2021/4/5, Mon.

 「ドクサ」が語り、わたしにはそれが聞こえるが、その空間にはいない。いかなる作家もそうであるように逆説の人であるわたしは〈扉のうしろに〉いる。わたしもその扉を通りぬけたいと思う。語られていることをこの目で見て、その共同体の場にわたしも参加したいと思う。だからわたしはたえず〈自分が排除されているものに耳を傾ける〉のだ。そして呆然としてしまい、ショックを受け、人々の好む言語から切り離されるのである。
 (石川美子訳『ロラン・バルトによるロラン・バルト』(みすず書房、二〇一八年)、182; 「メドゥーサ(Méduse)」)



  • 覚めたのは一〇時半頃だったのだが、そこから一時間くらい寝床にとどまってしまった。喉やら腹やら腰やら、全身の色々なところを揉んでいた感じ。特に腰、背骨の付け根の付近を揉んだのは良かった。毎日起きたときの習慣にしたほうが良いかもしれない。天気は曇り。
  • 瞑想も今日は長めにやったようなおぼえがある。たしか二五分くらいだったはず。それで正午を越えた。
  • 食事はハムエッグを乗せた米。新聞の国際面にはヨルダンの話題。珍しい。現国王アブドラの異母兄弟である前皇太子が軟禁されているとか。政府の汚職などを批判してきたひとらしく、たぶんある種目の上のたんこぶだったのだろう、クーデター画策の疑いありとかでそのようになったらしい。BBCを通して本人が動画を発表して、軟禁されていると言っているとか。クーデターは知らないが、実際政府に批判的な立場の部族長だったか知事だったか、忘れたがそういうひとびとと軟禁の数日前に会合を持っていたらしい。国民からの人気は高いとかで、政府や軍の出方によっては第二のアラブの春になるのではないかと危惧されている模様。エジプトなど周辺国は軒並みアブドラ国王を支持すると表明していると言う。
  • 今日は労働。三時には出る必要がある。帰室すると茶を飲んでから音読。「英語」。441から454。音読も本当はもっとやりたい。できれば毎日「英語」も「記憶」も両方読めるのが良いのだが。三〇分かそこら音読するともう二時前だったのでは。ベッドで脚をほぐしながらウィリアム・フォークナ―/藤平育子訳『アブサロム、アブサロム!(下)』(岩波文庫、二〇一二年)を読んだ。上巻と同様で、物語の現在地点はハーバード大の寮の一室なのだが、実際に記述の大半を占めるのはクエンティンおよびルームメイトのシュリーヴによる回想的な、もしくは想像的な過去の語りである。シュリーヴというのはクエンティンがハーバード大に入学してはじめて会った人間のはずで、だからサトペン家の物語など通じていないはずだし、南部について野次馬根性的な発言もしているのだけれど、彼も、~~なんだよね、そうだろう? とかいう感じでサトペン家周辺の物語を語っている。つまり、すでにクエンティンからその話を(一度か複数回か)聞かされており、その内容を復習的に確認している、というような話しぶりになっているわけだ。そういう会話の合間にクエンティンの長い沈思や想起がはさまってそこも物語になるわけだけれど、面白かったのは、三つの時間が混在している箇所があったことだ。79ページのことなのだけれど、まずひとつには、ここはクエンティンが想起している彼自身の過去の体験の途中、ウズラ撃ちに行ったときに父親のミスター・コンプソンから話を聞かされている部分である。つまり、鍵括弧でくくられた台詞としてのコンプソン氏の語り=声が一応ベースになっている部分。そこで語られている内容はサトペン家の話なのでもっと過去のこと。その途中で丸括弧によってクエンティン自身の現在の思考が導入され(いま目の前にしているシュリーヴの名前や、机の上に置いてある手紙が言及される)、しかし混入されたすぐあとに彼の思いもサトペン家の物語の一場面に向かっていく。それはつまりジュディスと、黒人の妻を連れてきたチャールズ・エティエンヌ・セント=ヴァレリー・ボンとが向かい合う場面なのだが、父コンプソンがそこで何が話されたのかはわからないと言っているのを、クエンティンがその場面をみずから構築して想像的に埋めるようなかたちになっており、丸括弧が閉じたあと、語りはまた父親の言葉にもどる。
  • ガルシア=マルケスはフォークナーから多大な影響を受けたらしいが、なんとなくそれがわからないでもない。流れの感じはまったく違うけれど、長大な幅の時空を縦横無尽に飛びまわって操作してみせるあたりは似ている気がしないでもない。フォークナーのほうがまあ野蛮というか、あまりきれいに構築しようという感触がなく、あるいは彼のやり方でこれは構築されているのかもしれないが(つまり意図的に時系列や消息が追いにくいように書かれているのかもしれないが)、いずれにしても渾然とした調子がある。括弧やダッシュによる挿入も多いし。ガルシア=マルケスは、ここでいうマルケスというのは『族長の秋』のことだけれど、フォークナーに比べると相当にかっちりと、固形的に統御されている。あらためて、『族長の秋』のあれはやはり稀有ですごいものだなと思った。語りのはやさと時空操作の結合という観点から見れば、あれ以上のものはたぶんない。マルケスのあれは、おそらくめちゃくちゃ理知的につくられているのだが、ただなんというかその度が過ぎていてそれでかえって時空の迷宮が発生しており、ひとはそこで出来事の前後関係や全体のなかでのその位置をちっとも把握できない。あくまで部分的に、断片的にしか把握できない。ピラネージの「牢獄」みたいな感じというか。そういうふうになるように、非常に丹念につくりこまれているわけである。個々の部分部分で見るとすごくかっちりと提示されているのだけれど、出来事が豊かにすぎるし、一文か二文書いたらもう飛ぶみたいなところもあるから、ひろく見ると無数の渦巻きみたいになっていて流れ方がまったくわからん、と。ただ同時に、完全に統御されきっているわけでもないはず。マルケス自身にも把握できていなかったところがあるようだ。本人がたしか、自分でも気づかなかった矛盾を指摘されたとかどこかで言っていたはずだから。いずれにせよそう考えてくると、たしかにフォークナーのやり方を吸収しつつ、それをあるひとつの方向に向けてひたすら推し進めて極北まで行ってしまったのが『族長の秋』だという感じもしてこないではない。前々から何度か書いていることだが、ガルシア=マルケスは物語の内容ではなく形式面を見るとそこに野蛮さなどまるでなく、まさしく野蛮の対極みたいな語りの経済性とコントロールを旨としている作家である。あれほど知的に、高度に、均一に、紳士的に、冷静に、つねに一定の調子を持って語りを操っている作家はほかにほぼいない。
  • 出勤前にはかなり小さめの豆腐をひとつだけ、台所に立ったまま食った。三時をまわったあたりで出発。玄関を出て宙を見ると、雨粒が散っていたので傘を持つことに。今日はいくらか肌寒いのでコートも羽織った。道に出れば雨は密ではなく、そう勢いもなく、ちらちらと軽く斜めに落ちるものだが、粒はそこそこの大きさがあって受けていればやはりいくらか冷たいので、傘をひらいた。坂道には、あれはなんのものなのか、杉のものなのか、そもそも葉なのかなんなのか、何年ものあいだ見かけているはずなのにそれすらわからないのだが、芋虫的な幼虫を思わせるかたちの、樹々から落ちた植物の一部が無数に散らかって場所によっては避けようもなく、おびただしく死んだ蛆虫の死骸が敷き詰められた上を踏んでいくような感じ。
  • 街道の向こうの森の樹々は浅緑を帯びてきている。風がけっこうある道中だった。街道に出てすぐ、渡ったときにも、車の途切れたなかに近間の樹々が葉を鳴らす音が差し入ってくる。傘をちょっと浮かせるくらいの勢いがおりにあって、そうすると顔は寒いがもはや冬のそれではむろんない。中学校校庭の桜木は表から家の隙間に覗いたものを見るに葉の色のほうが多くなっていたし、街道沿いの公園の木もピンク色の雪が溶けて水っぽくなった具合でまさしくみぞれ状と言うべき質感、通りがかりに覗けば、学校のはじまるのは明日からだが今日は雨だからだろう、公園にひとも子どももまったくおらず、無人の空間がただ無数の桜の花びらを地に撒き散らされて白かった。過ぎて老人ホームの前にも花弁が散らばっているのはそこの角にまた一本、小さなものがあるからだが、この木は顔の近くまで降りてきている花の一枚一枚がほかよりやや大きいような気がして、たぶん品種が違うのだと思う。何年か前に画像検索をしてマメザクラというやつではないかと思ったのだが、正解かどうか知れない。
  • 裏通りをゆるく行く。労働に向かっている最中だが、やはり歩きつづけていくらか時間が経つと、心身がほぐれて自由な感じがきざしてくる。この道中にはウグイスを聞かなかったが、思い返せば起床時の瞑想の際には窓の外でたびたび鳴いていた。裏道に沿った家々の庭でも色々と花が咲いており、なかにハナミズキがはじまっていて、枝先に乗った蝶の風情で微風の波に遊び揺らされている。
  • 職場に着いたのは三時四〇分頃。余裕があってよろしい。(……)
  • (……)
  • (……)
  • (……)
  • 帰路も徒歩。行きはいくらか雨降りだったが、もう止んでいて、しかも裏路地から見上げた夜空に星がさやかに灯っていたあたり晴れてすらいたようだ。表道に出るところが近くなったあたりで空を見るに、色濃く深く、吸収的な質感で、右手すなわち北側の林もその手前の家の屋根も空との境があまり定かならない。時間としてはそれよりも前だが、途中で白猫に遭遇した。飼われている家のところで思いがけなくあらわれて出てきて、小さく鳴きながら寄ってきて可愛いものだが、立ち止まるとこちらの前を過ぎて通りの向かいの宅の駐車場に入り、そこでごろりと腹を見せて安らぐ。そこは鎖が一本張られてあって、べつにそんな大層なものではないし踏み越えても良かったのだが、やはり人様の敷地に勝手に踏み入るのは気が引けて、その横にぴんと伸びるでもなくゆるく張り渡された鎖の手前にしゃがみこんで、猫に向かって手を差し出してみる。すると相手は起き上がって嗅ぐようにして鼻先を近づけてきて、まもなくこちらの近くに移動してくるのでからだを撫でてやる。可愛らしいものだ。また奥にちょっと行って仰向けになったり、ふたたび近づいてきたりとやっていたが、じきにこちらが立って歩こうとすると猫も駐車場から出てすぐ脇をついてくるかたちになったので、合わせてのろい歩調で、横にともないながらしばらく通りを一緒に行った。ある程度のところまで来ると猫が後ろを振り返ったので見てみれば、裏道の向こうからひとがやってくるのに反応したのだろうか。それで帰っていくようだったのでこちらも振り返り振り返り先をすすんだ。やって来たひとはどんどん歩いて猫に何の反応も示さず、すみやかにこちらを追い抜かしていった。猫という生き物に出会ってなぜなんの関心も持たずに素通りできるのかまるで理解ができない。
  • 空気はそこそこ肌寒かったのでコートの一番上のボタンまでつけたが、貫いてくるほどの寒気はもはやない。帰り着くと休息。コンピューターを見ながらベッドでだらだらしたあと、Radiohead『The Bends』をすこしだけ聞いたはず。聞きながら臥位で休んだということ。"The Bends"のギターの厚い歪みの質感とか、やはり気持ちが良い。このときではなくて、下に書いたムージルを書抜きしているときのことだが、そこでも『The Bends』を流していて、"High And Dry"がはじまってすすむうちにまもなくなんかめっちゃいいなという心になって、思わず作業をやめて目を閉じながら立位のままからだを揺らしてしまったくらいだ。いままでも普通に良い曲だと思っていたが、今回なぜかやたら良く感じられた。曲としてはかなりシンプルだというか、凝ったことはやっていないように思うのだけれど、各所各所がはまっていて、たとえば一サビからギターのブリッジミュートでの刻みが入ってくるけれどこの単純明快きわまりないエイトビートがなぜか非常に利いているように思った。凝ったことはやっていないと言ったとはいえ、エレキギターのつけ方は一番から二番、二番から終盤への推移にともなって変化していき、たぶんおなじかたちが出てくるということはなくて、その都度新たな装飾の仕方になっていたのではないか? そのあたり、派手ではないが丁寧につくられていることがよくわかる。
  • 午前一時半過ぎ。ムージルを書抜き。興があまり乗らなかったので一箇所だけ。「あの少女の頃からすでに十三年か十四年に近い年月が流れ、彼女の乳房はとうにあの当時のように、好奇心に満ちて赤くつんと尖ってはいなかった。いまではこころもち垂れ下がり、ひろい平面におきざりにされた紙帽子に似て、すこしばかり哀しげだった」(131~132)とあるのだが、この紙帽子の比喩はなかなか良い。