2021/3/16, Tue.

 ステレオタイプは、〈疲れ〉という観点から判断することができる。ステレオタイプとは、わたしを疲れさせ〈はじめる〉ものだ。それゆえに、『零度のエクリチュール』のころから主張されている解毒剤が生まれたのだ。すなわち言葉の〈新鮮さ〉である。

 一九七一年には、「ブルジョワイデオロギー」という表現は、古い馬具のように、ひどくすえた匂いがして、「疲れさせる」ものになりはじめていたので、彼は「〈いわゆる〉ブルジョワイデオロギー」と(ひかえめに)書くようになる。それは、彼が一瞬でもそのイデオロギーブルジョワ的な特徴を認めないことがありうるからではない(その反対だ。そのイデオロギーブルジョワ的である以外の何だというのか)。とはいえ、彼はステレオタイプの〈自然らしさをこわす〉必要があるので、言葉が使い古されていることを明示するための音声的あるいは表記的な記号を何か(たとえばカギ括弧などを)つけるのである。理想的なのはもちろん、硬直した言葉が自然らしさをふたたび取りこんだりしないようにしつつ、カギ括弧などの外部記号をすこしずつ消してゆくことであろう。だがそのためには、ステレオタイプ化した言述がひとつの〈ミメーシス〉(小説または演劇)のなかに取りこまれる必要がある。そうすれば、登場人物自身がカギ括弧のかわりをつとめるからである。そのようにして[アルチュール・]アダモフは(『ピンポン』において)、誇示はないが距離感がないわけでもない言葉づかいを生(end125)みだすことに成功している。すなわち〈凍結した〉言語である(『現代社会の神話』を参照)。
 (石川美子訳『ロラン・バルトによるロラン・バルト』(みすず書房、二〇一八年)、125~126; 「疲れと新鮮さ(La fatigue et la frâicheur)」)



  • 一二時一五分起床。今日も陽射しに熱がこもった晴れの日。水場に行ってきてから瞑想。時間記録をつけなくなったので忘れたが、たしか一二時二六分から四一分とかではなかったか。一四分か一五分程度だった。からだの感覚は微細に感じられるようになっている。ただ、揺らぎとか動きのほうが注視されて、静止感があまりなかった。それが出てきたかなというところで母親が帰ってきたようだったので、やめて上階へ。
  • ジャージに着替え、母親が買ってきたものを入れたもろもろの袋を玄関から運んでおく。食事はほうれん草をソーセージとソテーしたものや、シチューの残り。新聞からミャンマーの記事を読んだ気がするが、あまりおぼえていない。ただ内容としては昨日の夕刊で読んだこととだいたいおなじだったはず。つまり、一四日は全土で三八人の死者が出たということ。ヤンゴンで三四人、そのほかで四人だったはず。あと、治安維持もしくは抗議活動の取り締まりの主体が警察当局から軍に移るとかいう情報もあったはずで、だからいまでさえどんどん遠慮がなくなってきているわけだが、よりいっそう激しい弾圧になるのではないか。
  • 片づけをして風呂洗い。緑茶をつぐあいだ、屈伸などで脚をちょっとやわらげる。墓参りに行こうと言われた。明日から彼岸だから、誰か来てもいいようにきれいにしておきたいと。実際、二三日に(……)さんが来るらしいし、(……)さんもその日かそれ以前かに来るだろう。四時くらいからだったら良いとこたえると、三時半と言うのでそれで合意した。帰室。Notionを準備すると足裏をボールでほぐしながら下の記事を読んだ。途中まで。Jane Austen(Austinではなかったのだ)は一作も読んだことがない。たしか、小説としてすごくきれいな、古典的にととのったかたちをしている、とか聞いたことがある気がする。ただ、それはブロンテ姉妹の誰かだったような気もする。ジェイン・オースティンとブロンテ姉妹の区別がわりといつも曖昧になる。

Austen's own life was a lesson in forbearance. She published her six celebrated novels in the space of seven years and died at the age of only 41. "On paper it looks like she has a secure life but she is sent off to boarding school twice and she almost dies," says Dr Helena Kelly, author of Jane Austen: A Secret Radical. "In the first the whole school got typhus. Her aunt who came to nurse her died. Just imagine the psychological harm of that happening to you – and then she got sent off again."

The general state of instability Austen suffered for much of her life is replicated in many of her heroines. In 1800, when she was 25, her rector father retired, passing the parish over to his oldest son "which was really unusual", Kelly says; Austen and her parents and sister Cassandra spent the next eight years travelling between increasingly small properties in Bath, relatives' homes and seaside resorts. "It's a time we think she didn't write very much because she was all over the place," Kelly says. "They move back to Chawton, Hampshire in 1809 and it's only when she's somewhere psychologically secure, [in] a house she knows won't be taken away from her, that she starts publishing." Displacement and the fracturing of family life arises in much of her work, such as in Sense and Sensibility which begins when the Dashwood sisters and their mother must leave their family home and are then stripped of their inheritance from their father by their half-brother and his manipulative wife. "Austen is very, very precise about money in her novels," says John Mullan, author and professor of English at University College London. "She knew what financial insecurity was like."

The sensation of feeling both trapped and surrounded by familial friction is also a prevalent element in Austen's work – and is something that many of us can relate to now especially when, as for many of her protagonists, walks are often the most liberating thing on offer. Pride and Prejudice's Elizabeth Bennett appears to strive for freedom by striding about the countryside and getting muddy, enjoying peace away from her overcrowded family life. "There's a constant low-level psychological stress that all her characters are under," Kelly says. "On the whole, they are quite good at just getting on with stuff even if there's not much to get on with." She believes that Austen was also pioneering in the way she showed families as imperfect. "Before Austen, mothers and fathers tended to be dead or perfect and living in bliss together and in her work she makes this clear it is not the case."

  • 二時半まで英語を読むと、コンピューターをデスクにもどしてベッドに身投げし、ジョゼフ・チャプスキ/岩津航訳『収容所のプルースト』(共和国、二〇一八年)を読んだ。プルーストをまた読みたい欲求が持ち上がってくる。やはりあの、長大な、柔らかくうねりながらそのカーブのひとつひとつに情報や要素を吸収し取りこんで、全体として豊穣な味わいを惜しみなく放散しているあの描写、あの感じはすばらしいもので、訳注に引かれた文など読みながらその感覚がよみがえり、また読みたくなった。井上究一郎訳を一巻と、高遠弘美訳を二巻くらい持っていたはずなので、最初の一巻だけでも良いので読みたい。吉川一義訳は一冊も持っていないが、『失われた時を求めて』はおのおのの邦訳を全部読んでもいいなと思うし、普通にいつかは原語で読みたい。『失われた時を求めて』だけではなく、ペインターの伝記もあるのでそれも読みたい。
  • ジョゼフ・チャプスキはプルースト自身と作中の「私」がほぼ同一であるという前提で語っている。つまり、『失われた時を求めて』の話者はほとんどプルースト本人であるという姿勢を基本としている。それに留保はいると思うが、さまざまな類似性があるのはたしかだし、ここではそれは大した問題ではない。作品の最後で、話者が、いわゆる文学的回心というか、舗石を媒介にしてヴェネツィアのことを想起したり、糊の強いナプキンの感触を媒介にバルベックのことを思い出したりする有名なシーンがある。その前で主人公は、自分には文学的芸術的才能がないと自覚しており、もう文学の夢を追うのはやめようとあきらめているのだが、そういういわゆる無意志的記憶の勃発によって反転的に書くべきもの、おのれの仕事を見出すにいたる。それで何年ぶりかでゲルマント家のサロンを訪れた主人公は、「自分の人生に関わった多くの知人友人たちが、時の作用によって変貌し、年老い、膨れ上がり、あるいはかさかさに乾いてしまったのを目撃することになります。台頭してくる若い世代が、彼の年老いた、または死んでしまった友人たちとそっくりな希望を抱いていることに、胸を衝かれるような衝撃を覚えます。しかし、彼はこうしたすべてを、明晰で、距離を置いた、自分とは切り離された新しい眼で眺め、ついになぜ自分が生きてきたかを悟ります。彼だけが、この人々の群れのなかで、今はいない人々を再び生き返らせることができるのです。その確信はあまりに強く、死について無関心になってしまうほどでした [﹅20] 」(45)とチャプスキは解説している。ここはやはりちょっと感動した。特に、「彼だけが、この人々の群れのなかで、今はいない人々を再び生き返らせることができるのです。その確信はあまりに強く、死について無関心になってしまうほどでした [﹅20]」の部分、それも、「死について無関心になってしまうほど」の一節。結局これなんだよなあと思った。自分が毎日しこしこ記録をつけることの理由がもし何かあるとしたら、やはりこれになるんだよなあと。何かものを書くというのは、本源的にそういうことなんではないか? とも思う。言語を用いて何かを記録したり、証言したり、描写したり、記述したり、つくりだしたりするというのは。それは、死んだものをよみがえらせるというおこないなのではないか。つまり、書くこととは蘇生術である。そのなかでも文学というものは、場合によっては、もとのない蘇生なのではないか。よみがえらせるべき死者や死物を直接的には持っておらず、参照先がわからない、もしくはないけれど、そこでたしかに死んだものが蘇生している、というようなもの。すぐれた文学や文章には、そういう要素が含まれているのではないか。どこから来たのかわからないものを蘇生させ、起源不明でつながりの先が見えず、ことによると断たれているようなものを想起させるもの(プラトンソクラテスに語らせた想起説を連想する)。こちらの日々の書き物に照らして言えば、瞬間は瞬間ごとに消えていき、つねにすでに死んでいるわけで(それを「死」として語ることの修辞性にも多少の留保を置きたい気持ちがないではないが)、その時点でそれはもう書くにあたいするものなのだ。瞬間ごとに死んでいく瞬間を瞬間ごとに絶えずよみがえらせるための無限の努力が記憶と記録なのだということ。そして、つねにすでに死んでいる世界のことごとのなかで書くにあたいしないことなど原理的にはなにひとつ存在しないというのがいまも変わらずこちらの信仰であって、それがまだ棄却されていないことを今日再認した。とはいってもそれは原理的な話にすぎず、実際のおこないとしては怠けがちだから、最近の記事もまだいくつも仕上げられておらず、忘れることを忘れるがままにまかせてしまっているのが現実だが。ただ、そういう、消えていくものを書かねばならないという倫理感のようなものがおりにふれて自分のなかによみがえるということは確かにある。
  • ロラン・バルトが語っている以下の言葉も思い出される。「描写とは、対象が生きていると信じる、あるいはそう望むふりをしながら、対象が死を免れないことを言い表そうと必死になっているのである」。

 (……)彼は、冷静になって態度をはっきりさせている身体のねじれ(不機嫌な顔)をそっけなさによって示していたのではない。そうではなく、発する言葉がなくて、その失語状態の脅威にあらがっているという、主体のひどい失敗状況を示していたのだ。これは、はじめに述べた、過度に教養のある声とは逆に、〈レトリックのない〉(だが優し(end89)さがないわけではない)声であった。こうした声すべてにたいして、ふさわしい隠喩を生みだすべきなのであろう。いちど知ったら永久にあなたの頭から離れないような隠喩を。だが、わたしには見つけられない。文化によってわたしが思いつく言葉と、わたしの耳に一瞬よみがえるあの奇妙な存在(それはたんなる音だろうか)とのあいだには、それほどまでに大きな断絶があるのだ。
 隠喩を見つけられない原因は、つぎのことから来ているのだろう。すなわち、声はつねに〈すでに〉死んでいるのであり、そのことを必死に否認して、声を生きたものと称しているということだ。このどうしようもない喪失にたいして、わたしたちは〈声の抑揚〉という名をあたえている。声の抑揚とは、つねに過ぎ去って、口をつぐんだ状態における声である。
 したがって、〈描写〉とは何であるかを理解せねばならない。描写とは、対象が生きていると信じる、あるいはそう望むふりをしながら、対象が死を免れないことを言い表そうと必死になっているのである(逆転による幻想だ)。「生きているようにする」とは、「死んでいるのを見る」という意味なのだから。形容詞はその幻想の道具である。形容詞が何を言おうとも、描写するというその性質だけで、死を思わせてしまうのである。
 (石川美子訳『ロラン・バルトによるロラン・バルト』(みすず書房、二〇一八年)、89~90; 「彼の声(Sa voix)」)

  • 三時を回ったあたりで身支度に。歯磨きをして、服を着替える。久しぶりに街着を着る。青味がかったようなグレーのズボンなど。そうして出発までにすこしだけ音読することに。「英語」を一〇分か一五分くらいだけ読んだ。そうして上階へ。バッグは持たず、モッズコートのポケットに財布と、手帳とペンを入れるのみ。携帯も持たなかった。それで行こうとなり、母親がトイレに入っているあいだにこちらは先に外に出る。空気は非常にやわらかく、あたたかく、風も軽く、におやかなようで、家は北向きで玄関のそばはもう日向でないが、すこし行ったほうではまだ淡い陽射しが降りておだやかにひろがっており、その温もりが大気に染みこみつたわってこちらの肌まで届いているような感じ。林縁の区画に行ってあたりをながめる。足もとには落ち葉が集められて小山のように盛り上がっている。かすかな音が耳にとどくのは土地の脇に沢とも言えないような水路が流れているからで、その水音が散発的に、泡のように浮かぶのだけれど、水の音というより小鳥の息遣いとでも言ったほうが良いようなかそけさで、水路に寄ってみると小堀のようになっているなかは葉っぱがいっぱいに詰まっていて水などあまり見えないくらいに埋め尽くされているし、落ち葉だけでなく草も色々生えていて満員という感じで、水流も一見して流れているとも見えず、葉や草の隙間に窮屈に押しこめられて小さくしぼんだ水のおもてが空の色を希釈して映しながらただその場でつつましくふるえているだけのようにしか見えないのだが、確かに流れているらしい。そのうちに母親が出てきたので車が寄ってくるのを待ち、助手席に乗車。
  • 道はやわらかくあかるい。車内が暑いくらいだったので街道に出ると窓を少々開けた。花粉が入ると母親は言ったが、母親自身は花粉症でないし、こちらも薬を飲んでいるからか、特に症状を感じない。目がすこし刺激されるような気はしたが。街道の脇の一軒の前で、ヘルメットをかぶった工事員たちがなにやら集まって、楕円形のようにならんで顔を合わせながら何か相談している様子。ラジオはどうでもよろしいたぐいの音楽を流していて、文化センター前を折れて下り坂に入ったあたりで母親が、これファンモン? と聞いてきたが、こちらが知るはずもない。だが、たぶんそうだろう。坂を下りていくうちに信号で停まると、そこの道端に、側面の窓の前にバラみたいなピンク色の花をつけた草が蔓草めいて絡み集まっている建物があって、こちらはそれを見ていたのだが、そこに母親が、(……)ちゃんって同級だっけ? と聞いてきた。こちらは間をほぼ置かず肯定したのだけれど、(……)という名前を聞いてすぐに誰なのか思い出せたのは、自分でもちょっと驚くくらいだった。もう一〇年以上耳にしていない名前だっただろう。たしか家に行ってたよね、あの子、来なくなっちゃったんだよね、と母親は言い、それにも肯定を返す。たしかにそうなのだ。(……)という女子はこちらの同級生で、といっても詳細な記憶がなにひとつ思い出せるわけではないのだが、たしかにこちらは、小学校二年か三年くらいの頃だったのではないかと思うが、彼女の家に何度か遊びに行った一時期があった。家は最寄り駅を北側に越えたあたりにあったはずだ。たぶんそのあとで、彼女は不登校になってしまったのだと思う。なぜこちらが遊びに行っていたのか、なぜ不登校になってしまったのか、そもそもどうやって知り合ったのだったか、そのあたりの事情はまったく思い出せない。保育園がおなじだったのか。地域の子はだいたいみんな行っていたはずなので、たぶんそうだろう。薄いような顔をした、おとなしい女子だったと思う。目が細かったのではないか。どんなことをして遊んだのかもまるで思い出せないが、たぶん何かおとなしいことをしたのだろう。彼女の母親が、そこでピアノ教室か何かやっていたのではなかったか? 記憶が曖昧であまりにも茫漠としており、もうずっと長いあいだ思い出していなかったので、偽記憶ではないか、そんな女子などいなかったのではないかという疑いすらちょっと湧いてくるかのような感覚だ。
  • 西方の青空には光をはらんだ雲が浮かんでいた。道を折れてさらに下り、供花を買うために(……)に入る。そのあたりではFUNKY MONKEY BABYSらしき音楽はハーモニカのソロに移行しており、FUNKY MONKEY BABYSのようなたぐいの音楽をこちらはまったく良いとは思わないが、このハーモニカのソロはわりと良かった。スタジオミュージシャンか誰かが吹いているのだろうから、当然のことだ。駐車場に停め、こちらは車内で待つ。母親が車を出ると手帳にすこしだけメモを取り、ほんのすこしだけで済ませて手帳をポケットにもどすと、目を閉じたり閉じなかったりしながら、上に書いた文学=蘇生術的なことについて思いを巡らせた。母親がもどってくるとふたたび出発して、(……)へ。寺へ上がっていく裏の細い坂では年嵩の女性らが話していたり、ランドセルを背負った小学生男子が二人連れ立っていたりして、母親は、もう半袖着てると笑う。寺に入って砂利のスペースに停めて降りると、車の背後の木が二本、花をあざやかにつけており、濃度の違うピンク色をそれぞれ誇っている。時季からして梅かと思ったのだが、桜らしい。あとで、墓参を終えたあとのことだが、ここの桜ははやくて、という声が聞こえたのだ。たしかにそうして見ると、花のかたちは梅のそれではないようで、蕊がたくさん、花弁の高さを越えて旺盛に突き出していた。車から降りたときにはヒヨドリがそのあたりの樹上に何匹かいて、脇に立っている巨木の梢からも声が聞こえ、桜の木が生えている塀の周辺にある木の上にも一匹おり、交感しているのか? と思って青空を背景に見ていると、その一匹はじきに巨木のほうに移っていった。桜の木の、花びらをつけた枝先にはメジロが何匹か来てやわらかな抹茶色を見せている。
  • 母親が寺に挨拶をしているあいだにさっさと墓場へ。入り口の脇ではハクモクレンの木が満開だった。こんなに大きくひらくものだったか、というくらいの花のひらきぶり。墓地に入り、地蔵を拝みもせず不信心に通り過ぎて、水場で手押しポンプ式の井戸から桶に水を汲むとともに箒と塵取りを持って自家の墓所へ。さっそくあたりの葉っぱや屑を掃いて塵取りに入れていると、母親が花を持ってやって来た。そうして、掃き掃除をしたり、墓石の裏に放置してあったクイックルワイパー的なもので石を拭いたり、墓石のまわりの玉砂利の隙間に忍びこんでいる葉のこまかな破片をひろいあげたりして掃除する。その後、花をそなえる。茎を折って花受けのなかであまり動き回らないようにする。母親がととのえたのをこちらがさらにととのえて、左右対称とは行かないが、一応配置がそこそこきれいに見えるようにした。それで線香。いままでは金とか時間とか健康とか能力をくれと願っていたが、今回は何も求める心が生まれず、ただ手を合わせて、手のひらのあいだに宿る温もりや、線香のにおいや、西空、つまり左側から側頭部もしくはこめかみに向かって斜めにかかってくる陽のあたたかさとかを感じているだけだった。
  • そうして撤収だが、その前に母親が、工事の音が気になっていたとかで、墓地の端に、何をやってるんだろうと見に行き、こちらも遅れてそちらに行ったが、むしろこちらとしてはそこの頭上、電線にとまってたたずんでいる一匹のカラスに興味が行って、梅の木の屈折した無骨な枝とそこにわずかについている白さのあいだですっきりと青い宙を背後に浮かび、横にまっすぐ渡された線の上で何をするでもなく定期的に顔を動かしてあたりをうかがっているカラスをけっこう長いあいだ見上げていた。からだはわりと大きいように思われ、羽根は黒々として鳥というより甲虫類の表面の黒さを思わせ、しかし翼の下端あたりは空気の流れを受けておのずからひそやかに揺れている。見ているあいだ、カラスは一度もこちらを見なかった。下方にこちらがいるということに気づいていたのか否か。気づいてはいるが、特に関心を持たず無視していたのか。相手は一向に動きを見せず、首を一定の幅でおりおりに動かすのみで、何を見ているのかもわからない。一度だけ右向きの姿勢から左方に振り向いてそちらを窺うときがあったが、動き出しそうになかったので、帰ることに。水場へと墓地をもどるあいだも、カラスはずっと電線の上にいたようだ。墓場にはまだ光が薄く入りこんできていて、温かかった。風はなく、あっても弱く、卒塔婆がすれあう音を聞く瞬間はとぼしかった。
  • ものを片づけ、手を洗い、墓所を出る。コーラでも飲みたいなという気になっており、そのあたりに自販機がなかったかと思いながら、とりあえず池のところにいく。母親が、鯉にパンをあげると言っていたため。それで池の前に立って、藪蚊なのかなんなのか、こまかな虫が宙に無数に湧いて煙のごとくうごめきまわっているなかで池を見ていると、寺の外の道から入ってきた女性が、白い犬とともにこちらのほうに近づいてきて、見れば犬がこちらに興味を示しているようで視線を向け、寄りたそうにしていたので、笑って挨拶をした。そこに母親も来て、雑談がはじまる。犬はきれいな白い毛並みをしており、あとで聞いたことには「(……)」という名前で、一一歳のメスだという。おとなしく、穏やかそうな様子の犬だったが、あちらから寄ってきたくせに、こちらが手を伸ばして触れようとすると、ちょっとひるんで引くような感じだった。母親が、鯉がいて、いつもパンをあげるんですよと言いながら手を叩いて鯉を呼ぼうとしたものの、魚の姿は見えず、パンをちぎって投げてもまったく出てこないので、どうも移されたか死んだか何かでいなくなったらしいなと思われた。女性は、いつも犬の散歩でここを通るが(犬自身が通りたがるらしい)、池に鯉がいるのは知らなかったと言う。母親は、この子が赤ちゃんだった頃から来ているんですよ、と話していたが、三〇も越えて「この子」などという呼ばれ方をすることがあるとは思わなかった。(……)は池のほとりで座りこみ、口をひらいて舌を出しながらそこに落ち着いているような様子だったが、じきに行こうかとなって、飼い主がリードを引っ張ると、立ち上がって軽快に歩き出した。別れを交わしてこちらは女性が来たほうの道に向かう。背後で笑いが聞こえたので振り向くと、(……)がまたこちらのほうを向いていたので、手を振って道に出た。そのあたりに自販機がないかと思ったのだが、見当たらなかったのであきらめ、付近をちょっと見るという母親を残して寺の敷地にもどり、砂利の上をしゃりしゃり歩いて車のところへ。それでまた木を見ていると、ここの桜ははやくて、という声が聞こえたのだった。近くの車の後ろ、寺の建物のそばで女性が二人話していたのだが、あとで車に乗って門を抜ける際に会釈をしながら母親が言ったことには、そのうちのひとり、眼鏡をかけたほうが、母親かと思ったが娘さんだったと言い、娘さんというのは(……)さんと言ってこちらと同級生なのだが、どうもそうとは見えなかった。母親は、お母さんのほうかと思ったら娘さんだったということで、実年齢よりもずいぶん歳上と見てしまったというわけで、聞こえなかったかなとか漏らしていた。
  • ビールを買いたいからコンビニで買ってくれないかと言うので了承する。それで走り、駅前へ。裏道に停まり、降りて、(……)へ。籠を持って飲み物のところへ。コーラのペットボトルと、「スーパードライ」を買ってくれということだったので、三五〇ミリリットルが六本セットになったやつを取った。その前に、ポテトチップスも取っていた。あと、なんか寿司でも食いたいなと思ったのだが、ないようだったので、冷凍の焼き鳥などくわえて会計へ。店員は女性。凛々しいような顔立ちのひとだった。こちらが小銭を出そうとしてまごついていると、そのあいだに持参した袋に品物をおさめてくれた。礼を言って退店。路地にもどると、放置自転車を取り締まっている老人が二人、これかなとかなんとか言いながらコンビニの脇に停まっている自転車に寄っており、そこにちょうど胡乱な雰囲気の老人がひとりいたのだが、これお父さんの? とか話しかけて、老人は首を横に振っていた。こちらは車にもどる。そうして発車。ラジオはFMヨコハマだったと思うのだが、ものんくるモーニング娘。の曲をカバーしたというやつを流しはじめた。サビで、「もう一度好きって聞かせてほしい」とかくり返すあれで、こちらも聞き覚えはあるが、曲名はわからない。まあこういう風にやればなんでも洒落た感じにはなるだろうなという感じ。それを聞きながら家に着くのを待つ。
  • 着くと荷物を持って降り、なかに入ると消毒したり手を洗ったり、ものを冷蔵庫に入れたり。自室に帰って服を着替えると、上がってアイロン掛け。母親は飯の支度をする。アイロン掛けが終わるとこちらも台所にくわわる。(……)
  • こちらは腹が減ったのでそのまま食事へ。食っていると父親が帰宅。帰ってきた父親に母親は、墓に行ってきたと言い、(……)さんが来て魚をくれたが古そうだったからすぐに焼いたといういましがたの件を報告していた(……)。こちらは夕刊を読みながらものを食う。夕刊は一面に、女性の自殺者が一五パーセントくらい増えたという見出し。「日本史アップデート」で、戦国時代のはじまりについて読む。室町とか南北朝とかが近年注目されているようだが、戦国時代の開始も、従来応仁の乱からだと考えられていたところが、多少学術界の認識が変わってきているらしい。応仁の乱は京都だったが、それ以前、関東ではすでに戦国的な、下剋上的な状況が高まっていたのではないかと。室町幕府のもとで関東には鎌倉公方が置かれ、そこのトップである足利氏と、補佐役の関東管領である上杉氏のあいだで対立が起こっていたと。足利成氏 [しげうじ] という公方のときに、上杉なんと言ったか忘れたが関東管領とのあいだに対立がはじまり、幕府はそのとき、上杉側に加担して、その子供同士の世代、足利持氏と上杉なんとかにいたっても対立は続き、持氏が上杉を殺害する。そこでまた幕府が上杉方と組んで鎌倉公方と戦うことになり、これが享徳の乱だが、いまWikipediaを見ると、成氏と持氏は逆で、持氏のほうが親だった。「観応の擾乱を受けて足利尊氏が設置した鎌倉府は、尊氏の次男である基氏の子孫が世襲した鎌倉公方(元はこちらを関東管領と言った)を筆頭に、上杉氏が代々務めた関東管領(元は関東執事と言った)が補佐する体制であったが、次第に鎌倉公方は幕府と対立し、関東管領とも対立していた(上杉禅秀の乱など)。これを打開するため、第6代将軍足利義教は、前関東管領上杉憲実を討伐しようと軍を起こした第4代鎌倉公方足利持氏を、逆に憲実と共に攻め滅ぼした(永享の乱)」。「再興後の鎌倉府では、持氏が滅ぼされる原因となった憲実の息子である上杉憲忠が父の反対を押し切り関東管領に就任し、成氏を補佐し始めたが、成氏は持氏派であった結城氏、里見氏、小田氏等を重用し、上杉氏を遠ざけ始めた。当然、憲忠は彼ら成氏派(反上杉派)に反発した」。「享徳3年12月27日(1455年1月15日)、長尾景仲が鎌倉不在の隙に鎌倉公方足利成氏は、関東管領上杉憲忠を謀殺。里見氏、武田氏等の成氏側近が長尾実景・憲景父子も殺害した。在京していた憲忠の弟上杉房顕は兄の後を継いで関東管領に就任、従弟の越後守護上杉房定(房朝の従弟で養子)と合流して上野平井城に拠り、「享徳の乱」が勃発した」とのこと。高校日本史で多少やったはずだが、全然おぼえていない。ここからもう戦国の端緒がついたと言って良いのでは? という話になってきているらしく、Wikipediaにも、「現代の歴史研究において、享徳の乱は、関東地方における戦国時代の始まりと位置付けられている [3: 久保健一郎享徳の乱と戦国時代』 吉川弘文館〈列島の戦国史 1〉、2020年5月] 」と冒頭に書かれている。
  • 食事を終えると食器を洗い、コーラを持って帰室。コップにそそいで飲みながら今日のことを書きだした。緑茶を飲むと心身が緊張するのにコーラを飲んでもそういう感じがしないというのはどういうことなのか? カフェインの含有量の問題なのだろうか。どちらも尿意を誘発してやたらトイレに行きたくはなるが。このときも書いている途中で二回立った。時間記録をつけなくなったが、六時過ぎには書きはじめていたはずで、いま九時前にいたっているから、頭からここまで二時間半くらいで記したのではないか。今日の書きぶりは良い。相当にスラスラと、力をほぼ入れずに書けている。いつもこういう楽な感触であってほしいものだ。BGMはなぜかaikoを聞きたくなって、『夏服』と『暁のラブレター』。
  • その後風呂に行ったが、入浴後は信じがたいほどにだらだらして、つまりずっとベッドの上に寝転がったままコンピューターでインターネットを見ており、馬鹿げたことにそのまま夜を越えて朝にいたり、六時を回ってから寝ることになった。