんかあっという間に時間が過ぎたな、というような感覚があった。だからと言って残念というわけではないし、時間の速度がはやくて密度が薄かった、という感じでもなかったが。
  • 食事は野菜炒めのたぐいなど。新聞はほぼ読まず。テレビで関ジャニ∞のひとたちがやっているバラエティがかかっていて、なんとなくそれを見ていた。美容師業界の裏話など。NGなことが三つあって、野球と政治の話をしないというのはわかるが、容姿を褒めないというのと、あと「白髪」というワードを出さないというのがあるのだという。「白い毛」と言うとまだ大丈夫なときもあると言うので、意味なにも変わらんやんと笑った。やはり女性に嫌がるひとが多いらしい。そのワードを聞くだけでも嫌がるらしい。その後、何かうまい料理を食う権利をあらそって『ストリートファイターⅡ』でのたたかいがおこなわれはじめたので、なつかしいなと思った。横山というひとと、たしか安田という名前の、黒髪の比較的みじかい髪型で、眼鏡をかけてピアスをつけたちょっとインテリヤクザ風のあんちゃんみたいなひとがたたかったときに、リュウを使っていた横山さんが波動拳をくりだしつづけ、ザンギエフを使う安田さんが、ザンギエフはパワーキャラで重く動きが俊敏でないから、近づこうとするたびにノーガードでぶち当たってしまい、すこしも近寄れないままあっという間に終わってしまったというのが面白かった。
  • 食後、入浴。例によって瞑想じみて静止しつつ、合間に冷水を浴びる。本当は頭からからだ全体に浴びせられるとめちゃくちゃすっきりすると思うのだが、この季節だと死ぬかもしれないのでそこまではできない。ただ下半身を冷やして温めるのをくり返すだけでもかなり効果はある。一二時半くらいまで入っていたはず。
  • 茶を持って帰室。一時から去年の日記を読み返しておくことにした。三月三日から八日分までブログで読み、検閲もほどこす。そのとき記しておいたのが下の一段。
  • 昨年の日記の読み返し。一年前の三月あたりはやる気が出なくなった時期で、なかなか書き物に取りかかれずにいた頃だから、一日の記述がすくない。三月四日に、「箇条書き方式を試みてみるかと思いついた」とあって、いまの形式に移行している。「ともかく、たった一文であれ僅か一行であれ、毎日何らかのことを書けてさえいれば最低限それで良いわけである」と言って、「原点に立ち戻って」いる。「あまり根詰めずに営みを続けていきたい」と。それは大事なことだ。そして、一年後のいまはわりとそういう感じで、ほどよく力の抜けた調子で書けるようになっていると思う。
  • その後、今日の記述もしたかったが、To The Lighthouseを訳そうという意欲が高まっていたので取り組んだ。一時間二〇分強で三時直前まで。先ほどの時間と合わせて、以下の文をこしらえるのに二時間かかった。翻訳は骨が折れる。だが、作品をつくるというのはこういう感じなのだろうなという感覚が多少養われて良い。nonchalantlyを「あっけらかんと」としたり、bitterlyを「ちょっと毒を含んだ調子で」と言ったり、angularを「つっけんどん」としたのは我ながらなかなか良いのではないかと思う。とりわけ、angularに「つっけんどん」を当てられたのは、うまい仕事ではないかと自賛してしまう。ruthlessも辞書的には「無慈悲な、非情な」という感じで、ruthは古語で「哀れみ」を意味するらしいからそうなるわけだが、岩波文庫も「無慈悲」を取っているけれど、なんかなあと思ったので、「優しさに欠ける」という、もうすこし日常的でやわらかい言い方におさめておいた。

 The Ramsays were not rich, and it was a wonder how they managed to contrive it all. Eight children! To feed eight children on philosophy! Here was another of them, Jasper this time, strolling past, to have a shot at a bird, he said, nonchalantly, swinging Lily's hand like a pump-handle as he passed, which caused Mr. Bankes to say, bitterly, how *she* was a favourite. There was education now to be considered (true, Mrs. Ramsay had something of her own perhaps), let alone the daily wear and tear of shoes and stockings which those 'great fellows', all well grown, angular, ruthless youngsters, must require. As for being sure which was which, or in what order they came, that was beyond him. He called them privately after the kings and queens of England: Cam the Wicked, James the Ruthless, Andrew the Just, Prue the Fair — for Prue would have beauty, he thought, how could she help it? — and Andrew brains.(……)



 それにしても、ラムジーの一家は決して裕福とはいえないのに、あれでなんとか家計をやりくりできているのは不思議なくらいだ。子どもが八人! 八人もの子どもを、哲学で食わせているというんだから! おや、ちょうどそのうちの一人がやって来た、今度はジャスパーだ。気楽な様子でぶらぶら歩いてきた彼は、鳥撃ちをするんだ、とあっけらかんと言い放ち、すれ違いざまついでにリリーの手を取ると、それをポンプの取っ手みたいにしてぶんぶん振っていったので、バンクス氏は思わず、ちょっと毒を含んだ調子で、ずいぶんなつかれているんですね、ブリスコウさんは、と口にすることになった。あの子たちの教育についても、そろそろきちんと考えなければならない時期に来ているんだろう(ラムジーの奥さんだって、自身、それなりにちゃんとした教育を受けたはずだし)、あの「すばらしき仲間たち」、全員そろってよく育ち、ときにつっけんどんだったり優しさに欠けたりもする若人たちが、毎日すり減らしていく靴や靴下のことを思うだけでも大変だろうが。きょうだいのうち、どの子が誰で、とか、生まれた順番とかをはっきり覚えるのは彼には難しかった。だからバンクスは、心のなかでひそかに、イングランドの王や女王をまねた名前で彼らを呼んでいた。つまり、いたずら女王キャム、冷酷王ジェイムズ、公正王アンドリュー、美麗女王プルー、などと――プルーはきっと美人になるだろうから、ぴったりじゃないか? ――それに、アンドリューも賢い青年になるだろう。

  • ところでいま読み返しながら気づいたことがあって、for Prue would have beauty, he thought, how could she help it?の部分だが、ここのhelpは「逃れる」というような意味である。だから、逐語的には、彼女はどうやってそれを逃れることができようか? いや、できない、というような意味になる。こちらはこの「それ」、すなわちitを、BankesがPrueにつけたあだ名のことだと思って、それで、Prueはまちがいなく美人になるのだから、この呼び名を逃れることはできない → 「ぴったりじゃないか?」という訳にしたのだけれど、岩波文庫はここをit = beautyと取っていることに気がついた。「プルーが美人になるのは間違いなさそうだし」という訳文になっているので。なんでここのhow could she help it?を省略したんだろうと思ったのだけれど、it = beautyととらえれば、「間違いなさそう」のなかにその意味が入っているわけだ。どちらが正解なのか不明。ダッシュのなかに区切られた範囲だし、wouldとcouldもそろっているので、岩波文庫のほうが正しいような気もするが、接続詞のfor、すなわち「というのも、~だから」がある。これがあったからこちらは、というのも、プルーは美人になるだろうから、どうしてそれを逃れることができるだろうか? という風に取ったのだった。つまり、「というのも、~だから」の意味がPrue would have beautyまでで完結し、how could she help it?のほうはそれとはべつの区域になるので、itの指示先も前文のbeautyではなくて、名前そのものだと取ったのだ。言い換えれば、forの節がhowの疑問の従属節になっているということ。こちらの理解でも成り立つような気がするので、訳は変えない。今回はわりと意訳気味というか、ひとつひとつの語にしたがってきちんととらえることをベースにしつつも、それに拘束されすぎず、おのれのうちから発生してくる自然な言い方をもとめて、わりとこなれた文にできたような気がする。あと、'great fellows'にかんしては、岩波だと「途方もない連中」となっているが、なぜ括弧がついているのか、何か元ネタがあるのかなんなのか、正直ここのニュアンスがどういう感じなのかつかめないので、「すばらしき仲間たち」としておいた。ニュアンスはつかめないのだが、Bankesの性質上、なんとなくちょっと大仰な言い方をしているような気もしたので、「すばらしき」という表現にした。普通に行けば「大したやつら」くらいだとおもうのだが。
  • そのあとウェブを閲覧し、三時四〇分からこの日のことをすこしだけ書き足したあと、三時五四分に消灯して眠りに向かった。