列車で、わたしのコンパートメントに、若い二人づれが席をとる。女性はブロンドで、化粧をしている。大きな黒いサングラスをかけ、『パリ・マッチ』誌を読んでいる。ぜんぶの指に指輪をはめ、両手のそれぞれの爪に隣の指とは違う色のマニキュアをつけている。中指の爪はほかの指よりも短く、濃い赤色で、マスターベーションの指であることを下品に示している。そうしたことから、その二人づれがわたしの心をとらえて目を離せなくしている〈魅惑〉について、わたしは一冊の本を書こう(end247)(ひとつの映画を作ろう)と思いつく。そのように二次的な性欲の特徴しか見られないような(ポルノ的なものは何もない)本である。そこでは、それぞれの身体の性的な「個性」がとらえられることになるだろう(とらえることが試みられるだろう)。その個性とは、美しさではなく、「セクシーな」雰囲気ですらなく、それぞれの性欲がただちに読みとられるようにしているその方法である。というのは、爪に下品なマニキュアを塗った若いブロンド女性と若い夫(ぴっちりしたズボンをはき、優しい目をした)は、自分たち二人の性欲を、レジオン・ドヌール勲章のように、ボタン穴にかざっていたのである(〈性欲〉と〈威厳〉は、おなじように誇示される)。その〈読みうる〉(ミシュレならかならず読みとったであろうような)性欲は、抗しがたい換喩の力によって、媚をふりまくよりもずっと確実に、コンパートメントに満ちていたのである。
(石川美子訳『ロラン・バルトによるロラン・バルト』(みすず書房、二〇一八年)、247~248; 「性欲についての本の計画(Projet d'un livre sur la sexualité)」)
- 一一時まえに覚めることができた。二度寝にもおちいらず、こめかみをもんだり頭を左右にころがして首をのばしたりしてから一一時一四分に離床。滞在も七時間未満となったのでよろしい。肩をぐるぐるたくさんまわしながらコンピューターをつけておき、水場へ。洗顔とうがいと小用。もどって今日は瞑想もおこなった。すわってすぐ、雨の気配というか、雨がくるのではないかという予感をおぼえた。窓の外にきこえるウグイスの音の響き方にそうおもったようだが、そもそも窓ガラスが閉じていてそんなに明瞭にきこえたわけでもないのだが。響き方で天気を読めるほどの感覚がこちらにあるともおもえないのだが。しかしそれからちょっと窓をあけてみると、たしかに鳥たちの声はけむいような、こもったような響き方をしているようにきこえて、大気がやや水っぽいような気がしないでもない。天気はむろん曇りだった。ウグイスはたびたび声を放ち、ときおりヒュルヒュルと錐揉み状に狂い鳴く。ほか、ヒヨドリの声が、木枝にたくさんついた果物の房のようにきわだって響くときがある。
- 一一時二一分から四七分まで。上階へ。ジャージにきがえる。母親は、片づけの途中でいまつかれたから中断してやすんでいたところだという。たしかに卓上がふだんとかわっていた。食事は前日のあまりもの。炒めたものや味噌汁など。おたまがないとおもったら台所も配置をかえて、調理器具のたぐいをいぜんは台上というかコンロの脇においていたのを、足もとの戸棚のなかにしたという。取るためにしゃがまなければならないので、それはちょっと面倒臭いが。それで食事。新聞は国際面、エチオピアの内戦が悪化しており、残虐行為が横行しているとの報。アビー・アハメドという首相が、北部ティグレ州の勢力、ティグレ人民解放戦線みたいな名前の組織を相手に掃討をはじめてから半年だと。エチオピアはいろいろな民族が各地にいてその勢力と中央政府とのあいだでけっこう対立があるようだ。ティグレ人は前政権で支配力をもっていたのだが、アビー・アハメドが中央集権的な政府をつくったことで排除されて敵対しているもよう。アハメドは隣国のエリトリアとの水問題を解決しただかなんだかでノーベル平和賞をうけたのだが、そのエリトリアの軍もエチオピア中央政府を支援してティグレ州を攻めており、政権としては最初はティグレ人民解放戦線の幹部連中だけをたおして平定したかったところが、そしてじっさい州都も占拠したらしいのだが、その後もゲリラ的な闘争がつづき、くわえてエリトリア軍の連中が一般民衆の虐殺とかをやるようになって、いまや状況は完全に地獄のような泥沼におちいっているという。エチオピアは人口一億二〇〇〇万人ほどでアフリカ第二の規模と記事中にあったとおもうが、日本とおなじくらいの人口で二位なんだなとおもい、アフリカってもっと人口のおおいイメージがあったんだが、とおもったが、それはたぶん二次大戦後に人口爆発したという教科書的な知識でそうおもっていただけのことだろう。よくかんがえたら、世界の人口のおおい国でアフリカの国の名をみた記憶はたしかにない。一位がどこなのかしらないが。
- もうひとつ、スコットランドで議会選がちかくあるらしく、独立をめざす与党が過半数をにぎるかが焦点だと。党首はニコラ・スタージョン。定数は一二九だったか一三〇ほどで、予想では六五議席から六八議席くらいを与党がとるといわれているらしいので、ちょうど過半数くらい。単独過半数をとれば与党は独立を問う国民投票をおこなう見込みだが、英国のボリス・ジョンソンは独立も国民投票もみとめない方針。前回の国民投票では独立反対が上回ったらしいのだが、イギリスのEU離脱を経たいまだし、もし国民投票がおこなわれたらふつうに賛成派が勝利するのでは、という気もする。あとはアメリカのニュースで、バイデンが難民認定上限を増やす方針と。ドナルド・トランプが一万五〇〇〇人だかに設定していたのをもともと一二万五〇〇〇人だかに引き上げると二月の演説で述べていたらしいのだが、共和党の反対にあって四月中旬に据え置きを表明していたのを、それからあまり経っていないがここで六万人規模まであげることを発表したもよう。民主党左派が批判してせっついたらしい。
- 食事を終え、食器を洗って処理し、風呂洗いへ。浴室にはいるまえ、洗面所で屈伸をゆっくりくりかえして脚をほぐす。それから風呂場にはいって、ブラシで各所をこする。出ると部屋から急須をとってきて茶を用意。母親にきいたかぎりでは午前中には雨は降っていないようだが、南窓のむこうの空気は平坦に灰色がかっているし、あかるさがなく、すでに大気が濡れたような質感にもみえ、雨がちかい気がする。緑茶をもって帰室し、コンピューターを用意して、茶を飲みながらウェブを閲覧。さっさと日記を書くつもりでいたのが、けっこうながくネットサーフィンをしてしまった。連休が今日までで、明日からまた労働なので、目をさました瞬間から焦りが精神のうちに忍び込んでいるのを感じていたが。ベッドで脚をほぐしたりもしつつ二時くらいまでだったか。その後歯を磨き、今日のことを記述。ここまで書くと三時をまわっている。やたらながくなったが二日の記事はきのう終えて、あとは三日と四日を書けば今日に追いつくので、たぶん今日中にしまえるのではないか。
- じっさいその後、前々日、前日とつづって完成した。投稿。それでもうほぼ五時だったのではないか。上階に行くまえに、Oasis『(What's The Story) Morning Glory?』をバックにスクワットとダンベルをかるくやる。結局からだをうごかして筋肉をあたため、血のながれをよくするのがいちばんだ。肉体がととのえばおのずとやる気も出る。そうして上階に行くと、いつもどおりまずアイロンかけ。父親はもう一晩、山梨に泊まってくるらしい。その父親のズボンやエプロンなどを処理し、台所へ。麻婆豆腐にしようとのこと。それに汁物やサラダののこりもあるし、母親が買ってきたサーモンの刺し身などもあるのでそれで充分。こちらがトイレに行っているあいだに母親が肉やエリンギをこまかく切っていたので、それをフライパンで炒める。しばらく炒めて素をパウチからしぼりだし、豆腐もくわえてふたたび加熱。汁気がすくない気がしたので、酒と味醂を入れることに。足して、ちょっと煮込めばそれで完成なので、今日の仕事は楽だった。はやばやと下階にもどると、六時前だったはずだが、今日もまたギターを弾く気になった。隣室にはいって、今日はAブルースはたいしてやらず、すぐに昨日とおなじく"いかれたBABY"の進行で裏打ちのバッキングを反復する機械と化した。三〇分はやっていたとおもう。ふだんそんなに習慣的に弾いていないので、右手の薬指がたびかさなる弦との接触で痛くなった。きのうから集中的にやっているし、このバッキングはそこそこなじんできた感はあるが、とはいえまだまだ。ほか、アルペジオもやり、Eブルースであそびもし、あとOasisの"Married With Children"もちょっと弾いたが、これも練習したいのだけれどあまりジャカジャカおおっぴらにやっているとけっこう音がおおきいのでやや気がひける。この先気が向くようだったら、週末などに街に出てスタジオにひとりではいって三時間くらい弾く機会をつくる生活にしてもよいだろうが、そこまでの余裕はない気がする。
- 終盤、またバッキングをくりかえし弾いているうちに部屋が真っ暗になっていた。自室にもどって携帯をみると、六時五九分。夕食へ。品々をよそって卓へ。テレビはアニメ制作のじっさいの現場を紹介して、どういうふうにアニメがつくられるのか話をきく、みたいなことをやっていた。けっこうおもしろくてたびたび目をむけていたのだが、母親はしかしなんかつまらないねといって、番組をかえようとしたところ、なぜかテレビが消えてつかなくなってしまった。こちらはべつにテレビがつかなくてもこまらないので、電池がなくなったんじゃない、とか、ケーブルがとれてんじゃない、とか適当にいい、母親にまかせようとしたのだが、いっこうに回復しない。それでこちらもちょっとケーブルをみたりいじったりしてみたのだけれど、やはりつかないので、俺の知ったことではないとほうって椅子にもどり、新聞を読んだ。中露が宇宙開発で協力して米国に対抗するうごきをみせているとの記事。国際宇宙ステーションというやつがあり、日米欧露などの宇宙飛行士がおとずれて実験をしたりしている施設で、それは二〇二五年以降どのように運用されるのかが決まっていないらしいのだが、ロシアは二五年以降の撤退を表明しているらしい。つまり、米国への協力をしなくなるということで、一方で中国は独自の衛星をうちあげたり、また独自の宇宙ステーションを着々とつくりあげているらしく、それは「天宮」という名前のもので、その中核施設である「天和」というやつが四月二九日だかにうちあげ成功して、それをいわう会見のなかで習近平が宇宙強国への意欲をあらわに表明したらしいのだけれど、ロシアは中国を支援する見返りとして資金提供をしてもらえるようもくろんでいるようなうごきがあるとか。母親は、テレビがないとつまんないね、しずかすぎて、といい、タブレットでYouTubeでもみるかといって、昭和の名曲みたいな動画をながしていたようだ。この曲知ってる、ときかれたのが竹内まりやで、竹内まりや自体はしっているものの、その曲は知らなかったのだが、それが"駅"というやつらしい。たしかに昭和、というかんじの、歌謡曲的な哀愁みたいなトーンなのだが、あの昭和風哀愁みたいな雰囲気はいったいなんのコードとなんのスケールでかもしだされるものなのか? どうもキーからみて三度のセブンスとかがつかわれているような気がしたのだが。つまり、マイナー調のルートに収束するドミナントというか、ようするにハーモニックマイナー的な、半音下からルートに解決するうごきがおりにはらまれているようにきこえたが、それだけでああいう雰囲気が充分にでるわけではないだろう。そのあと母親は、玉置浩二のベスト音源みたいなものに動画をうつしていたもよう。こちらは食事をおえて皿を洗い、入浴へ。湯のなかで静止。しかし、最近は気温も高めだし湯にはいっていても暑くて、なかなかうまくながくとまれない。窓外には虫の声が、薄い網のように空間に敷かれて宙をおおっており、ときおり風が走るらしく林の樹々が持続音でひびくのもきこえるが、なぜか浴室内にまでは風ははいってこない。
- 出ると九時前。カフェオレをつくって帰室。最近はカフェオレをちょっと飲んでいる。LINEで、今日のWoolf会はふつうにやりますかときいておいたのだが、けっこうみんないそがしいらしく、休みにすることになっていた。了承し、ベッド縁にうつってコンピューターを前に一服したのち、今日のことをここまで記述。一〇時。
- ベッドにねころんで脚をほぐしながら書見。あいまに腹筋とかブリッジもちょっとはさむ。本はヴァルター・ベンヤミン/浅井健二郎編訳・久保哲司訳『ベンヤミン・コレクション 3 記憶への旅』(ちくま学芸文庫、一九九七年)をひきつづき。「一九〇〇年頃のベルリンの幼年時代」をすすめる。ベルリンの各所の地名や施設や通りの名などがでてくる。ベンヤミンの記憶のなかからベルリンという都市のイメージが、むろん断片的にではありながらも、たしかにかもしだされてくるような気がする。だれも、みずからの都市についてはみずからの地図をもっているもののはずで、その地図にしるされている固有名詞のうえには、それぞれの人間にとって、おおくの場合他人とはかならずしも共有可能でない固有のいろどりが置き塗られているがゆえに、その固有名詞は二重の意味において固有の名前となるのだろうし、そのようにしてひとのもつ都市の地図は総体として無二の色彩にかざられた絵画となるのだろうが、そういうことはわりとよくあるテーマではあるものの、やはりおもしろいし、ベンヤミンのなかにもこの無二の地図がたしかにあるんだなあというかんじはつたわってくる。主題としては、家の外の、まちなかの通りや施設や外空間のことと、家のなかのことと、あとはエピソードふうのもの、というくらいにだいたいわけられるか? ベッドのなかにいるときの記述がけっこうおおいような印象で、それだけが要因ではないが、プルーストをおもいおこさせるようなかんじもときにないではない。ベンヤミンはまさしくプルーストを訳していたらしいのだが。出自としても、ベンヤミンはブルジョアのうちでもたぶんかなり金持ちのほうの生まれだったようで、ベルリンのなかの高級住宅地を何度かうつって住んでいたようだし、叔母とか祖母とかの話とか、クリスマスのパーティーの話とか(もっともこれにかんしては、直接連想されたのはプルーストではなく、ジョイスの『ダブリナーズ』の最後にある「死者たち」のほうだったが)、生育環境や所属していた社会環境としてもかなり共通的なのではないか。
- 書見を切りとしたのは一一時台後半だったようす。それから歯磨きをして、上の一段落を加筆。2020/5/5, Tue.をよみかえすことに。「陽の光と雨と風とは、この世でもっとも完全な平等主義者である」とのこと。シェイクスピア/福田恆存訳『夏の夜の夢・あらし』(新潮文庫、一九七一年)を読了していて、中村保男というひとの解説文を、けっこうこまかく部分ごとにとりあげながらけなし、けちをつけている。具体的な分析にもとづかずあいまいで漠然とした言辞でとにかく褒めちぎるような、ようするにあまり質のよいとはいえない印象批評みたいなかんじだったようだが、いちいち解説中の文を引いてはとおまわしに文句をつけているので、よくこんなどうでもよいというか、面倒臭いことに時間をつかおうとおもったな、とおもった。中村保男も、「特にシェイクスピア劇には、作品を分析し比較すればそこはかとなく消えてしまう何かが多分にある」(284)といっているし、訳者の福田恆存も解題で、「翻訳不能の原文の美しさを別にしても、『あらし』の様な作品について、吾々はどうしてその感動を語り得ようか。何かを語れば、作品そのものの、そしてそれから受けた感動そのものの純粋と清澄とを穢[けが]さずには済まされまい」(280)とのべているらしいのだが、この、すばらしいものについてことばをついやせば、それだけそのものをよごし、そこない、おとしめてしまう、というような発想・観念・かんがえかたは、まったくわからないではないのだけれど、こちらにはやはりいまだによくわかりきらない。「吾々はどうしてその感動を語り得ようか」までは容易にわかって、ことばにできないようなすばらしさ、というものは、ありふれたクリシェではあるけれどふつうにあるわけで、とにかくマジでやばい、のひとことでおわらざるをえないような強烈な体験だってときにあるけれど、そこでことばをついやすと作品中のなにかが「消えてしまう」とか、その「純粋と清澄とを穢」すことになるというのが、こちらにはよくわからない。たぶん、どんなことばをもちいても作品のすばらしさや感動を充分に、もしくは正確に、適切にいいあらわすことができないので、ことばがどれもまるでまとはずれというか、いいたいこと表現したいことをあらわすのにちっとも機能せず、作品そのものとどうあがいてもかけはなれてしまうので、その格差が一種の傷とかそこないとかけがれのようなものとして感得される、ということではないかとおもうのだが。これはようするにいわゆる否定神学の論理のはずで、去年の自分もいっているように作品の神秘化であり、神についてことばでかたろうとすることはそれだけですでに神への冒瀆である、というような発想と類同的なものだろう。そうかんがえてくると、ジョルジョ・アガンベンの『アウシュヴィッツの残りのもの』のうちに引かれていた、なんだったか、神の名状不可能性について、みたいな、神のいいあらわしがたさについて、だったか、そんなタイトルの、クリュシストモスみたいな名前の中世の神学者の文章をおもいだすものだが。下の部分だ。
数年前、フランスの新聞にわたしが強制収容所についての評論を発表したとき、ある人が新聞の編集長に手紙をよこして、わたしの分析は「アウシュヴィッツの、類例のない、言語を絶する性格をだいなしにする(ruiner le caractére unique et indicible de Auschwitz)」ものだと非難した。その手紙の主がいったいなにを考えたのか、わたしは何度も自問したものである。アウシュヴィッツが類例のないできごとであったというのは、(将来についてはそうであることを希望できるにすぎないが、すくなくとも過去については)きわめてありそうなことである(「広島と長崎の恐怖、グラーグの恥さらし、ベトナムでの無益で血なまぐさい戦闘、カンボジアでの自国民大量虐殺、アルゼンチンでの行方不明者たちなど、その後わたしたちが目にすることになった残忍で愚かしいたくさんの戦争があったが、ナチスの強制収容の方式は、わたしが書いているこの時点まで、量についても質についても類例のないもの[﹅7](unicum)である」 Levi, P., I sommersi e i salvati, Einaudi, Torino 1991, p.11f)。しかし、なぜ言語を絶しているのだろう。なぜ大量虐殺に神秘主義の栄誉を与えなければならないのだろう。
西暦三八六年にヨアンネス・クリュソストモスはアンティオケイアで『神の把握しがたさ〔理解不可能性〕について』という論文を書いた。「神が自分自身について知っていることのすべてをわたしたちはわたしたち自身のうちにも容易に見いだす」から神の本質は理解されうると主張する論敵たちをかれは相手にしていた。「言語を絶し(arrhetos)」、「名状しがたく(anekdiēgētos)」、(end38)「書きあらわしえない(anepigraptos)」神の絶対的な理解不可能性をかれらの抗して雄弁に主張するとき、ヨアンネスは、まさにこれが神を讃える(doxan didonai)ための、また神を崇める(proskyein)ための最良の言い方であることをよく理解している。しかも、神は、天使たちにとっても理解不可能である。しかし、このためにますます天使たちは神を讃え、崇め、休みなく自分たちの神秘的な歌を捧げることができる。天使の勢力にヨアンネスが対置するのは、いたずらに理解しようとする者たちである。「前者(天使たち)は讃え、後者はなんとしても知ろうとする。前者は沈黙のうちに崇め、後者は躍起になる。前者は目をそらし、後者は、恥じることもなく、名状しがたい栄光を凝視する」(Chrysostome, J., Sur l'Incompréhensibilité de Dieu, Cerf, Paris 1970.(神崎繁訳「神の把握しがたさについて」(『中世思想原典集成』第2巻「盛期ギリシア教父」所収)平凡社、1992年), p.129)。「沈黙のうちに崇める」と訳した動詞は、ギリシア語原文では euphēmein である。もともと「敬虔な沈黙を守る」を意味するこの語から「婉曲語法(eufemismo)」という近代語が派生する。この近代語は、羞恥もしくは礼儀のために口にすることのできない言葉を代用する言葉を指す。アウシュヴィッツは「言語を絶する」とか「理解不可能である」と言うことは、euphēmein、すなわち沈黙のうちにそれを崇めることに等しい。神にたいしてそうするがごとくにである。すなわち、そのように言うことは、その人の意図がどうであれ、アウシュヴィッツを讃えることを意味する。これにたいして、わたしたちは「恥じることもなく、名状しがたいものを凝視する」。たとえ、その結果、悪が自分自身について知っていることをわたしたちはわたしたち自身のうちにも容易に見いだすということに気づかせられることになろうともである。
(ジョルジョ・アガンベン/上村忠男・廣石正和訳『アウシュヴィッツの残りのもの――アルシーヴと証人』(月曜社、二〇〇一年)、38~39)
- ただ、上の記述のなかでは、言語化不可能であるということが讃嘆と崇拝の方法であるとはのべられているものの、言語化をこころみようとすることが冒瀆にあたる、ということは明言されてはいなかった。ただ、その対義的関係の距離は非常にちかいし、あきらかにヨアンネス・クリュソストモスはそうおもっているのだろう。「恥じることもなく、名状しがたい栄光を凝視する」ということばをみるかぎり、そこには、神を「いたずらに理解しようとする者たち」は、ほんとうだったら、「恥じる」はずである、「恥じる」べきである、という意味がふくまれているはずだから。また、クリュソストモス自身でなくとも、それと同種の発想者としてアガンベンがあげている手紙の主にしても、アガンベンの分析は、「アウシュヴィッツの、類例のない、言語を絶する性格をだいなしにする(ruiner le caractére unique et indicible de Auschwitz)」といっているわけで、この「だいなしにする」ということばは、こちらが上でつかった「よごし、そこない、おとしめてしまう」などのことばとだいぶちかいところにあるだろう。で、アガンベンによれば、この手紙の主は、アガンベンの「分析」がそういうはたらきをもつといっているわけで、「分析」、すなわちものごとを個々の部分にわけてそのひとつひとつについて考察をしたり調べたりわかることを述べたりすることは、ものごとの総体性、統一性をずたずたに切り裂いてそのかたちをうしなわせてしまう、という発想がわりと一般的にあるのではないかということをうかがわせるもので、中村保男もやはり「特にシェイクスピア劇には、作品を分析し比較すればそこはかとなく消えてしまう何かが多分にある」といって、「分析」と「破壊」を直結させている。あまり細部にこだわって微に入りすぎて断片化をしすぎることで統一像がみえなくなる、ということはじっさいあるのだろうけれど、しかしこちらとしてはやはりこういう観念は、半分弱くらいはわかるけどもう半分強はわからないな、という感じだ。たぶんそれは性分的なものなのだろうが。つまり要約 - 統一 - 物語化をそもそもあまり信用していないというか、信用はともかくとしても、あまり志向しないというか。いつもながらの結論になってしまうが。でも、分析=破壊の問題と、言表不可能性(言表=冒瀆)の問題は、厳密にかんがえるとちょっとちがっているのではないか? そこをいっしょにしてかんがえていたようだが。
- わりとどうでもよい話にかかずらって時間をつかってしまった。
- それにしても、断片/体系、分析/総合、細部/統一などのこういう枠組みってほんとうにめちゃくちゃ強力だなというか、人類の思考のなかでもっとも通用的な二元論ではないかとおもうし、哲学であれなんであれ人間がかんがえることって全部この二極のスペクトルのなかに包含されてしまうのでは? という気がする。それをもっとも一般的な概念であらわすと、たぶん、「個」と「全」の対立、ということになるのだとおもうが。
- 上のことを書いて日記よみかえしをおえると、音楽をききながら休もうとおもった。それでヘッドフォンをつけて、Oasis『(What's The Story) Morning Glory?』をながしてベッドにあおむく。Oasisなんて正直、ヘッドフォンできちんとじっくりきいたことなくて、ながした回数はけっこうおおいがながしてうたうだけで、鑑賞、というかんじの対象ではなかったのだけれど、なんであれあらためてきけばだいたい気持ちはよい。ドラムの音だけでも、とくにキックとかライドのひびきだけでもわりと気持ちはよい。リアム・ギャラガーってあらためてきくとそんなに歌はうまくないというか、音程とかわりと前後にぶれているけれど、Oasisとかリアムにおいてはそれでなにも問題ないだろう。それにしても"Wonderwall"ってよくヒットしたなとおもった。こちらもべつに好きではあるけれど、サビとか、正直ぜんぜん冴えないというか、ひくめの音域で基本的にながくのびるメロディになっているし、なんかのんべんだらりとしているというか、のらくら者みたいな旋律で、これをライブでやってもふつうもりあがるとはおもえないのだが。リアムの声がここでめっちゃいいわけでもないし。せめて最後の一回くらいは、三度上のコーラスかさねたほうがよかったのでは? という気がする。あと歌詞もよくわからないし。なんでヒットしてすごく人気になったのか不思議だ。"Don't Look Back In Anger"のほうはふつうにわかるが。進行も"Let It Be"だし。しかしこちらが今回きいて印象にのこったのはそのあとで、だからまずは五曲目の"Hey Now"で、この曲は地味で、実にもったりとしていて、とくにドラムがそうなのだけれど、ボーカルメロディもそうで、しかしここではリアムの声がそれに合ってよくひびいているようにきこえて、ゆったりとしたながれ方がなんだかよかった。つぎの"Some Might Say"も同様で、ドラムが実に大味でよい。こっちはサビのメロディは"Hey Now"よりキャッチーでややいろどりがあるのだけれど、この時期のOasisの魅力って、こういうめちゃくちゃもったりしたエイトビートの曲にむしろあったのでは? という気すらした。Oasisのメンバーなどギャラガー兄弟しかおぼえていないが、二枚目のドラムはAlan Whiteで、"Some Might Say"だけは一枚目の、つまり結成時のメンバーだったTony McCarrollというひとがたたいたらしい。ふたりともOasis以外での評判はぜんぜんないだろうし、テクニカルでもないとおもうが、このもったり感は正直かなりよいとおもう。"She's Electric"まできいた。
- そののち、To The Lighthouseをちょっとやることに。ノートをひらくと冒頭からよみかえしてしまうのだが、よみかえせばこちらのほうがよいのでは? という言い方がおのずとおもいつかれて、改稿してしまう。これではいつまでたってもおわらないので、前線をすすめるほうが本当はよいのだが。といって改稿はささいなことばづかいや、読点をたしたくらいである。ただ、never altered a disagreeable word to suit the pleasure or convenience of any mortal beingの部分はきちんとかえないといけないとおもった。ここはRamsayの独白的な部分で、彼が、じぶんは真実の徒であり嘘はつけない、とかなんとかいっているながれで上の一節が出てくるのだが、まえによんだときはなんでわざわざここで人間のことを、any mortal beingなんていう仰々しい言い方をしているのか、というのがよくわからず、いろいろかんがえて「この憂き世に生きるどんな人間を前にしても、その喜びや都合におもねって不愉快な [disagreeable] 言葉を言い換えてはならない」として、「憂き世」でmortalの意味をあらわしたつもりだったのだが、いまよんでみるとあまりうまくはまっていない。ここはおそらく単純に、人間の有限性にあわせてそれよりも高次の、たとえば真理とかそういったことがらをないがしろにしてはならない、というような対比なのだろう。それなので、「誰であれ限りある人間の儚い喜びや都合におもねって不愉快な [disagreeable] 言葉を言い換えたことはないし」とひとまずしておいたが、これでもまだだめである。「命」の語をいれて、命に限りある、とか、限りある命の、とかにしたいのだけれど、そうするとうまくながれない。「儚い」は意訳気味にたしたが、これはよいのではないかとおもう。「儚い」を「人間」のほうにかける案もある。下が改稿後。
(……)
- そのあとはだらだらして、四時半直前に消灯。