彼の仕事の動きは戦術的である。重要なのは、移動することや、陣取り遊びのように敵を食い止めることであって、征服することではない。いくつかの例をあげよう。間テクストの概念はどうだろうか。これは、実際にはまったく建設的なものではないが、コンテクストの規則に抵抗することに役立っている(インタビュー「返答」より)。また、〈事実確認〉はときには価値であるように提示されるが、それは客観性を称賛しているからではまったくなくて、ブルジョワ芸術の表現性を妨げるためである。そして作品の曖昧さ(『批評と真実』)とは、ニュー・クリティシズムから来ているわけではまったくなくて、それ自体が彼の関心をひいているわけでもない。文献学的な基準や、正しい意味という大学の横暴と闘うためのささやかな兵器にすぎないのだ。したがって、こうした仕事はつぎのように定義されるだろう。〈戦略なき戦術〉である、と。
(石川美子訳『ロラン・バルトによるロラン・バルト』(みすず書房、二〇一八年)、261; 「戦術/戦略(Tactique/stratégie)」)
- 一〇時台に覚醒し、しばらくすごしてから起床すると一〇時四七分だった。わるくない。今日も晴れの日で、空気は暑い。水場に行ってうがいや洗顔や用足しをしてからもどり瞑想。二〇分すわった。風がときおり窓外の草をカサカサ鳴らし、川向こうからかなにかの機械の駆動音めいたひびきがつたわってくるが、鳥の声がおもいのほかにすくなく、あまりきこえない。上階へ。ビーフシチューがつくられてあった。ジャージにきがえ、洗面所で髪をとかしてから食事。前夜のサバのあまりをひときれあたため、白米とビーフシチュー。ビーフではなくて冷凍庫にずっとはいっていた鹿肉をつかったものだが。鹿肉はそれ単体でそんなにうまいものではないが、やわらかくよく煮えていてよい。新聞をよむ。スコットランド自治議会選が開票され、与党スコットランド民族党(SNP)が六四議席を獲得。定数は一二九なのでほぼ過半数。緑の党も独立を志向しているらしく、その八議席とあわせて独立派が過半数をこえたわけで、ニコラ・スタージョンはもちろん国民投票をやるつもりで、二三年末までにとのみとおしらしいが、英国側はボリス・ジョンソンが無謀で無責任な選択だ、みたいなことをいっており、じっさいにおこなわれたとしても司法判断によって無効化される可能性がたかいようだ。ほか、アフガニスタンで子ども六一人が死亡するテロ。カブールの女学校付近で車による自爆テロがおこり、ついで門のそばに設置された爆弾がふたつ爆発したと。タリバンは関与を否定、政府側は関与したとして非難。ただ、現場はシーア派住民がおおく、ISISによるテロが頻発しているという。パレスチナでも神殿の丘でパレスチナ住民とイスラエル治安部隊が衝突しているらしい。西岸でもいくらかおこっているとか。あとは北岡伸一の一面から二面にかけての寄稿を途中までよんだ。中国は軍事的には慎重な国だからすぐ台湾を攻撃するということはないだろうが、日本のそばに親日的な民主主義国(中国からすると国ではないわけだが)があることは日本にとっても非常におおきな国益なので、米国と連携して抑止力をたかめていかなければならない、いままでは攻撃は米国にまかせるというかんがえかたが主流だったが、万が一攻撃された場合に反撃することができるという力を確保して、抑止をはたらかせなければならない、とはいえ中国と日本は地理的にもちかいし経済的なむすびつきがかなりおおきいので、米国とおなじような切り離しの政策はとれない、そのあたり米国に完全にあわせるのではなくて日本独自のバランスでやっていかなければならない、みたいな話だった。
- 食器をあらい、風呂も。でると茶を用意し、そのあいだに洗濯物をとりこむ。まだあかるく晴れていたが、仕事にでる母親がもう入れてというので。とりこんだあとベランダにでてくまなくおおっているひなたのなかで屈伸したが、陽射しは厚く、熱が身をつつみこみ、背中にもぴったり乗って、すぐに汗がでる。なかにもどるとタオルなどたたんではこび、茶をもって帰室。Notionを準備。それからLINEをのぞくと(……)くんが、「【サバの話だったの?】WEEKLY OCHIAIというコント、あるいは地獄について。」という記事を紹介というか貼っていて、なんかお笑いの話かなとおもってみてみると、落合陽一をくさしたものだった。よんでみるとけっこうおもしろく、わりとわらってしまう。NewsPicksで毎週落合陽一が番組を配信しているらしいのだが、そのようすが、「誰も分からないのに分かったフリ」にみちあふれていておもしろいらしい。落合陽一は「「分かってる風コント」の起点」であり、宇野常寛は「「すごそうなインテリ」感が強い」、「2018年度何やってるのかイマイチ分からない人大賞ノミネートだと思う」、「すごいのかすごくないのか僕はよく分からないけど、少なくとも「すごそうなインテリ」感を出すことに関して言えば一級品である」といわれ、会場観覧の観客についても、「NewsPicksファンの皆様が見に来ているようなのだけど、さすがNewsPicksだけあって「オレの知的好奇心を満足させることができるかな?」みたいなインテリぶった人がたくさんいる」などとかたられて、なんかちょっとわらってしまう。この記事自体をよむとわりとわらってしまうのだが、ここでじっさいにおこっていることとか、それがこうしてネタになることとか、もろもろかんがえると、たしかにわりと地獄かもしれないなとおもった。
- それから今日のことをかきだし、ここまでしるせば一時。
- 『ギリシア悲劇Ⅱ ソポクレス』(ちくま文庫、一九八六年)をよみすすめる。最初の「アイアス」。訳者は風間喜代三というひとで、ぜんぜんしらないが、Wikipediaをみると高津春繁門下の言語学者らしく、一九二八年生まれで存命らしい。訳は古い時代の格調高いかんじがあってけっこう良い気がする。劇中には、万物流転、いわゆるパンタ・レイというのか、物事はうつりかわっていくもので人間の幸福もいつまでもつづく絶対的なものではないし、この世はいつなにがおこってもおかしくない、というような認識がたびたび表明されており、仏教的にいえば諸行無常ということになるのだろうが、じっさいパンタ・レイと諸行無常と、このふたつのかんがえかたはほぼおなじものなのではないか。ギリシアの場合はそこにたぶん、人間のそうした運命をつかさどっているのは神々であるという前提的認識がくわわってくるのだとおもうが。その神々はしかし、超越的ではあるのだろうけれど、絶対的に超越していて人間の手のとどかない存在かというとそうでもなさそうで、そもそも人格神で会話ができる。すがたはみえず、声だけで認知されているようだが、女神アテナはアイアスともオデュッセウスともことばをかわしている(アイアスの奴隷兼妻であるテクメッサは認識できないようで、「何か亡霊のようなもの」(26)といっているが)。アイアスにいたってはアテナの禁止にさからってさえいる(16)。とはいえ、そのような人間の分をわきまえない不遜さによって彼は罰せられることになるわけだが。16ページ時点でアイアスはすでにアテナの力によって錯誤の幻術にかけられており、家畜を自分のかたきであるオデュッセウスだとおもいこんでアテナの命令に抵抗するわけだが、そのアイアスのすがたをみてオデュッセウスは、「わたしはこの男が不憫でなりませぬ。たとえわたしを快からず思うとはいえ、この不幸な禍いにしっかりとくくりつけられているのを見、これもいつかはわが身のことと思うにつけても。しょせんわれらはこの世にては、空蟬のはかない影にすぎぬものでしょうから」としみじみもらしている。それをうけるアテナは、「この有様をとくと見て、いつの日にも神々に向かい、傲慢な言葉を口にしてはならない。たとえ人一倍力にめぐまれ、巨万の富にあふれようとも、けっして思い上ってはならない。一日のうちに人間万事浮きも沈みもする。慎みをわきまえた者こそ神々の愛を受け、思い卑しい者を神々は憎むのです」といましめをあたえているので、この部分はたぶん古代ギリシアの観客にとって、おごりを抑制する道徳的教訓として機能しただろう。
- 読書の先かあとかわすれたが、「英語」の音読もしている。235から263。それで四時ごろに上階にあがったはず。母親は出勤している。こちらはアイロンかけをする。労働前にもやはりいくらかなりとも家事をこなして母親の仕事をへらしたい。アイロンかけの最中に電話が鳴って、取れば「(……)」であり、あたらしいテレビをもっていこうとおもうがいまからではどうかときくので、外にでて家の脇にいた父親にかわった。それでくることに。こちらはアイロンかけをかたづけるとちいさめのおにぎりをつくり、魚肉ソーセージとともに部屋にもちかえってエネルギーを補給。それから歯をみがいたり服をきがえたりして身支度をととのえた。出発までにややあまって、日記をしるそうかともまよったが、瞑想をしておくことに。それで枕の上にあぐらで腰掛けて静止。昼前のときよりも鳥の声がおおく、ウグイスもきいた。ヒヨドリがなきかわしていたはず。きいていると、ピヨピヨ鳴いているばかりではなく、口調みたいなもの、リズムがあるのがわかる。ピヨピヨ鳴いているときはほかの鳥もおなじようにあかるくおおきな声でおうじてきてにぎやかだが、ほかに、ちょっと曲折したような、よわいカーブでみじかくフラットしていくような鳴き方とか、いくつかの種類がある。それをきいていると、近年鳥にも言語体系とか文法があるということがあきらかになってきているとかきくが、マジでなんらかの意味をやりとりしているようにきこえる。
- 五時過ぎまですわって上階へ。電気屋の主人にあいさつ。あたらしいテレビをつけていろいろ説明しているところ。それで靴下をはいたりしてからまたあいさつして出発へ。道に出てあるく。どこの家でひとを入れたのかしらないが、林縁の段の上の草がかられていて、石壁のあしもとや石たちの合間にかわいた茶葉のような、針めいてほそい草の屑がたくさん散乱している。空はさほどはっきり晴れてはいなかったはず。雲まじりの淡い色で、明確な陽射しもなかった。坂道の両端には黄色く変じた竹の葉が無数にあつまっていて、竹秋の季である。積もっていくらか層をなしたそのなかに普通の広葉樹の葉や、茶色くそまったスギの葉などがまざっている。
- 駅にはいり、ホームの先へ。かなりゆるい、苦労なしというかんじのぶらぶらしたような足取り。とまってまっていると、白と青のあいまいにないまぜにされた合いの子的な空を背景に鳥の影がいくつもみられて、あのかたちと飛び方はツバメだなと判じられた。曲線をえがいてもいるが、ときに線路の上空をまっすぐ滑空してこちらのいるあたりをすーっととおりすぎてもいく。
- 電車にのって席でやすみ、つくとおりて職場へ。勤務。(……)
- (……)
- (……)
- (……)
- (……)
- (……)
- (……)
- (……)退勤は結局一〇時半ごろになったか。徒歩をとった。道中の印象はさしてない。街道途中で工事をしていたくらい。道路をはがして水道管だかなんだか、地中のことがらをなにかやっていたよう。横にながいかたちの巨大な提灯というか膨らみのある貝殻というか、そんなような見た目の白い照明がふたつほど設置されてあたりに光をひろげており、そのなかで人足たちがよりあつまって、なかにはアスファルトをのぞいてできた穴にはいっているものもいたようで、なにやら話していた。その横を、じろじろながめながらこちらはとおりすぎる。警備員というか交通整理員はすこしはなれたところにいて、工事の内容自体には関係ないのだろうから、暇そうにしていた。道路にでて車をとめたり通したりしているひともむろんいるわけだが、それもこの時間だからそんなに通るわけでもないし、わりと楽な仕事だろう。
- 帰宅後はたいしたことをしなかったとおもう。夕刊でなにかよんだ気がするが。あれだ、市川房枝の一九歳のときの日記が発見されたという記事だったはず。女学校にかよっていたころの夏休みのもので、市川は学校の良妻賢母教育に反発して同級生をひきいて反抗したらしいのだが、効果むなしくおわったらしく、それについての感情的な記述がおおくて、市川房枝がこのように感情をむきだしにしている書き物はいままでみられなかったものだ、という研究者の言があった。しかもこの日記は学校に提出されたといい、「生徒は生徒らしく、女は女らしく」とかいう教師のコメントが記されているらしい。「~~らしさ」というものを例外なく拒否したい。他者からもそれをさしむけられたくないし、自分でも自分に「~~らしい」などという言明を、それがなんであれあたえたくない。
- ほんとうは日記をかくなりなにかよむなりしたかったのだが、ちょっと休もうとおもってベッドにいるうちに力尽きてしまい、三時一六分に消灯した。やはり労働後に書き物をするのはなかなか難しいところがある。勤務のあった夜は脚をほぐしながらひたすらものを読む時間にしたほうがよいのではないか。