2021/3/22, Mon.

 世間一般の意見は、知識人の言葉づかいを好まないものだ。そういうわけで彼は、知性偏重的な専門語を用いていると非難されて、しばしばブラックリストに載せられた。そのとき彼は、自分が一種の人種差別の対象になっていると感じたものだ。彼の言葉づかい、すなわち彼の身体が、締め出されたのである。「おまえは、わたしとおなじ話し方をしない。だからおまえを排除する」、と。(……)

 しかしながら(いかなる社会的非難もしばしば揶揄できるものだ)、彼にとって観念とは、〈快楽が高揚したもの〉以外の何でありうるというのか。「抽象化とは、けっして官能性に相反するものではない」のである(『現代社会の神話』より)。人間にかんする〈理解可能なこと〉を描くのが主要なつ(end148)とめであった構造主義の段階においてさえ、彼はつねに知的活動を悦楽に結びつけていた。たとえば、パノラマは――エッフェル塔から見えるものは(『エッフェル塔』を参照)――知的かつ幸福な対象である。パノラマは、見わたす領域を「理解している」という幻想を身体にあたえて、まさにその瞬間に身体を解放するのである。
 (石川美子訳『ロラン・バルトによるロラン・バルト』(みすず書房、二〇一八年)、148~149; 「悦楽としての観念(L'idée comme jouissance)」)



  • 一一時前に覚めたものの、なかなか起き上がれず、まどろむ。意識が多少定かになると、こめかみを揉んだり、頭を左右に転がしたりする。くり返し頭を往復させていると、首周りがあきらかに柔らかくなるので、これは毎日寝る前と覚めたときにやったほうが良い。一一時二〇分過ぎに起床し、水場に行ってきてから瞑想。良い感じ。手の感覚が消えるくらいに静止できた。
  • そういえば、高校生としての認識にもどっている夢を見たはず。学校に行った帰りに(……)のビックカメラでイヤフォンを買ってこようかなとか思っていた。いまのイヤフォンがもうボロいので、ということだが、だからこの点では情報は現在のそれにもとづいていた。あと、今日は卒業式ではなかったか? と思い出して、出ないのはまずいかなと思いながらもフケることに決めた、という場面もあったはず。
  • 瞑想は一一時三二分から五一分まで。上階に行って母親に挨拶してジャージに着替える。梅の木の梢にヒヨドリが一匹とまって、しきりに、盛んに鳴き声を張り出していた。天気は曇りである。食事。たらこスパゲッティなど。新聞からはバイデン政権がオバマ政権の路線を修正して、ただのコピーだと言われないように取り組んでいる、という話を読んだ。オバマ政権時の二〇〇九年に景気対策法とかいうものがつくられたのだが、それは共和党に配慮して規模がもとの想定よりも小さくなってしまい、不十分だったのではないかという声があったところ、今回バイデンは共和党との融和姿勢を損なうリスクも恐れず、大規模な経済対策を打ち出したと。八五パーセントのアメリカ人が支援を受けられる、労働者層を最優先にした政策だと、各地をまわってみずから演説で説明しているとのこと。というのも、これもオバマ時代からの修正で、バイデンが大統領本人の言葉で国民に政策をアピールするべきだと進言したのに対し、オバマは、victory runは好まないとして遠慮した結果、政権の発信力が足りなかったみたいなことを言われたらしいからだ。カマラ・ハリス副大統領とかスーザン・ライスとかも出張ってアピールのための「ツアー」をおこなっているらしい。ただ、民主党内ではいまだにオバマの人気は圧倒的なので、バイデン政権は自分たちの取り組みがオバマへの批判だと取られないように注意する必要があるだろうとの識者の言。
  • 食器を洗い、風呂洗い。マットを漂白したらしいので、シャワーでよく流す。そうして浴槽を擦り、出ると母親はもう出勤していた。今日はこちらも勤務なので、茶をつくらずに自室に帰る。今日は三時過ぎには出て、帰りはたぶん一〇時半くらいになるだろうから長く、時間がない。しかしやはり音読をすることが大事だなというわけで、Notionを準備するとさっそくはじめた。今回はベッド縁に就いてボールを踏みながら読んだが、これは良い。こうすれば読みながら脚を温めることもできる。途中、なんか良い海外メディアないかなと思ってちょっと検索したのだけれど、大手はもうだいたい全部有料購読しなければ読めないようになっている。GuardianとBBCの偉大さがよくわかる。一時四五分くらいまで音読し、それから今日のことを記せばもう二時を回っているから、あと一時間も猶予がない。
  • ベッドで仰向けになって書見。ムージル古井由吉訳『愛の完成・静かなヴェロニカの誘惑』(岩波文庫、一九八七年)。まず昨日読んだ部分について触れておくと、42で、クラウディネは引き続き橇のなかにおり、「ときおり、奇妙にも、夫がいままた彼女のすぐ近くに戻ってきたように、そしてこの弱さと官能性こそ彼女の愛におけるひとつの神秘な感情であるかのように」感じている。「弱さ」と「官能性」がここでは隣り合ってならんでおり、それらが「愛」の範疇において「神秘な感情」としてとらえられている。直前に、吹きすさぶ風の「焼けつく冷たさ」のせいで、「自分は硬直し、意志を失ってしまったのだ」と述べられているところを見るに、この「弱さ」とはやはり自己と主体性の放棄を言っていると考えて良いだろう。それが「神秘」という語と結びつくのはここまでなかったことではないか。
  • クラウディネが「神秘な感情」をおぼえたその次の文からは、このように書かれている。「そして例の男のほうをまたしても眺めやり、おのれの意志の、つれなさと侵しがたさの、この呆然たる放棄を感じたそのとき、あかあかと彼女の過去の上に一点の光がかかり、彼女の過去をまるで名状しがたい遠方、見知らぬ秩序をもつ遠方のように照らしだした。とうに過ぎ去ったはずのものがまだ生きているかのような、奇妙な未来感だった」(42~43)。まさしく「意志」の「放棄」が記されている。「つれなさと侵しがたさ」というのは、男と姦通するというこの先の筋立てを考えるなら、男が彼女を誘うかあるいは無理やり迫るか、いずれにしてもクラウディネと関係を持とうとするのを拒む力、ということになるだろう。それが「呆然」と「放棄」されるというのだから、この「放棄」は彼女がみずから選び取ったことではなく、そのものとしておのずから起こった事態であり、クラウディネは自分でもあっけにとられて驚きのうちにそれをながめている。そのとき、「彼女の過去」が「名状しがたい遠方」にあるものとしてあかるくあらわれるのだが、この「遠方」は一種の超越の表現、彼岸の謂いと取って良いはずだ。そして、「とうに過ぎ去ったはずのものがまだ生きているかのような、奇妙な未来感だった」とまとめられているように、「遠方」に見える「彼女の過去」は、その実、これから来たるものとしての「未来」に位置している。この作品で言われるクラウディネの「過去」というのは、おそらくはことごとく、情事をくり返していた時期のことを指していると見て良いだろう。したがって、クラウディネは、「過去」の一時期に何度もくり返された従属的な情事が、(おそらくは新たな意味を充填されたものとして書き換えられながら)この先で再来してくる気配を敏感に感じ取っている。だからここは、33ページで一度述べられていた感覚とおなじことを言っているわけである。いわく、「彼女には自分の過去が、これからようやく起らなくてはならぬ何ごとかの、不完全な表現に見えてきた」。これからようやく起こる「何ごとか」の事態において、「過去」は完成させられるだろう。それこそがおそらくはまた「愛の完成」となるのだろうが、この小説はことほどさように、ほぼ同一と思われる感覚や心理を、手を変え品を変えさまざまな心象をともなって丹念に反復しながらすすんでいる。
  • 44ページで、橇に乗っていたかと思いきや、段落の移行とともに突然時空が飛んでいる。この転換はあざやかで印象的だった。前後を引いて示しておくと、男らが周囲で談笑している橇のなかで「蹄の音を一歩一歩つぶさに聞いていた」クラウディネは、「軽はずみな笑いとともにおしゃべりの仲間に加わった。それでいて心の内では大きくひろがり細かな枝を分け、音もたてぬ布を頭上に張りひろげられたような、見渡すことのできぬ思いに、なすすべも知らなかった」。そして行が変わり、「それから、夜中になって、彼女は目を覚ました。まるで呼鈴を鳴らされたように。彼女は突然、雪が降っているのを感じた。窓のほうへ目をやると、柔らかく、重く、壁のように、窓は宙に掛かっていた。彼女は素足のまま、爪先立ちで窓辺に忍び寄った。何もかもすばやくあいついでおこなわれた。自分が獣のように素足を床におろしたのがぼんやりと見えた。それから降りしきる雪片の格子を、すぐ近くからうつろにのぞきこんだ」といった調子である。橇のなかにいたと思ったら、いきなり、街に着いたことも眠りに落ちたことも語られぬまま、覚醒がやって来る。このあとの「部屋」の描写からして彼女がいるのはもう橇ではなく、滞在先の一室であるとわかるのだが、この飛躍的転換はさすがにうまいなと思った。
  • ここまでが昨日読んだ範囲。今日は46から読みはじめた。その46で気になったのは、段落の締めくくりにある、「不安が彼女の中を、身をこがす冷気と吹き抜け、破壊的な悦びを追いたててきた」の一節。といっても要するに、「不安」と「悦び」が癒着した両義的な状態をまた発見した、というだけのことにすぎない。余談だが、ここにある「身をこがす冷気と吹き抜け」のように、「~のように」にあたる直喩の意味を「と」であらわす言い方が、この古井由吉の訳には多く用いられている。「身をこがす冷気」というからイメージも両義的というか撞着語法になっており、それは上に触れた42ページの「焼けつく冷たさにつつまれて」も同様である。また、「悦び」の語は35にすでに一度あらわれており、そこではクラウディネはまだ汽車のなかにいるのだが、「ただひそやかに、未知の体験とともにたった一人でいるという悦びが彼女をとらえた」と言われている。
  • 段落を変えて47は部屋内の描写がいくらか含まれている。「固くまっすぐに」安定して立っている周囲の「物たち」に比べて、「彼女はここに立って名も知らぬ男を待っていることを意識するだけで、心が乱れる」。クラウディネが男を、(おそらくは自分の意志ではないにしても)「待っている」ことが明言されている。45の段階では、「もしもいまあの男がやってきたら、そして確かに彼の欲していることを、単刀直入におこなおうとしたら……」という、危惧とも何ともつかない思いつきの言葉が語られているのみだった。46では、夫以外の男の「肉体」に身をまかせることを「嫌悪」するとともに、「低く身をかがめていく」ような「眩暈」を感じながらも、それは「ただ、不可解にも無意味にも淫らをこころみる心、なおかつあのもう一人の男のやってくるのを願う心にすぎなかったのかもしれない」として解釈されている。だからこの時点では、確定的な事実ではないにせよ、クラウディネのうちに男の来訪を「願う心」があるように言われている。その次の文として来るのが、上でも引いた、「不安が彼女の中を、身をこがす冷気と吹き抜け、破壊的な悦びを追いたててきた」の一節である。
  • 47の後半から48。「そして自分の心臓の鼓動を、どこかからものに驚いて迷いこんできた獣を胸に抱き取る心地で感じるうちに、奇妙にも肉体は静かに揺らぎながらふくらみだし、かすかに揺れる大きな見なれぬ花のように心臓をつつみこみ、突然この花をつらぬいて神秘な愛の結びつきの、目に見えぬ彼方まで張りひろげられた陶酔がおののき走った。愛する人のはるかな心臓がさまよい歩くのを彼女はかすかに耳にした。定めなく、安らぎなく、故郷もなく、境界を越えてたえだえに運ばれてくる、遠くから星の光と顫 [ふる] えてくる音楽のように、静けさの中へ鳴り響きながらさまよい歩くのを。彼女を求めるこの協和音の不気味な孤独に、途方もないからみあいのごとく心をとらえられ、彼女は人間たちの魂のすまうあらゆる土地を超えてはるかに耳をすました」。
  • 「目に見えぬ彼方まで張りひろげられた」とか、「はるかな心臓」とか、「人間たちの魂のすまうあらゆる土地を超えてはるかに」とかあるので、ここで「愛する人」すなわち夫の「心臓」は、単にクラウディネから離れたところにあっていま一緒にいない、というだけでなく、彼岸とも言うべき超越的な領域に措定されているということだろう。「人間たちの魂のすまうあらゆる土地を超えて」という文言がそれを特に直接的に言っていると思われる。世俗の人間的な領分を超えた彼方、ということだ。そこに位置しているらしい夫の「心臓」とのあいだに彼女は「神秘な愛の結びつき」を感じるわけだが、この「心臓」ははるか彼方で「孤独」に「さまよい歩」いている。それは「定めなく」というから不安定だし、「安らぎなく」というから安心に落ち着いてもいないし、「故郷もなく」というから帰るべき根拠地を持たず根無し草だし、「たえだえに」というから確かさに欠けて消え入りそうだし、「星の光」のようにちらちらと「顫えて」いる。それは馴染み深い「協和音」ではあるものの、同時に「不気味な孤独」のなかにある。それが「音楽」のイメージであらわされているのは、「究極の結婚」について述べた29の記述とおなじである。いわく、「そんなとき彼女は、ことによると自分はほかの男のものにもなれるのかもしれない、と思うことができた。しかも彼女にはそれが不貞のように思えず、むしろ夫との究極の結婚のように思えた。どこやら二人がもはや存在しない、二人が音楽のようでしかなくなる、誰にも聞かれず何ものにもこだまされぬ音楽にひとしくなるところで、成就する究極の結婚のように」。
  • だから、昨日、超越に行った状態が具体的な一個人である夫に回帰してきて完成されるのはなぜか、という問いを記したが、29を読み直す限り、「究極の結婚」としての「神秘な結びつき」は、現世ではなく、超越領域で実現することになっている。そこでは夫もクラウディネももはや人間ではなく「音楽のようでしかなくなる」。で、47ページの場面では夫はすでにこの「音楽」と化しているかのように書かれている。とすれば、「究極の結婚」を目指すならば、あとはクラウディネのほうが「音楽」にならなければならない。したがって彼女はその「音楽の一片」に向かって「はるかに耳をすま」すし、行をまたいだ直後、直感的に、「ここで何ごとかがなしとげられなくてはならないのを感じ」ることになる。その「何ごとか」というのは、順当に読めばむろん、姦通であり、姦通を通した「愛の完成」だということになるが、それにかんして明言はされていない。基本的にこの小説は中核部分を明言せず、「ある」とか「ひとつの」とか「なんらか」とか「何かしら」とかいう言い方で、曖昧な意味のふくらみをひろげ、一般的な言語によって指示すればその形態がゆがんでしまうだろう何事かを志向している、という印象をあたえるような演出を施されている。
  • 「音楽」的な、あるいは聴覚的な比喩のテーマはこの小説を、すなわちクラウディネの心象をずっとつらぬいている。「遠く円を描くひとつの歌」(23)、「音色」(23初出)、「しまりのない響き」(24)、「ときおり、音楽を耳にするとこの予感が彼女の魂に触れた」(28)、「巨大な岩壁のどこかで立った、かすかな、定かならぬ物音」(33)、など。クラウディネの心理の流れは、その大部分、聴感をときどきの媒介、結節点として展開している。
  • 書見は二時半過ぎまでだったはず。上階に上がって野菜スープを電子レンジで熱し、それを持ってもどってくると、食べながら(……)さんのブログを読んだ。三月二〇日分の途中まで。時間がなかったので中断し、歯磨きや身支度をもろもろ済ませ、三時一〇分くらいに居間に上がった。ちょうど良く出発できると思っていたところが、米を磨ぐのを忘れていたことに気づき、コートを脱いで腕時計をはずし、ザルに米をすくい取って洗う。そうしていると結局徒歩で行っても電車で行っても変わらないくらいの時間になってしまうから、今日は準備がたくさん必要な相手もたぶんいないだろうし、なら電車でいいかと気を変えて、六時半に炊けるよう米を釜にセットしておくと下階にもどり、ふたたび短いあいだ音読をした。そうして出発。
  • 雨粒が少々ぱらついていたのだが、傘を持つのは面倒臭いというわけでかまわず道に出た。林縁の土地で真っ赤な、梅らしきものが二本、あざやかに咲いている。道端の草むらには、キキョウのような紫色のこまかな花がよく見かけられる。ムラサキダイコンというやつだったか? いま調べてみると、「オオアラセイトウ(大紫羅欄花)」というらしい。「別名にショカツサイ(諸葛菜諸葛孔明が広めたとの伝説から)、ムラサキハナナ(紫花菜)」、「ハナダイコン(花大根)(カブ)とも呼ばれることがあるが、この名前は花の外観が類似した同科ハナダイコン属のHesperis matronalisにも与えられているため混乱が見られる」とのこと。たぶんこの花だったと思うのだが。ほか、(……)さんの宅の横の白梅の木のそばには黄色い花の群れもあった。ミニチュアサイズのバナナの皮をきれいに剝いて、下向きにひろげて吊るしたみたいな姿。名前は知らない。
  • 公団横の寂れた小公園では桜の木がもうだいぶ花をふくらませており、まだらな質感もまだいくらかあるが枝の上には白が宿って、雪のような、横に長く流れる細雲のようなその色の帯には赤味がほのかにふくまれている。それを見ながら歩いていき、ふと横を見ると、気づかなかったが(……)さんが庭で草取りをしていたので、どうもと声をかけて行ってきますと挨拶をした。そうして坂を、マスクをつけたままだと苦しいので一歩一歩ゆっくり上がっていき、表に出れば最寄り駅の桜もずいぶん充実しており、こちらはもうまだらな乱れもなくて、薄紅をはらんで洋菓子のような甘さを思わせる白がきれいにまとまり、丹念につくられた石鹸の泡のようにして枝を隅まで塗っている。ホームに入ると先のほうまでゆるゆる行き、来た電車に乗ると座して瞑目。休む。
  • 降りて駅を抜け、職場へ。(……)
  • (……)
  • (……)
  • (……)
  • (……)
  • それで一〇時半前に退勤。(……)そうしてまた駅に入って乗車。瞑目して休息を取りつつ待つ。降りて帰路の記憶は大してない。考え事をしていたと思う。考え事というか、勤務中のことの反芻など。
  • 帰宅。一一時ちょうどくらい。父親は翌日も勤務のため、すでに下がったらしく居間は無人、母親は入浴中だった。手を洗ってから自室へ。四時前に出て一一時帰宅だから当然疲労感はそれなりに嵩んでいるが、からだの感じはともかく、気力はそこそこ残っていた。食事に行く前に(……)さんのブログの続きを読んだのだったか? 忘れたが、この夜で二一日分まで読んでいる。夕食を取りに行ったのが一一時半を回った頃だった。焼いたアジやら冷凍してあった唐揚げやらをおかずに白米を取りこむ。新聞を見たはず。イスラエルについての記事だ。国会選挙が二三日におこなわれるとのことで、リクード議席は微減するという予想だった。定数は一二〇で、いまリクードは三六だか三七だかそれくらいだったはずで、ベニー・ガンツの「青と白」とか宗教政党とかと組んで過半数を占めている。ただネタニヤフ政権も長いし、ネタニヤフ自身の汚職疑惑も出てきて公判も続いているところなので、「青と白」から離反した一部もふくめて反ネタニヤフ派ができているらしく、リクードが連立して過半数を維持できるかが焦点だと。ネタニヤフ自身は、コロナウイルスとの戦いという意味での「第三次世界大戦」にイスラエルは勝利し、世界でもっともはやくワクチンを普及させていると豪語してアピールしているらしく、実際そろそろ国民全体の半数が二回目の接種を終えるとかいう話なのだが、支持はだんだん弱まっているらしい。感染拡大を受けて相当はやいうちに、軍部と諜報機関ウイルス対策の特別部署をつくって広範な情報収集に注力し、ワクチンをいちはやく確保したという話を以前読んだし、そのあたりの対応のはやさというのはやっぱりすごいんじゃないかと思うが。アラブ諸国に囲まれてドンパチやりながら中東で生き残っているだけあって、国家安全保障の感覚はたぶん日本とは比べ物にならないレベルなのではないか。
  • 食べ終えると零時を越えている。入浴へ。洗面所で服を脱ぐと外気にふれる肌の感触が如実になるが、それがざらざらしているというか、鳥肌とまでは行かないけれどちょっとそういう感覚をおぼえたので、これはやはり疲労している証だなと思った。それで湯のなかで休む。たしか束子でからだを擦るのを忘れたと思うが、いま考えるとやったほうが良かった。疲れているわりになんか気力がけっこうあって、さっさと出て書き物をしたいみたいな傾きだったのだ。出ると一時くらいだったはず。
  • 茶を持って帰室し、職場からパクってきたマドレーヌを食いながら一服し、Anita Rao Kashi, "'Cottagecore' and the rise of the modern rural fantasy", BBC(2020/12/9)(https://www.bbc.com/culture/article/20201208-cottagecore-and-the-rise-of-the-modern-rural-fantasy(https://www.bbc.com/culture/article/20201208-cottagecore-and-the-rise-of-the-modern-rural-fantasy))を途中まで読んだ。それで二時過ぎから書き物。この日のことのうち、ムージルを読んだあいだに気づいたことを。しかしこれがけっこう時間がかかる。大したことを気づいているわけでもないし註釈などやる必要もないといえばなく、おこがましくもあるのだけれど、一応ある程度の印象を得たことはやっぱり書いておきたいみたいなところはある。ただ文脈を整えてパラフレーズとかするのに時間がかかるので、やるにしてももっと適当な、楽な書き方にしたほうが良い。批評をやるつもりはない。記録だ。あと、註釈のたぐいをやるとすると本をひらいたままにして目から近い場所に置いておかないと行けないから、ベッド縁では環境上やりづらい。デスクでないとできないしこのときもデスク前で立位でいたのだけれど、そうすると疲れる。ベッド縁でできればボールを踏みながら楽に書けるのだが。
  • 四時二五分に消灯。