2021/5/24, Mon.

 数や図形には、独特なふしぎさがある。数えられるものは感覚によってもとらえられるが、数える数そのものを見ることはできない。じっさいに描かれた直角三角形は、つねに一定の辺と角の大きさを有する特定の三角形でしかないけれども、たとえばピタゴラスの定理がそれについて証明される直角三角形そのもの[﹅4]は、そのどれでもなく、同時にどれでもあるといわれる。三角形それ自体は、あるとくべつな意味でおなじ[﹅3]、ひとつの[﹅4]ものでありつづけるのである。
 べつのしかたでも「おなじ」ものでありつづけることがらがあり、しかもとりあえずは感覚に対して与えられている現象もあるように思われる。火、あるいは炎がそうである。火が燃えつづけ、炎が揺らめきつづけているとき、そこには相反するふたつの傾向がはたらいている。一定の圏内、範囲のうちで、燃えさかっている火は、ただ燃焼しているだけではない。そうであるなら、火はひたすら炎上し、燃えひろがってゆくだけで、炎が一定のかたちをとることがない。積みあげられた薪のうえで炎が燃えさかっているとき、火は同時に不断にみずから鎮火(end21)している。火が消滅することこそが、炎が生成することなのであり、炎が絶えず消えさることが、火炎が燃えさかることを可能にしている。それは、不可思議な秩序である。多様性のなかで秩序をたもっている世界(コスモス)と同様にふしぎな、生成する秩序である。ハイデガーが註していうように、火(ピュール)は自然(ピュシス)とおなじひとつのものなのである。

この世界、万人に対しておなじものとして存在するこの世界は、神々がつくったものでも、だれか人間がつくり上げたものでもない。それは永遠に生きる火として、つねにあったし、現にあり、またありつづけるであろう。一定量だけ燃え、一定量のみ消えさりながら。(ヘラクレイトスの断片B三〇)

 (熊野純彦『西洋哲学史 古代から中世へ』(岩波書店、二〇〇六年)、21~22)



  • 離床は正午直前になってしまった。ひさしぶりに八時間以上の滞在。やはりZOOMで通話をするとそうなるのだろうか? ブルーライトがどうこう、ということなのか? 通話をしていなくともいつもわりとモニターはみているのだが。一一時ごろからいちおうめざめていたが、あまりまぶたがひらかず、こめかみをもんだりだましだましすごしてようやく起床。天気はくもりだが、暗くはない。気温はたかい。
  • 洗面所にいって洗顔やうがいをして、上階にいくとトイレで用を足し、そのあとまた洗面所でうがいなどをした。食事は紫タマネギを輪切りにしてソテーしたものなど。用意して卓につき、たべる。母親はまもなく仕事へ、父親はソファについている。新聞に興味をひく記事はそんなになく、とりあえず国際面の、イスラエルハマスの停戦が順当に履行されており、エジプトがガザにはいって協議したり、物資支援などをもうはじめているのかこれからだったかわすれたが、うごきはじめているという記事をよんだ。ただイスラエルは「神殿の丘」へのユダヤ教徒の立ち入りを解禁したということで、これでまたパレスチナ側の反発がつよまって停戦履行のさまたげになるのではないか、という可能性もしるされてあった。それから一面にもどって、菅義偉がワクチン接種をわりと強引に先導して突っ走っている、という報告をよむ。四面のつづきも。もともと高齢者へのワクチン接種の完了目標はおおくの自治体が八月末までとしていたところ、菅が七月末にこだわってゆずらず、河野太郎がいさめるのもきかずに表明し、また一日一〇〇万回接種目標についても同様で、河野太郎はそれは無理筋じゃないか、おおきな目標をかかげておいて達成できなかったらとうぜん非難されるとして、七〇万回でもいいんじゃないですかといったらしいのだが(この数字は新型インフルエンザのときの一日六〇万回というデータをもとに、それに一〇万回上積みしてかんがえたらしい)、菅はやはりゆずらず、とにかくワクチンが普及すれば空気が変わるはずだと信じてつきすすんでいると。厚労省の官僚からは、こっちが根拠をおしえてほしいというぼやきというか呆れのような声がきかれるらしく、また、普段は河野太郎がわりと暴走しがちでまわりのみんなでそれをとめる、みたいなかんじらしいのだけれど、今回はその河野が首相の暴走をとめようとしている、というはなしだ。河野太郎菅義偉はもともと距離がちかいらしく、選挙区がおなじだかちかいのだったか? 二〇〇九年だかに河野が総裁選に出馬したときも菅は推薦人あつめに奔走したらしい。だからいわば「弟分」とみなされているようだ。七月末目標、一日一〇〇万回にくわえて、自衛隊の協力をあおいで大規模会場での接種というのが菅がうちだした「三本の矢」とかいわれており、この、いつでもなんにでもつかわれる紋切型の標語とそれに嬉々として追随するメディアの言語使用はどうにかならんのかとおもうが、自衛隊にかんしても菅が積極的に主導して防衛次官にあたまをさげたということだ。ゴールデンウィークの連休後にはいちおう一日四〇万回の接種が、官邸のデータによればおこなわれたらしく、菅はそれをみて本格的にはじまっているわけでないのにはやくもこれだけの回数をかぞえていると満悦だったらしく、そういうわけでいま自信に満ちており、六月末までたえれば世間の雰囲気は変わると信じているらしい。東京と大阪の大規模会場での接種はちょうど今日からはじまったはずだ。
  • 食器をかたづけ、風呂場へ。あらい、でて、茶を用意。テレビは料理番組。ビワに鶏肉を詰めて肉詰めにして蒸し焼きにする、みたいなもの。茶をつくると帰室し、コンピューターを準備。今日のことをここまでしるして一時半。
  • 音読。「英語」の488から495まで。Robert Glasper Experiment『Black Radio 2』を背景に。肩まわりを指圧してほぐしながら二時まで。二時にたっするときりあげ、上階にいってベランダの洗濯物をおさめた。このころになると、空模様と大気の色がやや薄暗いようになってきており、天気の気配がいくらかあやしい。父親は眼下、畑の周囲の斜面にはいり、ユスラウメの実を収穫しているようだった。母親にたのまれていたのだ。洗濯物をとりこむとタオルなどたたみ、また足拭きのたぐいを各所に配置しておいて下階へ。あたまのなかがややかたいようなかんじがあったので、Bill Evans Trio『The Complete Village Vanguard Recordings, 1961』をききながらやすむ。"Alice In Wonderland (take 1)"から"All of You (take 1)"まで三曲。しかしさいごのほうでは尿意がにわかにわいてきていたので気が散ってぜんぜんきけず。それにしてもどの曲をきいても、すばらしいということとマジですごいという感想しかだいたいでてこない。"My Foolish Heart"などなんでこんなによくなるのかなあ、というのがわからず、すごい。一見すればふつうにバラードやっているだけで、ピアノトリオでこういうバラードをこういうふうにやっても、毒にも薬にもならないようなどうでもよい演奏になることもけっこうおおいとおもうのだけれど。三者とも、さして工夫をしているようにもきこえないのだ。Paul Motianがわりと装飾をくわえて単調さをふせごうとしているのはあきらかだが、そういうはなしでもないきがする。Evansは速弾きというほどのフレーズもまったくつかっていないし、LaFaroも大方はボーン、ボーン、とロングトーンを這わせているだけなのだが。録音によるところもおおきいかもしれない。とくにLaFaroの音がよくこれだけ太くおおきく録れたな、ということで、"My Foolish Heart"でもそれだけでもわりと気持ちがよいし、ほかの曲でLaFaroがもっとガンガン泳ぎまわるとその量感はすごい。
  • トイレにいって放尿してもどってくると三時直前。ここまでまた書き足し、どうすっかなあというところ。きのうの日記をかきたいがあまりやる気がわかないし、そんなになにをするという気分でもない。
  • とりあえずからだをやわらげておくかというわけで、ベッド上でストレッチのたぐいを少々。そのあと、やはり書見だとおもって『ギリシア悲劇Ⅱ ソポクレス』(ちくま文庫、一九八六年)を。呉茂一はこちらの感覚でははまりきっていないようにおもわれる細部がややあって、みたいなことを数日前に書いたが、なれてくればべつにそうでもなく、むしろ各人物がそれぞれ固有のひとつの統一性をもった語調をそなえているし、訳しわけがうまく、台詞のながれの一貫性をつくりだすことに成功している卓越したすばらしい訳者とおもう。コロスの合唱の部分などはたしかに格調高いというか、耳慣れない古いことばがいろいろあって、言語採集家としてはそれだけでもおもしろい。206には「雷」に「はたた」という読みがふられている。「霹靂神」とかいて「はたたがみ」という語があるらしく、「はたたく神」の意だという。208は「禍」に「まがつみ」のルビ。あと「エレクトラ」にはいってこちらは松平千秋の訳だが、229には「程らい」という語がでてきて、程度ということだろうがこれはなんかいいなとおもった。「あなたはやがて悲しみの程らいを超えて救いのない苦しみに向かって身を亡ぼしてしまうのよ」という一行なのだが。「アンティゴネ」の内容にかんしては、さまざまな対立項がわかりやすいし、いろいろなテーマで読み解きやすい作品なのだろうけれど、こちらにはとくにおもしろい知見を提出するようなちからはない。対立関係としてあからさまに目につくのは、国家や公の領域と身内すなわち私的領域、現世(人為)とあの世(神の領域)、それに男と女、というあたりか。これはオイディプスの娘であるアンティゴネが叔父クレオンと対立するはなしで、オイディプスがテーバイを去ったあと、彼のふたりの息子であるポリュネイケスとエテオクレスという兄弟らが王位をあらそってたたかい、ふたりとも死んでクレオンが即位するのだけれど、テーバイにいて国をまもったエテオクレスはねんごろにほうむられるのにたいして、テーバイを攻めていわば祖国の敵になったポリュネイケスをとむらうことは禁止される、そういう布令にアンティゴネはさからってつかまりクレオンの命で岩屋みたいなところに閉じこめられ、首を吊って自殺し、そのかたわらでアンティゴネの許嫁であったハイモン(クレオンの息子)もみずからに剣をつきたてて自害し、そのしらせをきいたクレオンの妻エウリュディケもやはり自殺し、とまるで感染症のように自殺の連鎖がつづき、けっきょくクレオンは自身のおごりと高圧のために息子も妻もうしなって不幸な身の上となる、といういくらか教訓譚めいた趣向になっている。で、アンティゴネは劇中冒頭の妹イスメネの対話からしてすでに、クレオンの出した禁令はちゃんちゃらおかしいものだみたいなかんがえで、おなじ母から生まれて血をわけた兄であるポリュネイケスを葬っては駄目だなんていうのは筋がとおらない、とわたしは禁令をやぶって死ぬとしてもお兄様をきちんと手厚くほうむってさしあげよう、というかんじなのだけれど、そのとき口にされることばが、「あの人たちに、私の身内を私から隔てる権利はありませんわ」(153)である。だからアンティゴネは私的領域の論理でかんがえていて、親しい家族である「身内」をそれにふさわしくほうむらないのはむしろそのほうが罪だというこころで、そこになおかつ、ある種の自然法思想というか、国家によってさだめられた人為の法が禁じていようと、それよりも神さまがお定めになった古来からの永遠的な決まりのほうが大事だ、というかんがえがむすびつくとどうじに、死んであの世にいけば敵も味方も善も悪もない、みたいなかんがえかたもあわさってくる。そのあたりは172から173の台詞にあらわれている。いわく、「だってもべつに、お布令を出したお方がゼウスさまではなし、あの世をおさめる神々といっしょにおいでの、正義 [ディケ] の女神が、そうした掟を、人間の世にお建てになったわけでもありません。またあなたのお布令に、そんな力があるとも思えませんでしたもの、書き記されてはいなくても揺ぎない神さま方がお定 [き] めの掟を、人間の身で破りすてができようなどと。/だってもそれは今日や昨日のことではけしてないのです、この定 [きま] りはいつでも、いつまでも、生きてるもので、いつできたのか知ってる人さえありません。(……)」というわけで、だからここにはあきらかに、神の法と人の法を対立させて前者を優先するかんがえかたと、またもうひとつ、神の法の起源遡行不可能性という、よくしらんがデリダとかがかんがえて論じたとおもわれるテーマがかきこまれている。神の法はいつどこでつくられたのか歴史的起源がわからないし、それがゆえに、なのかどうかわからないが、普遍的で、「いつでも、いつまでも、生きて」おり妥当する永遠の法である。ちなみにこの箇所ではその神の法の具体的内容が直接的に言及されておらずあきらかでないが、物語のながれとかほかの箇所をあわせるにそれはむろん、死んだ兄ポリュネイケスを敬虔に葬るということ、ひいてはちかしい家族の死をふさわしい敬意をもって遇するということのはずで、175では、「何が恥でしょう、本当の兄を大切 [だいじ] にしたって」と明言されている。だからアンティゴネが禁令に納得できないのは、ポリュネイケスが「身内」であるからで、この点で彼女は公の立場とか国家的共同体の都合とかよりも、私的な関係を優先していることになる。いっぽうのクレオンは統治者なのでまあ国家的利益の観点からかんがえるのだけれど、彼からすれば、エテオクレスはテーバイをまもって死んだ勇者なので英雄として葬るにあたいするが、ポリュネイケスのほうは外から攻めてきてテーバイを破壊しようとした裏切りの徒であり国家の敵であるから、その死を礼節をもって遇するなどけしからんことでもってのほか、ということになる。いちおう彼からしてもポリュネイケスは甥にあたるから「身内」ではあるのだろうけれど、「身内」の論理は優先されず、その点ははっきりと明言されている。161で、クレオンが登場して最初の演説風の長台詞の途中で彼は、「また自分の祖国に替えて、身内をそれより大切にするのも、まったく取るに足りない人間だ」と口にしているからだ。したがってクレオンからするとアンティゴネは「まったく取るに足りない人間」となるはず。クレオンにとってはとうぜんながら私的論理よりも国家の都合、すなわち国益が優先されるから、国家の敵対者であった奸賊ポリュネイケスをエテオクレスと同様に弔うのは、あきらかに「自分の祖国に替えて、身内をそれより大切にする」おこないだろうし、国益に反する。だからここで公/私の対立があり、二者のあいだで優先する項はわかれているわけだが、公のほうはとうぜんながら共同体的人為および集団性とむすびついている。たいしてアンティゴネは、国家もしくは人為を超越する神の秩序と論理が、直接一個人のふるまいとしての私に一気に接続しているというのが意味論的にかんがえたときの多少の見どころだろうか。クレオンがポリュネイケスを逆賊と規定するにかんしてはもちろん、敵/味方の二分法があって、ポリュネイケスはまったき敵でありエテオクレスは味方の英雄である。で、古代ギリシア人の観念としては、プラトンなどでもたびたび表明されていた記憶があるが、基本的に敵にわざわいをあたえることは良いことであり、逆に敵を利することは悪である。だからポリュネイケスを利することはもちろん悪であり、それを実行しているアンティゴネのおこないも悪である。クレオンは175のアンティゴネとの問答のなかで、「それなら、どうして、その兄にとっては非道を見える勤めをするのか」と問うている。「その兄」というのはエテオクレスのほうのことで、たいしてアンティゴネは「死んでしまった方は、そんなことをけして認めはしないでしょう」とうけ、そのすこしあとでもふたりは、「だが、良い者が、悪人と同じもてなしを受けてはすまされない」「誰が知ってましょう、それがあの世でまだ、さしつかえるか」という応酬をしているので、クレオンは人の世の善悪の領域に身と思考をおいており、ひるがえってアンティゴネは、人の世をはなれてあの世にいけば現世における善悪は問題ではなくなる、という論理に拠っている。だからアンティゴネにとってあの世は、人間的浮世を超越した領分であり、したがってそれはおそらく純粋に神の領域だということになるのだろう。ここまでつらつらとかいてきた構図をキーワード的にまとめると、クレオン: 公/国家/現世(人為)/敵・味方――アンティゴネ: 私/身内/あの世(神)/死における平等、というくらいのかんじになるか。あととうぜんそこに、男女の二分法もくわわってくるのだけれど、これにかんしてはクレオンの女性蔑視がきわだつだけで、アンティゴネはそれにたいして女性を男性よりも優位におくというかんがえかたは表明していなかったとおもう。うえの四つの対立にかんしては、それぞれがじぶんの立場をあいてのものよりも明確に優先するというふるまいをとっていたとおもうのだが。じっさいクレオンの男尊女卑ぶりはひどく、こいつただのクソ野郎じゃん、というかんじで、「こいつはどうやら、女の味方をするつもりだな」(186)とか、「ええ、なんという穢 [けがら] わしい奴、女にも劣ろうとは」(同)、「いよいよお前の言い分はみな、女の弁護なのだな」(同)、「なにを女の奴隷のくせに、口先だけでまるめにかかるな」(187)という調子で、186から187にかけての息子ハイモンとの口論のなかにはたてつづけに、女性をおとしめる発言がでてくる。クレオンにとっては女性は男性よりも本質的に劣った存在であるらしく、だから女性にしたがったり負けたりするのは「穢わしい」ことになるわけだろうが、女性がなぜ男性よりも本質的に劣った存在であるのかその根拠はなにもしめされず、それは彼においてまったくうたがわれることのない前提としての地位を確立している。だからハイモンとの問答では、ハイモンが女性であるアンティゴネの擁護をしているというその一点だけで、こいつは見下げ果てたやつでそのいいぶんをきく価値などない、ということになってしまい、ハイモンの主張の内容がまるで吟味されないので、こいつただのアホやんという印象だ。また同時にそこに、息子は基本的に父親にさからってはいけないという観念も強烈にからんでくるので、この劇中のクレオンは完璧なまでに家父長制の権化みたいな人物となっている。
  • そのクレオンがじぶんの意見をひるがえすにいたるのは、予言者テイレシアスがあらわれてことばをもたらしたあとなのだが、この予言者は『オイディプス王』のなかでオイディプスにも予言をもたらしたまさしくそのひとであり、註によれば「竜族の子孫」なのだという。『ダイの大冒険』の主人公かな? というかんじだが、もともとテーバイのなりたちが、開祖カドモスが巨竜を退治してその歯を地に撒いたところ戦士たちが生え出てきて部下になり、彼らがテーバイ市民の祖先だという伝説になっているらしい。それはともかく、テイレシアスは、占いに不吉な兆しがあらわれて、この都が病におかされているということ、またクレオンはその増上慢のためにみずからの「身内」を失うことになるだろうというふたつのことがらをつげるのだけれど、こちらがちょっときになったのは、クレオンの翻意を決定づけるのが、前者ではなくて後者のことばだという点である。まず前者にかんしていえば、テイレシアスは、「この都は御身の心柄ゆえ、患いを受けている次第」(201)と指摘しており、「御身の心柄」というのはむろん、クレオンがポリュネイケスの死骸をさらしものにして葬らなかったということだ。それによって、「この国の祭壇も、火処 [ひどころ] も、一つ残らずそっくり皆、鳥どもや野犬らによって、あの不運に斃れたオイディプスの子の腐肉のために穢れ」、「それゆえ神々とても、われわれの犠牲 [にえ] をささげる祈禱さえはや、聞こし召されず、腿肉の供物の焔も享けさせないのだ」(201~202)ということになる。だからテイレシアうのいうところによれば、神々はあきらかにアンティゴネのかんがえを擁護していることになるはず。予言者はつづけて、「ともかく死人には容赦を用いて、没 [みまか] った者を攻め立てなどはしないがよい。死人をさらに殺してそれが、何の誉れか」(202)とクレオンをいさめているが、これはアンティゴネの主張と軌を一にしているはず。死人は死人であるだけで、「容赦」をもって遇するにあたいするということで、ただテイレシアスにとってはもちろんポリュネイケスは「身内」ではないから「身内」の論理はそこにはいってこない。彼の主張は、死人にはそれにふさわしい扱い方がある(そしてそれをまもるのが神を尊ぶことである)、ということだろう。たいしてアンティゴネにとってポリュネイケスはまず「身内」であり、彼女がポリュネイケスを手厚くほうむりたいとおもうにあたってはその要素が先行しており、しかしポリュネイケスは敵となった悪い身内ではないか、という反駁にたいして、死んであの世にいけば敵も味方もない、という再反論として死者の平等性がでてくるはず。テイレシアスのうえのような忠言にたいしてしかしクレオンはまだ納得しておらず、「いや、けして、その穢れを畏れ憚り、あいつの葬儀を許そうなどとは思いもよらん」(202)とみずからの立場に固執し、テイレシアスを金銭的利益のために虚言を吐いているいかさま野郎だと非難するのだけれど、そうした侮辱にたいして予言者は、「これから、もういくたびも、太陽の速い車駕 [くるま] が廻って来ぬうち、御身の血をわけた者の一人を、死んだ屍 [むくろ] の対償に、自分から屍となして、代りに差し出すことになろう」(204)と、予言というか不吉な呪いのようなことをいうのだけれど、その根拠は、まずひとつには、「それも御身が、地上の世界に属する者を地下に投じて、無慚にも生命を墓に封じ込めたその償いだ」というわけで、これはアンティゴネを岩屋みたいな場所におくって幽閉したことをいっている。さらにくわえて、「そのうえにもまた、地下の諸神へ当然属すべき死者を、この世に、不当にも葬いもせず聖めもせずに停 [とど] めておいた」こと、葬儀によってあの世におくられるはずのポリュネイケスを「御身がむりやりに押しとめた」ことが「咎」だといわれるわけだが、このあたりをよむと、クレオンが罰せられるのは、敵味方善悪うんぬんをこえて、生と死のあるべき秩序をみだし、死に属すべきものを死にむかわせずそのみちゆきをさまたげ、また本来生に属すべきものを身勝手に死の領分へとおくりこんで、いわば生と死の二領域を適切に分節せず、それらを混淆・交雑させてしまったからだ、といわれているようにもおもえる。生と死のさかいをただしく区分してその純粋状態をたもつことをおこたり、生のなかに死を、死のなかに生をまぜこんでしまったことが罪である、と。そのばあいアンティゴネは、生の領域のなかに一片まざってしまった死の色をただしく死者の領分へとおくりこみ、生死のあるべき秩序を回復させようとした、いわば世界の補修者とでもいうことになるだろうか。しかしおそらく神々の視点からすると誉れをうけるべきだった彼女のそうしたおこないは、クレオンのさだめた人為の法からは逸脱し、アンティゴネはみずからが死へとおくりこんだ死者のあとを追うようにして、「地下」の「墓」にあたる洞穴におくりこまれ(さらに、象徴的にのみならずそこで現実に死者と化すことになり)、せっかくアンティゴネが補修した世界の破れ目はふたたびひらいて、生死はまじりあってしまうわけだ(といっても、アンティゴネはたぶんじっさいは、「世界の補修」をこころみるところまでにとどまったはずで、つまり彼女が成功したのは死骸にいちど土をかけることだけで、そのあと亡骸を埋めようとしているところでつかまったのだから正式な弔いはできていなかったとおもうので、このよみはおそらく成立しない)。
  • はなしをもどすと、うえのような予言者の不吉な宣言をうけて、クレオンはようやく動揺し、臣下であるコロスの進言もあって、「やれやれ、辛いことだが、前の気組みを変改して、そうするほかはあるまい。天命と、かなわぬ戦さをしてもむだだ」(206)と口にし、かんがえをひるがえすにいたる。クレオンが意見をかえるにあたってはまずテイレシアスがこれまでいちどたりとも「国に対し」、「うそを予言」(205)したことがないということ、つまりテイレシアスの予言能力のたしかさにたいする信頼が前提としてあるのだが、くわえてこちらがちょっとだけ気になったのは、国家的災いについて忠告された時点ではまだ反発していたクレオンが、みずからの家族が死ぬといわれたとたんにかんがえを反省していることで、ここでたしかテイレシアスが「身内」ということばをつかっているとおもって上述(「クレオンはその増上慢のためにみずからの「身内」を失うことになるだろう」)では「身内」と括弧にくくってこの語をかきつけたのだけれど、よみかえしてみると予言者の台詞のなかに「身内」という語はつかわれておらず、「御身の血をわけた者の一人」(204)といわれていたのだが、これを「身内」といいかえてもひとまず問題はないだろう。気になったというのは、ここではなしが「身内」のレベルに収斂しているということで、いままで議論は基本的には公と私の対立にもとづいていて、クレオンは私的ないいぶんよりも国益を優先していて、その観点からしてじぶんの判断をうたがっておらず、テイレシアスが、「都」(201)という国家共同体からみてもあなたのおこないは「患い」をもたらしていますよと、すなわちほかならぬ統治者であるあなたの行為が国益をそこなっていますよと忠告してもききいれなかったのだけれど、あなたに家族をうしなうという個人的な不幸がおとずれますといわれたところでようやく翻意しているわけだ。だからここでクレオンは、統治者から私人になっている。クレオンが統治者であることを徹底し、またじぶんの判断は国家的観点からしてやはりただしいと確信し、ポリュネイケスを葬るのはやはりゆるせない、とその点を是が非でもゆずらなかったなら、彼は家族がどうなろうが国家のためにその不幸をたえしのぶべきだったのだ(ちなみに、国家的観点からみた彼の決断と禁令も、ハイモンの証言によれば、民衆には不支持だったらしい。彼は、184で、「この町のもの」がアンティゴネのために「悼み嘆いて」おり、「このうえなく立派な仕事をしたというのに、そのためとりわけ惨めな死様をとげようとは、ありとある女の中で、彼女 [あれ] はいちばん不当な目にあう者ではないか」と同情して、兄の亡骸を獣らに荒らされることをゆるさず葬ろうとした彼女は、「黄金 [こがね] に輝く栄誉を授けらるべきではなかろうか」と噂しあっている、と父親にむけてしらせているからだ。だから、クレオンの決断は、政治的にかんがえたとしても、すくなくとも世論の面からみるかぎりではあやまりだったことになるだろう)。しかしじっさいには、クレオンはそこまで確固として政治家にとどまることはできなかった。自分の判断のあやまりをみとめたわけだけれど、しかしそれをみとめるにいたったとき、彼はみずからの従前の主張が国家にどういう影響をもたらしたかということをかんがえておらず、政治的観点での反省をしておらず、個人的な不幸の可能性を危惧しているだけだからである。したがって、テイレシアスの予言が終わった時点で、クレオンは統治者であることをやめ、それは劇の終幕までつづいているはず。そして「身内」の不幸にうちのめされて政治的思考をうしない、ただただ私人として身の不幸をなげき世の終わりを念願するだけとなった彼は、161でみずから非難していたような人間、「自分の祖国に替えて、身内をそれより大切にする」「まったく取るに足りない人間」へと変貌してしまっている、ということになるだろう。
  • 書見を切りとしたあとは出勤の準備へ。おにぎりをひとつつくってきて食い、歯磨きなどするあいだは(……)さんのブログをよんだのだったか? 出発前に「記憶」記事をすこしだけ音読。したのふたつの引用がよかった。ひとつめは岡崎乾二郎「愚かな風」(2017/6/6; 初出: 『現代詩手帖 2017年2月号 【特集】ボブ・ディランからアメリカ現代詩へ』)(https://note.com/poststudiumpost/n/n679f81bffbb4)からのもので、ふたつめはBob Dylanノーベル文学賞受賞をうけて発表した、"Bob Dylan – Banquet speech"(https://www.nobelprize.org/prizes/literature/2016/dylan/25424-bob-dylan-banquet-speech-2016/)からのもの。「一夜の和解(恋愛)を終えれば、再び、われわれは標識と境界線に縛られた現世に戻らなければならない、この束縛がつくりだす、さまざまな交差点、を生き延びていくことこそ、われわれの背負う十字架である。この(歴史を騙った)拘束の中で結局、君はこちら側で俺はあちら側であるということは逃れられない。けれど、われわれは、たくさんすぎるくらいの朝を迎え、千マイルも歩いてきたそういう人間である。だからこそ、きっと、またもうひとつ余分な朝を迎えることができるのだ」ということばのつらなりには感動してしまう。「またもうひとつ余分な朝」。Dylanの声明も、ずいぶん気の利いたことをいうなあ、というかんじ。

 [一九七五年から七六年に掛けて行われた「ローリング・サンダー・レヴュー」ツアー中の一公演(一九七六年五月二三日、ヒューズスタジアム、フォート・コリンズ)について] ディランは現世的な都合(権益)で決められたにも拘らず、あたかも歴史的起源をもつかのように騙る国家秩序(その具体的現れとしての国境)に振り回され、移動を強いられ、利用される移民たちを、メキシコ国境でいまだ続くアメリカ国内問題と重ねて、歌っているのである。が、ゆえに移民は所詮、歴史的アリバイを騙っても目先だけの区切りにすぎない政治的秩序には結局は束縛されない。続いて歌われる“ I’m one too many mornings/And a thousand miles behind"(https://www.youtube.com/watch?v=3s_KYywhd_8&feature=youtu.be&t=1m23s)がこの流れをさらにひとひねりして、高みにあげる。一夜の和解(恋愛)を終えれば、再び、われわれは標識と境界線に縛られた現世に戻らなければならない、この束縛がつくりだす、さまざまな交差点、を生き延びていくことこそ、われわれの背負う十字架である。この(歴史を騙った)拘束の中で結局、君はこちら側で俺はあちら側であるということは逃れられない。けれど、われわれは、たくさんすぎるくらいの朝を迎え、千マイルも歩いてきたそういう人間である。だからこそ、きっと、またもうひとつ余分な朝を迎えることができるのだ。“ I’m one too many mornings/And a thousand miles behind"、いまだ訪れない、このもうひとつ余分な朝(それを持つのが人間である証だ)までも分類され、支配されることはない。われわれ移民は、このいまだ訪れない、もうひとつ余分の朝の中にこそ棲んでいるのだ。

 *よく知られているようにローリング・サンダー・レヴューは、まだレコードを出す前だったパティ・スミスとそのグループのクラブでの演奏にディランが衝撃を受けたことがきっかけになっている。ディランはパティとの共演を望んだが、パティは断った(http://alldylan.com/wp-content/uploads/2012/03/Dylan-adoring-Patti.jpg)。がディランはパティ・スミスの毅然とした姿に大きく影響され、長い間中断していたコンサートツアーを再び始めたのである。ノーベル賞授賞式でパティが(今度は断らず)、途中で言葉を失って中断しながらもローリング・サンダー・レヴューのテーマ曲でもあった「はげしい雨が降る」を歌った(https://www.youtube.com/watch?v=941PHEJHCwU)とき、われわれも感銘のあまり、言葉を失ってしまったのは当然である。われわれは何千マイルも歩いて何を見てきたのか?

     *

I was out on the road when I received this surprising news, and it took me more than a few minutes to properly process it. I began to think about William Shakespeare, the great literary figure. I would reckon he thought of himself as a dramatist. The thought that he was writing literature couldn’t have entered his head. His words were written for the stage. Meant to be spoken not read. When he was writing Hamlet, I’m sure he was thinking about a lot of different things: “Who’re the right actors for these roles?” “How should this be staged?” “Do I really want to set this in Denmark?” His creative vision and ambitions were no doubt at the forefront of his mind, but there were also more mundane matters to consider and deal with. “Is the financing in place?” “Are there enough good seats for my patrons?” “Where am I going to get a human skull?” I would bet that the farthest thing from Shakespeare’s mind was the question “Is this literature?”

  • 五時すぎに上階にあがって出発。ポストから夕刊などの郵便物をとっておく。雨がぽつぽつ降っていたので傘をもった。勢いはさほどではなく、このくらいならば意に介さずともよいといえばそうだったのだが、ひとつひとつの粒がわりと大きめで肌への感触もはっきりしていたので、まあ差すかとひろげて道をいく。ただ、すぐに弱まった。それでいちじ閉じて、道沿いの庭にでてしゃがみこんで草取りをしていた(……)さんとあいさつをかわして坂にはいると、今度はまたすぐに復活したので再度ひらく。木の間の坂道をのぼっていき、最寄り駅がまぢかになるころにはそこそこ盛っていた。横断歩道で車をとめてゆっくり通りをわたり、屋根つきの通路にはいって傘を閉じ、sの子音の雨音がひろがるなかをホームにうつり、ベンチに寄ってすこしまつときたものに乗車。席について瞑目し、待っておりてホームをいく。駅をでるとここではもう降りはない。職場にいって勤務。
  • (……)
  • (……)
  • (……)
  • (……)
  • (……)
  • (……)
  • 九時まえに退勤。徒歩。「ココナラ」のような場で金をかせぐことについてなどおもいめぐらしながらあるく。そういえばこの日は、ジャケットをはおらずにベストすがたで出勤したが、これは今年はじめてのことだ。空は全面雲におおわれているのだが、それでもあまり黒く暗くなく、道の先で建物とのさかいもあきらかだし、むしろ青みすらわずかにみてとられるようなので、痕跡も気配も発見できないがたぶん月がもうだいぶあかるいのではないか、とおもった。そしてじっさい、家につづくさいごの裏道からみあげれば雲海のなかにうかびあがるわずかなひかりの靄がつかまえられて、ひともいないし車もこないので首をまげてそれをみつめながら坂をくだっていると、だんだんと月のすがたが、雲の幕のむこうで白い影絵のようにして形成されあらわれはじめ、やはりもうだいぶ満月にちかいようなかたちだった。おおきさとしてはちいさめでとおくあるようにみえたが、かたちはまるい。月の暦とか満ち欠けのしくみとか周期というものをいつまでたってもきちんとしらべないし、したがってちっとも理解できないでいるのだが。坂道をくだっていって下端までくるころには月はまた雲の支配にのまれて所在がわからなくなり、空は偏差も畝もさほどもたずまとめてすべて薄鼠色のなだらかなひろがりをかけられて、それは際までぬかりなくおりてつづき天をきっちりと閉塞しているのだけれど、そんななかに月の居場所がわからずそのなごりすらうかがえず姿がきえてしまっていても、ひかりだけはみえない裏でおおいなる天の全体にあまねく浸透しているらしく、灰色の幕と地上のさかいは明瞭で、空の端と山影があきらかに分離されているのですげえなとおもった。
  • それから時間としてはすこしまえにあたるが、街道の途中で今夜も道路を掘って工事をしていた。先日みたのとおなじ、おおきな提灯を横に寝かせたようなかたちの真白い照明のもとで人足たちがうごめいており、今日はなにやら機械の駆動音も発生していてショベルカーも二台でばっており、ただ一台はクレーンをひきあげて停止中でもう一台はいくらかうごいていたようだが、しかしそれでいま道を掘っているというわけではないようで、もう掘られた穴にたいしてなにかしらやっているらしく、穴のなかや周囲にはいろいろものが置かれていたようで、モーター音を発してなにかの機械をあやつっているらしいひとりのところからは蒸気も湧いているのだが(機械のすがたは穴のなかにあってみえなかったのだが)、なにをやっているのかはむろんまったくわからない。水道管の工事をしてはいるのだとおもうが。そちらから見てむかいの歩道をだらだらいきながらじろじろみていたあいだ、工事員たち数人がなにやらおおきな笑いをはじけさせる瞬間があった。
  • 帰宅すると休息。(……)さんのブログをよんだのだったか。五月二二日。卒業する生徒たちにむけてけっこう長文の手紙的メッセージをおくっているのだが、それがよい文章でわりと感動してしまう。「愛とは、お互いを見つめ合うことではなく、ともに同じ方向を見つめることである」というアントワーヌ・サン=テグジュペリのことばが冒頭にいきなりひかれており、これをよみながらBill Evans Trioのことをおもいだした。たしか(……)さんが前回東京にきたときだから二〇一九年の二月のこと、そのうち(……)で(……)公園を散歩したあといまは亡き(……)にいってはなした日だから、あの年は一年つづいた鬱状態からなぜか回復し日記を再開したばかりで、二月四日に(……)くんとひさしぶりに再会して新宿で会い、(……)さんと会ったのはそのつぎの日から三日間だったはずだから七日のことではないかとおもうが、喫茶店で音楽のはなしをしたときに一九六一年のBill Evans Trioはやたらすごいといったとき、(……)さんもこのことばを言及していたような気がするのだが、あるいはそのときはサン=テグジュペリは言及されず、そのすこしまえに(……)さんのブログに引かれてあった木村敏のことばにふれられただけだったかもしれないが、そこでいったBill Evans Trioの様相というのは、いままでおりにふれて書いているとおもうけれど、ようするに三者がたがいのほうをまったくみておらず目も顔もすこしもあわせずにじぶんの方向をむいてひとりだけで勝手にやっているのだけれど、それがなぜか偶然一致してしまっている、みたいな印象、ということだ。これは主観的な印象でしかないし、じっさいにはちがうとおもうのだけれど、こちらにはあの音楽はそういう感触だとしかおもえない。ただ、うえの「愛とは、お互いを見つめ合うことではなく、ともに同じ方向を見つめることである」というアフォリズムにそってかんがえるに、Evans Trioは「お互いを見つめ合うこと」をしていないのはたしかだが、たぶん「同じ方向を見つめ」ているわけでもないな、とおもった。イメージとしては、まったくばらばらの方向を見つめているようにおもえる。ただこれは具体的に音楽に即していないいまの印象なので、尚早な臆見にすぎない。あるいは、「方向」としてはおなじでも、そこでじっさいにみつめているものはちがっているはず。
  • Evans Trioがはてしなくすごいのはやはりその点で、つまり三者三者とも、たがいをうかがったりあわせにいったりあいての出方をみたりしているとかんじさせる瞬間がほんとうに一瞬もないということで、彼らは六一年のVillage Vanguardでの演奏を全部とおして、最初から最後まで迷いがまったくない。息があっている、などというはなしではなく、そもそも「あう」ものとしての「息」があそこには存在していないかのよう。そのなかでもこちらがおもうにはやはりEvansがどうしてもすごく、この前日に"Alice In Wonderland (take 1)"をきいたときにもほれぼれしてしまったのだけれど、ソロの途中に、ただあがってさがっているだけなのにすさまじく明晰な音列があって、一音の際立ち方にせよリズムにせよフレーズのながれにせよ、完璧だとしかおもえない音のつらなりを彼はたしかに発生させている。全篇にわたってではないとしても、六一年六月二五日のBill Evansの演奏のなかに完璧さはまちがいなく存在している。それをもちろんアドリブとしてこともなげにやっているのがきわめて異常で、あたまがおかしいとしかおもえない。とにかく明晰にすぎていて、明晰さがきわまって異貌のものになっているようにかんじられる。狂気にちかい。そういう明晰さと統一性はLaFaroとMotianにはやはりない。LaFaroには多少あるにしてもEvansほどではないし、彼はどちらかといえばやはりかきまぜるタイプだろう。Motianは明晰さなど最初からめざしていないし、彼の演奏は「明晰さ」などという概念を知ってはいない。
  • そのあとの食事時のことはあまりおぼえていないが、夕刊に、ベラルーシの反体制派メディアのひとが拘束されたという事件の報があった。ルカシェンコの指令でベラルーシ領空内で彼が乗っていた飛行機が強制的に着陸させられ、なんでも爆発物だったかなんだかわすれたがそういうものがあるとかいう名目でとめられたらしいのだが、それは発見されず、そのメディアのひとが拘束されたと。NEXTAとかいうメディアをつくったひとらしいが。たしかアイルランドの航空会社とか書かれていたような気がするのだが、記憶がふたしか。EUはとうぜんルカシェンコおよびベラルーシ政府を非難。
  • ほかになにかよんだような気もしないでもないが不明。食事はサバなどだった。食後、すぐに風呂へ。風呂でも日記を金につなげることについてかんがえ、やはりやめようとおちついたのはきのうの記事にしるしたとおりだ。でると以下。
  • いま零時半。入浴後、茶を用意してBrandon Ambrosino, "How and why did religion evolve?"(2019/4/19)(https://www.bbc.com/future/article/20190418-how-and-why-did-religion-evolve(https://www.bbc.com/future/article/20190418-how-and-why-did-religion-evolve))をよみだし、読了。そこそこながくて、三回にわけてよみおえることになった。引用は今日読んだ部分のなかからのみ。Frans de Waal(フランス・ドゥ・ヴァール)というひとはあきらかにききおぼえがあるなまえなのだけれど、いったいどこでみたのかおぼえていない。たぶん本屋でみかけたのだけれど、どの著作をみたのかがわからん。おそらくいちばんあたらしい邦訳の、『動物の賢さがわかるほど人間は賢いのか』というやつか。

In archival footage(https://www.youtube.com/watch?v=jjQCZClpaaY(https://www.youtube.com/watch?v=jjQCZClpaaY)), primatologist and anthropologist Jane Goodall describes the well-known waterfall dance which has been widely observed in chimpanzees. Her comments are worth quoting at length:

When the chimpanzees approach, they hear this roaring sound, and you see their hair stands a little on end and then they move a bit quicker. When they get here, they’ll rhythmically sway, often upright, picking up big rocks and throwing them for maybe 10 minutes. Sometimes climbing up the vines at the side and swinging out into the spray, and they’re right down in the water which normally they avoid. Afterwards you’ll see them sitting on a rock, actually in the stream, looking up, watching the water with their eyes as it falls down, and then watching it going away. I can’t help feeling that this waterfall display or dance is perhaps triggered by feelings awe, wonder that we feel.

The chimpanzee’s brain is so like ours: they have emotions that are clearly similar to or the same as those that we call happiness, sad, fear, despair, and so forth – the incredible intellectual abilities that we used to think unique to us. So why wouldn’t they also have feelings of some kind of spirituality, which is really being amazed at things outside yourself?

Goodall has observed a similar phenomenon happen during a heavy rain. These observations have led her to conclude that chimpanzees are as spiritual as we are. “They can’t analyse it, they don’t talk about it, they can’t describe what they feel. But you get the feeling that it’s all locked up inside them and the only way they can express it is through this fantastic rhythmic dance.” In addition to the displays that Goodall describes, others have observed various carnivalesque displays, drumming sessions, and various hooting rituals.

     *

The roots of ritual are in what Bellah calls “serious play” – activities done for their own sake, which may not serve an immediate survival capacity, but which have “a very large potentiality of developing more capacities”. This view fits with various theories in developmental science, showing that playful activities are often crucial for developing important abilities like theory of mind and counterfactual thinking.

Play, in this evolutionary sense, has many unique characteristics: it must be performed “in a relaxed field” – when the animal is fed and healthy and stress-free (which is why it is most common in species with extended parental care). Play also occurs in bouts: it has a clear beginning and ending. In dogs, for example, play is initiated with a “bow”. Play involves a sense of justice, or at least equanimity: big animals need to self-handicap in order to not hurt smaller animals. And it might go without saying, but play is embodied.

Now compare that to ritual, which is enacted, which is embodied. Rituals begin and end. They require both shared intention and shared attention. There are norms involved. They take place in a time within time – beyond the time of the everyday. (Think, for example, of a football game in which balls can be caught “out of bounds” and time can be paused. We regularly participate in modes of reality in which we willingly bracket out “the real world”. Play allows us to do this.) Most important of all, says Bellah, play is a practice in itself, and “not something with an external end”.

Bellah calls ritual “the primordial form of serious play in human evolutionary history”, which means that ritual is an enhancement of the capacities that make play first possible in the mammalian line. There is a continuity between the two. And while Turner acknowledges it might be pushing it to refer to a chimpanzee waterfall dance or carnival as Ritual with a capital R, it is possible to affirm that “these ritual-like behavioural propensities suggest that some of what is needed for religious behaviour is part of the genome of chimpanzees, and hence, hominins”.

     *

De Waal has been criticised over the years for offering a rose-coloured interpretation of animal behaviour. Rather than view animal behaviour as altruistic, and therefore springing from a sense of empathy, we should, these wise scientists tell us, see this behaviour for what it is: selfishness. Animals want to survive. Period. Any action they take needs to be interpreted within that matrix.

But this is a misguided way of talking about altruism, de Waal says.

“We see animals want to share food even though it costs them. We do experiments on them and the general conclusion is that many animals’ first tendency is to be altruistic and cooperative. Altruistic tendencies come very naturally to many mammals.”

But isn’t this just self-preservation? Aren’t the animals just acting in their own best interests? If they behave in a way that appears altruistic, aren’t they just preparing (so to speak) for a time when they will need help? “To call that selfish,” says an incredulous de Waal, “because in the end of course these pro-social tendencies have benefits?” To do that, he says, is to define words into meaninglessness.

     *

Such a hard and fast line between altruism and selfishness, then, is naive at best and deceptive at worst. And we can see the same with discussions of social norms. Philosophers such as David Hume have made the distinction between what a behaviour “is” and what it “ought” to be, which is a staple of ethical deliberation. An animal may perform the behaviour X, but does it do so because it feels it should do so – thanks to an appreciation of a norm?

This distinction is one that de Waal has run into from philosophers who say that any of his observations of empathy or morality in animals can’t possibly tell him about whether or not they have norms. De Waal disagrees, pointing out that animals do recognise norms:

The simplest example is a spider web or nest. If you disturb it, the animal’s going to repair that right away because they have a norm for how it should look and function. They either abandon it, or start over and repair it. Animals are capable of having goals and striving towards them. In the social world, if they have a fight, they come together and try to repair damage. They try to get back to an ought state. They have norm of how this distribution should be. The idea that normativity is [restricted to] humans is not correct.

In the Bonobo and the Atheist, de Waal argues that animals seem to possess a mechanism for social repair. “About 30 different primate species reconcile after fights, and that reconciliation is not limited to the primates. There is evidence for this mechanism in hyenas, dolphins, wolves, domestic goats.”

He also finds evidence that animals “actively try to preserve harmony within their social network … by reconciling after conflict, protesting against unequal divisions, and breaking up fights among others. They behave normatively in the sense of correcting, or trying to correct, deviations from an ideal state. They also show emotional self-control and anticipatory conflict resolution in order to prevent such deviations. This makes moving from primate behaviour to human moral norms less of a leap than commonly thought.”

  • そのあとは金井美恵子「切りぬき美術館 新スクラップ・ギャラリー: 第1回 猫の浮世絵とおもちゃ絵1」(http://webheibon.jp/scrap-gallery/2015/11/post-1.html(http://webheibon.jp/scrap-gallery/2015/11/post-1.html))と同「第2回 猫の浮世絵とおもちゃ絵2」(http://webheibon.jp/scrap-gallery/2015/12/2.html)をよんだり、きのうの日記をしるしたりなど。この金井美恵子の記事をよんださいに、ウェブ平凡じたいにもアクセスしてちょっとみてみると、川上弘美の「東京日記」というやつと、こちらはもう更新停止しているが中原昌也の「書かなければよかったのに日記」というシリーズもあって、これらはいつかよもうとおもってメモしておいた。それぞれほんのすこしだけのぞいてみたのだが、いかにも日記らしく簡潔なもので、そうなんだよな、ほんとうは日記というものはこういうふうにそっけなくみじかい文でやるもので、じぶんのやつみたいに、だらだらうだうだとあれだけの長文でだべりまくるかたりまくるというのは、ほんとうはやはり恥ずかしいこと、品のないことなのだよな、とおもった。太宰治ではないが、人間などただでさえ、生きているだけである面では恥をさらしているようなものなのに、それにかさねてわざわざその恥を、いい気になって積極的に能動的にさらしていこうというのだから、まったくもって恥ずかしい、あさましいことをやっているとおもう。前世の宿縁か?
  • 二〇二〇年五月二四日の記事もよみかえした。むかしの記事から、エンリーケ・ビラ=マタス木村榮一訳『バートルビーと仲間たち』(新潮社、二〇〇八年、21~24)がひかれている。ヴァルザーについてしるした箇所。カール・ゼーリッヒの証言としてつぎのもの。「以前ヴァルザーとわたしは深い霧に包まれたトイフェンからシュパイヒェンまでの道を散歩したことがあるが、秋のあの午後のことはいつまでも忘れることができないだろう。あの日わたしは彼に、あなたの作品はゴットフリート・ケラーのそれと同じようにいつまでも残るでしょうと言った。すると、彼は地面に根が生えたように急に立ち止まり、ひどく重々しい顔でわたしをじっと見つめてこういった。わたしたちの友情を大切にしたいのなら、二度とそういうお世辞を言わないでくれ。彼、ローベルト・ヴァルザーは無用の人間であり、人から忘れられたいと願っていたのだ」。ビラ=マタス当人の文および説明としては、以下のもの。「猟奇」はおそらく「領域」をミスタイプしたものとおもわれる。

 ローベルト・ヴァルザーは虚栄を、夏の日を、女性用のスパッツ、日差しを浴びている家、風になびいている旗を愛していた。しかし、彼が愛した虚栄は自分だけが成功すればいいといった野心とはまったく無縁なものであり、微小なもの、はかないものをやさしく提示するといったたぐいの虚栄心だった。地位の高い人が住む世界を支配しているのは力と名声だが、ヴァルザーはそういう世界にはまったく縁がなかった。「何かのはずみで波がわたしを押し上げ、力と名声の支配する高みへと運ばれるようなことがあれば、わたしは自分に有利に働いた状況をすべてぶちこわして、下の方、最下層にある無意味な闇の中へ飛び降りて行くつもりだ。わたしにとって息のしやすい世界は下の方の猟奇なのだ」

     *

 ヴァルザーは無用の人間になりたいと願っていた。彼の愛した虚栄とはフェルナンド・ペソアのそれを思わせる。ペソアはあるとき、板チョコを包んでいた銀紙を床に投げ捨てると、自分はこんな風に、つまりこうして人生を捨てたのだといった。

  • 「無用の人間になりたい」にかんしてはかなりの同意をおぼえる。「忘れられたい」は微妙なところだが、なかばくらいはそうかもしれない。「無用の人間になりたい」というよりは、なんらかの意味で有用でないと生きていかれない世にうんざりしている、ということか。有用なひとになどなりたくないし、世にとって用の無い人間になりたいと。いくらかこどもっぽい反発心もしくは反抗心なのかもしれないが。