2021/3/24, Wed.

 したがって、夢見ているのは、うぬぼれたテクストではなく、明晰なテクストでもなく、不確実のカギ括弧や流動性の丸括弧がつけられたテクストである(開いた丸括弧をけっして閉じないようにすると、まさしく〈漂流する〉ことになる)。その夢は、読者しだいでもある。読者が、読みの〈段階性〉を生みだしてゆくのだ。
 (石川美子訳『ロラン・バルトによるロラン・バルト』(みすず書房、二〇一八年)、153; 「想像界(L'imaginaire)」)



  • 一一時半頃に覚醒。やはりだいたい七時間くらいになる。消灯をはやめたい。今日も天気は良く、陽を受けつつこめかみを揉み、頭を左右に転がす。そうして一一時三九分に離床。ゴミ箱と茶器を持って上へ。母親はすでに仕事に出ており、父親が炬燵テーブルの天板の上に胡座をかいて乗りながら新聞を読んでいた。(……)さんから電話があってこちらにもよろしくと言っていたというが、一度覚めたとき、寝床のなかで話し声を感知して認識していた。元気そうだったよと受けてジャージに着替え、用を足したりなんだりしてからベーコンエッグを焼いて米の上に。食事。父親が新聞を渡してくれたのでそれを見、国際面を読む。ニジェール西部のマリとの国境付近でイスラーム過激派が三つの村を襲撃し(オートバイであらわれて突然銃撃したという)、一三七人が死亡という。たぶんISISの残党というか分派なのだろうか? 一五日にも買い物客を乗せたバスなどが襲われて六六人が死んだと言い、サヘル地帯のマリ、ニジェールブルキナファソを中心に過激派が跋扈して治安が悪化しているらしい。
  • 食事を終えると皿を洗い、風呂も。そうして出ると父親は出かけてくると言う。了承して下階へ。LINEをひらいて返信したり、(……)と(……)くんのメールに返信したり。それからNotionを準備して「英語」記事の音読をはじめる。低い声で、小さく、ゆっくりと読む。途中で水場に立ってうがいもしたり。一時頃からはじめて一時間強読んだ。今日は三時半過ぎには出なければならず、帰ってきたらWoolf会なので時間に余裕はないのだが、焦りがすくなく、ゆっくり音読していると時間の流れが減速したような感覚になり、時計を見るたびにまだこのくらいかという思いが立った。それから前日のことをわずかに記して投稿し、今日のこともここまで記せばちょうど二時半。
  • 今日も本当は歩いていこうと思っていたのだけれど、わずかばかりでも時間を稼ぐかというわけで電車に心変わり。準備もあまりないと予想されたし。それで仰向けに転がって、ムージル古井由吉訳『愛の完成・静かなヴェロニカの誘惑』(岩波文庫、一九八七年)を読む。気になることはあるが、いまは省略。印象に残っているのは参事官の凡庸さなど。三時頃まで脹脛を膝で刺激しながら読み、上階へ。大きめの絹ごしの豆腐をひとつ用意。大きいので温めず、水を切ってパックに入れたまま鰹節と麺つゆをかけ、わさびを添える。それを自室に持ち帰って簡素な食事、というかエネルギー補給。(……)さんのブログの新しい記事を二つ読んだ。そうして出勤のための身支度へ。スーツに着替えて歯磨き。合間はTo The Lighthouseを確認。三時半頃上階へ行き、用を足して出発。室内、廊下などを歩いているときはそこそこ空気が冷ややかなように感じたのだが、玄関を出れば大気の質感はむしろ穏和でやわらかい。玄関前、端に置いてある郵便ボックスの上にフキノトウか何かの草がビニールに入って置かれてあったのでなかに入れておいた。(……)さんだろうかと思ったが、帰宅後の両親の話ではやはりそうだったらしい。しかしこちらはこの(……)さんというひとの顔をまだ一度も目にしていない。道へ。林縁の土地に赤々と咲いている花(唐紅というのか、昔の中国の貴婦人なんかが化粧に使っていそうなイメージの濃い赤)があざやかだが、あれが梅なのかなんなのかあまりよくわからない。たぶんそうだと思うのだが。コートの下にマフラーをつけたが、首の守りはいらなかったくらいの陽気。公団前まで来ると日向がひらき、なかに入れば眠りたくなるような温もりで、労働に行くの面倒臭えなという感が立たないわけがない。午後四時前のおとろえた陽射しのなかで見ると、小公園の桜は、先日は赤味の印象が強かったがいまはむしろ水色の影を白の底にはらんだような涼しさに自足しているかの様子。坂に折れてゆっくり急がず上っていく。出口まで来ると通りをはさんで最寄り駅の桜が姿をあらわすが、こちらはやはり花に秘められたピンク色があきらかに見て取れて、ここでもなんらかの比喩を思ったはずだが忘れてしまった。ホームへ渡って先のほうに行き、佇立すると風が左右から複雑なうねり方でこちらのからだを吹きすぎていくけれど、感触は軽く、寒さはない。やって来たものに乗車。ひとが多かった。山帰りのひともけっこういたようだし、また、学校がもう春休みになっているか、なっていなくとも帰りがはやいのだろう、中高生みたいな一団もある。それで座れなかったので、扉際に立って目を閉じながら待った。降りると吐き出されて向かいに乗り換えるひとびとの波を待ってから階段口へ。段にかかるときに線路の向こうの小学校やその上の青空や校庭の端で何本か咲きならんでいる桜の白を目にしたが、するとなんとなくちょっと非現実感のようなものが立った。非現実感とまで言うと言い過ぎだが、事物と空間があまり直接的に触れてこない、こちらの領分にまで侵入して影響をあたえてこない、みたいな。こう言うとたしかにいわゆる離人症的な、世界にフィルターがかかったような感じ、みたいな比喩でよく言い表されることに近そうだけれど、だからと言って不安とか苦の感覚とかはすこしもなく、むしろ心身は落ち着き払って安定していた。だからやたら明晰な意識野がしかしそれでいて緊張を持たずに、ニュートラルな状態でしずかにとどまっている、というような感じ。
  • 勤務。(……)
  • (……)
  • (……)そうして駅へ。ホームに上がると電車のなかで、向かい合った七人掛け二つの一画ほぼすべてを中高生くらいの男子たちが占めている。みんなで遊びに行って帰ってきたところだろうか。うるさそうなのでその車両は通り過ぎ、次の車両に乗って席で瞑目。
  • 夜空の直上に小さい月がひそんでいた。帰路の記憶は大してない。ことさらゆっくりと坂を下りた。平ら道はしずかでひともなく、足音が際立つ。帰宅すると消毒し、手も洗って室へ帰還。休む。いや、休んだのではなくて、ボールを踏みながら今日のことを記述したのだったか。そのあとかその前に転がって休んだような気もするが、忘れた。一〇時前で食事へ。(……)さんが持ってきたらしいフキノトウをさっそく天麩羅にしたと。その他豆腐の入った汁物やコンビニのコロッケなど。テレビは韓国ドラマで、父親はそれを見ながら画面の音声とひとりで対話している。夕刊からイスラエルの選挙についての記事を読んだ。
  • 食器を洗って一〇時半前にくだり、Woolf会へ。とにかくボールを踏んで足の裏を刺激しているとからだが楽だということを再実感したので、会のあいだもずっと踏んでいることに。そのために椅子の高さを下げた。そうしてZOOMに接続。接続した直後に(……)くんが、じゃあやりますか、と言って、すぐ本篇に入った。今日の担当は(……)さん。LilyがBankesと話している途中で、Andrewに、あなたのお父さんはどんなことについての本を書いているの? とたずねたときの話を想起している箇所。Gutenberg Australiaから原文を下に。

 "Oh, but," said Lily, "think of his work!"
 Whenever she "thought of his work" she always saw clearly before her a large kitchen table. It was Andrew's doing. She asked him what his father's books were about. "Subject and object and the nature of reality," Andrew had said. And when she said Heavens, she had no notion what that meant. "Think of a kitchen table then," he told her, "when you're not there."

  • まずkitchen tableが実際にはなんなのかという話が出た。岩波文庫だと「台所の調理台」という語にカタカナでルビが振られていたと思うが、調理台というより食卓なのでは? という疑問など。調理台と言うと我々のイメージではシンクとか流し台的な、あのステンレス製の銀色のものを思い浮かべてしまいがちだが、この時代にはまだそういうものはなかったのでは? と。食卓と調理用の台との区別がそんなになかったのでは、などと話される。そういうもろもろがあるので、こちらの考えではもう「キッチンテーブル」とカタカナにしてしまったほうが良いような気がするが。あとはここの段落の中心的な内容となる、"Subject and object and the nature of reality,"の部分。こちらはこれを、ひとが見ていないときに事物がどうなっているのか、存在していると言えるのか、みたいな哲学的議論の話だと思っていたのだけれど、(……)くんがその点疑問をはさんで、それだと足の裏に影はあるかみたいな話題になってしまうと言った。これは入不二基義がそういう議論をやっているらしく、というのも(……)くんの高校の同級生に彼の息子がいて、その父親が哲学者で本を書いているというのを知った誰かが調べたか探してきたかしたらしく、お前の親父やばくない? なんかめっちゃどうでもいいことやってんじゃん、みたいなネタになったのだと言う。で、(……)くんとしては主体と客体、客体的世界としてある事物と、それを頭のなかで思い浮かべる我々の主観的表象・観念の関係、みたいなテーマだと理解したと。まあその二つの話題はいずれ合流していくのかもしれないが、(……)くんの考えでは、Andrewは、キッチンテーブルのところにいないときにそれのことを考えてみてよ、と言っているわけだから、観念的表象、つまりキッチンテーブルそのものではなくてそのイメージを対象化してとらえるよう促しているということになるので、客体は実在なのかという話よりは、主観と客体との関係とそこからどうやって現実が構成されるのか、みたいなことではないかと。たしかに、岩波文庫が「調理台のことを考えてみて」「ただし、誰もそこにいない時のをね」という訳になっているので、こちらもwhen節をa kitchen tableにつながるものとして疑問なく前提してしまっていたが、普通に取れば副詞節になるはずだから、あなたがそこにいないときに、という意味になるはず。岩波文庫はここのyouを一般的なひとびとの総称として使われたものと解釈している様子で、くわえてwhen以下をa kitchen tableにかかる形容詞節のような訳文にしているのだが、そこまで踏みこめるのかは疑問である。こちらとしては副詞節としての訳にして、なおかつ、「そこにいない時に」というより、「それを見ていないときに」という言い方に意訳するのが良いのではないかと思っている。
  • そんなに長い部分でもないので、わりとはやく終わった。主体と客体の話から、(……)くんによるカントのいわゆる「物自体」の解説などあり、彼は、こういう話ってどうですか、僕は面白いと思うんですけど、みなさんどうですかとすこしおずおずとした調子でたずねたものの、その問いに直接こたえたのはこちらだけだった。こちらはむろん、そういう話はわりと好きである。話が小難しいほうに流れはじめたので一応正規の路線にもどしておこうというわけで、じゃあどうします、雑談するか、それともイギリス詩か、と口をはさむと、英詩を読もうということになった。(……)さんが選んだのは、五二番の、Walter Savage Landor, 'I strove with none, for none was worth my strife'。四行だけの短い詩で、タイトルになっている一行の邦訳は、「私は誰とも争わなかった、争う相手がいなかったからだ」となっている(平井正穂編『イギリス名詩選』(岩波文庫、一九九〇年)、173)。が、worth my strifeと言っているので、この俺が争うに値するような相手はひとりもいなかった、と居丈高に述べているとも取れる。詩人は七五歳の誕生日にこれを書いたらしく、冒頭のその宣言のあとは、だから私は自然と、それに次いで芸術を愛したが、生命の火ももう消えかけてそろそろ出発の時のようだ、という内容になっている。まったく名前の知らないひとだったが、訳注によれば「一種の鬼才」で詩も劇も散文も書いたらしいし、その場でWikipediaを見たところでは、イェイツやエズラ・パウンドが導きとした、みたいなことが書いてあったと思う。エズラ・パウンドなどと言われるとちょっと気になってくる。
  • そのあとは雑談(……)。
  • そのあとは風呂に入り、四時二〇分に消灯している。