2021/5/9, Sun.

 どこにいても、彼が耳を傾けていたもの、耳を傾けずにはいられなかったもの、それは自分自身の言葉にたいする他の人たちの難聴ぶりであった。彼らが自分の声を聞いていないことを彼は聞いていたのだ。だが彼自身はどうなのか。自分の難聴ぶりを聞いたことがなかったというのか。自分の声を聞くために格闘したが、そのように努力しても、べつの音の場面や、べつの虚構が生み出されるだけであった。そういうわけで、エクリチュールを信じて頼っているのである。エクリチュールとは、〈最終的な返答〉をすることをあきらめた言語活動ではないだろうか。他人があなたの言葉を聞けるようにと他人を信頼することを糧にして生き、呼吸をしている言語活動ではないだろうか。
 (石川美子訳『ロラン・バルトによるロラン・バルト』(みすず書房、二〇一八年)、259; 「自分自身の言葉にたいする難聴(La surdité à son propre langage)」)



  • 一一時前に起床。暑い。おきあがるまえ、布団を横にどかし、熱からのがれて多少脹脛をもんでいた。きのうはながくはたらいたわりに、疲労感はのこらず、からだもやわらかい。日に日にからだがしなやかになっているのを実感する。水場にいってくると瞑想。一一時五分から二四分まで。窓をあけた。すわっていてもあきらかに安定感がいぜんと別物。切りにすると上階へ行き、母親に挨拶してジャージにきがえる。といって履くのは下だけで、上は黒の肌着一枚。食事はたけのこご飯。その他冷凍してあった天麩羅など。(……)さんからケーキがおくられてきたという。配送の袋をみれば、たしか静岡県は三島の店だったとおもう。苺ロール。兄夫婦はいま、カザンという都市に旅行にいっているらしい。そこで兄の友人である(……)に会ったと。このひとは大学時代に日本にきていたか、あるいは兄がロシアに留学していたあいだに知り合ったかのどちらかだろうが、結婚式にもきてくれて、きれいな禿頭だったのでこちらもおぼえている。最初母親がカザンカザンというのを火山だとおもって、どこの火山かときいていたのだが、カザンという都市名だとわかった。ぜんぜんしらないが、タタール文化の中心地とかで、モスクワから東に八〇〇キロの位置にあるよう。もっと極東にちかいほうかとおもっていたが、そうでもなかった。
  • 食事。父親も途中ではいってきてまえにすわる。テレビはいまだなおっておらず、タブレットが炬燵テーブルのうえに設置されて代役をつとめている。国分太一となんとかいう料理人がやっている、『男子メシ』だったか、料理番組がながれていて、この番組のBGMはどれもセンスがよいなとおもった。The Beatlesの"Day Tripper"なんかもながれるし、往年の、六〇年代から七〇年代くらいの英米のポップスとかソウルとかそちらの系統の音楽がつぎつぎにながされているもよう。同定はできないが、たぶん有名な、ヒットソングのたぐいがおおいのだとおもう。新聞は書評欄。中島隆博が渡邉義浩という研究者の、講談社選書メチエから出た『論語』を紹介している。論語はテクスト原文だけでなくそれにたいして後世の人間たちがふした註釈もふくめてテクスト体系をかたちづくっており、聖書にせよタルムードにせよ世俗的な文書にせよ古典ってどれもそうだろうが、いまわれわれが読む論語は基本的には朱熹の註釈にもとづいたものだと。つまり朱子学的な論語理解ということだろう。で、それを「新注釈」というらしいのだが、それいぜんの古注のたぐいもむろんたくさんあって、渡邉義浩のこの本はそれを紹介して論語にあらたなひかりをあてているとのこと。苅部直岩波新書の『尊厳』というのをとりあげていてこれもおもしろそう。加藤聖文は老川洋一とかいったか、政治記者だったひとの、『政治家の責任』というやつを紹介していた。著者は長年政治の現場を取材してきたひとらしいのだが、彼からするといまの政治はあきらかに劣化しているようにみえ、それはジャーナリストにせよほかの分野の人間にせよおおくのひとが立場をとわずひとまず一致する判断だとおもうが、昭和時代の、政権交代もおこらず金のにおいがつよい古臭いような権力政治が、それでもいまとくらべるとまだしも健全であるようにおもえてしまうのは、その時代の政治家がすくなくとも皆共通して「公」の意識をもっていたからであり、また権力闘争のなかでつよい緊張感をひきうけていたからだと。小手先の「改革」は焼け石に水なので、抜本的な革新がもとめられている、ともかくも内部的に緊張感がなくなってしまった政治の場に、外からそれをそそぎこまなければならない、そのために活用されるべきは公文書で、実証的な情報にもとづいた言論でもってジャーナリズムなどが政治に緊張をかけなければならない、というような話をしているようだが、くわしい内容はむろん書評だけではわからない。
  • 食器をあらい、風呂もあらう。台所にたっているとき、外がくもっており、雨が降るのかなと母親はつぶやいていたが、じっさい南窓の先で(……)さんの家の鯉のぼりが七匹全部そろって横にきれいにながれながら身をはたはた波打たせているし、トイレにいくために玄関にでても林が風をゆたかにはらんで樹響をふくらませふらせているのがすぐ耳にはいり、にわかに雨がとおってもおかしくなさそうな雰囲気ではある。ただ、気温は高く、もうほぼ夏の空気感にちかい。風呂をあらっているときには陽の色がまたでてきていたので、本降りにはならないだろうが、夕方くらいにちょっと生じても変ではない気がする。
  • 今日は茶もつくらず帰室。Notionを用意し、今日のことをとりあえずかきだした。ここまでつづって一時前。
  • この日のこともおおかたわすれた。(……)さんのブログをひさしぶりによめたのはよい。五月七日と八日。音読もそこそこやった。書見だとヴァルター・ベンヤミン/浅井健二郎編訳・久保哲司訳『ベンヤミン・コレクション 3 記憶への旅』(ちくま学芸文庫、一九九七年)を読了。浅井健二郎というひとは四五年うまれだからわりと古いひとで、ちくま学芸のベンヤミン・コレクション全七巻はこのひとが総責任者として編集されているしたぶん界隈だとかなりの権威なのだとおもうが、翻訳文にはごくたまにうまれのふるさがうかがわれたようにおもう。手袋のことをなにか耳慣れない言い方をしていた記憶があるのだが、なんという語だったかわすれてしまった。それでいま「一九〇〇年頃のベルリンの幼年時代」をみかえしてみたが、「手ぬくめ」だ。「マフ」にたいして「婦人用の手ぬくめ」という註が付されているのだ(536)。まあそれはどうでもよいのだが、解説をよんだところでは一部けっこうわるくない文章が書かれてあった。ブランショというか、フランス方面の思想をちょっとおもわせるような、というか。まあブランショよんだことないのでわからないが。優美と気取りの色がややつよくはあったが、からまわってはいないようでよかった印象。そのなかに「忘却を免れた夢の破片」というフレーズがでてきて、べつになんということのない語のつらなりだとおもうのだが、なぜかこのフレーズがあたまにひっかかってしまい、これをかきだしとして詩をつくれないかなとちょっとおもってとりあえずメモしておいた。あと本篇にもどると、ベルリン幼年時代のなかの、最終稿には収録されなかった断章のなかにある「夜会」というのは、これはもう主題としてだいたいプルーストである。『失われた時を求めて』の冒頭、ベッドにはいっても寝られなくてママンがおやすみをいいにきてキスしてくれるのが恋しくて恋しくてしょうがないのだけれど夜会というか訪問客(の代表がスワン)がある日はママンがきてくれなくてかなしみに絶望する、みたいな話が迂回しながらながくつづいたとおもうのだが、そことわりとにたようなかんじ。
  • ベンヤミンを読了したので、『ギリシア悲劇Ⅱ ソポクレス』(ちくま文庫、一九八六年)をよみはじめた。五月三〇日の読書会の課題書。これをよみおえたら、なにか歴史とか社会とか政治方面の、文学作品や文芸批評や思想ではないほうの本をよみたい気がする。しかし詩もよみたい。いずれにせよ、まだすこしもよみおわっていないのによみおわったあとのことをはやくもかんがえるとは、書物にたいして非礼ではないか?
  • 書抜き。熊野純彦レヴィナス――移ろいゆくものへの視線』(岩波現代文庫、二〇一七年)。レヴィナスの言: 「享受であるような「生とは、世界の糧を口いっぱいに囓りとり、豊穣さとしての世界に同意し、その始原的な本質を奔出させることである」」(28)。同ページに、「享受するとは、享受する私と、享受されるものとのさかいめ [﹅4] を解消しつづけ、両者のへだて [﹅3] を不断に抹消してゆくことである」という説明もあるが、「さかいめ」をひらがなにひらくのはなかなかおもいきっているとかんじられた。こちらも最近はもうだいたいひらがなでかくようにしていて、そうするとひんぱんに変換しなくてよいので楽だ。ただそれでもやはり、名詞はひらくとわかりづらくなるからそこまでおもいきれないところはおおい。黒田夏子とかは名詞でもけっこうこともなげにひらいていたとおもうが。すくなくとも『abさんご』のときは。『感受体のおどり』はもうすこし漢字がおおくなっていたはず。『組曲 わすれこうじ』はよんでいないのでしらない。このながれをつづってきたためによまなくては、とおもいだした。
  • 八時前。2020/5/8, Fri.を読む。冒頭から風景描写。「一一時頃に覚醒した。窓の外はこれ以上ないほどの快晴であり、ほんのひとひらも塩一粒ほども雲のない完璧な無雲領域いっぱいにまろやかな水色が満ちていて、それを背景にガラス表面の汚れが、本当は黒点のはずだがその黒さを吸い取られて漂白されたように銀髪めいて白く輝き、掃除などまったくしていないので汚れはひどく溜まって無数に付着しており、光の作用でそれが一面砂子を敷かれたように見え、その上でところどころ、やや大きめの粒が浮かんで銀光し、全体はさながら地上に移植された天の川、まさしく宇宙の縮図めいて映る。その絵を描かれたガラスの先では蜘蛛の糸が風に震え、白く固まって姿を現したり背景の空に没したりを素早く行き来し、様相間の往復運動を繰り返していた」。ややかたいものの、わりとよい。黒点に銀髪の比喩をもちいたり、「銀光する」なんていう動詞的言い方にしているあたりなど。たぶんこれは一般的にはない言い方だろう。微光とか赤光とか、光関連のほかの熟語でもつかえそう。あまり一般的にそういう言い方がない名詞に「する」をつけて動詞化するテクニックは、宮沢賢治もどこかでつかっていたようなおぼえがあるが、不詳。漢文の素養がのこっていた時代の連中はわりとふつうにやっていたのではないか。こちらだとあと、「さざなみする」という言い方をむかしつかったおぼえがあるし、いつかの短歌で、「雨だれの音が銀河色して」みたいなフレーズをつくったおぼえもある。語によってはけっこうつかえる気がする。

ではなぜフランス思想なのか、フランス思想など、一部のオタクのジャルゴン的思想の最たるものじゃないのか、こういわれそうです。もちろんそれにはさまざまな個人的来歴はあるのですが、そんなことはいっさい省くと、やっぱりここ百年くらいのフランスの哲学というのは、軽薄だとか流行にすぎないとかいわれながらも、思考のかたちとしては大したものではないのかと想うのです。たとえば私が、<私>ということのリアリティー、<生きている>ことのリアリティーを何とか語ろうとしたときに、フランス思想は、時間・身体・経験・制度からはじめて、ことば(記号)・こころ(精神)・いのち(生命)に結びついていくさまざまな位相の襞や連関を丹念に明らかにしていくという傾向が強いとおもうのです。それはよくフランス思想の弱点だともいわれますが、これらの主題が切りはなされることなく結び突いているありかた、たとえばメルロ=ポンティの<両義性>でもいいですしベルクソンの<直観>でもいいですが、それは、さまざまなものが錯綜したことがらの原理をそのままに提示する強力な手段であるとおもうのです。明確なシステムをなしているとみえながらも、システムそのものが自身を裏切るような虚点をはらみ、そこでシステムそのものが流動する・・・それで、われわれにできることは、この錯綜を錯綜のままエクリチュール化せずに(それだと中途半端に流れに身をゆだねるエッセイの思想にすぎないですから)、彼らが何をいっているのか、その錯綜した原理性をできるだけモデル化してとりだすことだとおもうのです。(……)いい方をかえれば、たとえば私のあり方だとか、リアリティーだとかを語るときに、私の特異な・一回限りのこの生、私にしかえられなかっためくるめき体験・他者(たいていは神)との事件のような(実は選民的な)出会い、他者に毀損されないかまたは焼き付けるように毀損されるがままの内面性、これらを不意に、不用意にいってしまう傾向は結構根強くあると想うのです。

ところが20世紀のモダニスムは、この内面への捉えられから、どのように外にでるか、それをどうして対象化するのか、要するに酔いながら醒めるのか、これを描くことに本質があるように見えるのです。フランス思想は、実に他面的な結びつきで(科学・精神分析・言語・政治・制度)、この<内面>の<特異さ>の感覚を大事にしながらも、そこに拘泥して不毛な自己反復言語にとどまるのではなく、何かをやろうという実験に見えるのです。特異性・個別性を廃棄して普遍性・一般性に、というのではありません。特異なものがあって、あるいは<いま・ここ>でしかないことがあって、そのリアルさの切っ先のようなものが確かにあるのですが、それを<内>にも<無底>にも<曖昧さ>にもからめ取られるのではなく、<普遍>との包摂関係でどうにかいえないか、というのがともあれ重要なことです。無数に増殖していく蟻の大群のようなものがあって、それを押し流していく風のつよさ、季節の転換、環境の変化、大時代的な変動があって、一匹一匹の蟻は、それにはかなくものみこまれてしまう存在の一項にすぎないのだけれど、おそらくは蟻という<私>である動いている視点のみをとるのではなく、一面では風や季節の中に全面解体されながらしかも生きているその状態を描ききることが必要だとおもうのです(……)

浅田 ついでに、予備知識として歴史的な文脈をざっと復習しておくと、室町幕府3代将軍の足利義満がいまの金閣寺鹿苑寺)を含む華麗な北山第をつくり、8代将軍の足利義政が、政治的には応仁の乱(1467-1477)に突入するなか、いまの銀閣寺(慈照寺)を含む東山殿をつくる。そこで、人類史上最も洗練されていたと言いたくなる宋の白磁青磁や窯変天目のような陶磁器、書画、禅や朱子学、その他さまざまな文化を摂取して、北山文化・東山文化が成立し、そこから能や茶の湯などが生まれて来る。要するに、宋の洗練をさらに日本で洗練した時代です。
 荒っぽく言うと、それを1回ひねったのが15世紀の一休で、さらにもう1回ひねったのが16世紀の利休と言ってもいいんじゃないか。そのあげく、たとえば中国で高温焼成された最高級の窯変天目のようなものに対し、手で土をひねって焚火で焼いただけのような楽焼の茶碗のほうがいいんだということになる。つまり、茶道のわびさびの文化を最初から素晴らしいものと考えてはいけないので、あれは技術的にも美的にも最高に洗練された北山文化・東山文化を前提とし、それをあえてひっくり返したものなんです。その無茶苦茶な価値転倒をやってのけたのが一休であり利休であると思えばいいんじゃないでしょうか。

     *

浅田 むろん、一方的に威張るのではなくて、逆説に次ぐ逆説で相手を翻弄するタイプの人でしょう。仏教の修行だけではなく、若いころから漢詩で認められ、和歌も詠んだ。「有漏路[うろじ]より無漏路[むろじ]へ帰る一休み 雨ふらば降れ 風ふかば吹け」(煩悩に満ちた現世から、死んでなのか、悟ってなのか、煩悩のない来世に至る一休み、雨が降るなら降れ、風が吹くなら吹け)という歌を詠み、それを認めた師の華叟宗曇[かそうそうどん]が道号にしてくれたんだけれど…。

島袋 そう、そのときの「一休み」が一休という名前の由来と言われています。

浅田 修行のあと悟ったと認める印可状を師から渡されると、そんなもの要らないよと言って勝手に出ていく。あとは、放浪ですよね。

島袋 当時、そういう印可状を左券 [さけん] といったらしいんですけど、そういう肩書で生きている禅の坊さんも多い時代だったらしいんですよ。

浅田 特に兄弟子がそうで、大徳寺の住持になって威張っているが、禅の精神などまったくわかっていないと、ぼろくそに言うわけね。

島袋 そうですね。兄弟子は、18歳ぐらい年上の養叟宗頤[ようそうそうい]という人ですね。

浅田 朱太刀像といわれる一休像があるけれど、朱塗りの鞘に入った木刀を持ち歩いていた、それは「悟ったようなふりをして威張っている禅僧は実は使いものにならない木刀である」という嫌味だ、と。

島袋 見かけ倒しだ、と。

浅田 他方、自分は漢詩を書くときの号も狂雲子。

島袋 自分のことを、狂った雲だ、と。

浅田 で、どんな内容かと思ったら、美少年にも飽きたからいまはもっぱら女三昧だ、俺に会いたかったら色街に来い、みたいなことが書いてある。で、77歳にもなって、森[しん]という鼓を打って歌を歌う盲目の女性と出会い…

島袋 50歳ぐらい年下の盲目の恋人が最後に出来るんですよね。

浅田 88歳で死ぬまで同棲する。ふたりの愛の営みも流麗な漢詩に書いちゃうわけですよ。

島袋 書いているんですよね。枯れ木にも花が咲くみたいなことを。

浅田 円相の中の一休像の下に森の描かれた肖像画もあって…。

島袋 泉北にあるやつですね。

浅田 そう、堺より南にある忠岡町の、町工場や畑の点在する一画に、相国寺あたりにあってもおかしくない室町の書画の名品を集めた正木美術館というのがある、そこのコレクションだけれど、円相が盲目の女性の夢のようにも見えて、魅力的な絵です。

島袋 これは墨斎という、もしかしたら一休さんの息子じゃないかとも言われている一番弟子みたいな人が描いたやつなので、本人にいちばん近いんじゃないかと言われている肖像なんですけど、これが87歳。88歳で亡くなる前年ですね。このとき、やっぱり墨斎に、生きている自分の木像をつくらせ、自分の毛やひげを抜いたのを移植させているんですね。それが一休寺にあるものです。

浅田 真珠庵にもひとつあるけれど、いずれにせよ異様な迫力がありますね。そもそも、昔は絵でも彫刻でもリアリズムからは遠く様式化されたものが多いけれど、仏教で師から弟子に渡される頂相 [ちんぞう] という肖像だけは、昔から一貫してリアリスティックなんです。仏教は単に本を読めばすむ学問じゃなく、師と弟子の一対一の間身体的関係の中で伝えられるものだからでしょう。昔はリアリスティックに描けなかったのではない、意識して様式的に描いていたのだけれど、頂相だけはほかならぬその人のリアルな分身でないといけなかったんですね。(……)

  • 上の記事からの引用がたくさんあって、一気によむのが面倒臭かったので、いったんここまで。
  • そのあとしばらく「英語」を音読してから、ベッドにねころがりつつ最後まで読んだ。いくつかのぞいてあらためて引いておく。

浅田 ともあれ、はっきりした確証はないけれども、わび茶の創始者とされる村田珠光(真珠庵や虎丘庵の庭も彼の作とされる)も、一休に学んだと言われるし…。

島袋 そうそう。村田珠光は面白い人で、一休さんの弟子なんですけれども、居眠り癖のある人で、座禅をしたら悪気はないんだけど寝てしまう人だったので、「僕は修行したいのにどうしたらいいか」と聞いたら「濃いお茶を飲んだら起きていられるんじゃないか」と言われて、そこからお茶に入ったらしい。それが千利休まで続いていく。

浅田 もともと栄西が中国からお茶を持ってくるわけだけれども、明らかに眠気覚ましだったんだと思いますよ。そういう意味で実用的なものだったお茶を、「茶の湯」というアートに転換していく。一休のかけたスピンがそこで効いてくるとすれば面白いですね。

島袋 そうですね。とにかく一休さんは当時の芸術家にすごい慕われているんですよね。

浅田 足利義満に寵愛された世阿弥能楽を大成するんだけれど、その女婿の金春禅竹[こんぱるぜんちく]は一休に学んだと言われ、酬恩庵でも能をやったらしい。あるいは連歌師の柴屋軒宗長[さいおくけんそうちょう]も一休に学び、一休の死後は酬恩庵に住んで菩提を弔った。

島袋 どうしてなんだろうと少し調べてみたんですけど、能楽師とか連歌師というのは要するにフィクションに関わる人たち、言ってしまえば嘘をつく人たちじゃないですか。それは仏道に外れるんじゃないかという悩みが当時の芸術家にはあったらしいんですよね。それに対して一休さんは、いやいや、そんなことはない。フィクション、つまり嘘の中にも仏道はあるんだということをはっきり言った。それで当時の芸術家が一休さんの周りに集まったというふうなことを知りました。

浅田 さっきの大雑把な話に戻ると、15世紀の一休の後、16世紀に利休が出てきて、一休と同じ堺や大徳寺を舞台としながら、茶道具のみならず、書画や花、建築や作庭に至るすべてを含んだ茶の湯の文化をアート・ディレクターとしてつくりあげていく。またそれが現代美術にもつながっていくわけですよ。

島袋 僕もそう思います。だから、今日なんでこんな話をしているかというと、ヨーロッパとかで美術をやっていると、すぐ「始まりはデュシャン」みたいなことになるんだけど、僕は「始まりは一休さん」と言いたい。自分のコンセプチュアル・アートの始まりは一休さんだ、と。

     *

浅田 いまちょうど京都国立博物館雪舟の「慧可断臂図[えかだんぴず]」が出ていて、コレクション展示は空いているのでゆっくり眺められます。達磨が壁に向かって座禅しており、手前で慧可が弟子入りを願い出ている…。

島袋 達磨の後ろに立っているやつですね。

浅田 そう。だけど、慧可が手を出しているように見える、よく見るとそこに赤い線が入っていて、それは切断した腕を差し出しているのだとわかるんですよ。何度願い出ても、達磨は壁を向いたまま振り返ってもくれない。それで、自ら腕を切断して命がけの覚悟を示し、それでやっと入門を許される。そこで達磨が振り向く直前の場面が、太い輪郭線である種ブラック・ユーモアをたたえたマンガのように大胆に描かれているわけです。言ってみれば、作者の雪舟も、描かれたふたりと同じくらい過激にやろうとしている。そこには一休の激越さに通ずるものがあるんじゃないか。墨斎の達磨像も悪くないけれど、それと比べても雪舟のこの達磨像は破格ですよ。

     *

島袋 暑いときどうしていたんでしょうね、一休さん。そしてこれが「華叟の子孫、禅を知らず」。

浅田 華叟というのが師の華叟宗曇。

島袋 そして華叟の子孫というのは、18歳年上の兄弟子、養叟宗頤のことを言っている。あいつは禅なんかわかってない、「狂雲面前」、つまり狂った雲である自分の前で誰が禅のことを語れるんだ、30年間俺は肩の身が重いぞ、自分ひとりで松源以来の禅の伝統を背負っているんだぞ、と。松源というのは、華叟さんよりずっと前の代の師匠にあたる中国の僧です。一休さんはすごい自信満々の人なんですよね、俺にしか禅はわかっていないというようなことを言って。

浅田 宋に渡って臨済宗松源派の虚堂智愚 [きどうちぐ] から禅を伝えられた南浦紹明 [なんぽしょうみょう] (大応国師)が大徳寺なんかの禅の祖だ、その流れを汲む自分は虚堂の直系だ、ほかのやつらは形だけで本当の禅を継承しているとは言えない、と言い続ける。嫌なやつだよね。

     *

島袋 [一休宗純「七仏通戒偈」中、「諸悪莫作・衆善奉行」部分について]ここのかすれても気にしないところとか、いちばん最初の「諸」という字の伸びている感じとか。吉増剛造さんの書く「ノ」にちょっと共通しているところがありますね。

浅田 ただ、吉増剛造には一休の書の男性的な切断力はあまり感じないな。だいたい、吉増剛造はイタコみたいな詩のだだ漏れ状態になっていて、イタコを見ていると面白いという意味で若い人たち吉増剛造をキャラクターとして面白がるのはわからないでもないけれど、詩人としてはどうなのか…。

島袋 そうですか。僕にとっては尊敬する芸術家のひとりですが。(浅田さんの言葉で言うだだ漏れになるほどの日々の積み重ねみたいなものは僕にはやはりすごいと思えるのです。)

浅田 僕がマラルメ的な詩のパラダイムに縛られすぎているのかもしれないけれど、だだ漏れで溢れ出る生きた言葉の洪水を死の冷気によって凍結し数学的に構造化するからこそ詩が成立するんだと思うんですよ。詩でもアート作品でも、作者のキャラクターを超えたところで非人称の構造として成り立っていないとダメじゃないか、と。いずれにせよ、一休は全身で禅を生きた人だとして、だだ漏れではない、むしろ切断力の人だと思うな。

島袋 切断力。どういうことですか。切るということですか。

浅田 うん、切るということ。修行をしたこともするつもりもないからよくはわからないけれど、禅というのは一言で言えば切断でしょう。例えば、無心で庭を掃き続けていて、石がこつんと竹に当たったときに、ふと悟るとか。

     *

島袋 黄永砅[ホワン・ヨンピン]は1980年代半ばに、厦門(アモイ)だったかな、中国の地方で中国のダダイズムみたいなことをやっていました。彼も最初意識していたのはまずやっぱりマルセル・デュシャンジョン・ケージなんですよね。彼らに対してどう落とし前を付けるかみたいなことをやっていて、1989年にフランスのポンピドゥー・センターで開催されたジャン=ユベール・マルタンの『大地の魔術師』展に選ばれたことが中国国外に出るきっかけになった。で、そのまま亡命しちゃったんです。『大地の魔術師』展というのはすごく大切な展覧会で、僕がいまヨーロッパのいろんなところで活動しているのも、その展覧会があったからとも言えると思います。

浅田 まあ、そうでしょうね。

島袋 西洋人の現代美術と非西洋人の美術を初めて一緒に展示したと言われている展覧会で、すごく重要だと思うので皆さんもノートにメモして家に帰ってから調べてみてもいいものだと思います。
 当時天安門事件とかあったころですから黄永砅はもう帰りたくないと言って亡命した。いまもフランスにいて、ヴェニスビエンナーレのフランス館の代表にも選ばれました。

     *

島袋 あと、もうひとり、一休さんで思い出すのはデイヴィッド・ハモンズです。ハモンズは1990年前後に一気に有名になった、アメリカで最初の非白人アーティストのひとりだと思います。『大地の魔術師』展より少し後ですけれども。そのころ、片一方で黒人のアーティストにはジャン=ミシェル・バスキアがいた。バスキアというのはさっきの話でいう桃山文化みたいな人ですよね、どっちかといったらデコラティヴな。社交界とかああいうところで、いまでもたくさんお金出して買う人がいる。

浅田 グラフィティをうまくアートに持ち込んだ。しかし、他のグラフィティ・アーティストと違って、最初からアート・ワールドで通用する作品を目指したし、良かれ悪しかれ作品がうまく仕上がっている…。

島袋 いまでもバスキアはみんな知っているでしょう。その反対側にハモンズがいて、アメリカの黒人のアーティストからはいまでもものすごい尊敬を得ている人で、これ何しているかといったら、冬のニューヨークで、雪でつくった雪玉を路上で売っている。もちろん買ったところで、家に持って帰ったら溶けてなくなるし。でも、これって逆に言うと、いま僕たちは形がなくならないと思っていろんなものを買うけれど、何年か後には潰れてしまったりするだろうし、そういうのをニューヨークというすごい資本主義の場所であざ笑っているみたいなところがあると思うんです。この作品を僕が20歳ぐらいのときに知ったときは衝撃でしたね。
 デイヴィッド・ハモンズは90年代後半に日本にレジデンスで来ていたことがあるんですね。東京の青山にあったギャラリーシマダが招待して、山口県にしばらくいたことがあって、そのとき僕は偶然会う機会があって、少し話したりしたんですけど、そのとき名刺をもらったんですよ。今回思い出して、探したら見つかって、写真撮ってきました。

浅田 これは傑作だね。

島袋 神妙な顔して名刺を出されたんですけど、これ、僕だけじゃなくて、当時いろんな人に渡したのだと思います。日本に来ると、名刺交換ってすごいするじゃないですか。あれが彼にはすごい不思議で、ばかげたものに見えたんでしょうね。だから、「名刺」と書いた名刺をつくって、それを名刺交換のときに出している。これも彼のひとつの作品だなと思います。20年ぐらい前にもらったんですけど、きのうたまたま見つかって。裏返すと、「CARD」と書いてある。一応英訳もしているんです。

  • どこかのタイミングにHigh Five『Split Kick』をながしたのだけれど、ここの"Split Kick"、よいかもしれないなとおもった。ちゃんときいていないが、ドラムのLorenzo Tucciがなんかよかった気がする。そもそも"Split Kick"はArt Blakey Quintetが『A Night At Birdland』でやっているオリジナルの演奏以外、このアルバム以外でやっているのをまるでしらないのだが。この曲名をほかの作品で目にしたことがちっともない。ほかにだれかやってんの? とおもっていま検索したところ、おどろくべきことにStan Getzがやっているようで、『West Coast Jazz』というアルバムの音源らしきものがYouTubeにある(https://www.youtube.com/watch?v=RjlcI9kkPHY(https://www.youtube.com/watch?v=RjlcI9kkPHY))。Stan GetzShelly Manne、Leroy Vinnegar、Conte Candoli、Lou Levyというメンツらしい。ちょっと笑ってしまうというか、『A Night At Birdland』のイメージをもってきくと、これがおなじ曲かい、というかんじで、西海岸のクール派連中にかかれば"Split Kick"もこうなるのだな、と。これはクール方面とニューヨークのちがいが典型的にわかりやすい例になっているのではないか。Blakeyのやつはこれ(https://www.youtube.com/watch?v=ii57FytBQ74(https://www.youtube.com/watch?v=ii57FytBQ74))。