2021/3/15, Mon.

 かつて強い衝撃を受けて、いつまでもその衝撃がつづいているのは、マルクスの次の考えかたである。歴史においては悲劇がときおり回帰するが、〈ただし笑劇として〉である[訳注128: 「ヘーゲルはどこかで、すべての偉大な世界史的事実と世界史的人物はいわば二度現れる、と述べている。彼はこう付け加えるのを忘れた。一度は偉大な悲劇として、もう一度はみじめな笑劇として、と」(カール・マルクス『ルイ・ボナパルトブリュメール18日』植村邦彦訳、平凡社ライブラリー、二〇〇八年、一五ページ)]、というものだ。(……)
 この笑劇としての回帰は、それ自体が、唯物論の象徴を嘲弄するものとなっている。らせん状の回帰(われらが西欧の言述のなかにヴィコが導入したもの)だからである。らせん状の線上では、あらゆるものがもどってくる。ただし、べつの場所に、もっと高いところに。すると、差異が回帰して、隠喩が進展してゆく。それが「虚構」である。ところが笑劇のほうは、より低いところへもどってくる。それは、傾き、しおれ、倒れた(萎えた)隠喩である。
 (石川美子訳『ロラン・バルトによるロラン・バルト』(みすず書房、二〇一八年)、124; 「笑劇としての回帰(Le retour comme farce)」)



  • 正午前の起床。また夜ふかしが深くなってきているので、消灯をはやめていきたい。今日は快晴。陽射しも熱い。起き上がると水場へ行き、もろもろ済ませて、「アレグラFX」も服用すると瞑想をした。一二時一分から二八分まで、今日は長く座った。もともと長く座ってみようという心があったのだ。からだの感覚はよくまとまる。瞑想をしているあいだは姿勢の微調節がおのずと続くから、とまっているようでもからだはこまかく動き揺らいでいるわけだけれど、その揺らぎの感覚が途中からすこし変わってくるというか、揺らぎの大きさとかかたちとかは変わらないと思うのだけれど、感覚としては統合されて、揺らぎをおびながらも肉体が中心を安定させてさだかにしずまってくる、というような感じになる。
  • 上階へ。両親とも不在。どちらも仕事。冷凍されていた天麩羅やシチューで食事。今日は朝刊が休みなので、昨日の新聞を袋から取り出してまた読む。鶴原徹也によるパトリック・ブシュロンへのインタビュー。コレージュ・ド・フランスの教授らしく、五五歳で、専門は中世イタリア史。年頭から黒死病についての講座をはじめたという。黒死病は一三四七年にアジアから持ちこまれたのが拡大し、五年で当時の欧州人口の半分を削ったらしい。ひとびとは疫病を神の罰だと考え、礼拝することで恭順をしめそうとしたが、それがかえって感染を拡大させることになった。これとおなじ状況は現在でも、イスラエルや、ロシアのほうの正教会などで一部見られている。次にひとびとは、ハンセン病患者やユダヤ人の仕業ではないかという「妄想」をつくりだし、一三四九年にはストラスブールユダヤ人の虐殺が起こっているし、その後も各地で相次いだ。五一年だったかにアヴィニョン枢機卿が死ぬと、その遺体が彫像にされ、それが黒死病の象徴となっていわゆる「死の舞踏」の絵画にも用いられていくと。ただ、パトリック・ブシュロンの研究によれば、ペストを経ても中世の社会は大きく変化はしなかったという。公証人制度は引き続き機能して相続はおこなわれたし、経済も女性たちが持ち場を拡張して支え、政治体制も信仰も崩壊することはなかった。ところでペストの細菌は一九世紀末にアレクサンドル・イェルセンみたいな名前のひとと、北里柴三郎がほぼ同時に英領香港で発見しているという。その前から中国南部で感染が発生しており、イェルセンとかいうひとは仏領にそれが拡大するのを防ぐために急いで派遣された。パスツールの弟子らしく、北里とはロベルト・コッホを師にいただく兄弟弟子の関係にあたる。結局ペスト菌の発見はイェルセンのほうに帰され、学名にも彼の名前が入れられたというが。ペストの大流行は史上三回起きており、一度目は六世紀から八世紀、東ローマ帝国領土でのことで、これは皇帝の名前を取って「ユスティニアヌス・ペスト」と呼ばれているらしい。二度目が西欧中世のいわゆる黒死病、三度目が一九世紀の中国。で、いまもマダガスカルやアフリカ中央部などでは感染が起こることがあるらしい。ペストは生物兵器としても利用される可能性があり、もし用いられたらその殺戮性は非常に高いから、テロ対策としての研究も盛んだということだ。
  • 食事を終えると皿を洗い、風呂も。それから洗面所で左右にちょっと跳ねていた髪をととのえておく。そうして帰室。すでに一時を回っていて、今日は三時半過ぎには出なければならないので猶予がちっともない。やはり消灯をはやくしていかなければ。睡眠自体は基本的には七時間から八時間で安定するようにはなってきているし。Notionを準備すると今日のことをここまで記して、一時半を越えた。
  • この日のことももう忘れて、勤務があったが思い出すのが面倒臭いのでそれも割愛する。風呂のなかで下の二首が形成された。

 廃城の薔薇の青さを知ったから夕陽のたびに落涙を聞く

 晩ごとに闇を吸っては太る海 波は証明死者の鼓動の

  • なんか、風呂に入っている途中、頭を洗うあたりかそれが終わったあたりでふと思ったのだが、日課の時間記録をやめようかなと。いま、日記に「読み書き」とか「調身」とかもろもろの区分をつくって、その日どれだけそのことをやったかそこに時間をつけておいたり、読み物だったら読んだ本とその範囲とかを記したりしているのだけれど、これをもうやめようかと。なんか、その日のうちにどれだけの時間をそれに費やしたかとか、どうでもよくね? という気になった。一日何時間文を書いたとか読んだとか、そんなことはほとんど何をも意味しないし、行為と時空の内実を伝えないし、どうでもよろしい。こういうやり方を取ればその一日の自分のがんばりが数値化されて見えやすいし、習慣を継続させる助けになる効果は実際あると思うのだけれど、習慣が確立すればそんなガイドはもはや不要ではないかと。時間記録をつけるとなると、たとえば日記を書きはじめるときに同時に時間を記しておくわけだけれど、そういう振舞い方をすると、やはり文章を書くという行為がそれまでの流れから切断されたちょっと特別な時間として囲いこまれ、カテゴライズされてしまうような気がする。読書にせよ、柔軟にせよ、瞑想にせよ、何にしても同様。そうではなくて、もっと自然に、楽に、力を入れず、気負わずに、気が向いたときにいつでも書いて、気が向かなくなったときにいつでもやめる、というあり方のほうが良いのではないかと思ったのだ。思ったというか、風呂のなかでふと思いついた考えに理屈をつけるとそうなる。ただ、時間記録をつけておくのは、あとで日記を書くときに想起の助けになるという役割も持っていたので、何時から何時まで何をやったというのがわからなくなると、その点困るかもしれないが。しかしまあ、それならそれで良いかという、いまはゆるい心だ。時間をつけるのはやめて、書き物だったら書いた記事を、読み物だったら読んだ文章が何かということだけをメモすることにしよう。音楽にかんしても、「BGM」と正式な音楽鑑賞としての「音楽」とに分けていたが、それも一本化して、時間はつけずに聞いたものもしくは流したもののタイトルだけをメモする。とにかく営みに特別感が出るようなやり方をやめたい。

 懐疑論はまず、感覚への懐疑からはじまる。アカデメイア派は、真の表象と偽の表象というストアの区別を疑い(本書、一四一頁)、セクストスがつたえる「方式」の多くは感覚への判断中止をふくんでいる(同、一四三頁以下)。感覚が欺かれうるかぎり、世界は「そう見えるのとは別様でありうる posse aliud esse ac videtur」。が、そのように説くことは、およそ見られ、感覚されるものの全体を「世界」と呼ぶことを禁じるものではない。たとえ「私」が眠っていようと、あるいは狂気に陥っていようと、まさにそのように見えているものが「世界」なのである(『アカデメイア派論駁』第三巻第十一章)。感覚に欺かれていようと、いまそのように感覚される [﹅5] 世界は存在し、世界を感覚する [﹅4] 私もまた存在する。そればかりではない。もし欺かれるなら、欺かれる「私」はすくなくとも確実に存在するのである。後年の著作から引いておく。

私たちは存在し、私たちの存在を知り、そのように存在し、知っていることを愛している(Nam et sumus et nos esse novimus et id esse ac nosse diligimus)。いま述べた、三つのことがらにおいては、真なるものに似た、どのような虚偽も、私たちを惑わすことがない。私たちがこれら三つのことがらに触れるのは、外界に在るものの場合にはそうであるように、なんらかの身体的な感覚によってではないからである。私たちはたとえば見ることで色を、聞くことで音を、嗅ぐことによって匂いを、味わうことによって味を、触れることで固いものと柔らかなものを知る。私たちはまた、そうした感覚的なものについては、それらに類似していながら物体的なものではない像をもち、その像を思考によって思いめぐらし、記憶で保持し、またそうした像によってそれらのもの自体を欲求するように刺激もされるのである。私が存在し、私がそれを知り、愛していることは、私にとってもっとも確実である。そこには表象や、表象によって想像された像の、ひとを欺く戯れが介在しないからである。これらの真なるものにかんしては、「きみが欺かれていれば、どうか?」というアカデメイア派のひとびとの反論も私は恐れない。私が欺かれるなら私は存在するからで(end173)ある。存在しない者は、欺かれることもありえない。だから、私が欺かれるのなら、私は存在するのである(sum, si fallor)。(『神の国』第十一巻第二六章)

 (熊野純彦『西洋哲学史 古代から中世へ』(岩波書店、二〇〇六年)、172~174; 第11章「神という真理 きみ自身のうちに帰れ、真理は人間の内部に宿る ――アウグスティヌス」)

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 つづけてアウグスティヌスは説いている。私は、私が知ることについて、まさにその知るというはたらきにかんしては、欺かれることがない。「私は、私が存在することを知るように、私が知ることを知るからである」(同)。

 徹底した懐疑論、すべてを疑う懐疑主義に対して反論する方法は、ただひとつであれ、確実なものを挙げることである。しかるに、「じぶんが疑っていることを知っているすべてのひとは真なるものを知っている。その者は知っているものにかんして確信している。だから真なるものについて、確信しているのである de vero igitur certus est」(『真の宗教』三九/七三節)。ひとが疑うなら、そのひとは確実であろうとしている。「疑うなら、考えている」。私は生き、意志し、知り、想起し、思考し、判断する。「もしこの精神のはたらきが存在しないならば、なにものについてであれ、疑うことすらできないはずである」(『三位一体論』第十巻第十章)。人間の精神のはたらき自体が存在することは不可疑である。そもそも「きみが存在しないなら、きみは誤ることもありえないであろう」(『自由意志論』第二巻第三章)。(end174)

 のちにデカルトが、欺く強力な霊の存在を想定しながら、「かれが私を欺くなら、私は存在する sum, si me fallit」と語る。デカルトによれば、したがって、「私は存在する」という命題は、それが言いあらわされ、また精神によって把握されるそのつど、「必然的に真なるものである necessario esse verum」(『省察』二、第三段落)。――両者の類似は、デカルトの時代から、メルセンヌやアルノーによって、すでに指摘されていた。けれども、両者のほんとうの関係、時を隔てた、より本質的なつながりが問題になるのは、このさきからである。
 (熊野純彦『西洋哲学史 古代から中世へ』(岩波書店、二〇〇六年)、174~175; 第11章「神という真理 きみ自身のうちに帰れ、真理は人間の内部に宿る ――アウグスティヌス」)

  • 立った姿勢で書き抜きしているうちに脚が疲れてきたので、ベッドに移動して仰向けで書見。藤田一照『現代坐禅講義 只管打坐への道』(角川ソフィア文庫、二〇一九年)を読み続けてそのまま読了したのが二時半前。ベッドで書見するときはいつも脹脛を膝でほぐしたり、腰をベッドにこすりつけてやわらげたりしているわけだが、これをやるとからだがめちゃくちゃ楽になるので、つい長居してしまう。
  • あと、ジョゼフ・チャプスキ/岩津航訳『収容所のプルースト』(共和国、二〇一八年)を読みはじめたということくらい。