2021/4/22, Thu.

 (……)主体の〈裏をかく〉ことが重要なのだとすれば、〈戯れる〉ことはむなしい方法であり、その方法によって追求していることとは逆の効果さえもたらすということだ。戯れの主体は、このうえなく堅くしっかりしている。ほんとうの戯れとは、主体を隠すことではなく、戯れそのものを隠すことである。
 (石川美子訳『ロラン・バルトによるロラン・バルト』(みすず書房、二〇一八年)、213; 「戯れ、模作(Le jeu, le pastiche)」)



  • 今日はけっこう起床が遅くなった。ほぼ正午である。昨晩はわりと疲労を感じるところまで起きてしまったので。一度、一〇時頃だったかに覚めたときには晴れていたようなおぼえがあるのだが、そこから一一時台にワープしたあとはもう曇っていた。空に青さはない。ただ気温は高く、昨日の夕刊で東京の最高気温は二七度と書かれてあったと思うが、たしかに夏に近いような、すくなくとも初夏と言ってまちがいない空気だし、いまこの文章を書いている午後三時の身もジャージの上を脱いで真っ黒な肌着の姿になっている。
  • こめかみなどを揉んだり頭を左右に転がして首をやわらげたりしてから起床。たぶんここ二か月くらいでからだの感覚はマジで楽になり、改善されてきた。一年前とは本当に別物のからだ。やはり脚の肉をほぐすに如くことはない。問題は結局のところ血のめぐりなのだ。下半身を脚をほぐして肉体のベースを向上させつつおりにストレッチをやっていればからだはだいぶ調う。からだが調えば精神に余裕が生まれるから生きるのがそこそこ楽になる。
  • 上階に行って前日のカレーの残りで食事。新聞の社会面をひらくと、渡邊守章が死んだという報があった。八八歳だったか? 忘れた。国際面にもどって、プーチンが一般教書演説か何かをして対米姿勢を明確に打ち出したという記事を読む。プーチンの演説がはじまるのとほぼ同時刻に、極東のほうではナワリヌイ釈放をもとめる抗議がおこなわれたと言う。プーチンおよびロシアにかんしては昨晩テレビでもやっていて、その記憶をもうここに書いてしまうが、なんという番組だったかわからないもののたぶんNHKではないか。プーチン体制の強権性について語るもので、反政権的な学校教師が証言していた。そのひとは学校の、「愛国的」な教育方針に反対して辞めさせられたらしいのだが、短く映った学校の授業の様子はたしかに、中年くらいの女性教師がナワリヌイの本当の目的はなんですか? とか生徒たちに問い、日本の教室のように教師と相対するかたちではなくもうすこし円になるような、あるいは四角いラインで机が配置されていたかもしれないが、ともかくそうして席に就いた生徒たちはみんな声を合わせて、権力を奪うことです、みたいなことをこたえ、教師はそれを受けてさらに、ナワリヌイのような考えをひろめてはなりません、その目論見を阻止しなければなりません、とかなんとか、ちょっと記憶がさだかでないのでたぶん文言はけっこう違うと思うがそんなようなことを追加で発する、という感じの様子だった。生徒たちの声は低くて、あまり熱心そうではなく、退屈な既定路線にしたがわされているという感じがないでもなかったが。あとは辞めさせられた教師が学校側と話したやりとりの音声も流されたが、教師が、かならず国を愛さなければならないというのは誤っていると言うと、プーチン大統領のおかげで仕事がもらえているということをあなたは理解していますか? とかいう回答がよこされるのだが、単純な話、プーチン大統領を愛することと国を愛することとはイコールではないだろうと思う。ただ若い世代の一部はべつとしても、ロシア国民はまだまだプーチンを、熱烈にかそれなりにかは個々あるにせよだいたいのところ愛してはいるようで、ソ連時代を知っているひとの証言も出ていたのだが、そのひといわく、ソ連崩壊あたりの混乱と比べるといまはともあれ安定している、若い世代が言う民主的でより自由な体制よりも、経済や治安の安定性と生活の安心のほうが大事だ、ということらしい。ソ連の頃から生きているひとはやはりそう考える者がきっと多いだろう。ひとまず今日と変わらぬ明日が来ることが確実で飯も食える、そういう現状維持を望むわけだ。そのひとはまた、ロシアは皇帝時代にせよソ連時代にせよ指導者が短い期間で変わるということを経験してこなかった、そういう民主的な、頻繁な政権交代の体制はロシア国民の資質に合わない、とも言っていた。あとはヨーロッパから離反したロシア意識というものもやや高まっているようで、以前はロシアはヨーロッパだと思うかというアンケートに半分ほどのひとが肯定していたのだが、いまは六割くらいがヨーロッパではないとこたえていると。かといってアジアというわけでもないだろうから、やはりロシアはロシアだという一国的、国民国家ナショナリズムが盛り上がっているのだろう。クリミア併合もウクライナを攻めるのもその範疇だろう。中国にせよロシアにせよ、アメリカの人種差別や陰謀論の蔓延にせよ、米国も含めて西欧諸国での極右の伸長にせよ、ミャンマー、タイ、香港、台湾とアジアの国々の状況にせよ、中東地域の引き続く政情不安にせよ、まるで第三次世界大戦前夜、という印象はやはり生じる。
  • 食器を洗い、カレーの鍋も洗剤を泡立てて漬けておき、風呂洗い。出ると茶を用意。一杯目の湯を急須に入れて待つあいだ、南窓の向こうをぼけっとながめる。風はそこそこ流れて若緑のあかるい樹々は揺らいでおり、(……)さんの家の鯉のぼりも、絶えずすこしずつ動いており、風の向きや吹き方に合わせて一団で踊るようにまわるように動き、ときに大きく浮かび上がってまっすぐ横向きに泳ぐがそれは長くは続かずまた落ちて、全体としてそれらがしずかに音のない演舞として展開される。茶を持って下階の自室に帰り、Notionを準備。そういえば起きたときに(……)さんからメールが届いていて、急で申し訳ないが明後日の会議が中止になったとあったがこちらとしてはむしろ願ったりのことだ。ただそのかわり、五月は二回会議があるようなので、あまり喜べないが。今日は本当は休みだったのだが、昨日出勤を頼まれてしまった。仕方がない。やはり二日に一日はまったく用事のない休日がほしい。
  • 茶を飲みながら(……)さんのブログを最新だけ読み、それから『金井美恵子エッセイ・コレクション[1964 - 2013] 3 小説を読む、ことばを書く』(平凡社、二〇一三年)。高村智恵子についてけっこう長い文章があった。あとは「猫好き」に対する反感もしくは嫌悪と似たようなものを「ロシア文学好き」にいだいていて、まれな例外を除いてドストエフスキーが好きだという人間とは付き合いたくないと思っていたのだが、それは小林秀雄黒澤明と新劇によってそういう偏見を醸成されてしまったのかもしれず、しかしナボコフの『ロシア文学講義』を読んでそこから解放された、というような話があった。とりわけチェーホフの『犬を連れた奥さん』(もしくは『犬を連れた貴婦人』)についてのナボコフの分析は、このすばらしい短篇を読むのとおなじくらいのすばらしさを感じさせてくれる、とあったので、チェーホフも読みたくなったし、ナボコフの『ロシア文学講義』も、これは小笠原豊樹すなわち岩田宏が訳しているようなのだが、モスクワに行ったときに兄の書棚に見つけてもらっていいかと聞いて持ち帰ってきたからいま河出文庫の上下巻が手もとにあるので、さっさと読んでみたい。ほか、武田百合子東海林さだおをならべて同種のものを感知している紹介文があるのだが、そこにある、夏の夕方に冷えたビールを飲むときの感覚を描写する東海林さだおについての「実に繊細なしかも歓びに充ちた詩的で触覚的な文章」(317)という評言とか、「なまなましい知性、それとも、決して大袈裟になることのない細やかな好奇心」(319)とか、「五官のモラル [﹅6] としか呼びようのない「美」に、潔癖なまでに忠実な文章家」(同)とかいう文言を見るかぎり、これはあきらかにこちらの路線なので興味をいだく。武田百合子の日記がすばらしいというのはおりおり聞くが、東海林さだおというのはほぼ初耳。毎日新聞に『アサッテ君』を連載していた漫画家なのだ。ところでその話のなかに、東海林さだおのそういう描写について若いインテリの友人に話したらロラン・バルトみたいだねと言われた、とあって、それは『彼自身によるロラン・バルト』のなかでバルトが「キリキリに冷えたビールを好む」と書いていることを踏まえた発言らしいのだが、これについてはこちらの記憶になかった。そんなことが書かれている部分があっただろうか。好きなものと好きでないものを列挙している断章のなかだろうか? と思っていま手もとの『彼自身によるロラン・バルト』、すなわち佐藤信夫の古いほうの訳をひらいてみたところ、たしかに、「私は好きだ、好きではない」と題されたその断章のなかに、「冷やしすぎのビール」(178)と書きつけられてあった。こちらはどちらかと言うとバルトの好きでないもののほうに注目していて、石川美子訳のほうでそこを一部書抜きもして、何日か前の日記の冒頭に引いたところだったと思うが、好きなもののほうはあまりよく見ず印象に残っていなかったようだ。
  • 二時にいったん洗濯物をしまいに行き、タオルなどたたんでおいて、もどって書見を三時頃まで続けて、それからこの日のことをここまで記述。いまは四時になるところ。五時過ぎには出なければならない。日記をさっさと書かないとほかの仕事ができやしないので、ほかの仕事と言ってもべつに仕事と呼べるほどのものを持っているわけでもなく、強いて言えばTo The Lighthouseを訳すとか詩作を試みるとかいうくらいなのだが、ともかくそっちに取りかかる気持ちにならないので、さっさと書き流してしまいたいのだが、働いてくるとそれなりに疲れてあまり文を吐くという気にならない。
  • 腹が減ったので上階へ。たぶん業務用スーパーで買っただろうと思われる冷凍の豚肉こま切れをフライパンで適当に焼き、米に乗せて醤油をかけて食うという、阿呆みたいに単純なものをこしらえて自室に帰り、(……)さんのブログの今度は四月二〇日の分を読みながら食した。すぐに食べ終えて上階に行き、食器を洗って片づけておくと先ほどは放置した肌着やパジャマ類などもたたみ、また帰室。母親は今日は職場の会議で昼食を食べてくるかもとか言っていたがまだ帰っておらず、父親もどこかに行ったようで不在。出勤までに昨日のことをいくらかでも書き足したいが、瞑想もしたい。
  • 昨日の往路のことを記述。職場に着いたところまでで切りとすると四時五〇分くらいだったか。それか四〇分過ぎくらい。瞑想をやる時間がもうなかったので、せめてもストレッチをしながら目を閉じようと思い、合蹠などを多少やる。合蹠しながら瞑目して五分くらいとまっているとマジですっきりする。左の膝は相変わらず最初のうちは軋むが。その後歯磨きし、スーツに着替えて出発。父親が帰宅しており、何の用だったか知らないがワイシャツにスラックスの姿だった。居間の椅子に就いているところに行ってくると告げて、出発。玄関を出て道に入り、西へ。道の上にはもう太陽の照射はないものの、左側の、近所の家々を越えた先、南の川向こうの樹々や山にはまだあかるさがかかって若緑がやわらいでおり、それで気づいたがいまは曇天の武装が融けて雲はそこそこ残ってもいるがすっきりとした青さが覗いている。公営住宅前まで来ると、ガードレールの下を埋めている草のなかに、数日前からもうそうだったがツツジがあらわれはじめている。ピンクのものが一種でこれはだいぶ小さな花姿、それよりはすこし大きめの白い種もあった。(……)さんの宅の庭や段上にもツツジが色を乗せている。坂に折れて上っていくと、からだの感じが、わりと面倒臭いな、という、ちょっと気だるいような感じだった。脚の、太ももとか臑のあたりも、歩を踏むにあまりかろやかにこたえてこない。坂道の路上には落ち葉などに混ざって薄紫色を帯びた極小の花弁がたくさん散っており、小さい上にさらに縮んだように丸く巻かれたようになっていてずいぶんまずしいような姿だが一定範囲のあいだずっと点じられており、桜を思わせないでもないが薄紫色だから桜ではないはずで何の花なのか知れない。みなもとを探してきょろきょろしてみたけれどどこから来たのかもわからない。出口まで来て表通りに当たるとここでは西陽があってあたりの緑が黄色い風味をかさねられてなおさらあかるくやわらかい。渡って駅に入れば階段も陽射しがまぶしく、上がると前方から男子小学生二人がやってきて、帰宅後に連れ立ってどこかに行くのだろうが二人は兄弟ではないはずだけれど揃いの色違いのリュックサックを背負っていた。その子らのあとにホームに入り、ベンチに就いて、そこでもうアナウンスが入ったのだが電車が入線してくるまで目を閉じて休む。瞑目の視界は鮮やかなまぶしさに浸され、顔の左側からは光の温もりが寄せるとともに、右側、すなわち東のほうからは風が当たってきて涼しい。
  • 乗車。席があまり空いていなかったので扉際に立って待つ。目を閉じて、すこしでも休もうとする。
  • (……)
  • 帰宅後、『金井美恵子エッセイ・コレクション[1964 - 2013] 3 小説を読む、ことばを書く』(平凡社、二〇一三年)。324から350まで。今日は260から読みはじめたので、もう九〇ページ読んでいるわけで、最近はよく本を読んでいてよろしい。武田百合子はどうもやはり面白い、もしくはすばらしい模様。先ほど読んだページでは武田百合子とならべられていた東海林さだおは、〈繊細なせこさ [﹅3] 〉という形容をあたえられていて、それは「ロラン・バルトから東海林さだおにいたる系列である」(325)と言われている。このひとのエッセイとか日記とかも面白そう。武田百合子についてはたとえば、「日々の雑記にすぎない [﹅10] ものが、みずみずしく優しい眼のなかで、いくつもの偶景的なしぐさ [﹅3] や言葉が、やわらかでなめらかな素早い猫の動きのように書きとめられる」(329)とか、「圧倒的であると同時に、実に何でもない日常的なあれこれの細部と事実をこまやかに丹念に書きつづった文章」(333)とか言われており、大江健三郎島尾敏雄埴谷雄高もおのおの「賞讃」(332)したり「感嘆」(同)したりしているらしい。もっともそこで用いられた言葉には、金井美恵子自身は不満だったようだが。ともあれ金井美恵子が言う武田百合子の文章の魅力を読むに、これはあきらかにこちらの関心の領分で、想像だけれどたぶん(……)さんの文章のような路線なのではないか。ありがちな言い方だが、やわらかく、やさしく、かろやかなエクリチュールというか。そうだとして、それはなんか羨ましいというか、こちらもそういうこまやかでみずみずしい文章を書きたいなあという欲望がないではないのだけれど、こちらの場合どうしてもなんか偉そうになるというか、堅苦しいような、形式張ったような、なんと言えば良いのかわからないのだけれどともかくこまやかとか、やわらかいとか、かろやか、という感覚の文章にはどうもならない気がする。まあしょうがないし、この日記の文をどうこうしていこうという気ももうないのだけれど。そういう文が書けると良いなあと漠然と憧憬はするものの、べつにことさらそうしようと努力する気はなく、ただそう思うというだけで、そう思いながら書き継いでいくうちにおのずと多少そうなったら良いなあと夢想するというだけなのだけれど。ところで夕食後、風呂のなかで考えたのだけれど、夕食時に読んだ夕刊の、ロンドンとディケンズについて書いた記事で、『オリバー・ツイスト』について紹介されている部分にかんしては特に興味を惹かれなかったのに対し、"Night Walks"という、ディケンズが夜歩きに出てロンドンの事物や人間をスケッチ的に書いたらしい小篇があるというのには、それは読んでみたいなと思ったのだったが、しかしこの篇は邦訳されていないようなのだが、そういう興味の動きを考えるに、自分の関心というかほとんど生理的な、身体的な欲望の向く先って、やはり物語ではなくてエッセイ的なものというか日記的なものというか、世界のささやかな細部を観察してやわらかく拾い上げるようなタイプの文章なのだろうなと思った。読み書きをはじめて一年くらい経てばたぶんそういう方向に関心がもう大方水路づけられていたと思うし、そこから本質的にたぶん何も変わっていないのだと思うが、しかしいままでエッセイというジャンルの文章にそんなに積極的に惹かれ触れてこなかったのだけれど、こちらの性分としてはむしろそっちのほうが合っているのかもしれないとちょっと思った。まあこんな日々の記をつけていていまさらといえばいまさらだが。それに、エッセイと言っても色々あって、読んだことがないが武田百合子とかそういう方面のものを考えると、それって結局は『枕草子』の路線でないの? という気もされ、つまり平安朝古典に端を発する日本の文学のひとつの大きな系譜の範疇ではないかというわけで、そうすると俺のこの関心とか性分とかってずいぶん伝統的な、古めかしいようなものでないの? という感じもしてきて、そうなるとなんかなんだかなあという思いも生じてこないでもないのだけれど、ただ一方でエッセイと言ってたとえばムージルみたいなやつもあるわけだし、小説についてよく何でも書くことができるとか、まあ実際に何でも書くことなどできはしないのだけれど、すくなくとも原理的には小説は何でも書いて良いとか言われることがよくあると思うが、小説だけでなくむしろエッセイも何でも書いて良いたぐいの文章形式なのでは? ということもちょっと思った。エッセイと呼ばれるジャンルも曖昧でひろくてよくわからんが。だから、エッセイと言い小説と言い物語と言い詩と言って、それは明確に截然と分けられるジャンルであるわけがなくてあくまで便宜的で不完全な概念に過ぎず、これから先もずっとそうであり続けると思うのだけれど、現代においてはなおさら、ジャンルというよりもどんな文章のなかにもそれぞれ含まれている要素として考えたほうが良いのかも知れない。エッセイ的なもの、小説的なもの、物語的なもの、詩的なものが、文学と呼ばれる種類の文章のなかにはどれにもおのおのの配分で含まれていて、もしかしたら文学と呼ばれる種類の文章を越えてもっと広い範囲の文章でも同様なのかもしれず、それらの混合の仕方や度合いがその文章独自の特徴とかにおいとか色彩とかをある程度まで決定づけている、と。べつに目新しい考えではないし、その混合の度合いを分析したところでその文章独自の香りを解明しきれるはずのものでもないだろうが。
  • あと、今日読んだ金井美恵子の、「読んだから書く」という短い文章のなかに、「それならば、いっそ、本を列挙して次々と読むこと、本と本の間の差異と反復を、退屈も含めて読みとったり [﹅6] などしないで、ただひたすら読むことを続ける夢想にでもひたって、ベッドに横たわり身体を伸して、いつの間にか、それとも気づかずに眠ってしまう、という一種アモルフな楽しみのほうが、まだ、ましなのではないだろうか」(307)とあるのだが、この、「本と本の間の差異と反復を、退屈も含めて読みとったり [﹅6] などしないで、ただひたすら読むことを続ける」というのがやはり良いというか、なんか本当はそういう感じが良いというかそれで良いのではないか、とも風呂のなかで思った。本当にもう、ただ読むだけというか。むろん、ここでも金井が「夢想」と言い、実際にはその「ただひたすら読むこと」は実現されずに気づかぬうちに眠ってしまうというかたちで書かれているように、「ただひたすら読む」ことなどできるはずもないのだけれど、方向性としてはそういうものが良いなというか、本を読みながら、まあ知識を仕入れたり歴史を学んだり世のことを理解したり知見に刺激を受けたりというのも良いしそれはそれで必要不可欠なのだけれど、何も難しいようなことをそこから発して考えず、批評などということもやろうともせず、読んだことが自分の文章を書くことにもつながらない、なんかそういうほうが良いな、と。実際にはどうしたってつながってしまうのだけれど。最近はとにかくもう楽に生きたいと、読むにせよ書くにせよ働くにせよ何をするにせよなるべく疲れないようにやりたいとそれがこちらの欲求のだいたい尽きるところになってきており、だからより負担のない、気楽で気軽で力を入れずにできる、過ごせるということが魅力的になっておりそういう精神性を涵養しようともしているので、そういう風に思うのだろうが。要するに自然さということで、ありがちな言い分だが、毎日の単なる習慣としてやるような、こだわりのなさ。だから例によって多く使われる比喩だが、食事とか呼吸とかとおなじ、みたいなことで、食事というよりむしろ排泄か? と思ったところで思ったのだけれど、排泄って洗練しようがないな、と。これらは能動性があまりいらないというか、ことさらに意識せずに毎日やるたぐいの習慣的な行為で、腹が減れば食うし、食えば出すし、そもそも息をしなければ死ぬというそういうものなのだが、食事はそれはそれでひとつの快楽をもたらすものだし、非常に文化的な歴史と蓄積が莫大なジャンルでもあるから、そういう快楽を最大化したり繊細美妙にしたりする技術とか環境づくりとかも整備されており、だから洗練と卑賤とが一応あるわけだし、呼吸も、呼吸法なんていう知見が色々あることや、また自分自身の身体的な感覚経験を考えるに、微妙なところではあるが一応洗練がありうる。ところが排泄って、洗練のしようがほぼないのではないかと。小便を出すにせよ糞を垂れるにせよ、格好良い排泄とか、よりすばらしい排泄とか、意義深い排泄とか、奇妙奇天烈な排泄とか、そんなものまずありはしないだろう。排泄行為そのものではなくてその周辺の、トイレの整備とか、そういったことには洗練はありうるだろうが、排泄すること自体はからだと腹のなかで自動的に調節されたものを出す以上のことではなく、そこに技術もクソもほぼない。あったとして、なかなか出てこないものを出しやすくする程度のことでしかないだろう。その洗練のなさ、技術の不在が、ただする、ということにより近いような気がして、だから読書というと他人の文章を我が身に取りこむという意味から類推的に栄養を体内に取りこむ食事の比喩が用いられることが非常に多いのだけれど、ただ読むというのはむしろ排泄のようなこととして考えたほうが良いのでは? と思ったのだった。本を読むとたしかに、何かすっきりするようなところもないではないし。
  • 深夜にアイロン掛け。