2021/4/11, Sun.

 生涯ずっと、わたしは政治的にくよくよしてきた。そのことから結論する。わたしが知った(得た)唯一の「父」は、政治的な「父」だった、と。

 ひとつの〈単純な〉考えがあって、しばしば頭に浮かぶのだが、はっきりと言ったことはいちどもない(おそらく〈愚かしい〉考えなのだろう)。すなわち、政治的なものには〈つねに〉倫理な[ママ。おそらく「的」を欠字?]ものがあるのではないか、という考えだ。政治的なものの基盤となっているもの、現実の秩序、社会的現実の純粋科学、それは「価値」ではないだろうか。なにゆえ活動家は……活動することを決心するのか。政治の実践は、まさにいかなる倫理からもいかなる心理からも離れてしまうが、そもそも政治的実践とは心理的で倫理的な……起源をもっているのではないか。

 (これは、まさしく〈時代遅れの〉考えだ。というのは、「倫理」と「政治」を結びつけるとは、あなたの年齢は二〇〇歳近くになってしまうからだ。国民公会が「倫理学政治学アカデミー[訳注200: 一八〇三年に廃止されたが、一八三二年に再建された。日本では「人文・社会科学アカデミー」と訳されている。]」を創設した一七九五年の人だということになる。倫理学政治学は、古いカテゴリー、古い街灯だ。――だが、これのどの点が〈間違っている〉のか。――間違って〈など〉いない。時代遅れなだけだ。昔の貨幣は、もう使用されなくなっても贋金ではない。博物館の展示物となり、特別な消費、つまり骨(end188)董品という消費にとどめ置かれるのである。――しかし、この古い貨幣からも、有用な金属をすこしばかり引き出すことができるのではないか。――こうした愚かしい考えから引き出せる有益なこと、それはマルクス主義フロイト主義という二つの認識論の対立が妥協できないものだとわかる、ということである。)
 (石川美子訳『ロラン・バルトによるロラン・バルト』(みすず書房、二〇一八年)、188~189; 「政治/倫理(Politique/morale)」)



  • 一二時前に覚醒し、すこし経ってから起床。瞑想はいったんサボった。上階に行って母親に挨拶し、ジャージに着替える。顔を洗うなどしてから食事。天麩羅の残りやワカメの味噌汁など。新聞は日曜日なので書評がある。入り口では重田園江が本を紹介していた。フーコーを研究しているひとだ。フォークナーの短編集や、オーソン・ウェルズについての本を挙げていた。その左には、スヴェトラーナ・アレクシエーヴィチ『戦争は女の顔をしていない』。あらためて見るとこのタイトルもなかなかすごく、印象的な文言だ。書評欄のなか、本面では乗代雄介『旅する練習』などが取り上げられていたが、記事を読んではいない。二面のミャンマー関連の報を読んだ。九日に中部のなんといったか、ダゴーみたいな響きの町で、治安部隊の弾圧により八二人が殺害されたと。あと、ヤンゴン軍法会議がひらかれて、国軍兵を殺害したという容疑の一九人が死刑判決を下されたとも。うち一七人は逃亡中で不在裁判だったらしい。事件のあったヤンゴンの当該区域は軍が戒厳令を出した範囲にあたり、したがって軍部が司法権を掌握しているため軍法会議が成立するとのこと。二面には、アリババが三〇〇〇億円の罰金を課されたという記事もあったが、これは昨晩の夕刊でも読んだ。
  • 皿を洗って風呂場へ。今日も天気が良く、晴れ晴れとしていて、窓を開ければ外の道には日なたがくまなくひろがってその上を走る電線の影もくっきりしている。林の樹々も大気の流れに爽やかに揺らいでいた。風呂を洗うとポットに湯がなかったので水を足しておいていったん先に帰室。コンピューターでNotionを用意し、それから茶をつぎに行って、もどるとウェブを見ながら一服し、それからここまでさっさと綴った。一時四〇分。とりあえず昨日の記事を先に仕上げてしまおうという心になっている。やはりおぼえていることをおぼえているうちに書くのが面白い。すっきりする感覚がある。
  • 四月一〇日の記事もそのまま書いて、完成。するといまは二時四九分。
  • ウィリアム・フォークナ―/藤平育子訳『アブサロム、アブサロム!(下)』(岩波文庫、二〇一二年)。ベッドで脚を和らげつつ。292あたりまで読んだ。Ⅷ章に入っているが、このあたりになるとクエンティンとシュリーヴに語り手としての役割の差がほぼなくなっている様子。二人はほとんど一体化していてどちらが語っていても変わりはなかった、みたいなことも明言されているし。それまではだいたいクエンティンが語っていて、シュリーヴが語るときは一応、~~だよね、そうだろう? みたいな言葉が付け足されて確認の体裁を取ることが多かったのだけれど、ここではもうシュリーヴが率先してチャールズ・ボンのことなど語りまくっている。その話にもやはりあやふやさを示す符号が、つまり、「~~だろう」とか「もしかすると」とか「~~かもしれない」とか、そういう推量的な言い方がふんだんに付与されており、ほとんど毎文に「もしかすると」がくっついているような箇所もあった。その話のなかではチャールズ・ボンは意外とというか、思いのほかに父親に執着するような人物として提示されている。それまでボンの内面が語られることはあまりなかったと思うので、意外も何もないかもしれないが、けっこうサトペンとの関係で気を揉んだり悩んだりしている模様。認知してもらいたいなどとは思わないと明言されてもいるが、サトペンが自分を息子として認識しているのか、そのことに気づいているのかはせめて知りたいような様子で、その合図が来るだろう見られるだろうと都度に期待しながら何もないので落胆したり彼の認識を疑ったりする感じ。その何も言ってこない、反応も示さないサトペンの様子に、あちらがある種怖気づいたというか、気が弱くなっていることを読み取り、あのひとが怖気づくよりはむしろ自分のほうがそうなるほうが良かったと考えたり、俺は若いなあ、もう二八だがいままでそんなことにも気づかずにいた、誰も俺にそのことを教えてくれなかった、と未熟さを痛感しているあたりなど、なかなか印象的だった。チャールズ・ボンはサトペンの最初の妻とのあいだの子であり、ヘンリーとジュディスは二番目の妻エレンとのあいだの子どもである。ボンの母親は捨てられて以来サトペンに対する復讐の機会をうかがってボンを育ててきて、経緯がやや不確かではあるものの、大方彼女と昔からの顧問弁護士がヘンリーに遭遇させるためにボンをミシシッピ大学に送りこんだらしい。ヘンリーは田舎者の育ちなので、ボンの都会的な優雅さに心酔して、彼をほとんど兄として慕うような発言をしており、僕と妹の人生はあなたの人生のなかの一部で、あなたの人生がなければ僕たちの人生もないのです、みたいなことまで言っているので、妹ジュディスとボンを結婚させて兄になってもらおうと思っていたようだが、それ以前から実際に、父親の血を分けた兄弟であるわけだ。だからボンとジュディスが結婚すれば近親相姦ということになる。そういうテーマが出てくるとメロドラマ的な感じが強くなるが、この小説では父親殺しは一応、直接的にはないはずで、ボンもヘンリーもサトペンを殺すことはないし、実際に起こるのはヘンリーが慕っていたはずのボンを殺すという事件である。ヘンリーのボンに対する感情には恋人に向けるようなものも多少ふくまれているように読まれる。ボンの女性性というか、女しか身につけないとヘンリーが思っていた絹の服を着ていてみたいな言及もあるし(ヘンリーはそのボンのスタイルや身のこなしや言葉遣いなどを無自覚に一生懸命真似するのだが)、同性愛的な情はいくらかにおわされているはず。ボンのほうはヘンリーには特段の興味はなさそうで、ジュディスに対してもいまのところはそうだ。サトペン家を訪れはしたが、ジュディスを見はしなかった、顔を合わせる機会はいくらもあったが見たわけではなかった、みたいなことが書かれているし。ただ以前にはコンプソン氏によってあの二人は愛し合っていたんだという判断も述べられているし、ボンが戦地からジュディスに送った最後の手紙もすでに紹介されている。父サトペンとそのもとのきょうだい三者のあいだに展開される感情的関係は、そこそこ複雑なように見えて、単純なメロドラマ性からわりと逃れているのではないか。
  • 五時で上階へ。アイロン掛け。シャツを処理。南の窓外では(……)さんの家の鯉のぼりたち四、五匹や、梅の木の梢が風に揺らされており、川の向こう岸に接した林や、そのさらに先の山の姿にはまだ陽の色がかろうじて宿って穏やかにやわらいでいる。鯉のぼりは青や、柿色というか紅葉した秋の葉の色というか、鮮やかなオレンジめいた色のものなどが見えるが、四匹なのか五匹なのか、さだかに数えようとしても揺れる姿がうまくつかめない。アイロン掛けを終えると料理。ネギと豚肉を切って炒めた。焼き肉のタレや味醂で味つけ。アイロン掛けのあいだからラジカセはケツメイシの音楽を流していた。前にも書いたが、このアルバムの冒頭曲は、ギターなどわりとメロウなやり口になっているのに、ボーカルの声と歌い方をなぜあれで良いと思ったのかわからない。べつに乱れているわけではないが、歌声が全体的に、歌声としての響き方とか整い方をあまり帯びておらず、素人臭い質感になっている。ラップの部分など特にそうで、俗化された日本のヒップホップのラップってわりとそういうものが多い気がする。好きなひとからすると、そういう素人臭さがむしろ親しみを持てたりするのかもしれない。二曲目もなんかなあという感じなのだが、そういうなかで例の"さくら"は、これもやはり以前書いたと思うけれど、一応流通歌としての体裁をほかよりきれいに整えてはいて、こちらは好きではないがこれが大衆に売れるというのは一応わからないではない。ただ、途中の、「花びら舞い散る 記憶舞い踊る」の部分は、これはちょっと弛緩しすぎだろうと思った。メロディのリズムも四つ打ちに合わせてだいたい四分音符で伸ばしているし、意味にしても旋律にしても定型性にもたれかかりすぎだろうというか。抵抗がすこしもない。しかしこのフレーズは最後にまた出てきて何度も繰り返されて曲が終わる。ライブとかだとむしろこの部分はたぶん、観客も交えて皆で一緒に歌うsing along的なフレーズになっているのではないか。
  • 音楽は途中で止めた。母親が台所を離れたので。肉を炒めるとキヌサヤの筋を取り、あとはまかせて下階へ。ギターを弾いた。まあそこそこ。あいも変わらずブルースを適当にやるだけ。七時頃に食事へ。父親はまた飲み会で、今日は「(……)」だとか。(……)の焼き鳥屋で、買ってきてもらおうかなどと母親は言っていた。こちらが飯を食っているとテレビのニュースは、明日から八王子だかで高齢者へのワクチン接種がいよいよはじまる、という報を流し、それを見た母親が、ヘラヘラ笑いながら、高齢者がワクチン接種して、長生きして、ほんとにどんどん高齢者ばっかりになっちゃうね、とか言ったので、べつにいいじゃん、それは裏を返せば、高齢者はコロナウイルスでどんどん死んだほうがいいって言ってるわけじゃん、と差しこんだ。母親は、いやそういうわけじゃないけど、と返したが、あなたがどう思っているかに関係なく、あなたの言葉がそういう風に読み取れるようになってるんだから、高齢者の前でそう言ってみなよ、とこちらは向ける。いやそんなこと言えないよと来るので、高齢者の前で言えないことをなんで俺の前では言えるの? おかしいじゃん、とこちらは続け、まあべつにこちらは高齢者ではないのでおかしくはないのだが、反感を示す表現がそういう言い方になった。あんまりそういうことは言わないほうがいいんじゃないの、と落とすと、いや自分も高齢者だから、自分自身も高齢者っていうつもりで言ったと返って、それでこの話は終わった。母親はたぶん、単純に人口に高齢者がますます多くなるのがなんかなあ、というくらいの感じだったと思うのだけれど、たまたまそのとき目にしたワクチン接種の件と発言がつながってしまったので、ワクチンによって高齢者が生き延びると困る、みたいな含意が生じてしまったのだと思う。ただそれにしても、もうすこし考えてものを言えとは思うが。
  • 新聞はまた国際面。ウクライナ国境にロシアが兵力を集めていると。ウクライナの政権とロシアの関係がいまどうなっているのか全然知らないのだが、親露派の政党党首だかが処罰されただったかなんだか書いてあったので、政権としては親露ではない様子。プーチンメルケルとの電話で兵の移動はロシアの内政の問題だと明言したらしいし、いくらか前には、ウクライナ東部を見捨てない、みたいな発言もしたようだから、たぶんもう獲る気満々みたいな感じなのだろう。今回の兵の移動は、ウクライナ支持を明確にしているバイデン政権がどう出るか、どこまでやっても大丈夫なのか試す意味合いもあるのではないか、とのことだった。あとは北アイルランドで緊張が高まっており、デモ隊と警官隊との衝突が見られたと。英国のEU離脱に起因してもろもろあって、プロテスタント系のひとびとは英国との一体性をもとめるらしいのだが、カトリックはむしろ大陸欧州のほうに親近感をおぼえるということだろう。しかし毎日新聞を見ていると、マジでだいたい世界中どこでも物々しい、きな臭いことになっているなというか、紛争とか内部対立とかテロリズムの危険とかを抱えていない国が全然ないかのような感じがしてくる。世の中ってずっとそうだったのかもしれないが。アメリカやロシアや中国は言うまでもないし、ミャンマーもいまはやばく、中東地域もシリアしかりイエメンしかりパレスチナしかりずっとやばいし、アフリカのサヘルあたりもそうで、フランスだって昨年の秋以来イスラーム系過激派への対処は続いているだろうし、欧州主要国はどこも極右がけっこうな勢力を持ってきている。そういうなかで日本は、北朝鮮とか中国とかの問題や、さまざまな社会問題はあるにせよ、国内的には本当に例外的に、一応は情勢として落ち着いているように見える。
  • 食事を終えると食器を片づけて帰室。音読をした。「英語」を535から559まで。よろしい。それからストレッチ。久しぶりにベッドの上で合蹠など。合蹠をするとやはりどうしても左の脚の筋が痛いというか、脚をたたんだ状態で前傾するとどうしても引っかかり、阻害感が生じる。膝周りであることは疑いないのだけれど、こまかくどのへんの筋や肉や関節が根本的な原因なのかがどうも解明できない。すこしずつやっているうちにほぐれてはくるのだけれど、膝の付近をよく揉んでほぐしてからやるようにしたほうが良いかもしれない。前屈をやってみても最近なまけていたので脚の裏側がけっこう固くなっており、だから本当は毎日やったほうが良い。BGMはCarole KingTapestry』を流した。歌詞がわりと聞き取れて、そうするとだいぶ簡単な言葉でつくられているなという感じ。"You've Got A Friend"だって内容としては励ますだけのメッセージソングだし、その次の"Where You Lead"なんて、あなたが来いって言うならどこにでもついていく、ということしか言っていない。それでも英語だとやはり母語ではないからかあまり気にならないし、ポップスとしての曲の質は高いなあと思う。最後の"(You Make Me Feel Like) A Natural Woman"も、フェミニズム方面からすれば歌詞にいくらか問題があるのかもしれないが、音楽としては結構なものになっていると思う。歌唱も良い。この曲はたしかAretha Franklinも歌っていたか。というかもともとそちらがオリジナルなのか? と思ってWikipediaを見るに、作詞作曲はCarole KingおよびGerry Goffinだが、Aretha Franklinの音源のほうが先に出ていた様子。
  • 九時で上に行くと父親が入浴していたので、母親にそのあと先に入るように譲ってもどり、ウェブを見て過ごしたあと、一〇時半前くらいから風呂へ。今日はわりと静止した。やはり瞑想的に止まる時間をおりにつくりたい。眠る前にもやったほうが良いのだろうが。静止しながら、結局世の中の色々なことを変えるにはひろく好奇心や関心を持つ人間をなるべく育てるしかなく、そういう人間をすこしでも増やすためにはやはりおさない頃からさまざまな物事に触れさせるほかはなく、また直接的な身体経験の一方でどうしたって書物と言語にもなじませなければならないだろうというようなことを考えていた。どの家庭にも絵本とか多少の本を供給するような仕組みを整備して、幼児たちがいまよりも多く本を読み言語に触れるような環境が整えば、色々なことが多少はましになるのではないかとめちゃくちゃ漠然と思うのだけれど、しかしやはりこれはこちらが本が好きだからそう思われるだけの単純すぎる思いこみだろうか。きちんと整えて書かれた言語の形式としての本だけは、おさない頃からすこしであっても触れるようにしたほうが良いと思うのだけれど。あとは物語もたくさん読んだほうが普通に良いと思う。現実体験の代理として、人間関係や感情性の学びの場として働くことも大いにあろうし。物語はかならずしも言語的書物のかたちで提示されるわけではないが。むしろいまの子どもたちが物語を取りこむ主要なメディアは、もうだいたい漫画、アニメ、映画だろう。
  • 出ると「緑のたぬき」を持って帰室。それで食い、その後わりと長く怠けてしまう。二時くらいから今日のことを書き足しはじめて、ここまで書くともう四時。そろそろ床に就くようだ。
  • 四時二六分で消灯した。暗いなかで瞑想をおこなう。今日は休日でそんなに活動していないから、眠気にやられることもなく四一分まで座れて、そうして就床。