ひとりの作家の語彙には、つねにひとつのマナ - 語があるべきではないか。その語の意味作用は、燃えるようで、多様で、とらえがたく、ほとんど神聖なほどであり、その語を用いれば何にでも答えられるのだという幻想をあたえてくれる。その語は、中心から外れてはいないが、中心にあるわけでもない。不動ではあるが、どこかへ運ばれて、漂流し、けっして〈定着〉せず、つねに〈アトピア的〉である(いかなるトピカからも逃れているのだ)。残余であり、補足でもあり、いかなるシニフィエの位置も占めうるシニフィアンである。この言葉は、彼の著作のなかにすこしずつ現れてきた。それは、はじめは「真実」の言行為(「歴史」の言行為)によって隠されて、つぎに「有効性」の言行為(体系と構造の言行為)によって隠されたが、いまこそ花開いている。このマナ - 語、それは(end192)「身体」という言葉である。
(石川美子訳『ロラン・バルトによるロラン・バルト』(みすず書房、二〇一八年)、192~193; 「マナ - 語(Mot-mana)」)
- 一一時半前に意識がもどる。何かしらの夢を見た気がするが、もう忘れた。しばらくこめかみと腹を揉んで、一一時四七分に離床。水場へ。顔を洗うなどしてからもどって瞑想。良い感じ。一一時五三分から一二時一七分くらいまでだったはず。完全に停止してしずまるみたいな短い瞬間がわりとあった。目をつぶってじっと座っているだけで心身がまとまるのだから、楽な話だ。上階へ行って食事。素麺をパスタ風に炒めたやつと、おなじく素麺の煮込み。新聞は一面に普天間基地返還合意から二五年とあった。それを読み、なかの辺野古移設にかんしての記事も少々読む。テレビはその頃、NHKの連続テレビ小説をはじめており、父親はソファで座布団をからだに乗せてまどろんでいる。母親は画面に番組表を映し出して、気になった番組を録画予約している。この連続テレビ小説の主題歌はメジャーシーンのJ-POPの範疇ではあるが、その範囲ではまあそこそこかな、という印象。誰のなんという歌なのか知らないが。Bの冒頭の、「これは夢じゃない」という一節のラインとコードの組み合わせはそこそこだし(ただ、そこの歌い方にはかすかに粘りが含まれていて、それはあまり好きではない)、どこかのコーラスにも古き良き昔のポップスのにおいがかすかに感じ取られた。しかし、「古き良き昔のポップス」と言って、それがたとえば何を指しているのか自分でもわからんのだが。
- 食器を片づけ、風呂洗い。今日は曇り気味で陽射しはあからさまではないのだが、空気は明るく、気温も高い。風呂桶を擦ると緑茶をつくって帰室。緑茶を飲んでも緊張するということが最近はなくなってきた。瞑想などによって心身が統合されているその賜物か? (……)
- 茶を飲みつつウェブを見て、今日のことをここまで記述。(……)くんがLINEで、オンライン家庭教師募集の情報を紹介していた。報酬など見てみると中高生相手だったら一〇〇分で三五〇〇円くらいで、いまの塾で働いているよりはそういうほうに移ったほうがたぶん良いのだが、しかし気が向かない。オンラインで授業をやるということに全然気が向かない。魅力を感じない。魅力というか、興味をおぼえない。訪問で家庭教師をやるのはありかなと思うが。こちらはわりとそういう、密着的な一対一のやり方に向いていると思うし、報酬を考えてもおそらくそちらのほうが良いのだろうが。まあ金を稼ぐとなったら気が向かないことでもなんでもやらなければならないだろうが。
- そのまま昨日のことを書き出して、しばらく書いたら寝転がるつもりでいたのだけれど、なんだかそのまま最後まで書く流れになった。それで仕上がったので、一〇日の記事から順にブログに投稿。投稿作業の裏に音楽を流したかったので、コンピューターをデスクにもどし、立ったまま投稿。流したのはAhmad Jamal『Live In Paris 92』。Jamalでこちらがすこしであれ聞いたことがあるのは『But Not For Me』だけで、そのときの印象というのは、巷間語られているとおりでMiles Davisもそのスタイルを気に入ってRed Garlandにああいう風にやれともとめたと言われている例の、あまり音を詰めずおおいに隙間をあけてしずかに整える独特のトリオ・アンサンブルの品の良さだったのだけれど、この九二年のライブだと普通に速弾きして雪崩れていたりもして、Jamalってこういう感じでもやるんだなと思った。前者から何十年も経っているし、多少変化がなければむしろおかしいだろうが。しかしJamalって、まだ生きているのかどうだったかわからんが、三年くらい前まで新作出していた記憶があって、あの世代のジャズメンのなかでは貴重な生き残りで、キャリアも長いしどういう変遷をたどってきたのか追ってみたいような気もする。Wikipediaを見れば、一九三〇年生まれでまだ生きている。九〇歳。二〇一九年に音源を出している。二〇一一年以降の作品はHerlin Rileyがドラムだし、わりと聞いてみたい。
- 投稿を終えるとベッドに逃げこんで書見をはじめたのだが、すぐに、ドラクエⅥのBGMを聞きたくなったというか、朝起きたときだったか食事のあいだだったかになぜかこのゲームの、フィールドにいるときの音楽の雰囲気を、メロディもフレーズも何も明確な記憶はなく雰囲気だけを思い出していて、なんとなく聞きたくなっていたのだ。主人公の出身地である最初の村(なんか星の降る村、みたいな名前ではなかったか?)を出てすぐのところでスライムだかドラキーだか、あるいはⅥはべつのモンスターだったかもしれないが、雑魚どもを倒してレベル上げをしているときだったか、それかもうすこしストーリーが進んで、なんか旅の扉をはじめて使うあたりだったか、それともハッサンを仲間にしたあたりだったかのフィールドでかかっていたような気がする。しかし、フィールド音楽はそもそもどこでもおなじだったか? また、旅の扉はⅥにあったのだったか? 何もかもが不明確なのだが、ともかくサントラを聞こうと思ってAmazon Musicを検索したところ、引っかからない。すぎやまこういちの陰謀か? やはり保守派なので、Amazonなどというぽっと出のアメリカ外来資本に俺の音楽は使わせねえということなのか? それでYouTubeにアクセスすると、ⅥのBGM集というのが出てきたので(ちなみにおなじアカウントのひとがほかの作品のBGMもすべてフルで挙げている様子だったが)、それを流した。けっこう聞き覚えのある曲が、当然だがある。このURL(https://www.youtube.com/watch?v=q2mUlijZM5I(https://www.youtube.com/watch?v=q2mUlijZM5I))なのだが、とりわけ6:09からはじまる"ハッピーハミング"という曲のメロディに聞き覚えがありすぎる。しかしこのメロディラインは、ドラクエではなくて何かほかの音楽にも使われていなかったか? 元ネタがあるのか? 中盤以降の分厚いコードの展開などは、ちょっとスウィング期ジャズのにおいを感じさせないでもない。これはもしかすると、カジノでかかっていた曲だったか? たしかサンマリノとかいう街にカジノがなかったか? ところで本題のフィールドBGMというのは、たぶん10:45からはじまる"ぬくもりの里"というやつではないかと思う。こういう感じの、わびしげなというか、翳のある哀愁というか、青緑色の木蔭みたいなニュアンスが記憶に残っていたものではないか。それか19:00の"もう一つの世界"か、それの別アレンジにあたる様子の"さすらいのテーマ"だろう。Ⅵは大地の大穴からもうひとつの、鏡像的な世界に行くという物語だったはずで、"もう一つの世界"はたぶんそっちに落ちたときのフィールドでかかっていたのではないか。
- 書見はウィリアム・フォークナ―/藤平育子訳『アブサロム、アブサロム!(下)』(岩波文庫、二〇一二年)。最後まで読み終えた。面白かった。なかなかすばらしい小説だったのではないか。書抜き箇所は多い。結局、自分にとっては本の魅力というのは、書き抜きたい箇所がどれだけあるかということに尽きるのではないか、という思いに立ち戻った。なんか批評的な読みができるかとか、面白い思考や考察が生まれるかとか、技術的に自分の文章にも参考になるか、とかいう点でなく、写し、記憶したいという部分があるか、ではないかと。だから、ありがちな比喩だが、だいたい音楽とおなじということ。そういう意味で非常に単純で原始的な読み方で良いのではないか。それはもしかするとこちらが思っているよりも原始的ではないのかもしれないが。フォークナーのこの小説は、言葉として記録しておきたいということもむろんそうだけれど、表象される、イメージ的に想像・喚起される場面としてもここは良くて写しておきたいなと思うところがわりと多かった気がする。
- そのまま間髪入れずに、土田知則『ポール・ド・マン――言語の不可能性、倫理の可能性』(岩波書店、二〇一二年)を読みはじめた。これも面白いというか、わかりやすい。あとでアイロン掛けを終えたあと、また読んだが、すでに40ページくらいまで進んでいる。クリティカルなのは、ド・マンが西欧の文学や修辞学や思考伝統における「メタファーの優位性」というものを批判したという解説をしているところで、「異なるもののうちに同一なるもの――ないしは相似たもの――を追求し、それを必然的な仕草に見立てようとする姿勢は、すべてを総体的に統合 [﹅6] しようとする発想の現れにほかならない」(21)とある。やはりな、という感じがした。つまりこれが比較であり、つなげることであり、物語であり、理論であり、体系性と完結と終幕への志向であり、神の書物への欲望である。差異もしくは他者性をそのような総体性へと還元しようとする傾向の(すなわち、要約という身ぶりの)持つ暴力性をド・マンは一貫して批判したということなのだろうが、それはむろんジャック・デリダがやったことでもあるのだろうし、そのあたりの思想家や理論家たちが共有していた基本前提でもあるのだろう。で、この比較、統合、総体化が可能になるのは、主体が言語の世界に参入することによってである、というのが精神分析理論の洞察のはず。つまり、言語未然のいわゆる母子一体化状態においては世界のものやことはそのどれもが完全なる固有性を保っており、あるものがべつのものと共有している要素や情報はまったくなく、それぞれは比較不可能なものとしておのおの独立自存している。そのあいだにはなんの共有点も連続性も見いだせず、比較が成り立たないわけだから、そこではそもそもまだ世界とか現象とかが成立していない。本来そういうものなのではないか、ということを、一応観念的に考えることはできる。つまり、我々は概念言語の力によってたとえば柴犬とチワワをおなじ「犬」というくくりのなかにおさめて比較可能な、類同的な生物だと思っているけれど、本来柴犬とチワワは別個の、まったく別物の生物種ととらえても良いわけだし、実際にそうなわけである。話は類や種の段階にとどまるわけでなく、おなじ柴犬でも、当然個体によって彼らはそれぞれ独自の固有性または特異性をそなえており、ごくごく単純な話、柴犬Aと柴犬Bはまったくべつの存在実体であって、仮にどれだけ似ていたとしても、完全には一致しない。究極的には、もしくは本来的には、それらはまるでべつの存在なのだが、そのあいだに共有要素が見いだされ統括が可能になるのは、すなわち比較が可能になるのは、主体が言語世界に参入させられることによる、という話。そして言語の力によってなされる総体化・統合が、つまりは世界の秩序形成が、主にはどのような原理によって駆動されてきたかというと、メタファーの優位性、すなわち類似の発見によってであり、世界と人類は伝統的に、不可避的な差異の存在と発生を等閑視し、隠蔽してきたというのが、たぶんだいたいド・マンの話だと思う。そういう話はよくわかる。よくわかるが、だからといって差異をとにかく称揚、要約はとにかく駄目だ、という話にはならないし、現実的にやりようがないし、ド・マンもそんなことは言っていないはず。そのような、あちらが立たなければこちらだ、という式の短絡を拒否し、それそのものを批判し続けたのがたぶんド・マンであり、いわゆる脱構築を唱導したひとびとなわけだろう。それはイデオロギー先行的でない政治的リアリズムと通じうるように思うのだが。
- もうひとつ、ケネス・バークがデリダとかド・マンのそういう立場の先行者と見なされうるのではないか、とあって、ケネス・バークってそんなに重要なひとだったのかと思った。日本だとわりとマイナーな名前だと思うし、こちらもバークについて知っていることは何ひとつない。なんかスーザン・ソンタグとか、文学論のなかでたまに名前が出てきたなというくらいの印象しかない。だが、彼のdeflectionという概念、土田知則の訳では「偏向」もしくは「ぶれ=歪み」とされる語が、要するに「差延」に相当するのではないかと。つまり、主体の意図的な操作によって生み出されるのではなく、言語使用が不可避的にはらみもってしまう「ずれ」「偏向」「偏差」をそれは意味していると。で、ド・マンは、文法的構造(言語統辞的形式性)と修辞的構造(レトリック・比喩)は直接的にそのあいだを移行できるものではなく、そこには常に緊張があるし、上述の「偏差」が発生せざるをえない、というようなことを言っている模様。平たくいえば、言語は主体がそれをもって伝えようとした意味とか、それ自身が伝達すると見なされるはずの意味とはべつの意味を常に伝えてしまう(すくなくともその危険性・可能性を除去できない)ということだろう。
- バークについては土田知則自身が以前論文を書いているらしく、その一節が註に引かれているのだが、いわく、「科学技術批判に与するバークは、後にロラン・バルトが「文学」対「科学」という形で示すことになる「言語」の問題を、「詩的な意味」と「意味論的な意味」という言い方で提示している。バークによるなら、前者は情緒的な要素を最大限に包み込む性質のものであり、他方後者の方は、明晰性を曇らせ、曖昧性をもたらす情緒的な要素を可能な限り切り捨てようとする性質のものであるというわけである。つまり、言語が必然的に抱え込む矛盾やパラドックスといった要素を抹殺せず、それらをあるがままに引き受けようとするバルト的な姿勢を、バークはバルトより二〇年近くも前に自己のものとしていたのである。こうしたバークの立場は、作品の内的首尾一貫性の原理を出し抜く必然的な矛盾性という問題、つまりは七〇年代から八〇年代にポール・ド・マンの仕事に代表される「ディコンストラクション批評」が好んで取り上げることになる「内的矛盾」ないしは「内的差異」という問題を予告する射程の広さを有していると言えるかもしれない。論理的なものと詩的なものを対比する一節で、バークは次のように述べている。「論文による説得と詩による説得との違いは論文が首尾一貫性をそなえうるのに対し、詩は必然的に矛盾を包み込む、という点だろう。」バークはまた、二者択一的な問題設定を厳しく批判するが、ここにもまた二項対立的な図式の転覆をはかるディコンストラクション批評と同質の性格を認めてよいかもしれない」(50、註2; 土田知則「一九四一 文学形式の哲学/ケネス・バーク」、『ユリイカ』一九九七年四月臨時増刊「総特集 20世紀を読む」、41)。こちらにとってとりわけ重要なのは言うまでもなく、「言語が必然的に抱え込む矛盾やパラドックスといった要素を抹殺せず、それらをあるがままに引き受けようとするバルト的な姿勢を、バークはバルトより二〇年近くも前に自己のものとしていたのである」の一文である。ロラン・バルトの先行者としてのケネス・バーク、ということを言っている文章にははじめて遭遇した。
- 五時で上へ。アイロン掛け。空は曇り気味で、雲が不定形に、沼のように濁り混ざって淀んだようになっているものの、川向こうの林と山には陽の明るみがいまだ軽く浮遊的に射しており、場所によって異なる緑の複雑な濃淡が織りなすパッチワークが窓の風景を春としている。アイロンをかけるものはやたら多かった。背後では台所で母親が調理をしており、彼女はイヤフォンをつけてMr. Childrenを聞いているらしく、"Sign"の一節が下手くそな、音痴というほかないはずれた調子と歌声としてはあまりにか細い声によって漏れ出してくる。合間合間で母親はなんとか、職場のこととか雑駁な話題を口にしているが、それに対してこちらが応じたり質問をしたりしても、イヤフォンをつけているからこちらの低く弱い声では聞こえないらしく、返答はなされない。そのうちに音楽はラジカセから流れ出すMr. Children『DISCOVERY』に変わった。最近のミスチルに興味はないが、このアルバムとその前後はそこそこ聞けると思っている。去年の夏頃だったか、なぜか一時期毎日のように流して歌っていた時期があったはず。冒頭の"DISCOVERY"はたぶん二枚目から三枚目あたりのRadioheadを取り入れようとしたのではないかと思っているのだが、わりと成功しているような気がする。単なる模倣にとどまっていると言えばそうかもしれないが、けっこう悪くないと思う。
- アイロン掛けを終えると五時四五分頃だったと思うが、その頃には外の畑から大根の葉など採ってきた父親が台所に入ってキヌサヤか何か茹でていたようで、台所は狭くて二人が限界なのであとはまかせて自分は部屋にもどろうというわけで下がり、上述したようにふたたび土田知則を読んだ。本を読むということは最高に面白い。七時まで読み続けて食事へ。「中村屋」の麻婆豆腐を丼の米にかけて食らう。あとは豚汁など。ニュースでは福島第一原発の処理水を海洋放出することが決まって風評被害が恐れられると伝えられており、地元の漁師らの懸念の様子と声が映され、夕刊の一面もその情報を伝えている。原発に雨水などが入って放射性物質が混ざった汚染水が生まれ、それを汲み上げて放射性物質を除去してタンクに保管しているらしく、その処理水というのは放射性物質をほぼもう取り除かれた状態で、だから処理水と言われるのだろうが、ただトリチウムとか言ったか、そういう物質が除去できないらしく、それで海水をくわえてめちゃくちゃ嵩増しして、国連とか政府の定めている健康に問題ないという基準より相当低いトリチウムの含有割合まで希釈してから海に流すと。ただまあ、風評被害というか、希釈しているとは言うけれどなんかなあ、という人間感情の不安は避けられないだろう。記事には海と言ってどこに流すのか書かれていなかったのだが、イラストを見る限りでは、タンク貯蔵所みたいな施設から直接配管が設けられて海岸から排出されるような感じになっていた。これが実際の計画とおなじなのかわからないが、単純な話、このタンクに保存されている処理水を、岸のまわりとか領海とか排他的経済水域ではなくて、近くに国がないどこかの公海まで運んでいってそこに捨てるということは不可能なのだろうか? そうすれば風評被害だってあまり起こらないと思うのだけれど。そのあたりこちらには技術的に、あるいは物質の性質的にできるのか否か、よくわからない。ただ現状、処理水の保管量は東京ドーム満杯分の、一二五万トンだったか忘れたが、そのくらいまで達しているらしく、いまのままのペースだと二〇二二年の秋には保管量の限界に達すると言う。仮に先の手段が可能だったとしても、それまでにそれに適した場所を調査し選定するのが困難、ということはあるかもしれない。また、公海にそういう風に処理水を捨てていいのか、国際条約などの観点からしてどうなっているのかもちっともわからんし。だが、二年後から排出をはじめて三〇年かかるとか言っているので、それだったらそれまでのあいだになんとか代替となる保管場所を見つけて、つまり保管容量を拡張して、新しく処理水を受け入れながらそちらにいったん移しておいて、そのあいだに地理的選定や関係国との調整などもろもろの問題を解決して誰の不利益にもならないような場所に捨てたほうが良くないか? と思うのだが。やはり物的性質上、運べないのだろうか? 動かすとやばいのだろうか?
- 三面にはミネソタ州で警察官が黒人を射殺したとの報。当然、デモが起こっていると。一部が暴徒化し、警察車両を破壊したり商店を略奪したりしたと言うが、いつもこの「商店を略奪」がわからない。警察車両を破壊まではむろんわかるのだけれど、関係のないはずの「商店を略奪」するのは完全に逸脱行為だろうと思う。戦略的に見ても愚策ではないのだろうか? それだけ黒人のひとびとの怒りの歴史が根深い、ということなのかもしれないが。今回の事件では、二〇歳だったかの黒人の男性が警察に止められて話を聞かれている最中に、べつの容疑だかが浮上して、男性が逃げようとしたところを警官が、テーザー銃とかいうスタンガンとまちがえたと本人は言っているらしいのだが、銃撃して殺害にいたった、という経緯らしい。
- 食事をはやばやと終えて食器も洗い、茶とともに下階へ。今日のことを記述した。記述のうちに時間が尽きて九時にいたったのだったか? たぶんそうだったはず。いずれにしても、九時を少々まわってから入浴へ。風呂のなかでは湯にからだを包みこまれ目を閉じながら適当にものを思っていたのだけれど、先ほどの『ドラゴンクエスト』のことを考えるに、「ドラゴンクエスト」と言うくらいだからもともとはドラゴンを討伐する話で、シリーズ最初の作品は竜王を殺しに行く物語だったのだよなと思った。ボスにドラゴンの要素が入っていたのはしかし、その最初のものだけではないか? Ⅲのゾーマとか、ドラゴンの要素何もないだろう。バラモスは多少あるかもしれないが。Ⅵにもたしか裏ボスとして神龍とかいう、『ドラゴンボール』のシェンロンほぼそのままみたいなやつが出てきたような記憶があるが、あのあたりのイメージというのは「ドラゴン」というより、「龍」に近いだろう。それは良いとして、『ドラゴンクエスト』は人間の英雄たる「勇者」がそういう悪の統括者としての「魔王」を倒す物語なわけだけれど、そういう「勇者」と「魔王」の闘争譚っていつからあるのかなと思ったのだ。というか、それ自体はギリシャ神話あたりからずっとあるのだろうけれど、そこでボスが「魔王」と名指されるようになったのはいつからなのかなと思ったのだ。日本の大衆文化、ゲームや漫画やアニメにおいては「勇者/魔王」式の枠組みをそなえた物語はそれこそ腐るほどあると思われるのだが、たぶんそれはまさしく『ドラゴンクエスト』が世にあらわれて以来のことなのではないか。しかしⅠにおいてボスは「竜王」だったし、Ⅱは「破壊神シドー」で、Ⅲになってようやく「魔王バラモス」もしくは「魔王ゾーマ」と「魔王」の語が登場するので、すくなくとも「勇者/魔王」式の隆盛はおそらくⅢ以降のことだろう。日本の現代文化においてはそうなのだろうけれど、ひるがえって西欧文化の伝統において「魔王」という語はそもそも一般的なものとしてあったのか、あったとすればいつ頃からなのか? という疑問が湧いたのだった。そもそも「魔王」が英語や諸言語でなんと言われるのかわからないのだが。Demon KingもしくはDemon Lord、すなわち悪魔の王、とかはあるような気がして、なんかベルゼブブとかそうだったような気がしないでもないが、しかし「魔王」という存在は西欧の宗教的伝統のなかにあるのだろうか? キリスト教の枠組みだとむしろ、神は唯一絶対で、それに対抗しうる悪の王、という発想はないのではないか? あるいはサタンがそれなのか? しかし、悪魔は複数体ではないのか? 悪の王がいたとしても、神と対等に対立させることができるほどの存在ではないのではないか? だから「魔王」という悪の根源体としての発想は、キリスト教よりもむしろそれ以前の、善悪二元論的な宗教世界のものではないのか? マニ教とか、ゾロアスターとか、つまりアジアのほうのものではないのか? などともろもろ考えていた。あと、ふと思ったのだけれど、先ほど読んだ土田知則のポール・ド・マンについての解説書のなかで出てきた、言語はそれ以外の言語を媒介することなしにはそれ自身の意味をあかす(証す・明かす)ことができない、というテーゼは、自己自身から疎外されて他者の世界を通過することなしには主体は主体として定立されえないという精神分析理論の根本的前提と、まったくおなじ構造になっているのだ。ド・マンはたしか精神分析理論を参照することはなく、常にそれとは距離を取っていたのではなかったかと思うのだが、あきらかにそのあいだには類似性があるはず。例の「アレゴリー」概念にふくまれる、最終的な意味の決定不可能性と、永遠の漂流というか意味および読解の追加的積み重ね、みたいな事柄は、(ロラン・バルトが一時期しきりに称揚していた「テクスト」概念と軌を一にしつつ)ラカンが唱えた「シニフィアンの横滑り」、みたいなことと相同的だという記述が、75にも出てくるし。ただ、精神分析理論は、結局は最終的な到着点としての自己の特異性、というものが想定されているのだろうか? つまり、いわゆる「自己の真理」を見出し、それを引き受けるための技術・思考体系という側面のほうが強いのだろうか?
- 風呂からもどるとふたたび土田知則『ポール・ド・マン――言語の不可能性、倫理の可能性』(岩波書店、二〇一二年)を読み、このときまでで一気に85くらいまで読みすすめた。勤勉でよろしい。それからここまで加筆して一時直前。腹が減った。
- 書き抜きをしたいと思っていたのだが、背を丸めた姿勢での記述によって腰が疲れていたので、ベッドに寝転がることに。コンピューターでウェブを見たり何か読んだりしても良かったのだけれど、パソコンを持つのが面倒臭く感じられ、とすればやはり書物だなというわけでまた読書をすすめた。二時頃までで、107まで。大変勤勉でよろしい。上に、ド・マンは精神分析とは距離を取っていたとあやふやな記憶を記したが、それはおそらく半分以上誤りで、というのも93にド・マンがジャック・ラカンについてのレクチャーをおこなったという情報が出てくるからだ。七五年にイェール大学でやっていたらしいのだが、そこで、「フロイトやニーチェと同じく、ジャック・ラカンは真実を拒むという言語の不気味な力を承知しておられる人たちの一人です。とはいえ、言語は決して真実の追求を止めることがないということも承知しておられるわけですが」と述べたと言う。
- このⅣ章は「歴史」概念および「歴史学」の思考法についてド・マンやその周辺のひとびとは仮借のない懐疑を差し向けたし、その趨勢はヘイドン・ホワイトとかアーサー・ダントーのような歴史学方面の論者、すなわち歴史をナラティヴ(物語)の一形態としてとらえ直し、歴史的事実の事後的構築性を強調したひとびとと軌を一にしている、というような話をしている。解説はわかりやすく、簡明で、すでに知っていたり、おおまかには理解している事柄が多くはあるが、それでも書き抜こうという心がたびたび立つ。歴史、もしくは歴史的事実とは一種の構成物であるという考え方は、いまはもうわりと常識的な前提になっている気がするのだが、ド・マンの「歴史」に対する批判的視座は上述のメタヒストリー的論者たちよりも遥かに苛烈だと土田知則は述べており、いわく、彼は「歴史」に抗して完璧に一回的で単独なものとしての「出来事」という概念を採用しているらしい。このあたり、言うまでもないが、(……)さんが最近精神分析理論を援用しながらブログにしばしば書いている、「物語」と「出来事」の対峙図式とかなり重なり合うもののはず。ド・マンの言う「出来事」とは、土田知則によれば、無作為で非因果的なものであり、「他の「出来事」との関係によって生じるのではなく、個々別々に、因果関係の外部において、いきあたりばったりに生じてしまう」ものであり、「そのつど一回限りのものとして、抗し難く到来してしまう」その契機において、「歴史的な時間性や因果の論理が介入する余地はない」(104)。それは「死」のメタファーにたくされて表現されうるものだが、したがって、「出来事」においては「比較」や「影響」の関係が成り立たない。「「出来事」相互間には本来いかなる結びつきも存在していないから」である(105)。いまやあきらかであるはずだが、こうした「出来事」についてのとらえ方は、やはり上述したものだが、精神分析理論における言語未然の世界のあり方の把握と完全に一致しているではないか? 「歴史」とはそうした相互に何の関連も持たない断片として独立自存した「出来事」を、最終的には何の決定的な根拠もなく恣意的に結びあわせてひとつの因果関係=体系=物語をこしらえるすぐれて「文学的」な営みなのだが、ひとはそれを避けえず、それがなければ当然ながら我々の知っているかたちでの人間の社会や文明など存在しえなかっただろう。それは、ひとが避けがたく他者との比較可能な言語世界に参入しなければ、ひととして実存できないのとまあだいたいおなじことではないか。「したがって、問題は「歴史」を「事実」の集積体として再現化・言説化する際につきまとう「恣意性」に対して、いかに意識的・反省的でありうるか、ということなのである」(106)と述べられるわけだが、これは結論もしくは解法や方針としては非常にありきたりのものだと思う。しかし、どうしたってやはりそういうところに落ち着くほかはないのだろう。断片的に諸所でかじっただけの知識をもとに、あまり根拠なく非常に大雑把な印象で言えば、いわゆる「ポスト構造主義」とか呼ばれる時期以降の思潮の多くは、すくなくとも二つの要素を共有しているのではないか。そのひとつは、起源=はじまり、そして終焉=終わりの存在に対する懐疑であり、物事に本質的にははじまりも終わりもないと想定されるそこにおいてはしたがって、事柄ははじまることも終わることもなく永遠に続くということになる。そういう発想はおそらく、西洋の思考伝統のなかではパルメニデスまで遡ることが可能なのではないか。パルメニデスは、世界にあるのは「ある」ということ、すなわち存在ただそれだけであり、生成も変化もなく、もちろん終わりもないのだからしたがってはじまりもない、という存在の全体論を唱えていたはずだからだ。で、個人的にはこの発想にはわりと親近感をおぼえる。ついでに言っておけば、哲学もしくはphilosophyと呼ばれている知的営みは、歴史的に記録されている限りでのその端緒においてまさしく起源=アルケーへの問いを扱っていた。世界のすべてを最終的に構成する統一原理とは何か、というのがタレスからはじまってイオニア自然学派やその後の連中が皆そろって考えてきた問題であり、哲学の歴史的起源はまさしく起源への問いだったと言える(したがって、哲学という営みは、ド・マンが批判する普遍的体系化・全体化への欲望とその暴力性によっていままでずっと生き残ってきたということも可能だろう)。だから、いわゆるポスト構造主義のひとびとが起源という発想そのものに懐疑を差し向けてそれを解体したとするならば、その身ぶりによって彼らは、みずからが依拠し支えられているはずの哲学という思考伝統の起源的あり方をもまた正しく拒否した、ということになるだろう。それはともかく話をもどすと、「ポスト構造主義」的とひとまず呼んでおくことにする思潮が大体において共有しているように思われるもうひとつの点というのは、到達するべきものに到達することは決してできないのだけれど、しかしそこに向かって物事を永久に続けることを決意している、という、ある種のシジフォス的ヒロイズムとでも言い表されうる倫理観ではないのか。「読むことの不可能性、倫理の可能性」という土田知則のこの本に付された副題はその姿勢を簡潔に要約した標語だと思われるし、「デリダ流の言い方をするなら、「歴史」はみずからを定立することの不可能性の中で、その可能性を模索し続けるほかない」(107)ということになる。それはまた、サミュエル・ベケットが表明した有名なモットー、"fail better"とも通じ合うだろう。すべては本質的には失敗でしかないのだが、よりよく、よりマシな失敗をすることを目指す、という行動の姿勢だ。上に「ヒロイズム」という言葉を用いた通り、これはこれでロマンティックな英雄化イメージではあると思うのだが、まあやはりそういうことにならざるをえないのではないか、とも思う。で、いわゆる「ポスト構造主義」とか「ポスト・モダン」とか呼び習わされている思潮の本来の部分はおそらくそういうのっぴきならない切実な倫理観を持ち合わせていたのに、それが俗流化されてシニシズムと結びつき、何の益にもならない関心不在の相対主義に堕したのがこの世界の現状なのではないのか。そこでは、100に至れないならあとのすべては何であっても0とおなじだ、という短絡極まりない思考がまかりとおっているように思われる。だからたとえば歴史的事実に対する認識がどれも等しなみに横並びのものとしておなじ位置に置かれ、完璧ではないにせよ一定の根拠を持った事実観が他者と世界が不在の内閉的妄想みたいなものと同等として扱われてしまう。そんなわけがないのだ。そうした愚劣な純粋還元こそが、一九四五年以降の世界の知的先鋭たちがそろって論難してきた繊細さと誠実さの欠如にほかならないはずなのだ。全体主義を通過してきたひとびとが、この先もはやあってはならないと悲痛さをもって真摯に糾弾したまさにその核心であるはずなのだ。それは50と60どころか90と10の区別もつかないクソ馬鹿どもが悦に入って管を巻いているだけのことなのだが、ただ声が大きく恥を知らないというだけの理由で、そういう言葉が広範な支持を得てしまうというのが西暦二〇二一年をむかえたこの地球という惑星の人類の現状だということを、ここにはっきりと断言し、確かに記録しておく。
- 二時を超えると夜食としてカップ麺を持ってきて、食いながら(……)さんのブログを読んだ。そうしてまた日記を加筆。三時半前。
- ウェブを見てだらだらしたのち、四時半頃で消灯。暗いなかで瞑想を試みた。今日は一日家にいたのでそこまで疲労感は強くなかったものの、明かりを落としたなかで目を閉じて座っていればやはり眠気は生じてきて姿勢が前後にぶれる。それでもだいぶがんばったなと思って目を開けたところが、一〇分しか経っていなかったので驚いた。体感としては二〇分か、そこまで行かなくとも一五分くらいはやったように思っていたので。そうして臥位になってつかの間の安息。四時半にはまだ暗かったのに、四時四五分だともう青いようなあかるみがほのかに射してきていた。