たましいは神的で不死のものであり、罪のために身体に封じこまれている。身体(ソーマ)はたましいの墓場(セーマ)なのであって、たましいは、いまは「牡蠣のように」身体に縛りつけられ、輪廻のくびきのもとにある(プラトン『パイドロス』二五〇 c)。人間として生まれてきたこの時間に、鍛錬をつみ、浄化(カタルシス)をとげたたましいは、輪廻というたましいの牢獄を脱し、不死なる神的なありようを取りもどすことだろう。(end16)
ピタゴラスとその教団が展開したといわれる、輪廻をめぐる思考は、オルフェウスの教えのうちにすでにふくまれている。それはおそらく、トラキアの山々を越えて、東方に起源をもつものであった。輪廻という発想は、浄化と鍛錬(アスケーシス)という実践をもみちびく動機となったように思われる。(……)
(熊野純彦『西洋哲学史 古代から中世へ』(岩波書店、二〇〇六年)、16~17)
- 一〇時のアラームで正式な覚醒。今日は二時から勤務なので、いちおうしかけておいたのだった。そのまえからたぶん二度ほどさめてはいたのだけれど、なんだかねむくておきあがれなかったし、一〇時のアラームをうけたあとも同様ですぐにはおきあがれず、しばらく首をのばしたりふくらはぎをほぐしたりした。あと、(……)への返信をつくって送信。一〇時半に離床して部屋をでると、父親は階段下の室でコンピューターをまえに机上に突っ伏すようになっていた。洗面所でうがいをよくする。用を足すともどって瞑想。やはりなんとなくねむけがなごっている。窓外ではヒヨドリが、鳴きかわすあいてもおらずただひとりときこえたがしきりに、ほとんどたえまなく切実なように声をはじきちらしている。おなじ種でなくウグイスなどならまわりに多くいるが。一五分ほどすわり、ゴミをもって上階へ。ジャージにきがえて屈伸。カレーののこりをまぜてスープをつくったので、うどんを茹でるようだという。それでフライパンに水を張って火にかけておき、洗面所で髪をとかすとともにさきに風呂洗い。髪ももう鬱陶しいので切りにいかねばならないのだが。風呂をあらっている最中に台所で湯が少々こぼれる音がきこえたのでいったん浴室をぬけ、火を弱めるとともにソファの母親にしらせておいてもどる。浴槽をすみずみまでこすり、すますとでてうどんをゆでる。洗い桶をあらっておき、麺を投入してタイマーを設定。しかし底のあさいフライパンなどでゆでるものではない。きちんとおおきな鍋でやらなければ、麺がちっともおどらないし、対流がうまれる余地がないし、湯もすぐにこぼれる。ゆであがると洗い桶にあけて洗い、煮込むのだが、いまキノコを足したばかりでもうすこし煮込まなければと母親がいうのでまかせて、さきに食卓へ。米のあまりでつくったちいさなおにぎりをくいながら新聞を瞥見し、母親がよそってくれたうどんをうけとってたべながら記事をよむ。きのうの夕刊ですでにでていたが、イスラエルとハマスが停戦合意と。イスラエルとしてはハマスの拠点やトンネルを破壊したり幹部を何人か殺したりできて成果があったといえるだろう。ハマスとしては影響力および軍事力を誇示できたので停戦にうごいた、とかかれてあったが、そういうもんなのかなあとおもう。エルサレムの守護者としての姿勢をしめせたのでたたかいがはじまった当初から停戦にはまえむきだった、ともあったが、うーん、というかんじ。じっさい、パレスチナ人が神殿の丘から排除されたという事態をうけてなにもしないでいたら、おそらく支持をうしなってしまうだろうから、なにかしらしないわけにはいかなかっただろうが、それでロケット弾をうちこんで反撃されて町や住居は壊されひとびとは殺されているわけで。それでもやはり、ファタハよりもハマスを支持するひとのほうがいまはおおいのだろうか。攻撃をすればしたでてひどく反撃されて殺されるし、攻撃をせずにデモなどの抗議にとどまるとしてもイスラエルの治安部隊によって殺されるし、なにもせずにいれば入植やら迫害やらによって追いやられる。
- 腹をみたすと食器をあらい、下階へ。飲み物はもたず。コンピューターを準備して、さっそく今日のことをここまで書けば一二時一五分。あるいていくなら一時すぎにはでたいから、もうあまり猶予はない。今日の天気はくもり。あいかわらず。五月晴れをみないうちに梅雨がきちゃったみたいだ、と母親は言っていた。電車でいくなら一時半まえにでるかんじなので、一〇分程度だが猶予はおおきくなる。行きは電車でいってかえりだけあるくのでもよいが。
- 『ギリシア悲劇Ⅱ ソポクレス』(ちくま文庫、一九八六年)を少々よみ、一時前にいたって準備。スーツにきがえる。きがえるまえに多少屈伸などしたはず。Carole King『Tapestry』をながしていた。屈伸だけでなく、前後に開脚して筋をのばしたり、ベッドに脚先をおいておなじく筋をのばしたりもした。そうして出発へ。道に出る。天気はくもり。このときはまだ雨の気配は顕著ではなかったとおもう。林縁の脇をいくとしめった土のにおいがマスクをつけていてもあらわにつたわってくるが。(……)さんの家の横に生えている柑橘類の木の実がひとつ路上におちており車に轢かれたかなにかでぐしゃりとつぶれていて、それが漉くまえの、つまりあの木枠みたいなものにはいっていてまだ液体にちかいときの和紙のよう。視界はどこをみてもあざやかな緑色が目にはいる。公営住宅前のガードレールの下の植え込みにはピンク色のツツジがたくさん咲いている。坂に折れてのぼっていくと、くもりで木蓋もあるのでここは昼間でも比較的くらく、地面も濡れているから空気の質感はじめじめしていて、また木の葉の勢力もたかまっていて微細な虫も顔のまわりにただよっているから、なんとなくいままでよりも圧迫感というか、せまくなったようなかんじがある。出口がちかくなると竹秋をむかえて黄色くなった竹の葉が道の両脇やすぐ足もとにたくさん落ちている一帯があるが、竹の葉も濡れているから黄色というよりは褐色がまじってやや赤みがかった山吹色みたいな、場合によってはメイプルみたいな色合いになっているが、そこの道の左端に積もってもうだいぶ汚れもしている葉の帯のうえに白い小花がたくさん散りかかっていて、これはヒメウツギだろうか。卯の花散らしの雨、みたいないいかたをきいたことがあるが、これがそういうことだろうか。
- 最寄り駅へ到着。だらだら階段をのぼっておりる。ホーム上、ベンチには数人あって、なかにひとり、例のいつもみえないものと対話している老婆がいたのだが、このときは声をはっしておらず、眼鏡をとってちょっとふいており、その表情のかけらを横から瞥見するかぎりでは奇矯なようすはみられず、しらなければいつも大声で独語をまいているひとだとはわからない。ホーム先へ。やってきた電車にのってすわり、瞑目。つくとおりて階段通路をゆるくいき(おりるまえに手帳にほんのすこしだけメモをとったのだった)、駅をでて職場へ。
- 勤務。(……)
- (……)
- (……)退勤は四時半まえくらいになったか。徒歩でかえる。駅前をぬけて裏にはいり、しばらくいって文化施設のちかくに家がこわされたあとで草花の生えた空き地があるのだけれど、そのなかで鳥が二匹うろついており、全体に黒か焦茶めいた印象だが脚とくちばしが黄色い鳥で、鴨をちいさくしたような印象をえたのだがあれはなんの鳥なのかしらない。それでいましらべてみたが、たぶんこれはムクドリだったとおもう。そうか、あれがムクドリだったのか。一年のうち一定の一時期に駅前で街路樹にむらがってギャーギャー鳴きまくって電子音めいたかたい声をまきちらしているのがたぶんそれだとおもうのだけれど、いつも頭上か影となって空にいるので地上におりているところをみるのははじめてだった。この帰路は時刻のわりに薄暗く、空気に灰色の気味が濃く、道の果てにのぞく丘などあわくなっていたとおもうし、風のながれもざわざわあって、これは雨の気配、降ってきてもおかしくないなとおもったし、じっさい帰宅後にけっこう降ってきたからあとすこし退勤がおそければ濡れていたところだ。というか終盤ですでにいくらかはじまっていたので多少濡れたのだが。雨もよい、という語をおもって、よく「雨模様」と混同されるとおもうが、とおもっていましらべたら「雨模様」も雨が降りそうなさまをさすらしくじっさいに雨が降っている天気につかうのは誤用という情報がでてきたが、「雨もよい」ということばは古井由吉が小説のなかでよくかきつけていて、こういう空気がそうだろうかとおもった。家につづく裏路地にはいったあたりで雨がはじまっており、まえから小学生の女児たち四人が前後に一列をなして自転車でかけてきて、ひとりが雨降ってきた、いそがなきゃ、みたいなことをいっていたが、彼女らとすれちがってこちらはいそがずのろい歩調のままいき、雨の強さはそこまでかさんではいないものの、宙をみれば粒ははっきりみわけられるし、そうして視線をあげるとまぶたや目もとのあたりに、すこしだけ軌道のかたむいた雨粒がぷちぷちあたってきて風景がややみにくい。
- 帰宅すると手をあらったりうがいをしたりして下階におり、服をきがえた。
- いま六時まえ。帰宅後、ベッドにころがって身をやすめながら他人のブログをよんだ。(……)さんのものを一日と、(……)さんのさいきんの記事をいくつか。(……)さんのほうのかきぬきはクソ重要そう。
(…)綾屋さんの研究に話を戻しますが、彼女の「アフォーダンスの配置によって支えられる自己」は、タイトルからもわかるように、彼女が当事者研究のなかで、アフォーダンス理論を使って自分の経験を記述したものです。そのなかで綾屋さんはこう書いています。「私は他の人より意志が立ち上がりにくい」。つまり、「内発的な意志が立ち上がりにくいのだ」と。どうしてかといえば、彼女の身体の内側からも外側からも大量のアフォーダンスがやって来るからなのだ、と。前回にも空腹感についての綾屋さんのお話を少し紹介しましたが、もう少しご説明しましょう。
例えば、胃袋が、今から何かすぐに食べろとアフォーダンスを与えてくる。そして、目の前にあるたくさんの食べ物は、私を食べろとそれぞれがアフォーダンスを与えてくる。つまり、身体の内側からも外側からも大量のアフォーダンスが彼女のなかに流入してくるけれども、それをいわば民主的に合意形成して、一つの自分の意志としてまとめるまでにすごく時間がかかる、とおっしゃる。
綾屋さんは、多数派が意志と呼ぶものが立ち上がるプロセスを、先行する原因群を切断せずにハイレゾリューション(高解像度)に捉えていると言えるでしょう。また綾屋さんは同書において、「内臓からのアフォーダンス」という新しい表現でアフォーダンス概念を拡張しようとしています。外側からばかりではなく、胃袋をはじめとする内臓からもアフォーダンスが絶えず届けられているのだと。そしてそんな大量のアフォーダンスを擦り合わせる過程を多くの人々は無意識のうちに行っていて、そこではいわば中動態的なプロセスによって意志、あるいは行為が立ち上げられているのだとおっしゃいます。
綾屋さんにとって、このプロセスは無意識どころではありません。彼女はまさに選択や行為を自分に帰属するのではなく、身体内外から非自発的同意を強いられた結果として捉えており、その意味で中動態を生き続けているのだと言えると思います。アフォーダンスが氾濫するなかで、なかなか意志も行為も立ち上がらない。だからこそ、「ゆめゆめ、中動態は生きやすいなどと思うなよ」とおっしゃる。それは当然のことだろうと思います。もしかしたら、中動態が希望か救いのように語られることもあるのかもしれない。しかし、そのように語られる「中動態の世界」の実際とは、アフォーダンスの洪水のなかに身を置くことを意味しているのです。
ここには、人がなぜ、「傷だらけになる」にもかかわらず、能動/受動の世界を求めるのかを考えるヒントがあるのではないか。つまり、「犯人は誰なのだ?」のような、近代的な責任の所在を問うという理由だけで、能動/受動という言語体制が維持されるわけではないのではないだろうか。つまり、ひとりの人間が中動態を生き続けるというのはかなりしんどいことなので、多くの人は無意識にそれを避けるようにできているのではないか。彼女の研究からは、そういうことも示唆されます。
(國分功一郎/熊谷晋一郎『〈責任〉の生成——中動態と当事者研究』 p.144-147 熊谷発言)
- (……)さんのほうは、一六日の、大江健三郎についてしるした「大江健三郎の作品を読んでいると、その文体をとても独特で奇妙なものだと思うが、それでもすでに刊行から数十年を経た今読んでも、風化した感はまったくない。書かれている出来事が、まず出来事の大まかなイメージから掘り起こして書かれているのではなく、一行一句が最初から書かれているという感じがする。大まかなイメージとしての「書きたいこと」を、手持ちの言葉で埋めていくような方法ではなくて、単純で即物的に「書きたいこと」があるのを次々とつらねていくから、いつまでも言葉の効能が有効に保たれるのだろう。イメージというのは時間に風化しやすく、たぶん予想以上にすぐダメになってしまう、そういった大まかで脆弱な枠組みを支える役割ではない、単なる物質的な言葉で構築されている」というのがなるほどとおもった。大江健三郎はまだ一冊もよんだことがない。はやいところふれたいが。その一日まえの記事の、「それでも植物は、暑いときにことさら暑がったりしないだけ、まだわきまえがあるというか、暑い季節でもきちんと寒い季節のことをおぼえているようなところがある。おぼえているというよりも、はじめから、暑さにも寒さにも身を晒していないようなところがある」というのもよい。
- よみながら脚をいたわるのにきりをつけてたちあがり、ひとまずトイレにいったのだけれど、はいるまえに洗面所で水をのみながら、喉がかわいたらともかくいつでもこうしてすぐに水道から水をだしてきれいな水をのめるというのはやっぱりすげえなとおもった。そういうことができない国で暮らしたことがないからあまり身にしみた実感ではないが、ロシアにいった数日はあちらは水道水をのまないほうがよいから、タンクにためてあるのをそそいでのんでいた。シャワーをあびたあとも髪がなんだかきしきしするというか、かたくなるようだったし。しかしむかしの、つまり高度な文明がうまれるまえというか、原人とか狩猟採集時代のひとたちとかはたぶんそのへんの川の水をふつうにのんだりつかったりしていたはずで、いまだと川の水は寄生虫がいるからそのままのまないほうがよいとかきくけれど、当時の人間ってやはりそういうものにたいする対抗力があったのだろうか、現在の人間は内臓生理的にそのころのひとよりよわいのだろうか、しかしいまでもたとえばインドのガンジスとかは、ほかの土地のひとがはいったりなめたりするとてきめんに腹をこわすというが地元のひとはふつうに洗い物とか沐浴とかにつかっているらしい、なにしろ聖なる川だし、ところでこちらは小学生のときにそろばん塾にかよっていたのだけれどそこの先生が(……)先生という髪のひろがりの先のほうをややもじゃもじゃさせたおばさんで、そのひとがインドにいってガンジスにはいったのかなめたのかわすれたが、ともかく偉大なるガンジス川になんらかのかたちでふれて「おなかがピーピーになって」(という言い方をしていたとおもうのだが)激しい下痢に数日おそわれて旅行どころではなかった、とかいうはなしをしてくれたことがあったのをうっすらと記憶している。(……)塾はこちらの家をちょっとあがったすぐそばにあり、ただ本部でもないけれどもうひとつ、(……)のほうにも(……)先生の塾があって、もともとこのひとの家は接骨院でたしかその建物の一部をつかっていたかそれか離れでもないけれど医院とつづきになった場所だったきがするが、そちらではそろばんもやっていたのだろうが中学生の勉強をみたりもしていて、こちらは中一の一学期くらいまでここにいて、たぶん元塾生だった大学生とかが手伝いをしていたようでおそらくとうじ大学生だったとおもうのだけれど、たしか「(……)」とかもしくは「(……)」みたいに呼ばれていた気がする女性がいてなにかしら勉強をみてもらったのをおぼえているのだが、おぼえているのはとうじこちらは母親のものだった薄革つくりみたいなかんじのハート型の財布をもたされていて、それをその女性がみつけて、かわいいね、とかいったので、いかにもこどもあつかいされている気持ちになったのだろう、恥ずかしくて沈黙のうちに怒ったのをおぼえているからだ。べつにそれが原因だったわけではないが、こちらはまもなくこの塾をやめた。単純に面倒臭くなったのと、必要性をかんじていなかったからだとおもう。そろばんもせいぜい二級くらいまでいったところでやめてしまったし。(……)先生はたしか一学期の中間テストを待たずにやめようという、あるいは中間はやって期末のまえだったかもしれないが、ともかくまだ中学校にはいったばかりだったこちらにむけて、中学校は勉強がむずかしいからいままでみたいに甘くない、通知表で五とか七とかとるのも大変だみたいなことをいっていたのだが(たしか当時はまだ中学校が一〇段階評価だったのではないかというきがするのだが、これはまちがいかもしれない。七という数字をなにかいわれたのをおぼえているようなきがするのだが)、こちらの頭脳はそこそこ学校の勉強に適応していてなおかつこちらはそこそこまじめな優等生だったので、塾をやめてもとくに問題なく一学期の最初のテストではたしか五教科四五〇点をとったはずだしその後も卒業までだいたい五教科は四二〇点くらいだったはず。そういったことをぜんぶおもいだしながらトイレからかえってきたのだが、おもいだしたときはたぶん一五秒くらいだったのに、それをいざ文にすると二〇分くらいかかっているわけである。
- 食事時のことはわすれたし、おもいだすのが面倒なのではぶくか。いや、新聞のことだけおもいだした。夕刊をよんだのだが、一九三九年だかに満州国とソ連の国境でおこったたたかいについてロシア側の新資料がでてくわしいことがわかったとかいうはなしがあった。アムール川の支流にうかぶ島に日本軍が上陸したところ、ソ連とのあいだで国境にかんする認識の相違があったようで攻撃をうけ、いったんひいてまた上陸してふたたびたたかいになって、日本側は一〇〇人の部隊のうち九〇人ほどが死んだということなのだが、島のなまえがおもいだせないのでインターネットにたよったところ、これは東安鎮事件というものだ。付近の地域のなまえをとってこのようによばれているが、いままで事件の詳細はほとんどわかっていなかった、というはなしだった。ほか、社会面でなんらかの記事をよんだおぼえがあるのだが、それがなんだったのかおもいだせない。愛知県知事リコールの署名偽造の件だったか? なにかべつのことだったような気がするのだが。
- いま七時半をすぎたところ。コーラをのみながら一年前の日記をよんだ。かくのをわすれていたが、帰路の途中、街道沿いにあるローカル商店みたいな店の脇の自販機でペットボトルのコーラを買っていたのだった。それを片手につかんでぶらぶらかえってきたしだい。一年前の五月二二日は『ONE PIECE』のはじめのほうをすこしだけよんでいろいろ観察をかきつけているのだが、これはたしかこのころ「ジャンプ+」で、コロナウイルスによっていわゆるステイホームするひとがふえたのをうけて無料公開されていたからだったはずで、せっかくだからこまかくよみかえしてみて表現や物語の作法をさぐろうとしたのだが、しかしけっきょくバギーとのたたかいの途中あたりまでしかよまなかったはず。日記にしるされた観察をよみかえしてみてかろうじておもしろかったのは過程の描写をはぶくことによって暴力の勃発がきわだつという、それじたいはとくにめあたらしいともおもえない印象と、ひとみの分析くらい。
同じことは一〇二頁から一〇三頁への移行にも言えて、ここでは町なかに現れたモーガン海軍大佐の息子ヘルメッポが、「三日後」にはロロノア・ゾロの「公開処刑」を行うと町民に宣言して触れ回っており、それに対してルフィが、一か月耐えれば解放するという約束はどうなったんだと口を挟むと、ヘルメッポは「そんな約束ギャグに決まってんだろっ!!」と一蹴する。その様子を受けたルフィは、この男は「クズ」だと怒って思わずヘルメッポを殴ってしまうのだが、一〇二頁の終わりのコマで「約束」の正当性を信じるゾロの様子が回想的イメージとして挟まれた次の瞬間、一〇三頁の上半分ではルフィが既にヘルメッポの胸ぐらを掴みながら腕を振り終えており、大佐の息子は口と鼻からいくらか血を吹き出しながら白目を剝いているのだ。ここでもやはりルフィがヘルメッポのそばに移動したり、その服を掴むために手を伸ばしたり、あるいは拳を振ったりする過程の描写が省略されており、いきなり打撃が完了しているという印象を与えるのだが、しかしここでは暴力という物事の性質上、その省略はむしろ、ルフィの激昂及び抑えられなかった殴打の実行を際立たせるように働いていると判断するべきなのかもしれない(ちなみにこのヘルメッポを殴ったコマで振り抜かれたルフィの左腕は、「ゴムゴムの銃[ピストル]」を放つときのように完全になめらかな様相には収まっておらず、肘のあたりにわずかに線が付されるとともに輪郭も完全にまっすぐではなくかすかに波打っていて、要するに筋肉の描写が加えられている)。
*
第四話も読む。『ONE PIECE』の主要な女性キャラクターは基本的に皆、一様に黒く丸々と塗りつぶされたオニキスみたいな眼球を持っており、そのなかに白い点が小さく差しこまれることで目の描写となっている。第一話で登場した酒場の店主マキノが既にそうだったし、第三話から現れる町の少女リカ(この名前自体は第四話で明らかになる)やその母親、また名もないモブキャラクターの女性もそうである。つまりはこの第四話までに登場した『ONE PIECE』の女性キャラクターは概ね、いわゆる「つぶらな瞳」を具えているということで、大きくて丸みを帯びた目というのは『ONE PIECE』に限らず漫画において女性を描く際のわりと一般的な作法としてあると思うし、フィクション世界を離れてこちらが生きている現実の領域においても、望ましい女性性を表す外見的特徴、すなわち「可愛らしさ」の記号として捉えられることが多い気がする。それに対して『ONE PIECE』の男性キャラクターの目は、ほとんどの場合、広い空白のなかに小さな黒点が一つ打たれるという形で描かれており、ということはこの作品では男女の瞳の様相が対照的で、その黒白の割合配分がちょうど正反対になっているということになる。とは言え男性キャラクターの黒目もいつでも必ず一点のみに還元されるわけではなく、第一話の一一頁でシャンクスがはじめて登場するときの真正面からのカットでは、彼の小さな黒目のなかにさらに白い点の領域があることが見て取られるし、三四頁、三五頁、三七頁などでも同様に描かれている。ちなみにシャンクスが「友達を傷つける奴は許さない」と宣言する三七頁のコマではさらに、黒目の領域のうちにもいくらか黒さの幅が導入され、つまり眼球にあるかなしか立体感が付与されており、さらにシャンクスのその言葉を受けてルフィの顔が拡大的に映される次頁においても目はそれと同じ様相を持っている。
こうした観点で見てきたときに明らかに例外的なのは、第一話四六頁でルフィを襲おうとした海の怪物に向けてシャンクスが「失せろ」と殺気を放ちながら「ギロッ」という鋭い眼差しを差し向けるところで、ここでは瞳の中心部分は、黒い円周線のなかにさらに中央点として黒点が一つ置かれるという描写をされている。つまり目の外縁からその色の移行を追うと、白・黒・白・黒という四層パターンがこのコマではじめて観察されるということで、ここまで基本的に男性キャラクターの目は白・黒の二層のみで構成されており、せいぜい白・黒・白の三層構造がシャンクス(と三八頁ほかのルフィ)に見られたくらいだったので、この頁に至って瞳はそれまでにない複層性を明確に提示している。
- あと、「読みながら、『ONE PIECE』っていま何話まで至ったのか知らないけれど、こちらが小学生の頃から、すなわち二〇年以上はやっているわけだし、よくこれだけ長く続いているなあと思ったのだが、物語というのはそれを作れる人にとっては継ぎ足すことはむしろ容易で、場合によってはほとんど永遠に作り継ぐことができるのかもしれず、それよりも終わらせることの方が遥かに難しいのかもなあとかも思った」とあって、これはきっとそうなんだろうなあとあらためておもった。
- 『題名のない音楽会』という番組でX JAPAN(といういいかたはたぶんもうしないのだとおもうが)のToshiがオーケストラをバックにうたっているのもみている。"Bohemian Rhapsody"をうけての印象。
三曲目はQueenの"Bohemian Rhapsody"。男女二人ずつのコーラス入り。Aパートのあのピアノのアルペジオはハープによって演じられていた。Toshiの歌唱は悪くない。ただ、聞いているとかえって、やっぱりFreddie Mercuryのボイスコントロールって抜群なんだなということが実感されてしまうところがあって、と言うのはこの曲のAメロに、"But now I've gone and thrown it all away"という詞の箇所があり、オリジナル音源でMercuryはそこの"it"あたりまではファルセットで歌い、"all"あたりから急激に転換して声に芯を通してざらつかせるということをやっており、そのときの移行ぶりがやはりすごいということは高校時代から(……)などもよく言っていたし、ひらいた穴に向かって過たず正確にすとんと落ちるみたいな感じがあるのだけれど、Toshiもさすがにその部分はMercuryほどうまくは歌えておらず、あれはたぶんほかの人には真似できないんではないか。あとAパートと言うのか、ギターソロに入る前の静かなパート全体を通しては、ここは大変に叙情的な領域なので、Toshiも緩急をつけて情感豊かに歌おうとしており、それは決して間違いではないしおおむね成功していたとも思うのだけれど、ただやはりいくらかの粘り気が感じられはした。それはおそらく英語の発音も関係しているのではないかと推測され、日本人による"Bohemian Rhapsody"のカバーはほかにはデーモン小暮閣下のものしか聞いたことがないのだが、小暮閣下など個々の語の発音からして相当に粘っこく歌っていたような記憶があって、特に根拠はないけれど何となく、日本人はとりわけそうなりやすいのかなあという気がする。きちんと聞き返してみないと正当な印象かどうかわからないものの、原曲はそんなに粘っていなかったような気がするもので、その記憶がもし正しいとすれば、Freddie Mercuryという歌い手の凄さというのは一つには、このパートを過度に粘らせることなく比較的さらさらとした質感で歌えてしまったという点なのではないか。カバーする人はたぶんMercuryのオリジナルを意識して多少なりとも力むだろうから、どうしても彼よりも感情的で粘ついた表現になってしまう傾向があるのではないだろうか。
- その後夜歩きにでており、途中、Grand Funk Railroadなんていうなつかしい名前がかきつけられている。このときも「ほとんど一五年ぶりに思い出した」といっているが。たしか"We're an American Band"のひとたちだよな? かろうじてこのフレーズだけはメロディがよみがえるが。あと"Locomotion"をやっていたおぼえもある。こちらは直接このバンドの音源はもっていなかったはずで、中学校の同級生である(……)が入手したのをやつの家できいたのではなかったか。あるいはやつはじきにハードロックに飽きてOasisとかUKの九〇年代あたりにいって、のちに、たぶん当時はまだAmazonもぜんぜん普及していなかったはずだが、中学生当時にインターネットで購入したとおもわれる輸入盤のScorpionsのCDとかをゆずってくれたので、そのときにいっしょにもらったかもしれない。
- ほか、「路地内の坂に入って下りると、黒塗りの高級そうな車が道のど真ん中に停まっていて、なんでこんなところに停まってんだよ、ほかに車が来たら通れないぞと思った。窓まで全部真っ黒な車で、ちょうどそのとき右手に持っていたボトルのなかのコーラと同じような色であり、練ったように黒々と深く、なおかつ艶もあった」とあるが、この「練ったような黒」というのはそこの坂をおりていきながらおもいついたもので、なかなか的確だとおもったのでよくおぼえている。この比喩はたぶんそれいらいつかっていないはず。
- 「降る雪をゆびの器で受けましょう溶けるまぎわの刹那のために」という一首はそこそこわるくはない。(……)さんのブログからは柄谷行人『探究Ⅱ』を孫引きしている。
(……)独我論とは、私しかないという意味なのではなくて、「私」がどの私にも妥当するという考えなのである。そして、それを支えているのは、まさに「私」が言語であり、共同的なものだということなのだ。
主体からはじめる考えを、言語をもってくることによって否定することはできない。それらは、いずれも独我論のなかにある。したがって、独我論の批判は、たんに狭義の認識論の問題ではなくて、「形式化」一般の根本的批判にかかわるのだ。なぜなら、指示対象をカッコにいれる形式化は、かならず各「主体」によってなされるほかないからである。
この「主体」(主観)は、「誰」でもない。たとえば、「この私」は、結局「これは私である」ということになる。「これ」は存在するが、「私」は述語(概念)にすぎない。「この私」は指示対象として在るのではない。「これ」が在るだけだ。ラッセルは、この意味で主体を認めなかった。それは、しかし、これを「これ」とうけとる主体が「誰」でもないような主体、したがってヘーゲルのいう「精神」のようなものであるということを意味するのである。「誰」とは、固有名である。固有名をもたぬ主体は、「誰」でもないがゆえに「誰」にも妥当する。近代哲学の主観は、このように見いだされたのである。(古典哲学が主観を持たなかったのは、個体がいつも「誰か」〈固有名〉として実在したからである。逆にいえば、それは固有名にもとづく存在論だということになる)。
(……)
ところで、ラッセルは「これ」において、言語とその外部・指示対象との繋がりを確保したつもりだったのだろうか。しかし、ラッセルの「これ」は、もし指示が他者に対してなされるものだとしたら、指示ではない。かりに、私が黒板を指して、「これが黒だ」といっても、相手は「黒」を「黒板」と受け取るかもしれないし、黒板に書かれた文字と理解するかもしれない。つまり、「これ」の個体領域がはっきりしないのである。
したがって、ラッセルのいう指示は、彼自身がいうようにprivateである。厳密な意味での指示は、他者に指示することでなければならない。つまり、それはコミュニケーションのレベルでしか考えられない。しかし、「これ」という指示がけっして個体を指示しえないのに対して、固有名は個体を個体として一挙に指示する。したがって、固有名は、言語の外部があるという日常的な常識を支える根拠であり、またそれをくつがえそうとする者にとって、解消すべきものだったのである。
(……)固有名は、言語の一部であり、言語の内部にある。しかし、それは言語にとって外部的である。あとでのべるように、固有名は外国語のみならず自国語においても翻訳されない。つまり、それは一つの差異体系(ラング)のなかに吸収されないのである。その意味で、固有名は言語のなかでの外部性としてある。
ラッセルが固有名を記述に還元することによって論理学を形式化したように、ソシュールは固有名をまったく無視することによって、言語学を形式化した。その結果、言語学はフレドリック・ジェイムソンのいう「言語の牢獄」に閉じこめられる。しかし、その出口をいきなり指示対象に求めてはならない。その出口は、ラッセルやソシュールによって還元されてしまった固有名にこそある。のちにのべるように、言語における固有名の外部性は、言語がある閉じられた規則体系(共同体)に還元しえないこと、すなわち言語の「社会性」を意味するのである。
- この夜はあとだいたいはなまけて、前日の記事をしあげて投稿したことと、書抜きを一箇所だけしたことくらいしか活動的なことはしなかったはず。あとはうえで日記をよみかえしたあとトイレにいって、もどってくるとギターを多少いじった。今日はバッキング練習はせず、ほぼれいによって似非ブルースをてきとうにやっていただけ。弾くのと同時にだす音をハミングするというのをやるとなんかよいかんじがある。ジャズのひとがよくやっているやつだが。ギターだとKurt Rosenwinkelがいちばんにおもいつくが。Keith Jarrettのあれはハミングというより唸り声か喘ぎか叫びで、弾いている音とぜんぜんメロディあっていないのにリズムだけあわせていて音痴な歌みたいになっていることはよくある。こちらの場合、これをやるとよいかんじがするときと、邪魔臭くてうまく弾けないときとあるのだけれど、この日はわりとうまくいったよう。