2021/5/16, Sun.

 この本には、格言的なアフォリズムの口調(われわれは、人は、つねに、など)がつきまとっている。ところで格言とは、人間の本性についての本質主義的考えかたに取りこまれており、古典的なイデオロギーに結びついている。すなわち、言語の表現形式のなかでもっとも傲慢な(しばしばもっとも愚かな)ものなのだ。では、なぜそれを捨てないのか。その理由は、あいかわらず情緒的である。わたしは〈自分を安心させるために〉格言を書く(または、格言的な動きをちょっと見せる)のである。急に不安が生じたときに、自分をしのぐ不動のものに身をまかせて、その不安をやわらげるのである。「結局は、いつもこうなのだ」と思い、そして格言が生まれるというわけだ。格言とは〈名称 - 文〉のようなものであり、名づけることは緩和することである。そもそも、これもまた格言になっているのではないか。格言を書いたら場違いのように見えはしないかというわたしの恐れを格言は和らげてくれる、というわけである。
 (石川美子訳『ロラン・バルトによるロラン・バルト』(みすず書房、二〇一八年)、272; 「格言(La maxime)」)



  • きのうしかけてあった八時のアラームを解除していなかったので、八時にいちどおこされた。それからまた寝て、一一時一五分ごろ正式な覚醒。天気は曇りで空は真っ白。陽の感触はない。こめかみやら背中やら腰やらをもんだのち、一一時四〇分に離床。背中がやはりちょっと油断してほうっておくといつの間にかかたまっている。今日は瞑想をサボった。洗面所にいって用を足し、うがいをくりかえす。そうして上階へ。カレーのにおいが居間にただよっている。ジャージにきがえて洗面所で髪をとかし、屈伸をしてからカレーを皿に盛って食事。父親は腰を痛めたためにずいぶん難儀そうで、ちょっと移動するのにも骨が折れるようすでたびたび嘆息をもらしており、上体をややかがめながらゆっくりうごくからそのさまはもういかにも老人である。医者でもらったらしき薬を食前にのんでいた。こちらも年をとってから足腰をそこなってあるけなくならないよう、いまのうちからよくメンテナンスをしたりきたえたりしておかなければ。ニュースはイスラエルパレスチナのたたかいをつたえ、パレスチナ側の死者は一四五人ほどをかぞえるにいたったのにたいし、イスラエルは一〇人。新聞も一面、三面、国際面とこの件をおおくつたえている。先にページをめくって全体をさっとチェックしたが、社会面の訃報で河合雅雄というひとがつたえられていた。河合隼雄の親族か? とおもったらやはりそう。全然知らなかったが、実兄らしく、霊長類学の権威だったらしい。九七歳。今西錦司門下で、宮崎県幸島のサルの研究でイモを洗うという文化的行為がサルの集団において伝達されるということを解き明かし、六五年に論文を出して注目されたとか。幸島という名にはみおぼえがあって、塾であつかっている国語のテキストのなかにたしかそこのサルのはなしがでてきて、カミナリという群れのリーダーがむかしながらの掟をまもって絶対に水のなかにはいろうとしないのにたいして若いサルたちはそんなことには頓着せずどんどん水にとびこんでにぎやかにあそんでいる、みたいな観察がしるされてあったとおもうのだが、あれがもしかするとこの河合雅雄の文章だったのかもしれない。このひとは別名で児童文学もものしていたとのこと。
  • それから一面のイスラエル - パレスチナ関連。といってそんなに目新しい情報はなく、紛争がつづいており、イスラエル空爆や攻撃もハマス側のロケット弾もとまっておらず、死者が増えているということ。たたかいの余波は周辺にも波及しており、西岸地域では全域にわたって抗議活動が発生し、二〇〇の都市でおこなわれてイスラエル側との衝突もとうぜんおこっているとのこと。周辺国だとレバノンで国境の柵だかなんだかをこえようとしたヒズボッラーの人間がイスラエル側にうたれて死んだとかいうし、シリアからもロケット弾が三発発射されたらしい。
  • テレビは『のど自慢』の派生版というか、みながやったパフォーマンス動画を投稿してきて紹介みたいなやつ。なかに七二歳ながら厚い筋肉をもった老人があって、傘で枡をまわしたり皿をまわしたりするなつかしの芸を披露したり、棒につかまって逆さになった状態でとまるなどしていたが、七二歳でわりとムキムキなのをみると、あそこまでやろうとはおもわんが俺ももうすこし筋肉つけたいなあとおもう。とにかくいまは筋肉がないにひとしいので。肉体の安定性と堅固さをわずかばかりそなえたい。ものを食べ終えると立って三人分まとめて食器をあらい、それから風呂。すますと出て、緑茶をつくって帰室。茶をのみながらNotionを用意し、ここまで記述した。かいている途中、少々雨がもれだした音がきこえたものの、いま、一時一三分時点ではもうきえている。今日は三時から「(……)」のひとびとと通話することが昨晩きめられた。(……)
  • 音読。「英語」を384から400ちょうどまで。BGMはCannonball Adderley『Somethin' Else』。"Autumn Leaves"でのMilesのソロは、よくこんなに音数すくなく、寡黙にできるなというかんじ。ミュートでの静謐なバラード的ソロは五〇年代以降の彼の十八番ではあるが、ここはそれにしてもしずかなんではないか。きちんときかないとわからないが、間延びはしていないとおもう。こんなに空間をあけて一歩一歩じっくりやろうというのは、やはりAhmad Jamalのやり方をまだきにいっていたということなのだろうか。この作品は五八年録音だが。
  • 音読後、トイレにいって排便してきてからベッドでふくらはぎをほぐす。一方で(……)さんのブログ。五月一四日分。過去から世界の豊穣さの実感についての記述がひかれている。いまさらいうまでもないしこちらが最近それを如実につよく感得したわけでもないけれど、こちらなど、読み書きをはじめてしばらくして以来、いままでずっとこれだけでやってきたようなものだ。

学生らの家庭事情などについて最近聞かされることが多いわけだが、彼女らの訴えてみせるある種の悲痛さとはまた別の次元で(「家族」というのは端的に「呪い」だろう)、この世界というのはやはりどうしても豊かなものであるのだなとの感をいちいち得てしまう。じぶんひとりの人生だけでもとんでもない情報量で構成されているというのに、それと同じ密度と解像度をそなえたまったく別様の人生が、信じられないことに人間の数だけ存在しているというその事実を想像すると、本当にあたまがくらくらするし、そのたびになにかに取り憑かれたように、うわごとのように、「どうすればいい?」と独り言を漏らしてしまうじぶんがいる。それにしてもなぜ「どうすればいい?」なのか。どうするもこうするもない、ただその事実をその事実のままに受け入れればいいだけだと思うのだが、このような感を得るたびにじぶんはほとんど必ずといってもいいほど「どうすればいい?」と口に出して自問してしまうのだ。あるいはこれはこの世の真理に気づいてしまったものの惑い、この真理さえ共有することができれば万事がうまくおさまるべきところにおさまるというほとんど妄想じみた狂おしさにとり憑かれている宗教家の焦慮みたいなものなのだろうか。どうすればいい? この真理を人類にどう伝えればいい? みたいな。

  • そのあと一年前の五月一六日の日記をよみかえした。「先日のヒメウツギらしき白の小花が、坂道の左側、林の一番外側の茂みにも生えている」とあるが、たしかに今年も白い小花は生えている。ただヒメウツギという名は完全にわすれていた。たしか卯の花といわれるのがこの花だというはなしだったとおもうのだが、先日なにかの拍子に母親の口から卯の花の語がでたときにも、まったくおもいださなかった。
  • ほか、塾でコロナウイルスを機にオンライン授業が導入されたり、今後AIが導入されたりするとかいうはなしがでているのだが、それをうけての以下の記述が、べつに目新しいはなしではないがけっこうおもしろかった。「生徒たちがそれまで考えたことがなかった物事の接続/切断の仕方を示し、つまりは彼らの脳内にある世界の組織図を解体/再構築して新たなネットワークの姿を描いてあげるということが必要になってくるはずだ。これが批評であり、思想であり、教育である」とか、「結局のところ、教育だの何だの言ってもそれはやはり人間と人間とのコミュニケーションだといういささか反動的な地点に回帰してしまうわけだが、そのコミュニケーションはもちろん多くの場合で対称的とは言えず、またおそらくは根本的に抑圧をはらまざるを得ない性質のものでもある。そして、だからこそ面白いわけだろう」とか、「具体的な人間がいて、さらにもう一人具体的な人間がいれば、そこに何らかの意味で齟齬や摩擦や誤解やノイズが生じないなどということがあるはずもないだろう。それをなるべく排除していこうというのがたぶん一方では現代の趨勢なのだと思うが、しかしもう一方では、例えばインターネットの一角を瞥見すれば立ち所に露わになるように、「齟齬や摩擦や誤解やノイズ」をむしろ自己目的として最大化していこうという、およそくだらない遊びに耽っているようにしか見えない人間たちがいくらでもうごめいているわけである。手垢にまみれた術語を敢えて用いるならば、その双方ともいわゆる「他者」への望ましい志向を欠いていることは明白だろう。こちらからすればどちらの趨勢にしてもクソつまんねえとしか言いようがないし、どちらの方向性が今後優勢になっていくのか、あるいはむしろそれらは共謀的に結び合わさっているものなのか、そうだとしてこれら二種の反 - コミュニケーションが綯い交ぜになりながら色の醒めたディストピアを築いていくのか、それは知ったこっちゃないが、少なくとも前者の、「滑らかで効率的な齟齬のない情報伝達」なるものがこの世を全面的に覆う未来がもしあるとしたら、そのとき「人間」と「世界」の定義は現在のそれから遠く離れたものになっているだろうとは思う」のあたりなど。「例えばインターネットの一角を瞥見すれば立ち所に露わになるように、「齟齬や摩擦や誤解やノイズ」をむしろ自己目的として最大化していこうという、およそくだらない遊びに耽っているようにしか見えない人間たちがいくらでもうごめいているわけである」などというところの皮肉ぶりは偉そうで、なかなかのふてぶてしさだし、「これら二種の反 - コミュニケーションが綯い交ぜになりながら色の醒めたディストピアを築いていく」というのは、一年後のいま、よりたしかに実感されるきがする。

(……)そこに室長が、(塾の授業で)数学はやらなくて済むようになるよという情報をもたらした。AIが導入されると言うのでマジすかと笑い、ちょうど出勤してきた(……)先生にも、いま聞いたんですけど、何かAIが導入されるらしいっすよと伝えると、彼女は既に知っていたようだった。私とか、いらなくなっちゃいますと言うのでこちらも、やばいっすね、仕事奪われちゃいますねと口にしながらも危機感ゼロでへらへら笑い、何だかんだ言って塾業界は残ると思ってました、やっぱり教えるのは人間じゃないと駄目だよね、みたいな風潮が残ると思ってましたと言うと、室長曰く、代々木だったか河合塾だったか城南だったか忘れたがそのあたりはもうとっくに導入しているし、講義動画を提供したりもしているらしい。そう考えると、やる気のある生徒ならばわざわざ塾に通わなくともそういう動画やAIなどを自ら活用して勉強に励むことができるわけで、学習塾というものの必然性は今後どんどんなくなってくる。また、塾に所属して講師に教えてもらうとしても、オンライン通信技術も今後さらに発展していくはずだから、やはり教室という場にわざわざやって来て直接対面する必要もなくなってくるわけだ。だからおそらく塾というものも今後衰退していくのではないかという気もするし、少なくとも対面授業という形式は、完全になくなりはしないかもしれないが、たぶんメインのものではなくなっていくのではないか。そうするとわりとアナログなほうの人間であるこちらにとっては、何だか退屈で面白くもなさそうな世になりそうだ。

とは言え勉強なんてそもそもAIだの動画だのがまだない時代でも、知識を頭に取り入れるという点に限れば、やる気や能力のある人間なら教科書などを読んでいくらでも自主的にできたわけで、わざわざ講師が喋るのにただ知識を伝達するだけで、つまり教科書の不完全な代用に留まるのだったらそんな授業はクソつまんねえに決まっているわけで、これは大学の一方的な講義形式とかを考えれば多くの人にとって体験的によくわかることだろう。登壇者が一方向的に話すだけの講義なんていうものは、その登壇者に優れた語りの能力がない限りは基本的にクソつまんねえわけで、集団にせよ個別にせよそんな授業をやっても大した意味はない。ではそこで講師にできることは何なのかと言うと、一つにはこの数日後に通話した(……)さんも言っていたように、知に対する欲望を相手に注入し一種の転移関係を形成するということで、平たく言えば、あの先生の話面白い、あの先生ともっと話したい、あの人の話をもっと理解できるようになりたいというような「憧れ」を生徒のうちに涵養させるということだろう。じゃあ次に具体的にどうすればそれが達成できるかと言うと、それはやはり一つには面白い話をするということになるのだけれど、面白い話というのは要するに一つには、それまで生徒たちの頭になかった物事の組成を示してあげるということになるのではないか。つまり、教科書が語る物語を踏まえつつも、それとは別のより魅力的な物語を語ってあげるということだ。教科書の提示する物語なんてだいたいクソつまんねえということは生徒たちももう大方わかっているわけで、だから教科書=マニュアルにただ沿っているだけでは授業なんてどうあがいたって面白くなるわけがない。そこで、教科書にはこう書いてありますけど、これは実はこういうことと繋がっているんですよ、こことここを組み合わせるとこういうことが見えてきますよね? とか、あるいは逆に、教科書だとこれとこれが繋がっていますけど、こんなものは実際は切り離すことができるんですよ、とかいう形で、生徒たちがそれまで考えたことがなかった物事の接続/切断の仕方を示し、つまりは彼らの脳内にある世界の組織図を解体/再構築して新たなネットワークの姿を描いてあげるということが必要になってくるはずだ。これが批評であり、思想であり、教育である。具体的な例を挙げるならば、以前(……)くんの英語を担当していたときに、Many people speak Spanish in America. みたいな文が出てきて、アメリカなのに何でスペイン語なの? と(……)くんが訊いてきたので、アメリカの南にはメキシコという国があってそこからの移民にスペイン語を話す人が多いこと、そもそも南アメリカという土地はかつてヨーロッパから海を渡りスペイン人が進出(という語を一応使っておいたのだが)してきて植民地とされていた歴史があること、そのあとでスペイン本国から独立して南米の国々ができたのだということをかいつまんで話すと、(……)くんは、じゃあそれって、日本のなかで沖縄とか北海道が、俺たち日本じゃなくて沖縄だから! って言って独立するのと同じじゃん! と言ったわけだ。これはまさしくその通りであり、そこに思いが至ったというのは、とても素晴らしいと言わざるを得ない。この話が(……)くんにとって果たして面白いものとして受け取られたかどうか、それはわからないが、少なくとも、アメリカ→メキシコ→南米→スペイン→日本に翻って沖縄、というこうした一連の接続図を提示してくれる人間は、彼の人生においていままでいなかったはずだし、おそらく中学校にもいないと思うし、つまり正規の学校教育のなかで子供たちがこのような物語を聞く機会というのは、たぶんそれほど多くはないと思われる。だから(……)くんも、この話に多少なりとも新鮮味のようなものを感じてくれていたら良いと思うのだが、このようにマニュアルからいっとき浮遊して、何らかの意味でその外の世界を垣間見せるような話がたぶん一つには「面白い話」と言えるのではないか。おそらく多くの人が体験的に納得できるはずだと推測するのだけれど、学校の授業を受けていても後年記憶に残るのは、授業本篇から外れたそういう脱線的な話のほうが多いはずだ。つまり記憶に値するほどの印象を人に与えうるのは物語の反復ではなく、日常的に反復される物語からひととき逸れた細部なのだ。これがすなわち、余白であり、差異である。それを活用しながら、学校なんていうところはクソみたいに狭くてつまんねえ限定的時空に過ぎず、その外にはろばろと存在しているこの世界はまさしく無限とも思えるほどに広く深く豊かで汲み尽くしがたいものなんですよ、ということを一抹理解させ、ひとかけらでも実感させるということが、おそらく一つには意味のある教育というものだろう。

生徒に「憧れ」を喚起させて知への欲望を注入するという話に戻ると、だから教師というものも、それが有効に機能するためには一種のアイドルみたいなものでなければならないということにもしかしたらなるのかもしれないが、そういうときに重要なものとしては、話の内容は当然としても、そのほかに言葉遣い、身振り、表情、声色、相手に対する応じ方、など諸々の装飾的諸要素があるわけで、時と場合と相手によってはむしろ、記号内容よりもこれらの記号表現のほうが重要ですらあるのかもしれない。つまるところ、最終的にはやはりどうしても、講師が総合的・全人的様態として放つ人間的ニュアンスが試されるということで、AIだの何だのが勢力を振るうであろう今後の世の中でそれでも古典的な直接対面形式に何がしかの力を見出そうとするならば、いま目の前に一人の人間が現前しているというそのまざまざとした具体性に、それが反動的だとしても、ひとまず立ち戻る必要はあるはずだ。そして言うまでもないことだが、教育の場で現前しているのは講師だけでなく生徒もまたそうなのであって、少なくとも個別指導においては生徒の寄与と貢献がなければ授業という時空が正しく優れた意味で成り立たないことはあまりにも自明である。彼ら彼女らがこちらの話や言うことを聞いてくれなければ、授業などというものは即座に崩壊するのだから。したがって、教育という営みが退屈極まりない教科書の代用以上のものであるべきだと考えるのならば、不安定ながらもそこに成立しうる相互性に依拠して、それをどのように組み立てていくか、どのように組み変えていくか、どのように操作していくかという具体的な技術の検討が必須である。結局のところ、教育だの何だの言ってもそれはやはり人間と人間とのコミュニケーションだといういささか反動的な地点に回帰してしまうわけだが、そのコミュニケーションはもちろん多くの場合で対称的とは言えず、またおそらくは根本的に抑圧をはらまざるを得ない性質のものでもある。そして、だからこそ面白いわけだろう。AIだの動画だの何だの言って、AIなどというものは少なくとも学習塾に導入される程度の技術レベルとしては、人間の都合に合わせて機能するだけの便利な機械に過ぎないだろうし、動画だって言うまでもなく一方向的な提供物でしかない以上、そこに偶然的な余白のようなものは大方生じ得ない。したがって、そこには明らかに、生徒の思い通りに動かない教師も存在せず、教師の思い通りに動かない生徒も存在しない。そこにあるのは単なる滑らかで効率的な齟齬のない情報伝達に過ぎず、だからその基盤には資本主義の論理と相同的な原理が明瞭に観察されうると思うが、そうした「滑らかで効率的な齟齬のない情報伝達」などというものはきわめて抽象的な仮構空間でしかなく、こちらに言わせれば観念的の一言に尽きる。具体的な人間がいて、さらにもう一人具体的な人間がいれば、そこに何らかの意味で齟齬や摩擦や誤解やノイズが生じないなどということがあるはずもないだろう。それをなるべく排除していこうというのがたぶん一方では現代の趨勢なのだと思うが、しかしもう一方では、例えばインターネットの一角を瞥見すれば立ち所に露わになるように、「齟齬や摩擦や誤解やノイズ」をむしろ自己目的として最大化していこうという、およそくだらない遊びに耽っているようにしか見えない人間たちがいくらでもうごめいているわけである。手垢にまみれた術語を敢えて用いるならば、その双方ともいわゆる「他者」への望ましい志向を欠いていることは明白だろう。こちらからすればどちらの趨勢にしてもクソつまんねえとしか言いようがないし、どちらの方向性が今後優勢になっていくのか、あるいはむしろそれらは共謀的に結び合わさっているものなのか、そうだとしてこれら二種の反 - コミュニケーションが綯い交ぜになりながら色の醒めたディストピアを築いていくのか、それは知ったこっちゃないが、少なくとも前者の、「滑らかで効率的な齟齬のない情報伝達」なるものがこの世を全面的に覆う未来がもしあるとしたら、そのとき「人間」と「世界」の定義は現在のそれから遠く離れたものになっているだろうとは思う。そのような世界はこちらにとってはやはり退屈なものとしか思えないのだけれど、第一、オンライン授業とか何とか言って、そのときこちらが目にするのは、所詮は長方形の小さな画面じゃねえか。

  • 2014/7/3, Thu.もこの日よみかえしているのだが、そこからひかれている以下の場面も言及されているとおり、たしかにちょっとよかった。「何だか素朴で、他愛なくどうでも良い雰囲気がわりと出ている」と評されているが。庄野潤三をすこしおもわせないでもない。このころは柴崎友香『ビリジアン』をよんだ影響で、「~した」でみじかくつらねていく軽くて淡い文体を志向していたのでこうなっているのだが。括弧で発言をくくって改行するふつうの小説のようなやり方は、こちらの日記においてはめずらしく、たぶんこのころの一時期しかやっていない。

 帰ってリビングに入った。
 「ぶどうあるよ」
 「ぶどう……え、なんかめっちゃでかいハチいるじゃん」
 南の窓の右半分が網戸になっていて内側にハチがとまっていた。網戸をすこしあけて窓は閉めてガードした。
 「でっかいなあこいつ」
 もぞもぞ歩いているのを見ているとなんとなくかわいらしくも思えてきた。ガラスの向こうとはいえ顔の近くで飛ぶとびっくりした。たぶんスズメバチだった。琥珀色のうすい羽がぶるぶる震えた。尾の先に針らしいものは見えなかった。使うときに出すのかもしれない。
 「でっかいなあこいつ」
 「カウナスって知ってる?」
 「なにそれ」
 「カウナスに行ってるんだって」
 兄のことだった。母は寝転がって携帯を見ていた。
 「ああなんかロシアのまわりの国じゃない」
 「杉原記念館だって」
 思いだした。国ではなかった。
 「杉原千畝? リトアニアじゃない?」
 ぶどうを用意して食べるあいだ、母はたぶん兄のブログの記事を読みあげた。杉原千畝がどうの、ユダヤ人脱出がどうの、松岡洋右外相の外交資料が残されているどうのといった。母は杉原千畝松岡洋右が読めなかったから教えた。
 「有名なの?」
 「名前くらいは。昔ドラマになってた気もする」
 「へえ」
 部屋におりた。(……)

蓮實 現在、わたくしが濱口竜介監督とともにもっとも高く評価しているのは、『きみの鳥はうたえる』(And Your Bird Can Sing, 2018)の三宅唱監督です。また、『嵐電』(Randen, 2019)の鈴木卓爾監督も、きわめて個性的かつ優秀な監督だと思っています。さらには、『月夜釜合戦』(The Kamagasaki Cauldron War, 2017)の佐藤零郎監督など、16ミリのフィルムで撮ることにこだわるという点において興味深い若手監督もでてきています。また、近く公開される『カゾクデッサン』(Fragments, 2020)の今井文寛監督も、これからの活動が期待できる新人監督の一人です。
 ドキュメンタリーに目を移せば、この分野での若い女性陣の活躍はめざましいものがあります。『空に聞く』(Listening to the Air, 2018)の小森はるか監督、『セノーテ』(Cenote, 2019)の小田香監督など、寡作ながらも素晴らしい仕事をしており、大いに期待できます。また、近年はあまり長編を撮れずにいましたが、つい最近、中編『だれかが歌ってる』(Someone to sing over me, 2019)を撮った井口奈己監督も、驚くべき才能の持ち主です。

  • それで三時から通話。隣室で。(……)も参加予定だったのだが、急遽不参加に。もっとも、あとで夜にまた通話したときは参加できたが。ZOOMにつないで顔を見せるなり、(……)に、痩せた? ときかれたので、とくに痩せてはいないはず、と否定する。きのうかおととい体重をはかったら五八キロだったと報告すると、かるすぎじゃない? といわれるが、むかしからのことだ。(……)が白湯をついでくるとかいってはなれたところで(……)くんが、さいきんは日記がコンスタントにすすんでるじゃんみたいなことをいうので、でもいま最新は一一日だけどね、とうけて、さいきんはもうぜんぶ書くという強迫観念を捨てたから、とのべた。(……)がもどってきながらどういうことかときくので、まあ基本は毎日書くわけだけど、気分が向いたら書くかんじで、書かないあいだにその日のことをわすれてしまったらそれはしかたないともうわりきっていて、おもいだせることだけ書けばいいやというかんじ、俺の場合はまあなるべくながくつづけたいわけだから、そうするとやっぱり楽に、負担なくやれるのがいちばんだからね、それに日記以外の仕事もやりたいわけだし、と説明するうちに(……)もあらわれて、仕事がどうのというのをききとめてきくので、仕事っつっても金をもらうとかそういうことじゃないけど、日記以外にちゃんとした、作品としての文章ってことで、翻訳したいものとかもあるしね、日記は日記でやっていきながらそっちのほうもやりたいわけだから、そうすると毎日の文章はなるべく楽にして、時間とか労力を正式な仕事のほうにあてていかないと、とのべた。
  • (……)
  • 五時になったらこちらは飯をつくりにいくとあらかじめいってあったので、それで通話をおえると上階へ。しかし飯といってカレーがのこっていたし、米ものこっていたし、あまりやることはなかったのだ。小松菜を茹でて切り、からしとマヨネーズと醤油であえたのと、あとタマネギとゴボウの味噌汁をつくっただけ。そのあとアイロンかけ。この日は日曜日だから『笑点』がテレビでやっていた。シャツやらズボンやらなにやらにアイロンをかけながら画面を多少ながめる。五〇周年だか五五周年だかわすれたがそれを記念して、なぜか松井秀喜が出演しており、出演しているといっても事前に撮影した映像をながすかたちなのだが、ただ問題にあわせてみぶりをまじえながらお題をいったり各回答者によびかけたりするもので、ひとつは「こんな野球選手は嫌だ」と発するものなのだけれど、それにともなうみぶりのパターンがけっこうたくさんあったので、これこのために何回も撮ったのか、とおもった。よびかけをまじえたものも同様で、とうぜんながら回答者全員分を撮らなければならない。松井秀喜はひさしぶりにみかけたが、グレーのスーツをたしかネクタイなしで着た格好でソファだかなんだかにすわっており、声色にせよ雰囲気にせよ柔和で、にこやかな表情でおだやかにしているのだが、からだも大きめだしそれでもわりと貫禄というか堂々と安定したかんじがあって、うーん、なるほどなあとおもった。
  • そのあとすぐに夕食をとったのだったか。九時からふたたび通話といわれていたが、八時半の時点でこれから風呂にはいって九時をすぎるので先にはじめていてくれとLINEに投稿すると、じゃあ九時半からにしようとなったので了承し、入浴へ。あがってきてまた隣室に移動して通話。(……)
  • (……)
  • それで一一時まえにZOOMの時間制限がつきて終了。そのあとはとくに目立った記憶も記録もなく、岡和田晃×倉数茂「新自由主義社会下における 〈文学〉の役割とは」(https://shimirubon.jp/series/641(https://shimirubon.jp/series/641))を読んだくらいだとおもう。倉数茂というひとはこちらは山尾悠子の『飛ぶ孔雀』を読んだときに、noteだかどこだかわすれたが当該作についての彼の感想というか批評文みたいなものがあって、それではじめて名前を知ったのだけれど、SF作家だとおもっていたしじっさいそのようにいわれているようだけれど、もともと『早稲田文学』上で書いていたひとで、最初のうちは批評をやっていたようで、ベケット論など載せていたらしい。当人はじぶんは批評家としては挫折したみたいなことを言っていて、それで実作にいったわけだが、いわゆる純文学にもいわゆるエンターテインメントにもどうもなじめないでいる、みたいなことものべていた。SFとかミステリーとかファンタジーやら幻想・ゴシック界隈やらもおもしろいものはたくさんあるのだろう。ぜんぜんふれたことがないのだが。江戸川乱歩短編集みたいなものは家にあって、それはさいきんちょっとよんでみたいが。乱歩はむかし、つまりこどものころか高校生くらいのころにすこしだけよんだようなおぼえもあるが。高校生のころは島田荘司とかのミステリー方面を多少よんでいたので。御手洗潔シリーズとかけっこうよんだはず。あと内田康夫
  • どこかのタイミングでベッドにころがりながらCannonball Adderley『Somethin' Else』をきいた。冒頭の有名な"Autumn Leaves"をきくに、Milesの音数のすくなさ、寡黙さはきのうだかもふれたとおもうが、Adderleyのソロをあらためてきくとこのひとはおもったよりもトーンがまろやかだなとおもわれ、Adderleyというとファンキー方面のイメージのひとだし、フレーズとしても躍動的に、はねまわるように飛翔することがおおいから、なんかもっと汗臭い泥臭いイメージをもっていたのだけれど、きちんときいてみれば、"Autumn Leaves"にかんしてはバラードまではいかないにしてもしずかなアレンジになっているからなおさらそういう音出しにしたのかもしれないが、ずいぶんやわらかく、まるくふくよかな響かせ方になっていた。それでいてMilesとはまったくちがってやはり音列はこまかくはねることがおりおりあり、活発で、とりわけすばやく回転しながら紐がしゅるしゅる吸い込まれてたたまれるみたいに下降することがおおい。その回転の感覚とか全般的なスタイル感はJohnny Griffinを連想させるものがあって、テナーとアルトだからちょっとちがうが、汗をそんなにかいていない、ややすずやかなJohnny Griffinという印象。ほかの曲ではもうすこしトーンもかたくなっていた気がするが。吹きぶりはもう堂に入ったもので、Miles御大が見ているなかで、しかも御大はあんなにしずかにクールにやったあとでAdderleyがソロをやるわけだけれど、ぜんぜん緊張とか萎縮とかをかんじさせず生き生きとしている。