輪廻を繰りかえすたましいは、身体という存在のしかたを超えたものでなければならない。身体には感覚が帰属するのだから、身体を超えて永続するたましいをみとめるかぎり、一般に感覚を超えたものが存在し、感覚を超えたものは、感覚以外のなにものかによってとらえられるものでなければならない。見えるものの背後に、あるいはそのただなかに、見えない秩序が見とおされる必要がある。たとえば、煌めく星辰の運行の背後に、それをつかさどる数の秩序が見てとられ、耳にここちよい音階(ハルモニア)のなかに、音程(オクターブ)が聴きとられなければならない。秩序(コスモス)と調和(ハルモニア)は、「数」によって成立する、そのかぎりにおいて「万物は数である」とする、ピタゴラス学派の基本的な洞察はじっさい、基礎的な音程がそれぞれ、一対二、二対三、三対四の比であらわされることの発見に根ざしていた。
ギリシア語で比とはロゴスであり、ロゴスであるアルケーをとらえるのは、アリストテレス『形而上学』(第一巻第五章)に残されている証言によるなら、「たましい」(プシュケー)、あるいはそれ自身ロゴスをそなえた「知性」(ヌース」であることになるだろう。(……)
(熊野純彦『西洋哲学史 古代から中世へ』(岩波書店、二〇〇六年)、18)
- 一一時四〇分に離床。いちど一〇時にさめた。きのうかけてあったアラームがそのままになっていたので。それからまた寝つき、一一時に覚醒して、首をのばしたり背中をもんだりしてからおきあがった。背骨の際のあたりがやはりしらないうちにかたくなっていて、そこをもみほぐしておくのはよい。おきあがると洗面所へ。顔をあらい、念入りにうがいをして、用をたすと部屋にもどり、ジャージのうえを身につけて上階へ。多少すずしい気がしてうえを着たのだが、午後一時まえ現在そんなことはまったくない。うすいけれどひさしぶりにひかりもあるし。母親いわく、(……)くんがきたとかいった。父親の友人でときどき会っている威勢のよいひと。くるというからあわてて「(……)」までいってきて団子や饅頭を買ってきたとのこと。冷蔵庫をのぞきながらそれをきいていたこちらは、小皿にはいっていた天かすをあやまってこぼしてしまい、洗面所にある箒をもってきて床のうえを掃き掃除した。それから食事。きのうの天麩羅ののこりなど。新聞はめくっていきながら、連合が立民にたいして共産党との距離がちかくなりすぎることについていらだちをしめし、国民民主党との協力をもとめているという記事をまず瞥見し、それから書評面など。書評面のてまえには君塚直隆のインタビューがあって天皇制についてのべられているようだったが、このなまえはきいたことがある。しかしどこで見聞きしたのかわからない。主にイギリス史をやっている国際政治学者のよう。それはいったんおいて書評面にはいると、尾崎真理子が松家仁之の本をとりあげていて、このひともまえからわりと気になってはいる。マルコム・ラウリーの作品と同名の『火山のふもとで』というやつでデビューしたひとで、たしか記者だか編集者だかをながくやっていてもうそれなりの歳だったはず。マルコム・ラウリーのほうの作品もこちらはよんだことがないし、マルコム・ラウリーという作家については同作のなまえいがいなにもしらない。右ページは苅部直が芳賀徹の『文明の庫 [くら] 』という文庫本二巻をとりあげていて、これはおもしろそう。芳賀徹というひとは昨年亡くなった比較文化の大家だといい、たしかにいつか新聞で名をみたきもするが、たぶん主に江戸から明治あたりの文明としての日本をあつかっていたのだとおもう。この本は彼のほかの名著にくらべて、福沢諭吉とか渡邊崋山とか個人によりフォーカスしているので、彼らの精神のうごきがいきいきときわだって記述されている、とのこと。中公文庫から出たらしい。中公文庫という文庫もほかの文庫とはちょっと毛色がちがってなかなかよさそうな本をいろいろだしている。ミシュレとか、歴史系もいろいろあるし、デュルケームもあったはずだし、セリーヌがでているのもたしか中公ではなかったか。ほか、柴崎友香が田中純のデイヴィッド・ボウイについての本をとりあげていてこのなまえのくみあわせはおもしろい。たしかに何か月かまえの新聞で、あるいはべつのメディアだったかもしれないが、田中純がインタビューをうけて本棚の写真を載せているみたいな記事があって、そのときボウイ論をすすめています、といっていた。
- 食事をおえたあたりでインターフォンの呼び出し音がなったのでたってでると、しかし反応がない。それで(……)さんかな、きこえないのかなとおもって玄関にでていくとはたしてそうで、母親が饅頭かなにかあげたらしく、お礼として魚のパックをわたしてきたので礼を言ってうけとり、いま下で食べてんだわ、とこたえる。両親は家の南側の野外にある木のテーブルで食事をとっているのだった。それでこちらも食事前に、盆をもってはこんでいったのだった。かくのをわすれていたが。それで外気にふれたのだけれど、外気はやわらかくあたたかで、雲もおおく空にしみついて青さは申し訳程度のものではあるものの、ここさいきんではずいぶんひさしぶりとおもえるひかりの感触があわく肌に降って乗り、あたりの緑はいかにも青々としていて梅の木は葉と地続きの色の実をたくさんぶらさげてユスラウメも赤い実を鈴なりにしている。(……)さんは階段をかこむ柵の棒をしっかりつかみ、横向きになって一段ずつゆっくりとおりていった。おりるところまでいっしょにいき、礼を言ってわかれる。パックをみると右下に値札が貼ってあって消費期限が五月四日とあるからもうだいぶすぎていてやばいのだが、(……)さんがくれる品にこういうことはわりとある。そのたび母親は文句をいう。(……)さんはたぶんこのちいさな札を見ていないか、それかみていても気にしていないのだろう。しかしさすがに消費期限がこれだけすぎている品をふだんから食っているとしたら、三桁の大台に達した老婆にはやばいんじゃないかとおもうのだが。それだけで死んでもおかしくない気がするのだが。保存してあったものなのだろうか。とっておいて知らぬうちに期限がすぎてしまったものを、あわててだしてきてくれたということなのだろうか。
- ひとまず冷凍庫にいれておき、食器をかたづけ、風呂洗い。洗いながら、昨晩は日記もそのほかのこともやらずになまけてしまったわけだが、なんか日記とか仕事とかいっているから自分は駄目なんだとおもった。日記以外のことばをつくるきちんとした仕事をやらねばならない、とか。どうでもよろしい。この日記にせよそれいがいの文章にせよ、どうせたいした価値もないものだし、仕事などというものではない。しいていうとしたら、ぜんぶ趣味か、道楽のたぐいだ。こちらが作品をつくろうとひとの作品を訳そうと、たいしたことにはならない。こちらに名作などのたぐいをつくるような器はないだろうし、文章の書き手としてこちらはすごくすぐれているわけでもないし、じぶんは作家ではないがもし作家という位置づけをえたとしても凡百の作家だろう。それはべつによいのだが、ただ、なにかを達成しようとかいう観念とか幻想がやはり人間あるもので、だからじぶんはいつまでたっても駄目なんだとおもった。日記を死ぬまでつづけようとか、To The Lighthouseを翻訳しようとか。それはいちおうやるつもりではいるのだが、それらを達成目標としてのおおきなこととして無意識に想定し前提しているから駄目なのだ。じぶんはじぶんにたいしておごっている。こちらのことばと文章にそんなにがんばって労力をついやすような価値はない。
- 風呂洗いをすますと緑茶を支度して帰室。コンピューターを準備。LINEをのぞくと今夜の通話にそなえて(……)が資料というか文書をあげているようだったので、あとで余裕があればみておく。今日は「(……)」のひとびととまた通話をすることになっている。八時半か九時から。団子を食い、茶をのみながら今日のことをここまで最初につづって、するといまは一時半をまわったところ。
- そのあとの生活はよくおぼえていないので、とりあえず通話のことを。九時から開始。(……)
- ほか、(……)が洒落っ気を獲得してファッションに興味がでてきているという(……)の報告があり、それでこちらはわりと洒落た服も着る印象だけど、どういうふうにえらんでいるの、という質問があったので、べつにこれといった基準はなく、ふつうに店にいってピンときたのを買う、とこたえた。ただ、いわゆるきれいめというか、前がひらいてボタンがついてるシャツとか、わりとそういうのになっちゃいがちだよね((……)は、この「なっちゃいがち」といういいかたがおもしろかったようでわらいながら復唱していた)、ほんとうはもっといろいろな服も着てみたいんだけど、アメカジとか、まあそういうほうもためしてみたい気持ちはある、というと、アメカジとはなにかとかえったので、こちらもよくはしらないが、アメリカンカジュアルの略で、なんかジージャンとかだろう、といっておいた。イメージがあっているのかしらないが。べつにアメカジでなくてもよいのだけれど、わりとフォーマルふうな、紳士ぶって気取ったような格好をしがちな人間で、たぶんまわりからみられたときの雰囲気としてもそういう方向がにあうといわれがちなタイプだとおもうのだが、もっとラフだったりカジュアルだったり、まあいろいろ着てみたい気持ちはないではない。金があれば。そして金はない。それにいまはコロナウイルスでほとんど出かけることもないし、だからもう一年以上服買ってないよ、とおとす。
- (……)
- ところでこの「ココナラ」というサイトをあらためてみてみたところ、なんかクリエイター系のSNSみたいなものだとおもっていたのだが、さにあらず、もっといろいろな仕事募集があって、みれば翻訳とか、小説をよんで感想をかいてほしいとか、アコギをおしえてほしいとかそういうものもあり、ここで俺金かせげるじゃんとおもってそう口にもした。ただ小説をよんで感想を書くやつはもう募集が終了していたのだが。それで通話中や、また通話がおわって自室にかえったあともちょっとしらべてみたのだけれど、しかし結論からいうとやっぱり俺みたいなのはお呼びでないんじゃないか、というかんじではある。ただこの夜と、今日二四日のあいだはわりとこういう場所で金かせげねえかなあというのをかんがえてはいた。ネット上で仕事案件を斡旋しているサイトというのはクラウドソーシングというらしく、それは案件内容に重点をおくかんじで、いっぽうで「ココナラ」みたいなやつはスキルマーケットとか呼ばれているらしく、個々人がもっているスキルをアピールして需給関係をうまくむすびつけよう、というこころみらしい。だから検索すれば、いちおう、文学研究者が文章の添削をしますとか、オンライン読書会をやってカフカについておしえますとか、旧帝大の院生だったかあるいは卒業者だったかが翻訳をします、みたいなわりとニッチな方面のアピールがでてきて、まったく見向きもされていないもの、けっこう仕事をもらえているものとおのおのあるようで、ちなみになかには文学賞も受賞しまた選考委員だかなんだかもやっている現役の作家が小説を読んで添削したり電話でアドバイスをつたえたりしますというサービスもあってそれはそこそこ好評をえているようすだったが、なんか正直俺の居場所じゃねえなという印象。そもそもじぶんのもっている「スキルをアピール」みたいなところからしてぜんぜんやりたくないし、そもそもスキルらしいスキルなどもっていない。おたかくとまっているといえばそうなのかもしれないが、そういう、高踏的なプライドというよりは、なんといえばいいのかわからないが、なんかとにかく性に合わないというか、べつの世界だなというのにちかいかんじ。とはいえ金をかせがなければならないとなったらかせがなければならないので、ここでうまくして(……)くん路線で、つまりオンライン読書会というか小難しい本をいっしょに読んで多少のかんがえをのべたり可能ならレクチャーをするので金をくれないか、というアピールをしようかなとちょっとかんがえてもいたのだけれど、けっきょくそうするとしてこちらには資格も権威もなにもないわけだし、アピールのしようがあまりない。毎日よみかきをしてきたということと、こういう本をよんできました、ということくらいしかいえないだろう。こちらがそういう金稼ぎをするとして、そのためにてっとりばやいのはむろんブログを提示してこういうことをやっている人間です、と標榜することなわけで、こちらの実績といってこの毎日の文章しかないわけである。それからはなれたところでうえみたいな金稼ぎをしようとしても、それはうまくいかないだろうしあまり意味がないんではないかとおもった。だからやるなら、ブログと接続して毎日こういうよみかきをしている人間として金を稼ぐか、それか文章を金につなげることは土台あきらめてそれとは関係のないべつの仕事でどうにか金をかせぐか、そのどちらかで、半端にやってもしょうがねえなというこころにいたった。そして、やはり日々の日記でいくばくかの金をえられるような方向にすすんでいったほうがよいのだろうか? というまよいを今日(二四日)はわりところがしていたのだけれど、風呂にはいったあたりでやっぱりやめようとおちつき、いまのところはうえの二択の後者にかたむいている。先日、無償性の例証みたいなことをのべたばかりだが、そういうある種のプライドみたいなこだわりもほんとうはすてたほうがよいのだろうな、ともおもうし、じっさいどうでもよいといえばどうでもよいのだけれど、やっぱりどうも文章を金にかえようという気持ちがおこらない。日記はそうだし、日記以外のもっとちゃんとした文章をもしこのさき書いたとしても、それもあまり金にしようという気持ちがないし、そもそも金になるようなものがかけるともおもえない。ただこの日記を金につなげることをかんがえるとしたら、現状たぶんはてなブログをある程度コンスタントによんでいる人間というのはほぼいないとおもうので、もうすこし人の目にふれる場所にでていったほうがよいだろうとおもう。ようするにいぜんもやっていたことだが、noteにまた毎日投稿して投げ銭やカンパをつのったり、あるいはそこでいっしょに本をよむだけで金をくれるひとをさがしたりする、ということで、いぜんnoteに日記をあげていたのは数か月くらいだったはずだが、そのときはひとりけっこう熱心というか金をくれたひとがいて、たしか総計で三〇〇〇円くらいにはなったはずだけれどそれはてつづきしたりふりこみをまったりするのが面倒だったので、けっきょくもらわないままアカウントをけしてしまった。まあそういう利益感なのでnoteにまた日記をあげたとしていくらも金になるはずがないが、五年一〇年とつづければ多少はちがうのではないか。くわえて、日記じたいを金にするだけでなく、うえのオンライン読書会みたいな、じぶんが満たせそうななにかしらの需要をつのることも可能なわけである。まあそうしたとしてもいくらも稼げる気はしないが、もしやるとしたらそういった方向だろうか。あとははてなブログのほうにもPayPalかなにか設置してカンパをつのるかたち。いいかえれば覚悟をきめてファン商売をやるか、塾講師なりなんなり文筆とは関係のないところでもっとはたらいて生活の資をえるかのどちらかで、そのあいだはたぶんうまくいかないだろうということなのだけれど、いまのところのこころとしてはどうしてもやはり後者にかたむく。そうするととうぜん労働をふやさなければいけないので、もちろんよみかきほかの時間はへるわけだが、まあ致し方ないかなあ、という諦観。やっぱり毎日はたらくしかねえかなあ、と。このあたりこちらもだいぶまるくなったとおもうが。その場合、いまの塾の仕事をもっとふやすのがてっとりばやくはあるのだけれど、なんかもうひとつべつのバイトやりたいな、という気持ちのほうがつよい。いずれにしてもアルバイトでかつがつ食っていくわけで、それがいつまでもつづくともおもえないのだが、そのあたりは未来の状況にまかせ、思考停止して不問に付しておきたい。
- この二三日でかいておきたいのはあと、Bill Evans Trioをきいたことくらいか。ただそれはいまは面倒臭いので、明日(二五日)にゆずる。『ギリシア悲劇Ⅱ ソポクレス』(ちくま文庫、一九八六年)もよんだ。この本も読書会当日が三〇日で、もうまぢかなのでけっこうやばいが。まだあと三〇〇ページくらいのこっているし。