(……)想像してみる(ひとつの想像にすぎないのだが)。〈わたしたちが語っているような、わたしたちが語っているものとしての〉性欲とは、社会的な抑圧、人間の悪しき歴史の産物、つまり文明のひとつの結果なのである、と。そうすると、性欲、〈わたしたちの〉性欲は、社会的な解放によって、免除され、失効し、破棄され、〈抑圧のない〉ものになるかもしれない。「男根」は消えうせた、と。わたしたちは、昔の異教(end249)徒のように、男根を小さな神にすることになるだろう。物質主義は、ある程度の性的〈距離〉をおくことによって、性欲を言述の外へ、学問の外へと、〈にぶい〉失墜をさせるのではないだろうか。
(石川美子訳『ロラン・バルトによるロラン・バルト』(みすず書房、二〇一八年)、249~250; 「性欲の幸福な結末か(Fin heureuse de la sexualité?)」)
- 一一時一八分の離床。いちど九時前くらいにはっきりとさめたのだが、チャンスをつかめず。滞在は七時間弱。今日は晴天で、空気もなかなか熱をもっているようす。おきあがって水場に行き、もろもろすませてもどってくると瞑想。からだの感覚がおきた瞬間からかなりすっきりしていて、すわるのも楽だった。労せずしてとまることができる。窓をあけたが、外では鳥の声がたくさんあつまっていて、ピヨピヨと、川の浅瀬をぱしゃぱしゃはねさせるみたいな鳴きがかさなっている。しばらくすわってからまたきいたときにはしかし、ピヨピヨいう連中はどこかにいって、べつのリズムの鳥にかわっていた。風がいちどおおきく生まれて、あたりの草木を鳴らし家にあたってきたときがあったが、それでもなぜか部屋内にまではほぼはいってこず、肌に触れず、かんじられるのは肌からすこしだけはなれたところの空気がわずかにすずしくされたことだけ。
- 一一時二八分からだいたい二〇分。上階へ。テレビはまだつかないらしく、タブレットで番組がながされていた。ジャージにきがえ、髪をとかし、食事。麻婆豆腐ののこりなど。今日は新聞が休みで、昨日の朝刊をまたよんでもよかったのだが、たまにはなにもよまずに食事するかとおもってよまず。タブレットのちいさな画面のニュースをみたり、外のあかるい空気に目をやったりしながらものを食べる。(……)さんのおばあちゃんに会った、と母親はいったが、(……)さんの家におばあちゃんなる存在がいたのは知らなかった。奥さんしかわからないのだが、その母親ということだろう。実母か義母かしらないが。もうけっこうな歳ではないか。ほか、あんな材木なんかもってきてどうするんだろうっておもうよ、余計なことしなければいいのに、畑をいろいろ加工して、将来うごけなくなったらどうするんだろう、と、いつもながらの、父親がものをふやしたりなんだりすることにたいしての懸念と文句。
- 食器をかたづけ、風呂もあらう。今日からまた労働。三時には出る。連休がおわるのは不幸だが、連休といってめっちゃ休んだな、とか、遊んだな、とかいうかんじはない。労働があろうがなかろうが生活がだいたいかわらないので。精神的な余裕はやはり多少は弱まるが。とはいっても、わりあいおちついてはいる。部屋にかえってくるとさっさとNotionを準備し、昨日のことを記述して投稿。それから便所に行って腸をかるくし、もどって今日のこともここまで記録。一時二〇分にたっするところ。
- 出発まではだいたいヴァルター・ベンヤミン/浅井健二郎編訳・久保哲司訳『ベンヤミン・コレクション 3 記憶への旅』(ちくま学芸文庫、一九九七年)をよんでいたはず。三時すぎに道へ。今日は徒歩をとる。家をでてちょっといくとみちばたにカエデが一本たっていて、いまはむろんわかい緑の、さわやかないろを梢全体に、みなぎらせるというほどの力感はなくしかしたたえているのだが、そのおくから鳥の声がきこえてたちどまってみてみるものの、すがたはみえず、だがまもなくとびあがってべつの枝にうつりながら声をよりおおきく散らすのがあらわれて、ヒヨドリだった。坂道にはいってのぼっていくと、ここでも、最寄り駅につうじるほうの坂に散っているのをみたあの青紫の花びらがあしもとに散らばっているのを発見し、それをみているうちに、単純にこれはフジなのでは? とおもった。ライラックかとおもっていたが、時期がちょうどフジの咲いておちるころだし、最寄り駅のむこうの丘にもたくさん生えているようだし、そのへんにもふつうに自生しているのではないか。気候は暑い。むろん暑いだろうとおもってはいて、ジャケットは不要だともわかっていたが、いちおうかえりが肌寒いかなとおもってきてきたそれを脱いで片手にもってすすむ。街道をいきながら、ツバメのすがたが、チャクラムみたいなかんじで曲線をえがきながら宙をまるく切っていくあの鳥がまだみられないなとおもった。毎年五月になれば車道の上をとびかっているのがみられるのだが。
- 裏通りにはいってすすむ。途中で小学生のまだまだちいさな男児があらわれた。どこかの家からでてきたのだったはず。ジャージというかジャンパーというか、運動着的なすがたでリュックサックをせおっているのだがそれが彼のからだからすればおおきなもので、背はおおいつくして腰の下までひろがっており、しかし男児はそれを負いながら、やはりおもいようでまたすわりがきになるのかおりおり首をかたむけたりせおいなおしたりしつつも、まっすぐまえを向いて毅然としたようなすがたでてくてくと、しっかりした足取りであるいていく。こちらよりよほどはやくて、こちらはマジでたらたらあるいているので、距離はどんどんはなれていく。そのうしろすがたをみながら、もう立派に人間だなとおもった。当然のことだが。彼はマスクはつけておらず、右の手首かどこかにとめるかなにかしていたようだ。しかしあれではあの子もかなり暑かっただろう。
- 駅前のコンビニの横までくるとツバメがあらわれた。ロータリーでもすばやく宙をわたってビルのせまい階段口にとびこんでいったり、(……)の店舗の軒下にやどってピーピー鳴いたりしているのがみられる。職場にいって勤務へ。(……)
- (……)
- (……)
- 帰路もあるいた。勤務がうまくいかなかったこともあってか、むなしさや疲労感や、もやもやするようなこころもちがきざしており、生きるの面倒臭えなとおもっていたのだが、あるいているうちに去った。それなりにながくあるいていればそれだけでやはり多少気分は晴れる。わすれていたが、今日が母親の誕生日なので、かえりにコンビニに寄って甘味のたぐいなどを買ったのだった。今日が母親の誕生日だということをいわれるまで完全にわすれていたが、それならまあいちおう買っていってやるかということで。ほかにコーラや即席の味噌汁なども購入。それで袋を提げた夜道だった。
- 父親は今日も泊まってくると。帰宅後はやすんで食事。夕食時に母親と議論でもないが、こちらが彼女の言動や考え方などを批判もしくは非難する展開になった。主題は目新しいことではなく、毎日毎日父親がはたらくようにと愚痴をもらしていることとか、彼の自由とか心情をまったくかんがえていないこととか、「終わったひと」とか言っていることなどについてだ。こちらが母親の愚痴傾向とか世間依存的メンタリティとか自己相対化能力の欠如とかにいらだって文句をいうということはおりにふれてあるのだが、そうしても結局母親のそうした性質が変わることはなく、一日くらいは多少気をつけるのかもしれないが二日後にはもとにもどっているので、そういうやりとりをしたときには毎回徒労感が立ち、いらだちを他人にさしむけることの大人気なさにもみずから嫌になって、不毛だからもうやめようとまえはおもっていたのだけれど、この日はもう、不毛でもまあいいかなという気になった。母親は結局そういう人間で、そこから変わっていく力もないし、こちらがそれを変えようというほどの意欲も気概もこちらにはないし、たぶんこの先同居をつづけるかぎりはいらだちの種がつづき、ときには我慢しきれなくなって文句をつけるということがあり、そこでまた不毛さが生まれるのだろうが、まあそれでもういいかなというかんじになった。もうそのときの自分の気分にまかせようと。それほどのことではないと鷹揚にながせればそれでもよいし、そのときものをもうしたくなればそうすればよいし、不毛だからやめようとおもえばそれでよいし、言った結果不毛であってもそれでよい。自分の考えとかかんじたこととかを、言語化するにせよ言語化しないにせよ、自分自身であまり明確にとらえられない人間はいくらでもいるし、ことばをつなげることでかんがえを確認したり構築したりする能力にとぼしい人間もいくらでもいるし、母親はそのうちのひとりで、なにをいってもしかたがないなということはある。それはそれで強圧にもなるわけだし。ことばや理屈でもっていくら丁寧に説得しようとしてもしょうがない。そういう相手をもし変えようとするならば、なにかべつのアプローチをとらなければならない。それに、これがなんか人命にかかわるとか、自分がゆずれない大義に抵触するとかならべつだろうが、多少こちらが不快になるだけのことなので、ほうっておいても特に問題はないだろう。
- 母親と不毛なやりとりをしたことでまたもやもやした気分がちょっと生まれていたが、風呂に浸かっているうちに去った。不快事があってもまえとくらべてその残滓がすぐに去るようになっている。これはたぶん瞑想を習慣化したためだろうとおもう。あとは、瞑想もふくめて以前よりも心身の調子がととのっていて余裕があるので。
- 二時すぎ。過去の日記のよみかえし。昨年の五月六日ぶんをよんだあと、一月九日も。冒頭の引用はマダガスカル計画について。ドイツではなくて、ポーランドとフランスから話がはじまっているというのが重要とおもわれる。「移住させる」とか「送る」の内実がどんなものだったのかも気になるが。
ルブリン居留地計画の挫折のあとクローズアップされてくるのがマダガスカル計画である。当時フランスの植民地だったマダガスカル島にユダヤ人を移住させるという計画は、すでに一九三七年にポーランド政府によって検討されており、一九三八年一二月にはフランス外相ボネがドイツ外相リッベントロップに、フランス政府は一万人のユダヤ人をこの島に送る考えをもっていることをつたえている。この計画はドイツ政府部内でも多大の関心を呼び、ヒトラーも一九三八年秋にポーランド、ハンガリー、ルーマニアとの協力によるユダヤ人移住計画に同意した。ゲーリングは一九三八年一一月一二日の会議で、ヒトラーがマダガスカル島計画に興味をもっていることを明らかにした。
しかしながら、ドイツにおいてこの計画が具体性を帯びてくるのは、一九四〇年六月、ドイツが対仏戦に勝利してからのことであった。ヒムラーはすでに一九四〇年五月二八日、ヒトラーにポーランド支配に関する覚書を提出して、「すべてのユダヤ人をアフリカかその他の植民地に移住させる」ことを提案していたが、ヒトラーはこの覚書を「非常に素晴らしく、適切である」と評して、これを承認した。ドイツ外務省参事官ラーデマッハーは六月三日、マダガスカル計画の覚書を作成して提出した。この計画はただちにヒムラーの熱心な支持をうるところとなった。ラーデマッハーはハイドリヒのすすめにしたがって、アイヒマンの助手のダンネッカーの協力をえて、八月一五日に第二次案を作成した。
この計画によれば、ドイツはフランスとの講和条約においてマダガスカル島を割譲させ、ここに四百万人のユダヤ人を移住させることになっていた。同島は、ヒムラーに従属する「警察総督」の支配下に、ユダヤ人の自治が行なわれる保護領になるはずであった。ただ、大戦下にこのような大計画を実行することは不可能だったから、これは一九四二年半ばと予想された大戦の終結を待って実行されることとされた。
(栗原優『ナチズムとユダヤ人絶滅政策 ―ホロコーストの起源と実態―』ミネルヴァ書房、一九九七年、40)
- 2019/1/9, Wed. から引いている記述を、二年越しでまた引いておく。「新聞を取ってきて、記事を読む。上にも記しておいた、「黒人社会 白い肌に生まれ 根強い差別 正しい理解訴え」である。南アフリカで生まれたアルビノの女性の苦境が語られたものだが、いい加減に人類は肌の色で他人を差別することをやめるべきだと思う。しかし、アメリカで黒人が差別されるのと同様に、黒人が多数派のところでは肌の白い人が抑圧されるわけで、どこであれ人間はマイノリティを自ずと迫害する心性、傾きを持ってでもいるのだろうか? 「国連によると、アフリカの28か国では過去10年間、アルビノに対する襲撃事件は600件を超えた。タンザニアやマラウイなどでは、アルビノの骨や臓器に魔術的な力があるとの迷信があり、臓器を抜き取られる事件が相次ぐ」と言う。この世界はガルシア=マルケスの小説ではないんだぞ、と言いたくなる」。一年前の2020/1/9, Thu.ではこれにつづけて、「「どこであれ人間はマイノリティを自ずと迫害する心性、傾きを持ってでもいるのだろうか?」という疑念は、一年後の現在も変わらない」といっているが、二年後のいまはそれが「疑念」ではなくて、ほぼ確信にかわっている。
- 「道を進みながら脳内で、僕は毎日文を読んで文を書かなければ生きていかれない、そういう病気なんですよ、と誰に向けるわけでもなく言い訳をした」とあるが、こんな言い方はきどっていてあまりよろしくない。毎日読み書きをしなくたってべつにじぶんはふつうに、あるいはふつうにとはいかなくともそれなりには生きていけると、いまではおもっている。そのあとにあるつぎの風景描写は、大したものではないがわるくない。「道中、満月が常に東の途上に漂っていた。裏路地を行くうちに空の青さは幾分濃くなって、月の光も清かに際立ってくる。自動車整備工の向かいの空き地には水溜まりが小さくひらき、それは端的な、透き通った鏡で、暮れ方の空を薄墨色に染めながらひどく明晰に映しこんでいた。ゆったりと鷹揚に歩いていき、(……)裏の辺りまで来ると空の色はさらに深まって、月の表面は白々と艶を帯び、その周囲の青は丘の際まで乱れなく空間を埋めており、気体と言うよりは固体を隙間なく詰めこんで空を密閉したかのようである」
- 完全にわすれていて、六日の記事をもう投稿して七日の記事も投稿しようとおもって冒頭をよんだところでおもいだしたのだが、この夜、帰宅して玄関をはいるとともにトイレからでてきた母親が、検査受けたほうがいいって、みたいなことをつぶやき要領のえないことをいったのだが、つまり、この夜にロシアの兄夫婦と通話したところ、(……)さんがコロナウイルスにかかったときも熱がなかったから、検査してもらったほうがよいという助言をもらったのだと。母親はここ数日、喉の調子がわるくて声が嗄れたりしていたのだ。こちらもコロナウイルスではないかと口にはだしておきながら、ふつうに風邪だろうとおもっていたので検査を受けるようにとか口出しはしていなかったのだが、それならばとスーツ姿のままソファについてタブレットで、PCR検査はこのへんだとどこで受けられるのかと検索した。役所のホームページをみるに、まずはかかりつけ医にいってそこで必要ならば検査できる施設を紹介してもらってくれ、あるいはかかりつけ医がなければ東京都発熱相談センターまで電話を、とあったのでその旨つたえて帰室したのだった。で、母親がコロナウイルスをうたがって仕事をやすんで医者にいくとなれば、こちらも職場につたえておかないわけにはいかない。それなので職場に電話すると、こんな時間なのに(……)さんがまだのこっており、電話も転送設定していないままだったようで、なんとなくそうではないかとおもってこちらも携帯ではなくて職場にかけたのだったが、それで事情を説明し、ひとまず翌日は休みとすることになった。