2021/4/3, Sat.

 この本は「告白」の書ではない。不誠実だということではなく、今日のわたしたちは昨日とは違った知をもっているということだ。その知は、つぎのように要約することができる。わたしが自分について書くことは、けっして〈最終的な言葉〉にはならない、ということだ。わたしが「誠実」であればあるほど、かつての作家とは異なる決定機関の監視のもとで、わたしは解釈されることになる。かつての作家であれば、〈真実性〉という唯一の掟のみに従えばよいと信じられたのであるが。現在に(end177)おける決定機関とは、「歴史」、「イデオロギー」、「無意識」などである。わたしのテクスト群は、そうしたさまざまな将来の解釈にさらされており(それ以外にどうできるだろうか)、たがいに外れており、どのテクストも他のテクストの上に立つことはない。このテクストも〈つけたし〉のテクストであり、最終的な意味を示すものではなく、シリーズのなかの最新のものでしかないのだ。〈テクストに重ねられたテクスト〉は、なにかを解明することは決してないのである。
 (石川美子訳『ロラン・バルトによるロラン・バルト』(みすず書房、二〇一八年)、177~178; 「明晰さ(Lucidité)」)



  • 起床はちょうど一二時頃。水場に行ってきてから今日も瞑想をきちんとやる。一五分くらいだったはず。よろしい。心身がよくチューニングされる。上階に行って食事は煮込みの素麺やケンタッキーフライドチキンなど。『メレンゲの気持ち』が終わったらしい。あの番組もずいぶん長かっただろう。母親が好きで毎週流していたのでこちらもわりと見ていたが、芸能界のひとびとがよしなし事にたくして自分語りするというのも意外とけっこう面白い。
  • 皿と風呂を洗って帰室。今日は(……)くんと通話。本当は午前一〇時からという話になっていたのだが、夜の眷属となっているいま、起きられる気がしなかったので、昨晩中に(深夜二時の遅きだったので良くなかったが)やはり午後にしてくれと頼んであった。それで二時からはじめることになっており、時刻はすでに一時半前くらいだったはず。Notionを用意したり、LINEに返信したりで猶予が尽きる。ZOOMのアカウントを今回はじめてみずからで設定し、ミーティングをつくった。URLをどうやって発行するのか、あるいはIDがどこで見られるのかよくわからなかったのだが、検索して無事理解し、メールで情報を送って開始。二時過ぎからはじめて、七時過ぎまで長々とひたすら喋ってしまった。久しぶりのことで楽しかった。(……)くんは思ったよりも元気そうで、心配ない様子だったのでとても良かった。話題は色々。近況や、会社の話や、瞑想や、国際情勢や、サッカーや、音読や、生き方など。詳述はのちにゆずる。
  • まず彼の会社や退職の件について記しておこう。例の強迫神経症めいた症状についての話だが、(……)くんは、顧客会社の社内報を代理製作するような部署に配属されていたわけだ。その仕事をしているうちに、文章がうまく読めなくなってきた。何の変哲もない語句で立ち止まってしまい、その意味がわからないというのではないのだけれど、なぜかそこを何度も何度も読み返してしまい、一向に先に進めない。それも一種のゲシュタルト崩壊というやつなのだろうか。同僚が三〇分で読み終えるような文章に、二時間三時間とかかるようになった。そんな調子なので、当然、順当な仕事はできない。もともと抱える件数が相当に多い仕事で、ひとりで一五社だか二〇社だか忘れたが、それくらい担当させられる。そうすると当然余裕がなく、常に締切りに追われているような感じで、土日も仕事をしなければならない。会社は一種独特のシステムを整えている企業で、合理主義を称しており、残業や時間外労働は禁じられていて、やるとしてもきちんと時間が記録される。だから社員当人が働きすぎだと思って申し出たり、体調が悪かったりすれば、勤務時間を減らすこともできる。その分もちろん給料も減るわけだが、(……)くんの場合、たしか火曜日だかが毎週の締切りで、土日の勤務をなくすと当該週では月曜日しか猶予がなくなるわけなので、結局は間に合わないことになる。だから土日も働かざるを得ない。しかし働けば消耗して、心身の具合も容易にもどらない。そういう悪循環に陥った。文章がうまく読めなくなり時間がかかるから、禁じられてはいるのだが、ZOOMから離脱したあとや、自宅のベッド上などで仕事関連の文書を読んだりもしていたらしいのだけれど、ベッドでくつろぐ体勢になっているはずのときでも、文を読むとからだが痛くなったり肩のあたりが急激に重くわだかまったりすることがあったというから、たぶんよほどストレスで、精神のほうが崩れていたのだろう。こちらもパニック障害の全盛期にはおなじようなことを体験している。パソコンの画面をちょっと見るだけで覿面に不安になったりやたら体調が悪くなったりする時期があった。心身が崩れていると、ブルーライトなどもやすやすと侵入的に作用して、からだのほうから乱すのだろう。まあそういった話でこれはもう辞めて仕事から離れないと駄目だなとなり、上司にその旨申し出たのだけれど、なんだかんだ言って引き止められる。業務を減らすから、とか、とりあえず出せるクオリティにはなっているから、とかいうことだ。それでいよいよ辞めると正式に決まってからも、結局一か月だったか二週間だったか、けっこう働かされたらしい。この上司というのも話を聞く限りまあ嫌な人間で、(……)くんが一度目にこういう状態になっていて、と相談したときにはけっこう親身な調子で聞いてくれたのだけれど、二度目にいよいよもう駄目なので辞めたいと言ったときには、上のようなことをのたまったわけだ。だから自分の都合もしくは会社の都合しか考えておらず、(……)くん自身の心身や健康を考慮した言葉をなにひとつ口から発していないということになる。その点こちらは指摘して、まあだいたい普通だったら、それじゃあもう仕方ないから医者に行ったら、とか、しばらく休んだら、とか、そういうことになるもんじゃないかと受けたのだが、(……)くん本人もそれは感じていたと言い、そう、僕がからだが辛くて辞めたいって言ってるのに、このクオリティなら出せるから、大丈夫だから、とか言われても、僕の体調は大丈夫じゃないんですけど、ってなるよね、とのことだ。だから、一度目にわりと寄り添って話を聞いてくれたのも、単に引き止めるためのポーズだったのかな? という疑いが生まれてしまう、と。そして、そういう疑念が生じて信頼が損なわれれば、当然もう終わりなわけである。その会社やそういう環境で働きつづけようなどという気持ちが維持されるわけがない。またこの上司のひとはわりとパワハラ的な人種だったらしく、部下が上げてきた原稿を当然チェックするわけだけれど、そのときにだいぶ強い言葉遣いをすることが多かったようだ。もともとこの会社が、先にも記したように合理主義的な働き方みたいなものを謳っているらしく、さまざまな面で理屈でもってガチガチに固めて社員を管理したり、主観的な、曖昧と取れるような言葉遣いを許さなかったりする風土だったらしい。その点でひとつ(……)くんが話してくれたエピソードがあって、それは直接彼自身ではなく同僚が叱られたときのものなのだが、いわく、その同僚が上げた文書がまずいものだったようで上司は全然意味がわからない、文としてのていをなしておらず読解できないということを言った。そのときに、部下にあたるその同僚に対して、俺の読解力はどれくらいのものだと思っている? と質問をしたと言う。これはむろん、自分の読解力はなかなか大したものであり、お前が書いてきたものはそのような自分ですら意味が読み取れない文章になっている、ということを言いたいがための枕段階なわけだが、このような鬱陶しいマウンティングを恥じることなく意気揚々とできる時点でこのひとはみずからが愚劣な凡夫であることを積極的に証明しているわけだ。で、普段から主観的な、曖昧な言葉遣いはしてはならないと戒められてきていた同僚は、全国で上位五パーセントに入るくらいの読解力、とこたえたらしい。まったくもって笑ってしまう、阿呆みたいな話で、そもそも読解力というものがどういう意味の能力なのか、それをどうやって数量的に測るのかがちっともわからないし、不毛とはこのためにある言葉だなと思うような事態だが、ともかく同僚は、普段からデータや数値にもとづいて発言しろと言われていたのでもあるのだろう、そのように回答した。すると上司はその見込みに不満だったらしく、それは舐めていないか? と言って、次のような理屈をこねはじめたと言う。まず大学卒の人間たちの読解力を、全国のうち上位何パーセントくらい(ここの割合は忘れた)と見積もろう、そしてうちの会社はそのなかでもけっこう優秀なほうの人間を取っているから、まあ全国民のなかで上位二〇パーセントか二五パーセントくらいには入る人材が集まっていると仮定する、そうすると全国で上位五パーセントというのは、我が社のなかで考えると上から四分の一か五分の一くらいの範囲に属する、ということになる、自分は長くこの仕事に携わっていて色々な文章を読んで校正してきているし、この会社のなかで上位四分の一ということはないだろう、と。その人間の読解力が全国で上位何パーセントだろうが会社のなかでどのくらいだろうがどうでもよろしいし、これらはすべて単なる仮定にもとづいた空疎な理屈そのものなのだけれど、単純に計算式として考えても、全国民のなかでの読解力上位二〇パーセントの人間たちがそのままこの会社に全員採用されているのではもちろんないわけで、全国から一企業内に移った段階で母体データの質には相当に変化があるのではないだろうか。だから単純に、全国で上位五パーセントの人間たちはこの会社内では上から四分の一の範囲にあたる、というイコールが成り立つはずがないと思う。だがそういったことはまさしく不毛の一語であり、むろんどうでもよろしい。(……)くんの話の焦点となるのは、このとき同僚が、上司の読解力はとても優れている、と言いたかったことはあきらかだったということなのだ。彼は妙な言語使用をしてしまい、その意味内容を正確に伝達することができなかったのだが、彼が上司の文章読解能力を評価し信用していることは普段の様子からしてもあきらかだし、このときも誰の目にとっても明白だったと言う。ところが上司は、彼が誤って口にしてしまった五パーセントうんぬんとかいうこちらからするとどうでもよろしいとしか思えない胡乱な言葉にこだわり、そんなふうに思われてるとは思わなかったわ、見くびられてたんだな、みたいなことを口にしたと言う。(……)くんの意見はこうである。上司が、同僚が実際には彼の能力を信頼しているということを理解した上でこう言ったのなら、それは質の悪い嫌味だし、もし同僚が口にしたことをそのまま彼の本心で正確な認識だととらえて発言したのなら、上司はむしろ同僚の真意をただしく読み取れていないことになるではないか、と。したがって、もし後者の場合が実状だったとすれば、上司はすくなくとも、この同僚の考えを読み取り理解するという点においては、充分な読解力を発揮できていないということになる。もし前者だったとするならば、そのような意地の悪い皮肉は言わなくとも良かった。すくなくともこの例においては、主観的な物言いを排除しようとした結果として、かえって手間やコストがかかってしまっているように思える、だって本来だったら「めちゃくちゃ読解力があると思います」とでも言えば普通に済んだことなのだから、とこちらは応じた。しかもこの件で上司は一時間かそこら、ほかの同僚も巻きこんで説教を垂れるみたいなことをおこなったらしく、その時間があれば色々仕事ができたということにむろんなるわけだ。もろもろ話したあと、俺としては、その同僚のひとはこうこたえるべきだったと思うね、僕の書いた文章を読み取れないくらいの読解力を持っていると思います、って、とこちらは受けて、勝手に爆笑した。
  • この同僚のひとは、普段から(……)くんよりもはるかにひどいことを言われていたらしく、たとえば、この部署にいる意味がないとかそういった発言を下されていたと言い、だから(……)くんからすると、正直自分よりも辞める理由があったとしてもおかしくはなく、このひとがなぜ働き続けているのだろうというのが不思議だったらしい。そこで、退職の際にちょっと話を聞いてみたと言う。その退職というのも、今日辞めるというその当日の朝礼で皆に発表されたらしく、上司が皆には俺から伝えるからと(……)くんを口止めしていたと言い、そのあたりもなんだかよくわからない。幸い引き継ぎが必要な事態ではなかったようだが、いきなり発表されて今日でもうさよならと言われても、同僚たちとしても困るのではないだろうか。ともかく、(……)くんが機会をつかまえてその同僚に、なんでけっこうひどいことも言われながらここで働きつづけているんですか? 普通に生活のためなのか、それとも何か目標みたいなものがあってそのために我慢しているんですか? みたいなことを質問したところ、意地ですね、という回答があったと言う。これにはちょっと笑った。そういう反骨精神はこちらは嫌いではないが、いわく、その同僚はもともとどこかべつの部署にいたのだけれど自分では文章にかかわる仕事がしたかった、それでいまの持ち場に移ってきて、まあメタクソ言われはするけれど文章を書いて仕事をできているという点には満足している。だからもし辞めるとしたら、もっと鍛錬を積んで、上司に自分の能力を認めさせることができたとき、そうなったらもしかしたら辞めるかもしれない、と話していたと言う。くわえて(……)くんの見立てでは、このひとは新卒でこの会社に入って以来ずっとそこでやってきている人間だから、ほかの現場を知らないわけで、この会社の風潮や風土、雰囲気やルールなどに自分よりも適応できているのではないか、ということだ。
  • 上の上司のエピソードもそのお粗末な例のひとつになると思うが、(……)くんが言うには、この会社には口達者というか、白を黒と、黒を白と、話術でもって言いくるめる能力に長けているひとが多かったらしく、ソフィストじゃんとこちらが突っこむと、まさにそんな感じだとあった。前々から話は何度か聞いていたけれど、企業全体として、理屈でもって社員を納得させることを本義としているシステム作りをしている。だが聞く限りではその理屈というのは、まさに理屈のための理屈というか、実態がともなっていない空論のたぐいに陥ることがままあったようだ。だからひとつひとつ話を追っていくとたしかにそうだという地点にいたるのだけれど、納得感にノイズが入るというか、たしかにそうなんだけどなんかどこか変だな、というような感覚が残ると。たとえば最初の研修のときに、質問に対して順々に回答させていって、最終的に会社の方針やスタンスを納得させ、それに同調させるというものがあったというのだが、その最初の質問というのが、あなたは牛丼屋をやっています、客が来て五〇〇円の注文をしてきました、そこであなたはどういう対応をしますか? 1. 五〇〇円分の牛丼を出す 2. 五〇〇円以上の価値を持った牛丼もしくはサービスを提供する 3. 三〇〇円分の牛丼を出す というようなものだったらしく、こういう感じで、誰が聞かれてもまあ1か、せいぜい2しかこたえず、3をこたえる者はほぼいないだろうというような、自明と思われる問いを重ねていって、最終的にこちら側の考えや理屈やスタンスに同意させる、というやり口だったらしい。だからまあプラトンの対話篇に出てくるソクラテスのやり方をビジネスシーンにおいて濫用したような感じなのではないかと思うが、そこで提示される理屈が空論に陥るというのは、たぶん、本来その論理にともなうはずの具体的な現実の情報が大幅に捨象されて、抽象的な言葉だけの理屈に削減されているからだろう。理屈のなかに適切な具体例がないのではないか。あったとしても、上の上司の話のように、仮定的で粗雑なものにしかならない。本来論理もしくは言語というものは、現実が不可避的にはらみともなっている無数の具体的な情報要素とののっぴきならない緊張関係のなかに置かれているわけで、そのうちのどれを取り上げてどれを切り捨てるのかという選択によって理屈の質と種類と強靭さとが変わってくるものであり、あまり情報を切り捨てすぎて抽象化すれば中身がスカスカで空っぽの理屈になるのは当然のことである。言語使用とはつねにそういう相対的な具体と抽象のなかでの闘争なのであって、とりわけ作家などと呼ばれるような人種はいつもそこでどのようなバランスを取るか、意味の濃淡によってどのような模様を描くかということに苦しんでいる。そういう緊張を知らず、身に持たない人間が、たかだか自分の都合を満たしたいがための面白くもない悪質な詭弁を用いることになる。
  • そういう調子なので、見方によってはちょっと「洗脳」的な感じもある、と(……)くんは言っていた。この点は以前話を聞いたときにも、(……)さんがはっきり、洗脳ですよ、と口にしていたところで、そのときは(……)くん自身は、うーん、そこまでは言えないんじゃないかなあ、くらいの感じだったように記憶しているのだが、その後の経験を通して今回は(……)さんの見方に近づいたようだ。その(……)さんは、(……)くんが仕事を辞めて無職になったことについては特に不満を持っていないというか、むしろ上のような感じだからはやく辞めてほしいと思っていたくらいだと言う。この日は(……)さんは出かけていて話をすることはできなかったが、彼女もけっこう金を稼げる人間なので、生活にはいまのところ切迫しておらず、(……)くんが家事を大方担って過ごしていると。話を会社の件にもどすと、この企業は社員おのおのが出した利益とそのひとに払う給料などかかった費用とを計算して、「赤字社員」「黒字社員」というのを厳密に評価するらしく、だからあなたはいまのところ何万円の赤字社員ですみたいなことを通告されるのだと言う。企業側からすれば、つまり経済と資本の論理からすれば、利益を生まないどころか損失をもたらす人間を会社に置いておく理由はないというわけで、当然のことになるのだろうが、こちらはもちろんそのような環境に身を置きたいとはまったく思わない。あと単純に疑問なのだけれど、社員個々が一応ひとりで独立してこなしたと見なせる仕事については良いのだろうが、集団で協力して成し遂げたような案件にかんしては、その利益ポイントの分配はどうなるのだろうか? それにかんしても一定の計算基準が整備されているのだろうか。いずれにしても、休憩の時間すらいちいち報告しなければならなかったり、とにかくデータと論理でもって物事を切り分けて監視・管理するという制度の企業で、だから曖昧な感情的要素のようなものは、完全に排するまでは行かずとも、なるべく分けて括弧にくくって考えようという風土なのだろうが、その結果として、合理主義とされているものが実態欠如的な空理と化している気味がおそらくあるのだと思う。こういうのって「論理的」という言葉を勘違いしている例のひとつだというか、極端に走った結果のひとつのように見えて、感情と論理というものがよく対立項として語られて、論理的であるということはなんとなくの主観的な要素を徹底して排斥することとイコールでとらえられがちだと思うのだけれど、そこは完璧に間違いではないにせよそんなに単純にはいかないというか、感情にだって一定の論理はあるわけだし、論理にだって数学ででもなければ主観的要素は絶えず忍びこんでくるものだろう。(なぜかわからないが「客観的」と信頼をこめて称される)論理とやらでもって整然と腑分けできることがらだけでこの世界が成り立っているわけもなく、感情と論理の二面は底においてもそれ以外の諸所においても癒着しているのが多くの場合の実状だろう。
  • この会社はさらに、上でも多少触れたが、社員当人が納得している、という担保を重視し、もとめる。それはもちろん、本当は当人が納得していなかったとしても、納得したということが表面的に明言されれば良いという形骸化につながりうるわけだ。だから(……)くんも、実際には時間外労働をやっており、やらざるをえなかったわけだけれど、定期的にその点にかんして査察というか、私は時間外労働をやっていませんという証明書類みたいなものを書かされるらしく、しかしそこには当然、勤務時間以外にも仕事をやっていますということは書けないわけだ。正確には時間外労働をやっていますか? という問いがあり、それに対してはいとこたえると調査が入って、社員当人への対応とか環境的是正とかがなされるみたいな感じのようなのだが、それでまた仕事が遅れるとか、もろもろ勘案するといいえとこたえるほかはない。そして、その書類でもっていいえとこたえてしまった以上は、実際には時間外労働をしていたとしても、あの書類はまちがいでしたと取り消すことはできないわけだ。だってあなたはここできちんと証明しているじゃないですか、なんでこのときに時間外労働をしていますとこたえなかったんですか? ということになってしまう。ほかにも、たとえば(……)くんのように体調を崩したり、心身に問題をかかえたりした社員をケアするための専門の部署および社員というものも設置されているらしく、だから外面的には非常に丁寧に制度が整備されているように見えるのだけれど、実際にはそれらが機能していないというか、一種のエクスキューズとなっているようにも思われる。つまり、理屈の積み重ねでもって社員がみずから主体的な選択として納得とともに働いているかのように「洗脳」し、そこから逸脱した人間に対するケア的応対もシステムに組みこむことで企業としては十全に責任を果たしていると主張することが可能になり、社員が何かトラブルや問題に陥ったり、勤務維持が困難になったりしても、それはあなた自身の責任ですと、いわゆる「自己責任」論にもとづいて個人に過失を送り返すことが容易になるわけだ。実際入社する際には、ここはこういう会社だけどやっていけそうか、ということを念入りに聞かれるらしく、もし合わなければ辞めてほかのところに行けば良い、というスタンスが明言されているらしい。まあそれはそうだろうとは思う。ただ聞いてみればなんというか、いかにも現代的というのか、それともいわゆるポストモダン的と言って良いのか、強引に抑圧して強制的に従わせるのではなく、当人の思考に働きかけて行動を誘導しつつ監視するという、ソフトで緻密で侵入的なやり方が、いわゆる規律訓練以降の権力のやり口だなという感じが大いにするわけだ。こういうのは監視社会とか、生命科学とかと結びついたフーコー以後の権力論などでたぶんたくさん論じられているのだろう。ひとつの企業内でこれがおこなわれるにとどまっているうちは良いのだろうが、それが社会全体の一般になってしまうと、こちらなどはむろんまったく馴染めないような世界になって困るわけだが、残念ながら資本主義はわりとそちらの方向に向かってすすんでいるような気もする。一方でただ、曖昧な感情のようなものに依存して勢力を得たかたちの抑圧が、いままで社会領域のさまざまな場面で猛威を奮ってきたということはあきらかな事実だし、かっちり分けられることをきちんと区分けしてそういった事態が生じないようにしよう、という動勢もわかるはわかるわけだ。「働き方改革」とやらがかしましく言われるのもその成果ということだろうが、ただそこで極端に走っても結局うまく機能しないというか、目指したはずのところに行けないのではないかという気がする。単純な話、合理的制度でガチガチに固めて管理した体制は余裕がなくて、そこにいる人間にとっては窮屈だからまたべつの面で問題が生まれてくるだろうし、また制度的に固く締まりすぎていて余白がないものは一般に弾力的耐久力に乏しく、どこかが崩れればそれがひろく波及して、修復は困難で手間がかかる。くわえて言えば、以前散歩の途中に見かけた保育園にこちらが通っていた頃にはなかった柵が新たに設けられていた、という観察に関連して記したことだが、合理的分割を徹底的に推し進めておのおのの分をかたく守り異質なものを入れないようにしようという姿勢は、その行き着く先は結局のところナチスドイツでありディストピアであるように思えてならないのだ。そして残念なことに、資本主義における金科玉条は効率であり、合理的分割とはそのまま効率化であるとともに異質なものとは効率の敵なので、資本主義と上のような発想は大変に相性が良い。また一方では、制度的外形だけをいくらきれいに整えても、そのなかでは結局感情的要素のようなものが隠然とはびこって、かえって制度を悪用したり、骨抜きにしたり、新しくより姑息で複雑な抑圧の仕方を編み出したりするのではないかという気もする。あとは単純な話、(……)くんがいた会社のような仕組みだと、人間的意味の領域がきわめて希薄になるわけだ。それは社員ひとりひとりに言わばAIになることをもとめるというか、個人の人間性を捨てて大きな機械の一部となり、社員全員で総合的にひとつのコンピューターをつくりあげることをもとめているようなものだろう。しかしまだ実存を捨てられるほど人類は進化していないし、科学と哲学がどこまで進もうが、当分のあいだは「この私」が確かにあるという主体幻想を、それが仮に本当に幻想だと証明されたとしてもひとは放棄できないだろう。誰も意味から逃れることはできずそれに悩んで日々と生を生きているわけで、人間的意味を考慮に入れずあまりに捨象するというのはむしろ現実的でないように思うのだが。
  • そういうわけで(……)くんは仕事を一時辞め、いまはゆっくりと暮らしながら次の職や生き方を模索するところに入っている。強迫神経症と聞いていたが幸い体調は日常には問題なく、文を読むということもリハビリみたいな感じですこしずつやっていると。今回の会社は自分には合わなかったから体調を崩さなくとも遅かれ早かれ辞めていたとは思うが、前の職場がそれとは対極みたいな感じでゆるゆるで、少人数でやっていたところだから、二つ現場を見てきて本当に色々なところがあるなあと勉強になった、というようなことを言っていた。せっかく時間と環境ができたんだから、気の向くままに色々やってみたら良い、とこちらはすすめる。(……)くんとしても、自分は~~しなきゃ、という意識がけっこう強いほうで、案件が多すぎてキャパシティを越えたことももちろんそうだけれど、もともとのそういう性向が今回の変調を招いた一因だと認識しているようだった。いまも、自由になったはずなんだけど、まだそういう思考に縛られているというか、一日のなかで、あれやんなきゃと考えることが多い、と言う。それはわりとわかる話だ。まあひとは誰も、多かれ少なかれそういう義務的な事柄に追われて生きているのだろうし、そうせざるをえないのだろうが、ただ最近思うのは、結局のところ、この~~しなきゃ、から四方八方すべて逃れるというのが自由という状態の完全な実現なのだろうな、ということだ。仏教で言えば諸縁を放下するというのがそうなのだろうし、あらゆる意味でのしがらみから解き放たれて自分ひとつだけである、ということ。そもそも「自由」という語自体が、みずからによる、自分自身に(のみ)由来する、という字面になっているわけだし。ヴィパッサナー瞑想が目指す境地というのもそういうことなのだろうというのがだんだんわかってきた。ただ、以前からおなじことをくり返し書いているけれど、仮に諸縁を完全に放下して理想的な自由にいたることができたとしても、それはあらゆる物事に対する無関心ではないし、またそうであってはならず、仮に超越にいたったとしてもそのままそこにずっといられるわけはないと思うし、此岸にもどってきて現世のなかで具体的に生きなければならない。ただまあ生まれてからこの方、人間というのは知らず識らずのうちに、外から植えこまれたのでもあるだろうしみずからつくり出したのでもあるのだろうが、無数の~~しなきゃ、に包囲され占領され支配されて生きているようだということを最近よく感じるもので、ときにそれが~~したい、と見分けがつきがたくなっているあたりがまたたちが悪い。こちらも、死ぬまで毎日文を読み書くのだとか、できるだけすべてを記録するのだとか、そういうこだわりと執念をもってこの数年間生きてきたし、それはそれでべつに全然良かったのだけれど、そういうみずから主体的に選び取ったはずの原則もまた拘束であることに違いはなく、そういうこだわりも本当はあっけらかんと投げ捨てたほうが良いのかもしれないな、という気持ちに最近はなってきた。それですくなくとも後者の、なるべく多くを記録するという点にかんしては実際もうわりと放棄しているし、死ぬまでずっと読み書きを続けるというほうにかんしても、以前よりも強迫性が弱くなってきた。まあ前からおりおり、やめたくなったらさっさとやめれば良いと書きつけてもいたけれど、その発言が前よりもちかしく感じられるようになった気がする。読み書きも、文学も、書物も、音楽も、捨てて、起きて眠り飯を食って道を歩きひとと話しては光と風を浴びるだけで満足するような単純な存在になったほうが、本当は良いのかもしれないなあ、と思う。そうは言いながらも、いまのところ読み書きをやめたいという気持ちは起こっていないし、すぐにやめるということはないだろうが。
  • 諸縁を放下するというのは、いまこの瞬間に自分がここに存在しているというその事実だけで自足する、ということとたぶんだいたいおなじではないかと思っている。過去とか未来とか人格的な自己意識とかは、自分を何かに縛りつける拘束でありしがらみであるわけだ。そういうものから完全に、恒常的に逃れることはたぶん無理なのだろうけれど、瞑想などによって一時的にその拘束を軽くすることはわりとできるし、そういう実践を重ねていくとそのほかの時間にあっても自分を縛る力がそこそこ軽くなる。完全になくすということはたぶん無理なのだが、それまでよりも弱くするということは普通に可能だ。そうすると浮世のよしなし事に対する対抗力ができて、色々な物事にあまり振り回されず、それなりに楽に生きられるようになる。ヴィパッサナー瞑想というのは、究極的には、生のあらゆる時間をそういう自由な心持ちや状態で過ごすことを目指すものなのだと思う。(……)くんは、~~しなきゃ、とか思うのは、普通にやらなければならないことがあるということもあるが、無駄な時間をつくらないというか、有限である時間を最大限に活用しなければならないというか、ある時間が何かにつながり、何かにならなければならない、という固定観念があるのだと思う、というようなことを言った。つまり意味づけの問題で、ひとは基本的には無意味に耐えられないわけだ。たとえば電車とかバスとか、なんでも良いけれどもろもろの待ち時間を、いまたいていのひとはスマートフォンを見て過ごしていると思う。あれは何もしないという時間、その意味の希薄さと退屈さに耐えられないので、それを何かしらの行動とか情報とかで埋めようとしているわけだろう。それはあるひとにとっては暇つぶしであり、積極的な意味は持たないが、とりあえず退屈を埋めて紛らわせてくれる程度のことができればそれで良い。また、言わばより意識が高いというか、隙間の時間を自分の能力向上とか情報収集とかに活用するひともいる。何か勉強したりとか、語学をやったりとか、ニュースを見たりとか。ひとはだいたい誰でも物語、言い換えれば人生全体を統括する大きな目的意識を程度の差はあれ持っているもので、しかしその物語はむろん、たいていの場合は、生のすべての時間がそれに接続し、吸収されるほどの包括性はそなえていない。物語とか人生観という大きな体系から見たときに、その意味論的システムから漏れ落ち、無駄と判断される時間はかならず生まれてくる。上に記した意識が高いひとの行動は、そういう時間をもなるべく自分の意味論的体系の内部に組みこもうとする情熱だと言えるだろうが、いずれにしても意味の無さに耐えられないことには変わりなく、後者のひとのほうがむしろ積極的に有意味をもとめるあたり、強迫的な補完欲に追い立てられていると言えるかもしれない。ここで言っているのは何かの待ち時間という個別的で小さな合間のことだが、それを人生全体に敷衍すれば、だいたいのところ、パスカルハイデガーの洞察とおなじことになる。つまり、ひとが不幸になるのは部屋のなかでただじっとしていることができないからであり、人間は絶えず気晴らしをもとめて駆けずり回っている、みたいなことを言ったのがパスカルであり、ハイデガーに言わせれば、ひとは自分がかならず死ぬという生の根源的無意味性に目を向けず、それから意識を逸らすためにいつも気散じに耽って頽落した非本来的な生を送っている、ということになるだろう。ヴィパッサナー瞑想はこの無意味性をそのままに受け取るというか、何につながらなくともそこにはそれ自体でささやかながらも意味があるのだ、というような受け止め方を涵養する、と一応言える。待ち時間が無意味で無駄だと感じられるのはあくまでそのひとの総合的な物語とか、そのときの目的および行動連鎖の文脈においてのことであり、純然たる無意味としての時間などというものをひとは経験できない。だから無意味で無駄だと思われる時間においても、もちろん一定の意味は生じており、ただそれは多くのひとにとっては感じ取れず、それ以外の時間よりも希薄だと感じられているだけのことだ。ヴィパッサナー瞑想もしくはマインドフルネスというのはいまそこにある物事に気づく能力を養うタイプの実践であり、そういう能力とそれに付随するある種の感性が鍛えられると、だいたいどのような時間でもそれそのものとして受け止めて味わえるようになる。つまり、退屈をちっとも感じなくなる。たとえば駅で電車を待っているあいだなど、風の感触とか、周囲を行き来する人間たちの様子とか、目前の風景とか、そういう何の変哲もない物々を感得しているだけでまあそれなりに面白いということになる。あるいは目を閉じて自分の頭のなかの思念を見ていても良い。めちゃくちゃ面白いわけではないが、普通に退屈はしなくなる。これらのささやかな感覚的情報も、その時空がはらみもっている意味の断片群である。たいていのひとはたぶん、これらの微刺激を明瞭に意識していないし、気づいたとしてそれはごくありふれた日常的な平凡事に過ぎないから、それに対して何を感じるでもないし、それらから何をもたらされるでもない。だからその時空は、無意味で何もない時間だと判断されてしまう。瞑想的な心身をはぐくめば、それらの意味断片群がそれとして感覚器に映るようになり、自分の世界のなかに豊かにあらわれてくる。それらは特に何につながるわけでもないが、それ自体として一定の刺激と、面白味を、言ってみれば味わいのようなものをあたえてくれる。それは音楽を聞くことや、飯を食うこととそこまで遠くはない。音楽や食物は何につながらなくともそれ自体で快楽や満足感をもたらしてくれるものである。ひとが何かの物事について「意味」という言葉を使うとき、多くの場合それは、そのものがつながる何かべつの物事、という意味で用いられている。だから手段と目的の二分論が成立するわけだし、役に立つうんぬんとか利益がどうとかかしましく語られるわけだ。何かある物事があれば、それはかならずべつの物事につながらなければならない、というのが現在の人類が広範に捕らえられている強迫的な固定観念である。何にもならない時間というものに耐えられないという感性も、たぶんそこから出てきているだろう。いまの人間は生まれた瞬間からその固定観念に心身を浸食されつつ育つことになっている。そこに資本主義的社会制度と、利益という、その発想内における唯一絶対の意味づけとが大いに影響していることはまちがいないだろう。だから何のため、何の役に立つのか、何の意味があるのか、という問いが人々の口からあふれかえるわけだ。これはむろん、未来予測によって現在の生の意味を色づけてしまうという事態と相同的である。数日後に迫る運動会が嫌でいま遊んでいても楽しくない子どものようなことだ。その最大級に極端な例がニヒリズムで、最終的には自分が死ぬということを理解したことによって現在の生までもまったく無意味に思えてくるという観念的操作がそれだ。人間は目前の物事を見ながら絶えずべつのものを志向している。諸縁を放下するといったときの「諸縁」というのはそういうことで、あるいはおそらくそういう意味もふくめて考えることが可能で、縁とは何かとのつながりのことであり、つながりはひとを支えもするが、同時に縛りつけもする。瞑想的実践は精神をその拘束からある程度解放させてくれると、一応は言える。物事が何につながらなくともそれそのもので肯定し、肯定しないまでも受容し、あるいはひとまず受け止めることがわりとできるようになるし、うまく行けばそこに楽しみや面白さをおぼえることも可能になる。だからヴィパッサナー瞑想的なあり方を極めた人間にとっては、おそらく生のだいたいの瞬間が、精神的に食事を取っているみたいなことになるのではないか。いつのどんな時空であっても味わえるようになるということ。もちろん甚大な苦痛が生じるような場合は無理だろうが。で、(……)くんはそういう種類の時間として、ひとつの体験例を挙げた。まだ働いている最中のことだったかそれとも辞めてからの最近のことだったか忘れたが、駅で電車を待って座っているときに、目の前にハトがいてまごまご動いているのをただ眺めていたのだと言う。普通のひとだったら無駄な時間だと思うんだろうけど、僕はけっこう好きなんだよね、そういうの、ああいうときはたしかに自由なのかもしれない、と彼は言った。そういうタイプの感性と心身を持ち合わせている彼が、上記したような種類の会社でやっていけなかったのは、むしろ当然のことのようにも思える。
  • 瞑想のコツは、目を閉じてただじっと動かないということに尽きる、とこちらは話した。固い言葉を使えば能動性を殺すということだが、能動性を殺そうとすると能動性を殺そうという能動性が生じるという例のややこしいアポリアについても多少。結局は完璧主義に走らずゆるくやればそれでわりと良いのだと思うが。こちらとしては最近は、道元が言う仏にすべてゆだねるではないけれど、ただ何もしないということ、何もしないようにする、ということすらしない、ということが、そこそこわかってきたような気もする。それがどういう状態なのか、それをどうやるのか、ということはしかし、説明できない。こういう風にやる、と説明できたとして、それに沿ってやろうとすれば能動性が生まれ、何かをしてしまうわけだし。言語的表現で言えば、何もしない、とこの一言で終わりなのだ。
  • あと芸術家についての話など。どこからそういう話題になったのか忘れたが、まあたぶん、(……)くんが、今後自分がどうしたら良いのか、どのように生きていったら良いのか、次に何を仕事として選ぶのか、先行きがまだ見えず不安だ、というようなことを漏らしたあたりからか。こちらは上記したように、木の向くままに色々やってみるのが良いだろうし、そうしているうちにおのずと何か見つかるだろう、というスタンスで、より具体的にはしかし、なんか色々なひとにインタビューして記事を書く仕事とかいいんじゃない、と言った。というか前の会社で実際(……)くんはそういう仕事をしていたので、そのイメージが強いのかもしれないが、なんとなくジャーナリスト的な仕事が合っているような気がするのだ。人間にわりと興味があるでしょ? とたずねれば、肯定が返る。まあそういう仕事ってどうやって取ってくるのか俺全然わからんのだけど、と言いながらそうすすめておいた。で、俺の道はこれだという腹が決まればはやいのだけれど、みたいなところから芸術家の話題に行ったのではないか。前々から折に触れて聞いているが、サマセット・モームの『月と六ペンス』に出てくるストリックランドという画家に(……)くんは強い印象を得たらしい。これはゴーギャンをモデルとした人物らしく、芸術に身を捧げてそのためにすべてを捨てる、みたいな物語だと言う。そういう反社会的・反世間的とも言える強固な信念に憧れつつも、自分にはこれは無理だな、と思うと。ストリックランドは絵を描くために妻子も捨てたというのだが、作中、なぜそういう選択をしたのかという問いに対し、彼は、描かねばならないのだ、とこたえているらしく、(……)くんはそれを取り上げながら、描かなければならない、なんだよね、描きたい、とはそれって違うじゃない、と言ったのでこちらは、いや、それが一致してくるんだよ、と応じた。最初は自分がやりたいと思ってやっていたはずのことが、やっているうちに、自分はこれをやらなければならないっていう、まあ欲望が使命感みたいなものになってくるんだよね、と。(……)くんはまた、みんなやりたいこととか夢とかがあっても、それをずっと続けられるひとってやっぱり圧倒的にすくなくて、なんか色々、現実とか、そういう理由を見つけて、挫折してやめていくわけだよね、それはある意味、逃げたとも言えるわけじゃん(たしか実存の話をしている文脈だったので、まあ、自分と向き合うことから逃げたとは言えるかもしれない、とこちらは受けた)、そういうなかでずっと逃げずに意志を貫徹できるひとはすごいと思う、みたいなことを言ったのでこちらは、そういうのって、まあ追いこまれなんだよね、それをやるしかないっていう、と受けた。みんな自分にしかできないことを探そうとするじゃない?(肯定が返る) でもそうじゃなくて、自分にはとにかくこれしかできない、っていうのが本当の主体のあり方だと思う、そういう意味で追いこまれてるわけよ、だからそれをやって、で、やったことが評価されようがされまいがどうでも良いんだよね、どちらにしてもやるしかないわけだから、俺はわりとそういう感じだな、評価されるかとか受け入れられるかとかいうのは自分にどうにかなることじゃないと思ってるから、と話す。ただまあこういうのは、一種いかにもロマン主義的なあり方なわけだ。だから『月と六ペンス』の芸術家像についても、それはそれでかなり極端なものだからね、と言っておく。そういう感じの芸術家っていうのは、いまはもうあんまりできない時代なんじゃない、それに絵だったらマジで絵だけをやってほかのことはすべて捨ててかえりみないっていうのが良いのかも疑問だし、やっぱり色々な物事に触れたほうが芸術にとっても良いっていうこともあると思うし(いわゆる「芸の肥やしになる」という考え方だろう)、それにまあ俺としては、妻子を捨てるのは良くないっていうか、倫理は一応守ったほうが良いと思うけどね(と笑う)、でも本当にもうそうするしかないってなったらまあそれもしょうがないわけだ、芸術家みたいな連中はだいたいみんな、どこかではそういう感じなんじゃないの、心のどこかにはそういうものを持ってなきゃ、芸術なんてことはたぶんできないんじゃないの、と落としておいた。
  • あと目立った話題としては最近の国際情勢についてなどか。終盤はほぼそれだった。ただそれほど目新しい主題はなかった気がするというか、話したことはほぼ日記にもたびたび書いている内容だった気がする。とにかく中国がやばいとかそういうことだ。それなので、この日の通話のことはもう上にたくさん書いたし、このくらいで良いかなという感じ。そのあとのこともおぼえていない。下の段落は当日に書いた部分。通話の末では、またものが読めるようになり、気が向くようだったらオンラインでも読書会をやろう、それか時間はあるわけだし、俺がそっちのほうまで出向いてちょっと会ったりしても良いな、と言っておいた。まあいずれコロナウイルスがもうすこし収まってからか。あとサッカー。(……)さんがサッカー好きで、彼女は大学でも自分でやっていたくらいだが、(……)くんもそれに影響されてサッカーをよく見るようになったらしく、コロナウイルス下の状況でもスタジアムに見に行ったところ、感染対策で受け入れ人数はすくなく客席は空いているし、あれはあれで貴重な経験だったと。ワールドカップなのかなんなのか、門外漢のこちらには全然わからないのだが、最近また日本代表が集まってやる試合がはじまっているらしく、ただ日本代表戦というのは意外とそんなに面白くないのだということだ。というのは、普段から一緒にやっているメンバーではなく、集められて組むチームなので、連携をこまかいところまで仕上げるのが難しくて、とにかく攻めこまれないように前に向かって大きくクリアするみたいな展開が多くて大味になりがちなのだと。それに対してJリーグの試合は、(……)くんは川崎出身なのでフロンターレを応援するわけだが、ずっと一緒にやって練り上げているチームなので息が合っており、こまかくパスをつないで巧みに回していく「パスサッカー」になりやすく、そちらのほうが面白かったりするとのこと。なるほどそういうもんか、と思った。
  • 四月一日の日記を記していたのだが、一二時前くらいでいったん切ったはず。あるいはもうすこし前だったか? 仰向けになってちょっと休んでから、やっつけ仕事で書き上げていた記事を投稿し、久しぶりに音楽を聞きながら休息することに。なぜかDoobie Brothersに気が向いて、『Minute By Minute』を流した。ヘッドフォンをつけた状態で枕に頭を乗せながら仰向けで停止。"Here To Love You"、"What A Fool Believes"、"Minute By Minute"と三曲目あたりまでは意識が保たれていたが、そのあとは曖昧に溶け、溶けながらも一応眠りには落ちず音楽を聞いている自己認識はあったのだけれど、しかし通過してみれば記憶は何も残らない。さだかになったところで起き上がってiTunesを見れば、最後の"How Do The Fools Survive?"にさしかかるところだった。Doobie Brothersってあまり聞いたことがないのだが、意外とボーカルが暑苦しいのだなという印象。二曲目は有名な曲のようで、聞いたことがあるような気もするし、John Pizzarelliが『Live At Birdland』のなかでポップスの有名曲をほんのすこしずつメドレーするみたいなところがあるのだけれど、そのなかにも取り上げられていた。イントロからして、このピアノをつくれたらもう勝ちだろ、という感じ。ただイントロのキャッチーさに比して、メロディとかその後の展開とかは、完全にそれに調和して高度に整い突き抜けた、という感じにはなっていない気がする。後半で分厚いコーラスが入るところはほぼBee Geesの感触だと思うのだけれど、というのはつまり、"How Deep Is Your Love"を連想させたのだけれど、この色合いは、なぜなのかわからないがちょっとこちらにはそぐわないところがある。甘さが強すぎるということなのか? いまWikipediaを見たところでは、「しかしこの頃 [一九七五年あたり] から、バンドの顔でありヒット作を数多く作曲していたジョンストンの健康状態が悪化し、バンドを一時脱退してしまう。間近に控えたツアーのため、ジョンストンの代役としてバクスターの紹介により、スティーリー・ダンのツアーメンバーだったマイケル・マクドナルドが正式加入する。卓越した歌唱力に加え、スティーリー・ダンで培った作曲能力を持ったマクドナルドの存在は大きく、バンドの音楽性はトム・ジョンストン期の野性味あふれる快活なギターロックから、R&Bの影響を受け洗練されたAOR色の強いものへと変化していった」、「こうした音楽性の変化に対しては大きく賛否が分かれたが、1978年のアルバム『ミニット・バイ・ミニット(Minute by Minute)』と、マクドナルドがケニー・ロギンスと共作したシングル「ホワット・ア・フール・ビリーヴス」はともに全米1位を獲得[4]。アルバムタイトル曲はグラミー賞の最優秀ポップ・ボーカル(デュオ、グループまたはコーラス部門)賞、「ホワット・ア・フール・ビリーヴス」は最優秀楽曲に輝き[4]、高い人気と評価を確立した」とのこと。"What A Fool Believes"はKenny LogginsとMichael McDonaldがつくったらしい。Aretha Franklinが八〇年の『Aretha』でカバーしているとのこと。
  • 午前二時頃。去年の四月四日の日記を読み返したのだが、次のような一段。

二時半手前だったろうか、家を発った。我が家の向かいに広がる林の外辺部にはこじんまりとした畑が整備されてあるのだが、そこで女性が一人、しゃがみこんで土を弄っていたので、こんにちはと声を掛けつつ会釈を送った。その敷地には先日も記した通り、濃艶なピンク色で宙を赤らめる梅らしき低木があり、しばらく前から風景を鮮明に色づけているが、花の命は結構長いようで一向に散りだす気配がなく、堅固に保たれ佇んでいる。道を西へ歩くと(……)さんが今日も宅の外に出ていたけれど、こちらが至る前に家のうちに入って戸を閉ててしまったので、挨拶は交わせなかった。公営住宅横では小公園を彩る桜の花叢が柔らかに撓んでおり、距離を置いては白桃色の嵩と厚みがいくらか薄くなったように映り、近づけば若緑色の葉が萌えだして複色混淆期に入っているのが見て取れた。風に撫でられ花弁も剝がれ散って、微弱な光を帯びつつ宙を揺蕩い、それらが行き着く十字路の面[おもて]には無数の落花がまぶされて、陽にも融けない春の淡雪となっていた。

  • ここにある梅と桜の描写が一読して実に堅実な、なかなか大したものだと思われて、力みもないが弛緩もなく、派手ではないが流れている。ここでは特に斬新な表現もなく、比喩やイメージのたぐいも最後にしかなく、面白味の豊かな言葉遣いではないものの、それでいてしかししっかりとした具体性の質が確実に付与されており、書き手の地の力の安定というものを感じさせる。このくらいの描写をだいたい毎日、コンスタントに書いているのだとしたら、俺って実はけっこうすごいんじゃないか? と思った。二〇一三年から八年、あいだ一年は鬱に死んで実質七年だが、七年やればこれくらいのことにはなった。この程度の描写を難なく書けるようになっただけでも、この七年にはまちがいのない意味と価値があった。
  • 表象的な、つまり言語外のものおよび世界を指示して代理表出するたぐいの文章にかんしては、こちらはこの日々の記とそこに含まれる事物の描写でほぼ完全に満足している。だからそれ以外に作品のたぐいをつくるとしたら、さしあたりは詩の方面を志向するということになる。徹頭徹尾言語的な構築物としての作品、つまりはマラルメの方向だ。