2021/3/17, Wed.

 虚構とは、うすく分離させて、うすくはがしてゆくと、彩色された完全な絵が形づくられているというものである。デカルコマニー[訳注133: 絵具が定着しにくい素材の上に絵具を塗り、それが乾かないうちに、二つ折りにしたり、他の紙などを押しあてたりして、はがすと、偶然による模様が生まれる。それがデカルコマニーである。]のように。
 (石川美子訳『ロラン・バルトによるロラン・バルト』(みすず書房、二〇一八年)、127; 「虚構(La fiction)」)



  • 一〇時五〇分起床。昨日はまた夜ふかしして早朝にいたってから床に就いたので睡眠が短い。いい加減消灯をはやめて生活をととのえたいと思うのだが、どうも心身がそういう方向に向かっていかない。天気は晴天。窓をくぐって顔面にとどく陽射しも熱い。そのなかでこめかみや眼窩を揉んだり、頭を左右に転がしたり、腕を伸ばしたりしてから起き上がった。水場に行ってきてから瞑想。一一時四分から二三分まで。からだの揺らぎをずっと見ているような感じになってきているのだが、ある境を超えるとその揺らぎがすっとしずかに落ち着く。心身が安定する。
  • 上階へ。母親に挨拶し、食事。唐揚げをおかずに米を食べる。あとは前日のサラダの残りと味噌汁。新聞からはシリア情勢。内戦がもう一〇年になっているが、最初のうちは劣勢だったアサド政権が勢力を立て直して、いまは全土の六割くらいを支配するようになっており、シリアは完全に監視国家にもどったという声が聞かれる様子。やはりロシアが参加して空爆を繰り広げたのが大きかったらしい。批判的な人間、あやしい人間はどんどん拘束され、拷問でいままで一万四〇〇〇人も死んでいるとか。頭がおかしい。政府の悪口を言えず不自由だったとはいえ、内戦前のほうが良かったと言って民主化運動に参加したことを後悔する声もあるようだし、空爆で言語と聴覚を失って言葉を話せなくなった子どももけっこういるらしい。
  • 食器を洗い、風呂も洗う。蓋の裏がまたぬるぬるしているが、面倒臭いので今日は放置。出ると緑茶を薄めに用意して帰室。それからNotionの準備中、「神話以来喪の戦争に疲れ果てなみだは眠る血球の底」という一首を完成。昨日風呂のなかでできていながらはまりきっていない感じがして置いていたのだが、これでいいやという気になった。
  • そのあとはまたインターネットに繰り出してだらだらと過ごす。三時前まで。今日は労働で、いま三時半に差し掛かるところだが、もう出なければならないので、出勤前の時間を丸ごとなまけてしまった。しかし、焦る心はほとんどない。そういうときはそういうときでまあ良い。ボールを踏んだりしているからからだのコンディションはととのうし。二時四〇分くらいになるとベッドから起き上がって居間に行き、ベランダの足拭きマット類を取りこんでおくと、メンチカツパンを温めてもどり、食ったり歯を磨いたりした。そうしてスーツに着替える。本当は歩いていこうと思ったのだが、すこしでも書き物をしておきたいと思って電車を取ることに。ただ、そうすると職場に着くのが四時を回る頃になってしまい、鍵開けとしてはちょっと遅いので、本当は徒歩でもうすこしはやく着くように行ったほうが良いのだが。一本前の電車に乗ると今度ははやすぎるのだ。また、今日はWoolf会なのだが、最近なまけてしまっていて書き物がすすんでいないからと今日は欠席させてもらうことに。自分の都合で欠席したのはたぶんはじめてではないか。実際、先週の会の日、つまり三月一〇日水曜日の記事すらまだ仕上げて投稿できておらず、あまりよろしくはない。もっと楽に、力を入れず、おのずと書けるような態勢になっていきたい。
  • 上まで記すと三時半を過ぎたところだったので、もう出発することに。上階へ。父親が帰ってきており、玄関のほうで電話に出たところだった。こちらは靴下を履いたり洗面所で手を洗ったりしたが、そのあいだに父親の様子をうかがうに、低いというか気力のないような声ではい、はいと間歇的に受けるのみで、なんの電話なのかいぶかしいようだった。何か責められているのをただ黙って受けているような、それでいて同時に内心では面倒臭いと感じてうんざりしているような、そういう種類の雰囲気を感じないでもなかったが、たぶん、(……)ということで、地域の誰かがある種陳情というか、問題があってどうにかしてほしいというようなことを伝えてきたというところではないか。電話が終わるのと同時にこちらは出勤へ。父親と挨拶を交わしつつすれ違って玄関へ行き、靴を履き、マスクをつけて、扉をくぐる間際にもう一度、じゃあ行ってきますと室内にほうっておいてから外へ。今日は気温も高いしコートはいらんだろうと思って、ストールをバッグにおさめたのみでベストにジャケットのスーツ姿を取った。実際このときには寒いとか冷たいとかいう感覚はまずなかったはず。ただ、天気はさほど良くはなかった。雲が出て、もう陽射しも日向もなくなっていたのだ。十字路から坂道へ。上っていくと頭上から落ち葉にふれる音が聞こえて、見れば右側の段の上、木々の合間に禿頭が覗くのが一瞬見えた。(……)さんではないと思う。そのあたりに住んでいる、なんと言ったか外国出身の、もう七〇かそのくらいになる男性だと思うが、そこの道は林のなかをそのまま通っていくような感じなので、使うひとも珍しいのではないか。こちらも小学生の時分には何度か通ったことがあるが、もはや使うことはない。ただ、たしかにそこを通れば、そのひとの家があるあたりには近いはずだ。といってこちらが行く坂のほうを取っても大して回り道になるわけでもないが。
  • 上り坂を歩きながらマスクをつけているとやはりそこそこ息苦しくなるので、ずらして鼻を出しながら上っていった。最寄りに着いてホームへ。入るとそのまま先のほうへ。今日は鍵開けで、すこしでもはやく着いておいたほうが良いだろうと思い、出口に近いそちらのほうに乗ることにしたのだ。先のほうまで行くと何をするでもなく直立。からだの安定性が違う。だらだらしながらも脚をほぐしているし、また、ボールで足裏を和らげているのがおそらく大きい。実に確固たる安定感で足裏がホームを踏んでいた。電車が来ると乗り、扉際に立って待つ。(……)がいた。彼女も今日はおなじ時間から勤務なのだ。
  • (……)で降りると階段口へ、次いで通路を行く。そのあいだ、(……)がこちらの横を追い抜かしていき、ちょっと跳ねるようなというか、軽くぴょんぴょんとしたような足取りで階段を上っていった。彼女はわりとそういう感じの移動の仕方をすることがある。声をかけても良かったのだが、その気が起こらなかったのでゆるゆるあとから行った。ただ、職場の鍵がまだ開いていないから待たせてしまうなと思っていたところ、(……)は券売機によってチャージか何かしていたようだったので、そのあいだに駅を出て、職場へ。(……)から香ばしいにおいが漂いだしていた。裏口から入って明かりを点けたりし、入り口の外に(……)の姿が見えたのでシャッターをさっさと開け、扉をひらいて挨拶。そうして勤務。
  • (……)
  • (……)
  • (……)
  • (……)
  • 退勤は八時四〇分過ぎくらいだったはず。駅を覗いて掲示板で電車の時間を確認し、知っているとおりの時刻が映っているのを見ると、今日は歩いて帰ることに。この時刻になると夜気がさすがに多少冷たかったので、駅前で銀色の車止めみたいなやつに寄り、持ってきたストールを首に巻いた。そうして歩く。しばらくのあいだはやはりどちらかと言えば寒く、空気の流れもあって、あたたかい飲み物を途中で飲んで助けにしようかなとちょっと思ったくらいだったが、文化センター裏の自販機を見ると、もうあたたかい飲み物がひとつもふくまれていなかった。ただ、歩いているうちにからだが温まってくるだろうとは思っていたし、実際そうなって、空気の冷たさはさほどの問題ではなくなったし、コートを着ずにゆっくり外を歩けるというのはやはり良い、という心持ちになった。コートとか上着とか外套とかはなんだかんだ言って、脱いだ状態になって思い返してみると、やはりけっこう煩わしい。ジャケットくらいまでの装いで歩けるのが一番良い。なるべく気楽なというか、余計な力を使わず楽に歩けるような感じを探りながら歩いていたが、最初のうちはそれでも歩調がちょっと性急なようで、後半でうまくゆるんできたようだった。青梅坂を越えてまもないところの、先日巨大な籠みたいな白梅と、その花があたりの地面に散乱しているさまを見た家では、梅はもう花をほぼ落としきって終わっており、当然だが地面もきれいになっていた。それで思い出したが、最寄り駅の前にある桜が咲いていた。薄ピンク色がもうけっこう充実しているように見えたが、ここの桜って毎年こんなにはやかったか? と疑問に思った。昨日、寺でここの桜ははやくて、という声を聞いたが、今年はどこでもわりとはやいのだろうか。
  • 白梅の家のすぐ先にあるハクモクレンは満開で、闇のために花の姿形が詳細に見えないので、巨大な蝶が枝の隅々まで群がって眠り休んでいるように映る。裏通りを行くあいだ、ジョギングをしている人間に三人くらい遭遇した。空は全面的にではなかったかもしれないが晴れており、星が明瞭に見えていた。月も、(……)を見送ったときには職場の入り口から西空に、爪を肌に押しつけた弱い痕みたいな小さなものが浮かんでいるのを見たのだけれど、この帰路にはもうなかったので、はやくも山のあちらに沈んだものか。外をゆっくりと歩くというのはやはりとてもよろしいことで、心身がかなりしずかに落ち着く。
  • 家の前まで来ると林のほうから葉にふれる音が聞こえたのでちょっと停まって、空気と同化するかのように静止して竹の隙間の闇のほうをうかがってみたが、たしかに葉を鳴らす音はいくらか聞こえたものの、鳥かせいぜい狸くらいのさほど大きな動物ではないように思われたし、じきに音もなくなったので離れて家に入った。手とマスクを消毒し、マスクは捨て、洗面所で手洗いとうがい。(……)
  • 帰室。服を着替え、ベッドでジョゼフ・チャプスキ/岩津航訳『収容所のプルースト』(共和国、二〇一八年)を読む。やはりプルーストをやたら再読したくなるし、『失われた時を求めて』みたいに、終わることなく膨張しつづける長篇小説を生涯を通して書いてみたいなという幻想的欲望も湧く。生と世界のすべての要素を取りこんで言葉と言葉の隙間から次の言葉が発生し続けて永遠にとまることのない生命体みたいな小説というか。実際、プルーストの推敲というのはだいたい加筆のことだったらしいし。死んだ時点でもあきらかに文章を書き足すためのメモが多数残っていたとか聞いたようなおぼえがある。ロラン・バルトがどこかでそれについて触れていたはずだが、記憶と情報が確かでない。こちらとしてはどうしても、「すべて」とか「あらゆる」とかいう言葉を用いてしまい、全体論的な幻想から一向に逃れられないのだけれど、この日々の書き物が、方向性としては一応そういう種類のものにだんだんなっていくような気もしないではない。ただこれは作品でも小説でもないし、物語をやりづらい形式なので、もっと進行感を持った物語的要素がある作品としてもそういうことをやりたいと思うが。プルーストに「進行感」があるかというとそれはそれでまた疑問だが、一応作品としてのもののなかで生を書きたいということ。チャプスキの講義では、48に、「この小説が描くのは、河が運んでくる流木や死骸や真珠といった個別の物体ではありません。そうではなくて、連続的で、止まることを知らない、河の流れそのものなのです。プルーストの読者は、一見すると単調な波間を搔きわけながら、出来事ではなく、しかじかの人物を通じて感じられる、休止することのない生そのものの波動に、心打たれるのです」とあり、これはわりと同意されるし、「生そのもの」みたいな言い方にこちらはどうしても心惹かれるところがある。こちらは明確に個別的な主題を持っているというよりは、包括的なかたちでの生そのものと世界そのものを書きたいみたいな欲望をいだいているのではないか。
  • 58では、プルーストは公爵夫人の茶話会だけで一冊分の文章を費やすことができるが、「それはただ一つ一つの顔のしわや身振りや匂いを顕微鏡的に分析しているからではなく、連想を膨大に発掘し、それを思いがけない、時間的に最も離れた連想につなげていくからなのです」とあって、これもたしかにそういうところはあると思う。水平にひらいていくことがそのまま垂直に分析を掘り下げることにもなっているとも思うが、分析しているうちに連想がひらいて、その先で分析してまたひらいて、みたいな動きもあったように思われ、上で書いた「終わることなく膨張しつづける長篇小説」とか、「言葉と言葉の隙間から次の言葉が発生し続けて永遠にとまることのない生命体みたいな小説」とかいうのはそういうイメージに近い。「プルーストの書くページは、事実そのものよりも、むしろ事実から彼が受けた衝撃によって呼び起こされた彼自身の思考の歴史となります」(57)というのも適した言い方だと思う。それは微視的というよりは包括と全体を志向するものだということだろうが、実際のところは上にも記したように、顕微鏡を覗きこんでいるうちにそれがいつの間にかひろびろとした全体に通じてしまうというのがプルーストの道行きではないか。いみじくも彼自身、まさしく、「個別的なものの頂点でこそ普遍的なものが花開く」と言っている。これは1919年7月19日のダニエル・アレヴィ宛書簡に書かれている言葉らしく、こちらはまだこの手紙の文言を直接読んではいないが、ロラン・バルトの『小説の準備』(ロラン・バルト石井洋二郎訳『ロラン・バルト講義集成3 コレージュ・ド・フランス講義 1978-1979年度と1979-1980年度 小説の準備』筑摩書房、二〇〇六年)の冒頭(4)に引かれて、訳注で典拠が示されていたものだ(吉田城訳、『プルースト全集18』、筑摩書房、294頁)。
  • 一一時前に夕食へ。食事を用意していると、母親が呼んで、毛布を物干し竿にあげてとかいうので、洗ったらしい毛布を居間の天井近くの端のほう、東窓の前に横に渡されている物干し竿にかける。棒をはさんで左右に垂れ下がる毛布の面のあいだにハンガーをはさんで、両面のあいだに隙間をひろくすれば乾きやすいだろうというわけでハンガーも入れたが、ソファに座って歯を磨いている父親は、そんなことやっても変わらんだろみたいに口を出してきて、母親はそれに反論し、こちらは黙々と作業をすすめる。(……)
  • それから食事。色々品があった。昨日(……)さんがくれた魚は、色がやたら赤いのでどうかなと思っていたのだが、普通にうまかった。古くなっている気配もないし、何も問題なく食える。ほか、昼間に引き続き油揚げの味噌汁や、唐揚げや、春菊らしき菜っ葉や、菜っ葉と豚肉を和えたものなど。夕刊の一面には、同性婚の権利を保障しないのは憲法違反だという判決が出たとの報。これは昼間にもニュースで見かけた。現行法との兼ね合いとか、法的な論議は色々あると思うが、世界的にも同性婚はどんどん認められているわけだし、日本でも自治体レベルではパートナーシップ制度が整備されてきているのだから、さっさと認めれば良いのにとしか思わない。「両性の合意」とか、法に記されている言葉についての問題はあるだろうが、制度として同性婚を認めて何が問題なのかこちらにはわからない。なかには、先般の米国の大統領選でロシアが妨害工作を働きかけていたとの記事。ドナルド・トランプを勝たせるために、バイデンに対して不利な偽情報を拡散したりしていたらしい。アメリカの情報機関が、どうやってかは知らないし証拠があるのかどうかも知れないが、それを事実としてつかんだようで、プーチンの認可を得て干渉していたとも主張している模様。イランは逆に、トランプを敗北させる工作を仕掛けていたようで、イランとしては米国は適度に敵であってくれなければならないはずので、ソレイマニを躊躇なく殺しに来たりシリアにミサイルをぶちこんだりするようなトランプよりは、バイデンのほうが敵対するにも良いということなのだろう。中国は工作活動を検討したが結局は実行しなかった、という調査結果が出ているらしい。どうやってそんなことを突き止めるのか全然わからんが。こちらがものを食いながら新聞を読んでいるあいだ、テレビは落語を映していて、父親はときおりうなりを漏らしながら、また首を回したりして筋肉疲労を和らげながら、おおむね黙ってしずかにそれを見ていた。
  • 食事を終えると皿を洗い、緑茶を用意して帰室。書き物をする気がようやく身に寄ってきた。それでaiko『暁のラブレター』をヘッドフォンで流しつつ、また茶を飲みながら、今日のことを記述。書きぶりは軽いし、手指の動きというか、手指が動くその関節の感触も軽く、さらさらとしている。だいぶ力が抜けていて良い。零時頃でいったん切って入浴へ。風呂のなかでは日々の書き物についてとか、例のいわゆる信仰についてなど思いを巡らせる。プルースト社交界の貴族とかブルジョア連中のスノビズムとか鼻持ちならない様子とかを戯画的に、皮肉に、滑稽に活写したわけだが、こちらも両親のことをそういう対象として見れば良いのだなと思った。そうすれば多少は苛立ちがすくなくなるかもしれない。ミシェル・レリスが、「どのような人間であれ愛することのできる者、ただし動物園の檻のなかにいる動物を見るような愛し方で」みたいな一節をつくっていた記憶があって、それと似たような感じだと思ったのだけれど、いま、『オランピアの頸のリボン』からの書抜きを見返しても該当の一文がなさそうなので、どうもこれは自分でつくったのではないか。レリスの「~~な者」シリーズをまねて自分でもやっていた時期があったので、そのときにそういう一節を思いついたのではないか。どうせなのでレリスのもとの断章も下に引いておくが。

 沈黙のうちにしか叫ばない者、しかし、ときとして、ささいなことでその人にも声が戻る。
 何が原因でできたのかはっきりしない自分の傷を言葉でもって手当をしようとする者。
 けっして仮面を棄てぬ者、他の者が作った言語によって人格が形成されたのであるからには。
 孤独をようやくのことで耐えてはいるが、他の人間と一緒にいてもくつろげない点ではあまり変わりがない者。
 興奮剤、アルコール、ブラックコーヒーに頼らぬ者、というのもそれらはその人の苦しみを循環させやすくするだけだから。
 パーティーにでも行くように楽しみにしていた友人たちとの食事から、たいていはがっかりして帰ってきて、友人たちに比肩しえぬのだと自分から認めてしまう者。
 詩の要請に従って周辺的存在でありたいと願いながらも、少しでも戦闘的な作品を作りたいと思い、ただたんに自分のことを語るかわりに、あまり深く考えないまま、美しい物語を語って人を魅(end337)了するのに歓びを覚えてしまう者。
 逃走するために、自我の奥底をくまなく探してまわる者。
 自分の病気を治療しようとして、ひどく無邪気にも、診断法とセラピーを混同してしまう者。
 強迫観念から癒える期待をもはやもたぬ者、というのも、治療可能なら、すでに治っているはずだから。
 不運に見舞われて裏をかかれるのを恐れ、大歓びできるだろうと楽しみにしたりは一切しないように努める者。
 人が自分について抱くイメージ、自分が自分自身について抱くイメージ、記憶のなかに読みとれるように思うイメージ、この三つのイメージのあいだをすり抜けていく者。
 自分が控えめだと考えたりするほどうぬぼれてはいない者。
 飾りたててもらうのを嫌がり、そのように拒否する行為を鼻にかけるのも嫌がる者、なぜなら、内面を飾りたてるのはレジオン・ドヌール勲章にも劣らず愚かであろうから。
 マゾヒストではないが、それでもニュースを聞く者。
 自分の価値観としていたものが、地球規模で消えていくのを、自分自身の消滅という展望をさらに悲惨なものにしてしまう災厄として感じる者。
 希望が粉々になり、甘い憂鬱などとは呼べないものと向かい合わされる恰好となったため、しばしば、自分の感じている不安に黒いユーモアの味つけをしてふと洩らす者。
 毎朝、突然の恐怖に襲われ、これからの一日にたいして、爪先から頭のてっぺんまで備えを固め(end338)ずにはいられない者。
 脅えては忙しく働き、忙しく働いては脅える者。
 自分の内側をじっくりと眺めると、嫌悪感が喉元までこみ上げてきてしまう者。
 自分の弱さのせいでどんな卑劣な行為をしでかしかねないのかはまだわかっていないのに、もう良心の呵責に苦しんでいる者。
 ねぐらとしてあるのは自分の身体だけで、それもみすぼらしい住いか、せいぜい、もういかなるダンスパーティーも開かれなくなった居間なみに落ちぶれてしまっている者。
 自分の額のうしろで以前からずっと点灯されているランプが煤けてしまわぬように用心深く見張っている者。
 相棒の犬が老けていくのを見て、鏡のなかの自分を眺めている気分になる者。
 自分も動物であるのを知っているが、書くことで、自分は違うのだと証明しようとしている者。
 連なっていく文に眼を釘づけにして、視界の外にある、不吉な幻滅から身を護っている者。
 漂流したあげく、潜在的な読者である他者[﹅2]によって享受されうる作品を生み出すのでなければ、ありふれた麻薬中毒患者と変わらぬ存在になってしまう者。
 あるがままの存在でいるのが気に入っているわけではないが、自分がどういう人間かを言える点は気に入っている者。
 解剖台に身をやつすとき、自分の内臓を唐草模様に並べようとする者。
 『ホフマン物語』のアントニアや伝説の白鳥とは違い、最後の歌とともに死なない自分をときと(end339)して責める者。
 発酵飲料による酔いよりも、音楽によってもたらされる酔いのほうを――おそらくは道徳的偏見のせいで――好む者。
 生活保護を受けていながら施設を罵る輩さながらに、好んで芸術の悪口を言う者。
 ほかの人たちなら家から家へとまわっていくように、行から行へと移動していく者。
 すべては死すべき運命にあるという不条理を、詩人として、否定しようとする者。
 栄光や持続性を求めはしないが、書くという行為によっても残念ながらとぎれとぎれにしか出てこない流れのうちに、不滅を求める渇きを癒そうとする者。
 空気や飲食物ほど不可欠ではないにもかかわらず、自分の偏愛の対象を褒めちぎる者。
 印税を受け取るたびに、正当化の証を手にしたように歓ぶ者。
 眼くらましは嫌いなはずなのに、トリックを見破ろうと勢いづく者。
 細工を施した骰子で遊んでおきながら、負けて帰るはめになって驚き、金を騙し取られたと嘆く者。
 誰かに命をあたえたりも、誰かの命を奪ったりもせず、世界の歯車の回転に寄与しなかった者。
 人びとの運命がかかっている以上、重大な事柄であるにもかかわらず、政治には極度に嫌悪感を催させられるのだと残念がる者。
 社会主義の建設が各地で〈自由〉の鐘を鳴らし損ねたため、過去は忘れて再出発すべきか、それとも方法を修正するように工夫すべきかと考えあぐむ者。(end340)
 物質的生活がもっと楽であれば、精神的な贅沢をもっと楽しめたであろう者!
 純粋なオーク材なみの強固な確信にたいして不信を抱くばっかりに、腐った板のようになりかねない者。
 しばしば自分を農奴と見なすが、いったいいかなるスパルタ人の農奴なのかはわからない者。
 自分の悪口を言い、その跳ね返りで、人の悪口も言う者。
 人生は滑稽だと思いながら、笑い飛ばすことができないでいる者。
 不安にみちた覚醒とまといつくような眠りとのあいだを漂っている者。
 ひとりきりなどではなく、まだ頼みの綱もいくつか残っている(文学の仕事、ドグマ剤、大食、通例よりも熱くした湯に普通の人より長く浸かっている入浴、オペラ、展覧会鑑賞、徒歩での散歩、等々)のだから、不満を洩らすことなど差し控えるべきであろう者。
 いかなる場合にも気分のむらがないようにするというあの離れ業にむいていないのを、ますます恥ずかしく思うようになってきている者。
 家のなかに死の気配が漂うのを感じている犬さながらに、不安に取り憑かれている者。
 そうした語が何を示すのかを知りすぎているために、「残念」とか「遺憾」とかを丁寧な表現として使おうとする前に、どうしてもためらいを覚えてしまう者。
 事物の側の調子がおかしいと、言葉も死文と化してしまうと感じている者。
 最悪の呪いをすでにかけられているのに、さらに災いの種をあんなにも頻繁に増やして歓ぶ人類なるものが理解できないでいる者。(end341)
 秤を幸福な瞬間へと傾かせることのできるミリグラムの重さに賭ける者。
 自己そのものを消し去ることなしには、おのれの矛盾も消せない者。
 自分は、人から崇められる帝[ミカド]などではなく、取るに足らぬ馬の骨だと認めるのを嫌だと思っている者。
 自分も横になり――綿の入ったマットレスの上でのように――、自分同様にすでに庇護を失っている多くの友人の傍らに身をおきさえすればいい者。
 この本を書き終えようとしている者、だが、その一方で、自分自身の人生も、そして自分が属している文明も終わりかけている。
 経済危機があちこちに見られると株式市場で金の価格が上がるのとまったく同じで、美しい瞬間の価値がますます高まるように見えてきている者。
 たとえリボンの垂れた勲章などで飾りたてても、恐怖に脅えた老人に自分がなりはてているとわかっている者。
 すばらしい瞬間を――心底から――望んでいるが、そのときどきに生じうる幸福感を楽しむ術を知らない者。
 綱かロープ、それどころかワイヤロープが必要となっているのに、五〇センチにも足りないリボンにしがみついている者!
 だからといって誇らしい気持がつのるわけではないが、最後まで妥協はしないであろう者。
 自分の父親や母親にたいする不平は何もないが、ただ、自分に生命を授けてくれることで、同時(end342)に死を運命づけたという点は別だと考えている者。
 流さぬままに溜め込んでいるうちに、心のなかで泥のようになり、吐き気を催させている涙を、インクに変えてみせるという、なんとも奇妙な錬金術に夢中になっている者。
 「わたし」は他者[﹅2]ではないという事実を嫌というほど思い知らされている者。
 (ミシェル・レリス/谷昌親訳『オランピアの頸のリボン』人文書院、1999年、337~343)

  • で、Evernoteを「檻」で検索してみると、2015/2/22, Sun.が引っかかり、そこに上記のレリス式断片のまねごとがたしかにあって、調べてみると二月二〇日からはじめて数日間やっていた様子。だいたいどうでも良いような一行しかつくれていないが、そこそこ悪くないものもまったくないではない。読み返して再編集というか、まだしも許せるものを上から拾ってそのままならべていくと、下のようなリストになる。ちなみに上で想起した該当の一節というのは、「たしかにどんな人間もおもしろく、すばらしく、また愛すべきものであるにちがいないとは思うが、それには檻のなかにいる動物を見るようにして、という条件を必要とする者。」というやつだった。

 あてどなく家を出たつもりが、必ずどこかに辿りついてしまう者。

 後悔することの甘美な中毒性にとらわれている者。

 電脳空間の片隅に真実が隠されており、それを見つけることが自分の使命だと思いこんでいる者。

 自分が生まれると同時に世界も生まれたように思えて、歴史の存在を信じられない者。

 ここまで来れば大丈夫だと、どこまで行っても思えない者。

 心が割れてもかけらを拾い集めれば、宝石のように修復できると信じている者。

 世界の豊かさに絶望し、生まれかわりを本気で願う者。

 哀しみの代替物を求めて見つけられない者。

 どこかに落ちているはずの賞賛を求めて街を駆けずりまわる者。

 その次に不幸が訪れるのを避けるため、金を拾わない者。

 自分が生まれたのは、誰かの陰謀だと確信している者。

 子どもを残せないと知っているため、目にする子どもがすべて自分の子に見えてしかたのない者。

 絶望を身に帯びない者が他人の絶望を消費してやまない世界に絶望したくなる者。

 希望の鎖を握って振りまわしているつもりで、獰猛犬につながれていることに気づいていない者。

 自分自身のなかの虚栄に耐えきれず、人付きあいをやめたもの。

 この世を滑稽な喜劇のようだと思っているが、あまりにも滑稽すぎて笑えないでいる者。

 わずか五秒で平静と憤懣と憂鬱とを行き来できる者。

 自分は変わった人間であるなどと愚かにも思いこみ、公言してはばからない者と、自分は変わった人間ではないなどと愚かにも前提し、多数のなかにまぎれこんだつもりでいる者。

 声を失うことを望む者、そうすれば話さなくて済み、なおかつ書くことしかなくなるから。

 たしかにどんな人間もおもしろく、すばらしく、また愛すべきものであるにちがいないとは思うが、それには檻のなかにいる動物を見るようにして、という条件を必要とする者。

 報われない恋の相手の名前を紙に無数に書きつらねることで絵をつくる者。

 ひとりでいないと理性を捨てられない者。

 ほとんど常に寂しさを抱えているため、ごく稀にはっきりと充足した時間があると、疑いを投げかけて、自らその時間を終わらせてしまう者。

 外界からの妨害は許せるようになったが、自分自身による妨害には憤りをおさえられない者。

 不確かなものとの不確かな関係を愛する者。

 自分は安息しているのに、他者の苦難で憂鬱になる者。

 世間を回避することを生業とする者。

 ひとつの病気を避けた先で別の病気に出くわすことをくりかえし、結局は生涯を通じて病気から逃れられない者。

 観察に執着しすぎて、行動に移さずに終わる者。

 呪詛を詩に高める者。

 その場で回転しつづけることで、地中に溶けていけないだろうかと願う者。

 無力な願望を、無力な行動の慰めにする者。

 自分自身苦しみながら他人に苦しみを与えずにはおれず、相手の苦しみをふたたび自分の苦しみとして我が身に回収するという循環から抜けだせない者。

 何かをためらうための時間的余裕すら持てない者。

 求婚を、犯罪とほとんど同一視する者。

 困惑を習慣とする者。

 物語によって自分の領域がくまなく奪われてしまうのを恐れて、断片のあいだの隙間に逃げこむ者。

 誰にも親しみを覚えることができないという意味での平等主義者である者。

 書くことによって破滅に向かっているのを予感しているが、同時にまた、書くことによって支えられていることも確かに感じる者。

 苦悩を訴えているまさにその瞬間に自分が享受している安楽を告白せずにはいられない者。

 毎日のように虚構にまみれつづけることで、自分の存在をも虚構にすることを願う者。

  • 風呂は零時四〇分くらいに出たと思う。帰室するとまた書き物に邁進。それからここまで書き続けて三時を越えているので、よく働いたとは思うが、しかし二時間以上かかっているのか、とも思う。べつにスピードをもとめる気はないが。これで今日の分はもう完成だし、昨日の記事もさっと仕上げてしまい、あとは一〇日から順番におぼえていることを文字に落としていくだけ。
  • そういえばこの日の朝刊のなかに、『葬送のフリーレン』という漫画の広告が一ページ分大きくはさまっていたのだけれど、この漫画はたぶん良い漫画だろうと、インターネット上でちょっと見たときにこちらは思っていた。良い漫画というか、こちら好みの、要するに人の生とか、時間、もしくは時間が過ぎるということとかを扱っている漫画のようだったので。マンガ大賞とやらを取ったらしい。そのホームページをいま見てみると、二〇二一年の大賞の一位がその『葬送のフリーレン』で、二位が『チ。―地球の運動について―』であり、この作品もたぶんこれはけっこう面白いやつだなと思って注目していたものだ。このあいだの読書会のときに(……)くんらにも面白そうだと知らせておいた。内容としてはガリレイみたいな感じのようで、地動説が異端だった時代にそれでも真実を追い求めるひとびとの物語、というやつだったはず。四位は田島列島『水は海に向かって流れる』で、これは手塚治虫文化賞か何かにノミネートされていたか、あるいは何かべつの賞を取るかなにかしていたはずで、これも前からちょっと気になっている。九位は『九龍ジェネリックロマンス』で、これもやはりインターネット上で見た感じ良さそうだと思っていたものだから、俺の感性、ずいぶん大衆的な方面と一致してるやんと思った。
  • そのあとはウェブを見て、四時前にベッドへ。ジョゼフ・チャプスキ/岩津航訳『収容所のプルースト』(共和国、二〇一八年)をすこしだけ読んだが、眠気が満ちてきて目がおのずと閉じるようになったので、四時一一分であきらめて消灯。