いつもニーチェのことを思う。わたしたちは繊細さの欠如によって学問的となるのだ。――それとは反対に、わたしは劇的で繊細な学問をユートピア的に想像している。アリストテレス哲学の命題 [訳注271: ここでは、アリストテレスが、学問を「理論」「実践」「制作」の三つに分類したことをさしているのであろう。] をカーニバル的に転覆させることを目ざし、せめて一瞬でも、〈差異の学問しかないのだ〉とあえて言うような学問を。
(石川美子訳『ロラン・バルトによるロラン・バルト』(みすず書房、二〇一八年)、243; 「劇的になった学問(La science dramatisée)」)
- 一一時四四分の離床。昨晩は夜ふかしして就床が五時だったので、あまりよろしくないが、滞在としては七時間以下になっている。瞑想はいったんサボり、水場に行って顔を洗い、うがいをしたりトイレに入って放尿したり。それから上階へ。天気は曇り気味だが、薄陽が漏れるときもあってよくわからない、移り変わりの頻繁な空。ジャージに着替え、洗面所で髪をとかし、フライパンで卵を焼いて米にのせた。大根の味噌汁も持ち手つきの小さな鍋にのこっていたのでそれもあたためて椀に入れる。そうして居間にうつり、卓について食事。例によって黄身をくずして醤油をかけ、米と混ぜて食べる。新聞はいったん各ページをさらってから一面を読む。「奔流デジタル」がつづいており、SNSが社会的言論にたいしておおきな影響力をふるっているとの話がなされていた。つまりTwitterなどが基準や原則や具体的な仕組みをあまり明確にしないまま投稿を削除できるようになっているので、民間の一企業が言論空間をある程度統制してにぎっていることになると。ドナルド・トランプの発言を削除したり、あとアカウントを凍結したのだったかどうだったかわすれたが、そのような対処をとれたということ自体、Twitterが大統領の発言の生殺与奪をにぎっていることの証左にほかならないと。このような状況はあまりよろしくないものだということは当のSNS運営企業側からもいわれており、三月に米下院公聴会で、FacebookのMark Zuckerbergは、こうした状態は健全なものとはいえない、みたいなことを述べて、政府がなんらかの法整備をすることをもとめたという。だから、規制される側がみずから規制をもとめるという異例の事態となったわけだ。
- 一面にはあと憲法改正等についての世論調査の結果がのっていた。改正に賛成するひとは五六パーセントで、反対が四〇パーセント。前回は賛成がほぼ半数くらいで、差がひらいたと。コロナウイルス騒動で政府がより強力に対処できるようにしたほうがよいというかんがえがひろまってきたとか、あと、中国が尖閣付近にたびたびあらわれていることによる危機感が憲法改正への支持と機運をたかめている、みたいなことが書かれてあったが、そんなもんかな、という感じ。中国の尖閣進出にかんしては、脅威に感じているというひとと、多少は、という回答とあわせて九五パーセントが一定以上の脅威をおぼえている、ということだったが。安全保障関連法を評価するという声も以前よりおおくなったらしいのだが、この点はあまりよくわからない。成立以来それがじっさいに運用されためだった例なんてあまりなかった気がするし。たしか一度、なにかのときに適用例としてつたえられたおぼえがあるのだが、わすれてしまった。とおもっていま検索してみるとしかし、佐賀新聞の批判的な記事が出てきて(https://www.saga-s.co.jp/articles/-/652858(https://www.saga-s.co.jp/articles/-/652858))、「この間、集団的自衛権の行使につながる活動はなかったが、平時から自衛隊が米軍の艦艇などを守る「武器等防護」の活動は増え続けており、自衛隊と米軍の運用の一体化が常態化している」、「安保関連法はこのほかの分野でも自衛隊の活動を広げた。国連平和維持活動(PKO)で、襲われた他国の要員を助ける「駆け付け警護」なども新たな任務になり、実際の活動はなかったが、南スーダンPKOに派遣された陸上自衛隊部隊に発令された」、「特に増えているのが米軍の艦艇や航空機を守る活動だ。19年は14件、20年は25件に上った」とのことだ。南スーダンのことを完全に失念していた。たしか自衛隊のひとが書いたジュバ日誌みたいなものが出ていたはずで、それはちょっと読んでみたい。
- 食器を洗い(このときには窓外がかなり灰色になってきていて、雨が来るのではないかとおもわれたのでもう(洗濯物を)入れるかと母親にきいたのだが、まだ出しておくという)、風呂場へ。浴室にはいる前、洗面所で屈伸をくりかえす。それから風呂洗い。すませるとポットに湯を足しておいていったん帰室。コンピューターに触れてNotionを用意し、急須と湯呑をもって上階へ。便所に行って排便してから茶をつくる。そのあいだに母親がスマートフォンでおくられてきた(……)ちゃんの動画をみており、みせてもらうと、スケートリンクにいるところで、補助員的な男性に手をつながれながら、髪を左右にふたつ分けで結った(……)ちゃんはよちよち歩きのペンギンみたいな感じでややふらついたりかたむいたりしながら小幅にあるいていてかわいらしく、そのまわりをロシア人の子どもらがスイスイすべってなかには身をしずめながらくるくる回転してみせる達者な女子もいる。茶を用意すると自室にかえり、昨日買ってきた東京會舘のクッキー詰め合わせ(「プティガトー TK-6」)をつまみながら一服しつつ過去の日記を読んだ。
- 日記の読み返し。二〇二〇年五月三日。この日は六時間弱、文を綴ったとあって、こいつすげえなとおもった。夜歩きに出ている。「進む裏通りには散り伏した落葉の量が増えていたような気がする。歩きながら一瞬、ホトトギスの音[ね]が耳に触れたようにも思ったが、これは多分空耳で、一軒のなかから漏れてきた何かの音がそんな風に響いたようだった。それをきっかけにしかし、そう言えばそろそろホトトギスが鳴き出す頃合いではないか、初音の時候でないか、去年だか一昨年だか、と言うか毎年のことかもしれないが、夜も深まった午前三時くらいに声を張っているのをよく聞いたものだ、と思い出す」とあるが、今年もまだホトトギスを耳にしていない。ほか、安西徹雄について。
一一時頃まで日記に働いたあと、さすがに身体が凝[こご]ったので臥所に移ってシェイクスピアを読む。福田恆存訳『夏の夜の夢・あらし』(新潮文庫、一九七一年)から「あらし」をいくらか読み進めたのち、安西徹雄訳『十二夜』(光文社古典新訳文庫、二〇〇七年)のメモを最後まで取り、同じ訳者の『ヴェニスの商人』も速めに読み返しておおかた記録を終わらせる。それであらためて感じたのだけれど、安西徹雄の訳はやはりかなり素晴らしいのではないか。隅々まで気が配られてうまく整っているように感じ受けられ、言葉が充実して生気のようなものに満たされている感触を得る。通り一遍でなくてよく考え抜かれているように思われるわけだ。例えば大抵の小説作品のように、単にその作家としての、あるいはその作品としての一つの文体が確立され成型されているというのではなくて、戯曲であるからには人物の台詞でもってことが進むわけだから、それら多様な登場人物ごとの語り口をそれぞれ巧みに訳し分け、いかにも典型的な言い方をすれば彼らにおのおの魂を吹きこまなければならないはずだけれど、そうした困難であるに違いない目標に手が届いていて見事に成功しているような印象である。つまり、いくつもの文体もしくは文調がそれぞれのスタイルにおいてどれも高度な水準に仕上げられ、それらがまさしく作品世界を構成する〈声〉のネットワークとして共存し、協調し合い、共鳴している、そんな手触りがあるということだ。少なくとも文としての日本語の組み立てにおいて、優れた翻訳家だとこちらは思う。『十二夜』の「訳者あとがき」には、次のような彼の持論が記されている。
戯曲の翻訳は、ただ単に、字義的な意味[﹅2]を伝えるのが目的ではない。生きたせりふのいき[﹅2]、その躍動感を、できる限り直に、役者や観客、あるいは読者の方々に追体験していただくことにある。
大体せりふというものは、あくまでもある特定の人物が、ある特定の情況のもとで、誰か特定の相手にむかって、何か特定の情念や思念を、具体的に訴えかけ、働きかけるものである。つまり、何かの行動にともなって発せられる言葉というよりも、むしろ端的に、言葉そのものが行動であり、身振りなのだ。
したがって、せりふを訳すということは、ただ単に意味[﹅2]を伝えることではなくて、この身振りとしての言葉の生動――全人格的な運動の言語的な発動、その息遣い、弾み、ほとんど筋肉的な律動を、できる限り生き生きと喚起・再現するものでなくてはならない。
(……二段落省略……)
つまり、例えばオーシーノとフェステ、あるいはマルヴォリオやサー・トービー、サー・アンドルーでは、そのせりふはそれぞれ独得の、固有のスタイルを持っていなければならないし、他方また、同じ一人の人物であっても、個々の情況に応じて、ある時は重々しく、ある時には軽々しく、またある時は皮肉に、ないしはまたトゲトゲしく挑戦的になるかと思えば、まったくストレートに、感情を吐露する叫びの形を取ることもあるだろう。
(241~242)ここで語られていることが『ヴェニスの商人』及び『十二夜』で、とりわけ後者においては、かなりの水準で実現されているように思われる。『十二夜』は「九本の喜劇を連作した時代」(226)の締めくくりとなる一作で、「まさしくこれら喜劇群の総決算」(同)として位置づけられているらしいのだが、多分シェイクスピア自身の台詞を作る筆致も言わば脂が豊かに乗って冴えていた、そういうときの作品なのではないか。それに加えて安西徹雄の綿密な翻訳能力がすばらしい調和を見せたと、そういうことではないかと想像するのだけれど、この優れた翻訳者もしかし、二〇〇八年に既に亡くなっている。もっと多くの作品を訳してもらいたかったと切に思うが、とは言えシェイクスピアではほかに、『リア王』、『ジュリアス・シーザー』、『マクベス』、『ハムレットQ1』が光文社古典新訳文庫に入っているようなので、これらはいずれ読んでみるつもりだ。
- 「対談:ホー・ツーニェン×浅田彰 《旅館アポリア》をめぐって」(2020/1/5公開)(http://realkyoto.jp/article/ho-tzu-nyen_asada/)を読んでいる。
浅田 この作品の中に出てくる京都学派について、予備知識を持たない聴衆の方々のためにきわめて基本的なことを言うと、ふたつ大きな問題があると思います。ひとつは、特に西田幾多郎に言えることですが、ロジカルというよりはレトリカルだということ。もうひとつは総じて非常に図式的だということです。
前者に関しては、鈴木大拙と比較してみればいい。彼は西田と同世代で親しい関係にありましたが、禅をはじめとする仏教について英語で書き、ジョン・ケージや抽象表現主義者といったモダニストたちにも大きな影響を与えた。大拙がかなりロジカルに書いていて、わかりやすかったからでしょう。しかし西田は、それより真面目だったというか、座禅などの体験において体で感じ取るべきこと、言葉で言えないことを言葉で言おうとしているので、非常に無理のあるレトリックを反復していくことになるんですね。だからロジカルに理解することがとても難しい。西田に比べて田邊元はロジカルだとは思いますが。
後者は京都学派一般に関して言えることで、特に西洋に対する東洋という形で非常に図式的な議論を組み立てるきらいがあるということです。例えば西洋思想では全体論と要素論、全体主義と個人主義が対立しているが、東洋思想は全体でも要素でもない「関係のネットワーク」に重点を置くものであって、その東洋的関係主義によって西洋の二項対立は超えられる、というわけですね。「人の間」と書いて「人間」というように、人間は全体の一部でもなくバラバラの主体でもなく、関係のひとつの結節点である、と。西洋では全体主義と個人主義の二項対立がある。全体主義の中でもスターリンの共産主義とムッソリーニやヒトラーのファシズムが対立しており、それらに対して英米の自由資本主義が対立している。そうした対立を、関係主義、あるいは京都学派左派だった三木清の言う協同主義で乗り越えられる、と。要するに、東洋の知恵によって西洋の二項対立を全部乗り越えられる、それこそが西洋近代の超克だ、というわけです。しかし、それは図式的な言語ゲームの上での超克であって、現実的に関係主義とはいかなるものか、協同主義はどういう制度なのかというと、よくわからないんですね。
ついでに言うと、西田も1938年から京都大学で行った講義『日本文化の問題』でそういうことを言っているんですが、41年のはじめごろ、真珠湾攻撃より前に、天皇を前にした「御講書始」において、いま言ったようなことを生物学のメタファーで話しています。生物学者でいらっしゃる陛下はよくご存じのことと思いますが、森というのは全体でひとつというのでもないし、バラバラの動植物の総和でもない、エコロジカルな関係のネットワークなのであります、といった感じですね。だから社会もそうでなくてはいけない。アジアに関しても、西洋に代わって日本が全体を帝国主義的に支配するのではなく、トランスナショナルかつエコロジカルなネットワークとしての大東亜共栄圏を築くべきだ。日本はその先導役を務めるべきだけれども、西洋の植民地主義・帝国主義に取って代わる新しいヘゲモンになってはいけない、と。京都学派の主張は総じてこうしたもので、耳障りはいいのですが、それが日本の植民地主義・帝国主義を美化するイデオロギーでしかなかったのは明らかでしょう。京都学派は海軍に近く、陸軍のあからさまな全体主義・帝国主義に対して最低限のリベラリズムを守ろうとしたのだ――そういう見方はある程度は正しいものの、大きく見れば海軍も陸軍と同罪であり、京都学派も同様だと言わざるを得ません。
ひとことだけ付け加えると、西田が禅の体験などについて言っていることは、東洋武術の人がよく言うことに似ています。西洋では、筋肉の鎧をまとい、さらに鉄の鎧をまとった剛直な主体がぶつかり合って闘争が起こり、その結果、次のものが出てくる。これが西洋の弁証法だ。東洋は違う。水のように自在な存在として、相手の攻撃を柔らかく受け止め、相手の力をひゅっとひねることで相手が勝手に倒れるように仕向ける、と。西田の好んだ表現で言えば「己を空しうして他を包む」というわけです。ブルース・リーと同じことで、「水のようであれ(Be formless, shapeless, like water)」という彼の言葉を香港の民主化運動家たちが運動の指針としているのは面白いことではあります。ただ、西田は『日本文化の問題』の中で、それを天皇制と結びつけるんですね。西洋には「私は在りて在るもの(存在の中の存在)だ」という神がおり、神から王権を与えられて「朕は国家なり(国家、それは私だ)」という絶対君主がいる。それが近代では大統領などになり、そういうものを頂く国家が、上から植民地主義・帝国主義で世界を支配しようとするわけです。しかし、東洋は違う。そもそも、日本の天皇は「朕は国家なり」とは絶対に言わない。むしろ、皇室とは究極の「無の場所」であって、だからこそすべてを柔らかく包摂し、トランスナショナルかつエコロジカルな大東亜共栄圏の中心ならざる中心になりうる、というわけです。美しいレトリックではある。しかし、「無の場所」としての皇室がアジア全体を柔らかく包むと言われて、アジア人が納得するとは僕には思えませんが。*
ホー 田邊は天皇が「絶対無」の象徴になるべきだと言っています。この考えはレトリカルにも美学的にも興味深い。でも、浅田さんが最初に言及された鈴木大拙に少し戻りたいと思います。私が鈴木のことを知ったのは、ジョン・ケージについていろいろと読んでいたときです。「カリフォルニア的禅」とでも言いますか、そういうものに対する鈴木の影響について知りました。でもそれより前の鈴木の著作を読んで、強い違和感を持ったと言わざるを得ません。戦後、鈴木は西洋で平和主義者として知られていたと思いますが、たしか1896年、日清戦争直後に、彼は中国との戦争は宗教的行為であると言っているんです。ですから、それ以降に大きな変化があったものと思われます。
他の京都学派の人々が言っていること、例えば『中央公論』に掲載された座談会などを読むと、彼らは戦争に反対していたと言えることは言えます。ただ、彼らが反対していたのはアメリカとの戦争だけであって、アジア諸国との戦争に反対していたわけではないようです。まるで、アジア諸国との間で起こっていたことは戦争と見なすことさえできないかのようで、浅田さんがおっしゃった大東亜共栄圏の理念の下に、日本がアジアに対して発揮するべき道徳的リーダーシップとして、ほとんど正当とされているのです。
浅田さんが指摘された非一貫性は西田の思考システムにも散見されます。でも私は、これらの非一貫性は西田の思考さえ超えて、もっと深く広く蔓延していると思っています。西田そのものを時代の徴候のひとつと見ているんです。例えば禅と武士文化の緊密な関係ですが、浅田さんが語られた禅の柔らかさや液体的な性質の中にも、武士の刀のような硬さが同時にあると思う。私が京都学派に興味を持ったのも、まさにそうした非一貫性や矛盾においてでした。そしてこれは、日本の汎アジア主義における矛盾とどこか通じていると思います。ユートピア的な次元で起こったこの動きが、私には非常に間違ったものに見えてきたし、アジア諸国の多くの人々にもそう見えたでしょう。私にとって、こうした矛盾こそがアポリアであり、先ほど話に出た「深淵」なのです。
もう少し続けると、こうした非一貫性は汎アジア主義の概念それ自体にも見られると思います。真に汎アジア的であるためには、アジア諸国間の国境を何らかの形で解消しなければならない。しかし、20世紀初頭の日本における汎アジア主義的言説は、それが同時にきわめてナショナリスティックな運動だったことを示しています。そういう意味で、20世紀初頭の日本には、歴史に関する非常に興味深く豊かな鉱脈が見られます。当時、アジア各地のナショナリスティックで反植民地主義的な多くの指導者たちが、日本の右翼的で汎アジア的な組織とつながりを持っていたのです。それにはヴェトナムのナショナリスト、インドのナショナリスト、あるいは中国の孫文のような人も含まれます。人が同時に汎アジア主義者かつナショナリストであることができるという、興味深い矛盾がそこにはあります。
やがて私はこの矛盾を、先ほど浅田さんが言及された、「空」や「虚無」の概念に内在する非一貫性、そしてそれを明確に述べることの難しさに結びつけて考えるようになりました。こうして「虚無」はとても柔軟な概念となり、容易に形を変えながら、さまざまな政治的目的に利用することができるようになる。例えばこのようなことを西田と彼の遺産について考えているんです。でも同時に、こういう批判的なことを一通り言った上でですが、私は西田の最初の著作『善の研究』を読んでずいぶんエモーショナルに感動してもいるんです。この本の難解さは悪名高いですけれども、それでも、簡単に言ってしまえば、西洋とどう向き合うか、東洋・西洋とは何を意味するのかという苦悩、そして歴史のこの段階における思考の新しい基礎をつくろうという野心を読み取ることができます。この野心そのものは感動的で、このようなものは現在そう簡単には見つけられないと思います。*
浅田 あともうひとり、《旅館アポリア》にいたら面白いと思うのは、谷崎潤一郎です。『中央公論』の1943年1月号には京都学派の3回の座談会の最後である「總力戰の哲學」が掲載されており、3月号には「總力戰と思想戰」という高山岩男のエッセイが載っています。この1月号はなかなかのもので、新連載として島崎藤村の『東方の門』と谷崎潤一郎の『細雪』も載っている。表紙の左に「總力戰の哲學」、右に『東方の門』『細雪』のタイトルが並んでいるんですが、いま見れば圧倒的に『細雪』の勝利でしょう。藤村は8月に亡くなるので、『東方の門』は連載が始まってすぐに中断され、未完の作品となります。他方、谷崎の『細雪』は、哲学者や歴史家が「總力戰の哲學」を熱く論じている傍らで、大阪の商家の4人の姉妹が、「新しい帯がきゅきゅっと鳴るのは嫌だ」とか言って騒ぐとか、どうでもいいような日常生活のディテールを延々と書いている。すごいですよ。これがすごいということは権力もよくわかっていて圧力をかけたらしく、早くも6月号には連載中断の「お斷り」というのが出る。「引きつづき本誌に連載豫定でありました谷崎潤一郎氏の長篇小説『細雪』は、決戦段階たる現下の諸要請よりみて、或ひは好ましからざる影響あるやを省み、この點遺憾に堪へず、ここに自肅的立場から今後の掲載を中止いたしました」と。現在の表現の自由の問題と絡めてみると面白くて、ここから進歩しているのかどうかわかりませんけど(笑)、谷崎は戦争中もひそかに『細雪』を書き続け、「總力戰の哲學」が忘れ去られたいまも読み継がれる大作を完成させるわけです。そういう意味で、《旅館アポリア》のどこかの部屋で谷崎がひとり机に向かっていてもいいのではないかと思いますね。
ホー 実際、私がこの旅館に招待したいと最初に思った「お客様」のひとりが谷崎でした。最終的に、彼はゲスト出演のような形で作品中に存在することになりました。《旅館アポリア》の大きな送風機がある部屋で、谷崎の『陰翳礼讃』に言及しています。彼は伝統的な日本家屋における床の間について書いていて、電灯は床の間の闇を損なってしまうと言っています。谷崎にとって、床の間は常に薄暗くなくてはならない。「虚無」や「空」は直視してはいけないものだからです。電灯を使うと、床の間の空無があまりに明らかになってしまう。私たちは「無」をあまりに明らかに見てしまってはいけないのだと。私はこれが、「絶対無」という概念を基盤に思考を組み立てた京都学派に対する、ありうる最も賢明な注釈のひとつだと思っていました。絶対無は、それをちょっと薄暗がりや影で覆ってあげたほうが良いものになると言えるのかもしれません。
- そのあとコンピューターをデスクにうつし、『Solo Monk』をながして「英語」を音読。71から100ちょうどまで。読みながら手首や指を伸ばしたり、ダンベルをもって腕をあたためたりする。それで二時くらいだったか? 二時八分から瞑想をはじめたのだ。ヘッドフォンをつけてBrad Mehldau『Live In Tokyo』をながしながらすわった。"Intro"、"50 Ways To Leave Your Lover"、"My Heart Stood Still"が終わるまで。Mehldauはよくいわれることだが左手でも旋律をおりおりつくるスタイルの人間で、やはりこういう音のながれはほかではそんなにきかないような気がする。Mehldau以降の人間はけっこうとりいれているひともおおいのだろうが。Fabian Almazanとかもやっていたような気がするし。右手でながれていたとおもったらいきなりふっとそのつらなりが消えるというか、けっこう下に落ちていて、その飛躍、そこに生まれる段差というのはあまりきかないような気がされて、ここでこううつるんだなあとはっとさせられる。単純な話、旋律感覚の音域がやたらひろいようにおもうのだが、ピアニストはわりとみんなそうなのだろうか? 前にもかいたけれどMehldauのそういうスタイルは右手と左手を対話させているような感じで、ひとりなのだけれどひとりのなかに仮想的にふたつの主体が発生してそのあいだがわりと平等な様子で、平等といっても全篇そうやっているわけではないから曲中の一部なのだけれど、そうやっているときはたがいがたがいのいうことをきいてはまたかえしている。どちらの曲だったかわすれたけれど、右手がバッキングとしてコードを打って左手が低音で強調的にややリフっぽいというか硬めの蛇みたいな動きでメロディをやるところもあったし。そのときはもちろん、通常の階層関係が逆転しているということになる。ところで"My Heart Stood Still"ははじめから終わりまでだいたいずっと、小節の頭がどこなのかあまり自信をもってとらえられないのだが。わかるような気もするのだが、それにもとづいてきいているとうまくはまらないところが出てきたりもして、よくわからなくなる。終始かなりこまかくシンコペーションをふんだんにもりこみながら、いってみればモザイク状に弾いているので。
- そのあと、書見。ヴァルター・ベンヤミン/浅井健二郎編訳・久保哲司訳『ベンヤミン・コレクション 3 記憶への旅』(ちくま学芸文庫、一九九七年)。「ドイツの人びと」を終えて、「一九〇〇年頃のベルリンの幼年時代」に入った。「ドイツの人びと」の最後のほうではゴットフリート・ケラーの手紙が出てきて、ケラーは手紙魔だったというからやや気になる。ヴァルザーが好きな作家でもあったし。ゼーバルトがヴァルザーについてのエッセイもふくんだ『鄙の宿』でたしかケラーもとりあげていて、そのなかでケラーは恋慕した女性の名前を無数にかきつらねることで絵を描いていた、という情報があったおぼえがある。あとニーチェの友人だったフランツ・オーヴァーベックというひとが『ツァラトゥストラ』を書いているころの、すなわち一八八三年の精神を病んでいるニーチェにおくった手紙もあって、ニーチェは一八四四年生まれで一九〇〇年に死んでいるのだけれど、一八七〇年からバーゼル大学の古典文献学の教授をつとめており、だから二六歳で教授になっているわけでたいがい意味がわからないのだけれど、このオーヴァーベックというひともおなじ一八七〇年に三三歳でやはりバーゼル大学の教授になっていて、こちらもこちらで意味がわからない。このころの連中はどうなっているんだ? オーヴァーベックのほうはキリスト教神学の学者だった様子。
- 「一九〇〇年頃のベルリンの幼年時代」というのは一八九二年生まれのベンヤミンがその幼少期の記憶をもとにベルリンという大都市の像をえがくみたいな文章で、これはなかなかすばらしいような気がする。まだ最初のすこししか読んでいないのだが。タイトルのついた断章形式で、文体とか断章のながさとかそこで提示される情報の種類とかはだいぶことなるものの、『ロラン・バルト自身によるロラン・バルト』をおもいおこさせるような感じがないでもない。「序」に記されている、「(……)経験の深みのなかよりも、むしろ経験の連続性のなかにくっきりと姿を現わすものである伝記的な相貌は、以下の想起の試みにおいては、著しく後退することになった。(……)これに対して私は、大都市の経験が市民 [ブルジョワ] 階級のあるひとりの子供の姿をとりつつ沈殿している、そのようなイメージ [﹅4] こそを捉えようと努めた」(470)という言葉は、バルトの本の、「ここにあるいっさいは、小説の一登場人物によって語られているものと見なされるべきである」という文言とてらしあわせてかんがえることもできるだろう。ベンヤミンも、ヴァルター・ベンヤミンという実存的個人ではなく、それをはなれてそれよりもひろがりをもつ「あるひとりの子供の姿」を、ある種フィクショナルにえがきだそうとしたのだろうから。だからそれを、バルト的に言えば、小説ではなくて「小説的(ロマネスク)」なこころみとみなしてもたぶんそこまでまちがいではないとおもうし、どちらの作品もそのように、屈折した、間接的なみちゆきをとった自伝的企図ととらえられるはず。ただ、ベンヤミンの場合はあくまでそこで書きたい対象とされているのは、「あるひとりの子供の姿」自体ではなく、つまり人物ではなく、都市であり、ベルリンという「大都市の経験」が匿名的な一個体を通過することで構成され照射されてたちあらわれるものとしての、都市の「イメージ」である。
- 四時前まで読んで今日のことをここまで記述するといまは四時四七分。
- この日はあとめだったことはおぼえていないのだが、日記はそこそこ書いたよう。風呂でたわし健康法をひさしぶりにきちんとやった。要するにたわしでからだをこするだけで、やっぱりとにかく下半身をととのえるのがからだには大事だからとおもって、脚をこすって肉をやわらかくしようとひさしぶりにやったのだが、はじめると脚だけでなくてほかの場所にも手がのびて、結局背なかとかもだいぶ念入りにこすった。そうするとやはりからだはすっきりして、とどこおりがあまりなくなる。またなるべく、脚だけでもこする習慣にしたほうがよいだろう。ほか、ギターも弾いたはず。いつもの似非ブルース以外に、"いかれたBABY"の進行でひたすらアルペジオをくりかえした。二〇分くらいずっとやっていたのではないか。この翌日も似たようなことをやったが、それは四日の記事に。深夜、下の記事以外に、HumanRightsNow「【お知らせ】国連人権理事会の特別報告者から日本政府に向けて発出された入管法改正案に関する懸念表明と対話を求める共同声明の和訳を発表いたしました。」(2021/4/6)(https://hrn.or.jp/activity/19726/(https://hrn.or.jp/activity/19726/))を途中まで読んだ。下のyahooニュースの記事に、OHCHRのホームページにこの特別報告者らによる日本政府への共同書簡が公開されたとあったので、それを読んでおこうとおもってOHCHRのページをいろいろ検索したのだが、該当の文書にぜんぜんたどりつけず、あきらめて日本語でネット検索すると上のページが出てきたのだった。仮訳以外に原文のPDFもあったので目的を達成できたが、ただ、国連の文書だからなのか、コピペができないようになっている。本当は気になったところを写しておきたかったのだが、それをするには手作業でカタカタ打つしかなく、時間がかかるのでこの日は断念。
- 二時半過ぎ。志葉玲「「日本の恥」となった入管―国連専門家らが連名で批判、入管法「改正」案は国際人権基準を満たさず」(2021/4/7, Wed.)(https://news.yahoo.co.jp/byline/shivarei/20210407-00231381/(https://news.yahoo.co.jp/byline/shivarei/20210407-00231381/))を読む。
(……)一昨年、長期収容中であったナイジェリア人男性がハンガーストライキ中に餓死した事件を受け、法務省/入管は、入管法の「改正」案をまとめ今国会に提出。だが、その法案が、
フェリペ・ゴンサレス・モラレス氏(移住者の人権に関する特別報告者)
アフメド・シャヒード氏(宗教または信条の自由に関する特別報告者)
ニルス・メルツァー氏(拷問及び他の残虐な、非人道的な又は品位を傷つける取り扱い又は刑罰に関する特別報告者)の3人と国連人権理事会の恣意的拘禁作業部会から、「国際法違反」であると厳しく批判されたのだ。(……)
*
今回、国連特別報告者らと国連WGから指摘された入管法「改正」案の問題点は要約すると、主に以下のようなものだ。
・そもそも出入国管理における収容は「最後の手段」としてのみ行われるべきで、在留資格を得られていない外国人の収容を原則として行う入管法「改正」案は、個人の身体の自由について定めた国際人権規約(自由権規約)9条4項に反する。入管法「改正」案で新設する、収容施設外での生活を許可する「監理措置」も例外的なものであり、条件が厳しくその利用が事実上難しい。
・収容の際に入管のみが権限を持っており、国際的な人権基準を満たしていない。収容の合法性について遅滞なく裁判所が判断し、被収容者が救済措置を受けられることが保証されてないことは、自由権規約9条4項に反する。
・入管法「改正」案では収容期間の上限が定められておらず、無期限収容は拷問及び虐待にも当たりうる。
・入管法「改正」で、難民認定申請者の強制送還を一部可能とする例外規定を設けることは、送還後にその個人の生命や自由に重大リスクを生じさせ得る。難民条約33条で禁止されていること。自由権規約7条(何人も、拷問又は残虐な、非人道的な若しくは品位を傷つける取扱い若しくは刑罰を受けない)、拷問禁止条約3条(その者に対する拷問が行われるおそれがあると信ずるに足りる実質的な根拠がある他の国へ追放し、送還し又は引き渡してはならない)等にも違反の恐れ。
また、国連特別報告者らと国連WGの共同書簡は、出入国管理において「子どもの最善の利益」から、子どもとその家族の収容を行わないことを法律で明記すべきだとしている。
*
日本の入管行政に対しては、昨年9月にも恣意的拘禁作業部会が「国際人権規約に反する」「難民認定申請者に対する差別が常態化している」等、極めて厳しい意見書をまとめ、改善を要請している。(……)