たしかに、「きみはおなじ川に二度と足を踏みいれることはできないだろう」(同箇所 [『クラテュロス』四〇二 a] )。水は絶えず流れさるからだ。それだけではない。ひとは「一度も」おなじ川に足を踏みいれることができないはずである。いっさいは、ひたすら生成 [﹅2] のただなかにあるとするなら、「おなじ」川がそもそも存在 [﹅2] しようもないからである。流れはただちに変化するかぎり、ある [﹅2] ものはすぐ(end23)さまあらぬ [﹅3] ものになってしまう(アリストテレス『形而上学』第四巻第五章)。これは、みずからの論理学的思考の端緒をなす(「存在」から「無」へ、「存在と無」の同一性から「生成」へという)ことがらとまったくおなじ洞察を述べたものである、と哲学史講義でヘーゲルはいう。
けれどもヘラクレイトスが展開した思考の基本線は、べつのところにあったと今日では考えられている。世界のいっさいが絶えず移ろい、変化し、生成消滅するものであるというかぎりでは、その件は、ミレトス学派にあってもむしろ思考の前提であった。いわゆる「パンタ・レイ」は、ヘラクレイトスに固有の思考では、とうていありえないように思われる。
ヘラクレイトスそのひとは、むしろピタゴラスとその学派とならぶ、秩序と調和の哲学者であった。ただし、ピタゴラス派とおなじ用語を使いながら、相反する思考が紡ぎだされている。「不和であるものがどうして相和してもいるのかを、かれらは理解しない。逆向きにはたらきあう調和がある。たとえば、弓や竪琴がそうであるように」(断片B五一)。ピタゴラスの徒が、そこに調和(ハルモニア)を見いだした音階をかなでるリュラ(竪琴)の弦は、上下から強く引きしぼられ弦がそれを引きもどしていることで、つまり相反する力をはらんでいることによってはじめて美しい音色を響かせる。「目にあらわでないハルモニアは、あらわなそれよりも強力である」(B五四)。ヘラクレイトスが語るのはむしろ、一なるもの [﹅5] の調和なのである。
(熊野純彦『西洋哲学史 古代から中世へ』(岩波書店、二〇〇六年)、23~24)
- 一〇時半ごろにさめた。したがって睡眠は七時間未満。よろしい。今日はひさかたぶりに晴れ空の日和で、気温もたかそうである。布団をからだのうえから乱雑にどかし、こめかみをもんだり首をのばしたりふくらはぎを刺激したり。そうして一〇時五五分におきあがった。洗面所とトイレにいってきてからもどって今日は瞑想をサボらずおこなう。窓外では鳥がたくさん鳴きしきっていてちょっととおいところからもほんのすこしひびきに暈をともなった声がいくつも空間をぬけてわたってくるが、やはり熱されて乾いた空気のときと、雨に濡れて水気をたくさんはらんだ空気のときとでは、そのひびきかたもちがうのだろうか、とおもった。そのニュアンスをききわけるほどの耳のよさがこちらにはいまないが。一一時二〇分か二五分くらいまですわったはず。わるくない。
- 上階へ。母親は銀行にいってきてかえってまもなかったようで、パンをついでに買ってきたと。食事はそのパン類や素麺など。つゆをつくってワサビとネギを足し、パックいっぱいに詰めこまれていくらかくっついた素麺をトングで剝がすようにしてとりあげて食う。新聞を瞥見。きのうの夕刊にも載っていたが、ウクライナ当局がルカシェンコの指令をうけて飛行中の飛行機を停めて反体制派メディアの人間を拘束したという事件や、イスラエルとパレスチナの続報や、ミャンマーでアウン・サン・スー・チーが初出廷という報などがきになるが、文芸月評に千葉雅也の名があったのでさきにそれをよんだ。「オーバーヒート」という新作を「新潮」に発表したらしく、千葉雅也はべつのなんとかいう篇で四月に川端康成文学賞をとったところらしいのだが、それで評判のようで、この新篇が載った「新潮」はおおくの本屋でうりきれており、新潮社の在庫もつきたくらいらしく、新潮の編集部は千葉雅也の小説がそれだけ注目されているということだ、みたいなことをのべているらしい。この「オーバーヒート」という作は「デッドライン」の続編ともみなせるようなはなしらしく、青年時代を東京ですごしていまは関西で大学教授だかなんだかやっていて年下の同性の恋人がいる男性が、表面上順風満帆とみえながらもそのじつもろもろ懊悩とかがある心中を述懐しているみたいなものらしく、たんなる独白におわらない普遍性をもっていると文芸担当の記者は評していた。リベラルとか進歩的とみなされるためには(だったか、みなされたいならば、だったか)、LGBTの権利拡大とかにただ賛同してさえいればよい、というような世の風潮には断固としてあらがう、みたいな文言が作中にかきつけられているらしく、これはたぶん書き手の千葉雅也自身のスタンスとかさなっているのではないか。千葉雅也の文章を一冊もよんだことがないしツイートもほぼみたことがないのでふたしかだが、ききかじった印象だと。その他ミヤギフトシというひとの作や、あと三人くらいが要約的・列挙的に紹介・説明されていた。
- 食後、食器を流しにはこび、台布巾でテーブル上を拭き(母親はこちらがごちそうさんをいうのといれかわりのようにしていただきますをいって食事をはじめていた)、乾燥機のなかをかたづけておいてから食器をあらう。そうして風呂洗いも。でると急須および湯呑みを部屋からもってきて緑茶を用意。一杯目の湯をそそいで待つあいだ、ベランダにでてすこしだけ陽をあびる。暑い。白いひかりが洗濯物に埋まったベランダの全領域をつつみこんでいる。屈伸をしたり横方向の開脚をしたりするが、暑くてむろん汗がわく。あぐらをかいて日なたのなかにすわりこんでみるとむしろ多少暑さがマシになる。が、もっとながくすわっていればそれもまた暑くなるだろう。
- 室内にもどり、やや眩まされ、その余波でまた暗まされた視界をかかえて茶をもって自室へ。一服しながらウェブをまわったのち、音読。「英語」を496から517まで。Nicky CraneについてのBBCの記事など。BGMはLee Ritenourの『Gentle Thoughts』。なぜかわからんがひさしぶりにおもいだし、具体的にはこのアルバムの一曲目でメドレーのかたちでEarth, Wind & Fireの"Getaway"がやられていたなということをおもいだし、それはたぶんiTunesのライブラリをながしみているときにEarth, Wind & Fireのなまえが目にはいったのとどうじにおもいだしたのだろうが、それでいまはこのアルバムをもっていないので、Amazon Musicでながした。このアルバムは父親がむかしCDをもっていて、こちらは高校生になったくらいで父親がわずかばかりもっていたフュージョンやジャズのCDをいくらかもらってすこしだけききはじめたのだけれど、そのなかの一枚としてあったもので、だからはじめてふれたフュージョン方面の音楽のひとつで、そこそこきいたはず。一曲目のギターソロとかコピーしようとしたのだけれど、とうぜん能力がそんなにないからまず音をとることすらできなかったはず。フュージョン方面に進出したのは音楽じたいというよりギターにたいする関心からで、ロックギターばかりでなくほかのジャンルのギタリストもきいてみたいという感心なこころがけで手をだしたのだ。で、Lee RitenourとLarry Carltonというフュージョン方面のギタリストでもっとも高名なふたりの作品をいくつかきき、けっこうたのしみ、Ritenourはとうじ発売したばかりだったはずの『Overtime』というスタジオライブ盤を地元のCD屋でかいもとめ、これもけっこうきいたというかいままでフュージョンの作品でいちばんきいたのはもしかしたらこれではないかとおもうし、フュージョンについての知見はけっきょくRitenourとCarltonの二者の範囲をおおきくこえることはその後現在までなく、大学にはいったあとにはアコースティックジャズのほうがすきになってしまったのでそちらにながれた。『Gentle Thoughts』はあらためてながしてみてもまあわるくはない。"Captin Caribe"のメロディなんかには多少のダサさをかんじないでもないが。『Overtime』はけっこうよいアルバムだし、演奏としても曲としてもよいトラックがあるが、あのなかにはいっている"Papa Was A Rollin' Stone"なんかけっこうすきだ。あそこでうたっている、なんといったか、Gradyなんとかいうひとだったか、ボーカルの男性はなかなかよいとおもうのだけれど、あれいがいになんの活動も音源もしらない。あとObed Calvaireというわりとさいきんの、若手といってよいのかもう中堅なのか、そういうジャズドラマーがいてKurt Ronsenwinkelなんかとどこかで顔をあわせていたり、現代ジャズの方面でいろいろ参加しているひとがいるのだけれど、このひとがたしかこの『Overtime』の"Night Rhythms"とかに参加していて、たぶんキャリアのけっこう最初のほうの仕事ではないかとおもうのだけれど、"Night Rhythms"でややあぶなげのあるソロをやっていたはず。あぶなげがあるというか、細部がつっこむかなにかしてちょっとあらくずれたみたいなかんじだったとおもうのだが、映像でみるとおおっとあぶねえ、みたいなかんじでたのしそうにやっていて周囲もにこやかにそれをうけていてほがらかな雰囲気だったはず。
- とおもっていたのだが、のちほど検索してたしかめると、このドラマーはObed Calvaireではなく、Oscar Seatonだった。いったいどこで混同したのか? Oしかあっていないではないか。このひとはWikipediaをみればLionel RichieとかDianne ReevesとかBrian Culbertsonとかとやってきたらしいので、やはりどちらかといえばフュージョンとかの方面だろう。Ramsey Lewisともながくやってきたとかいてある。なかにTerence Blanchardのなまえがあるのがひとつだけ毛色がちょっとちがうきがするが。
- 音読後、ベッドへ。(……)さんのブログを一日分。今年の一月一七日。John Sullivanという人物が逮捕され、それがBLM運動の幹部だかリーダーだったという偽情報がネット上にでまわったという事件をうけてのはなしが以下。
話が大脱線した。ここで言いたいのはつまり陰謀論にハマらないためには去勢の経験が大切なんではないかということだ。千葉雅也は中学生か高校生のころ、いまほどまだ一般的ではなかったインターネットに毎晩接続して匿名のチャットをしていたらしいのだが、齧った程度の現代思想の知識をそのチャット上でひけらかしていたところ、チャット相手であった専門の大学教授に鼻っ柱をバキバキに折られたとずっと以前Twitterでつぶやいていたことがあったが、そういう去勢の経験、もっとカジュアルにいえば面子を潰されたという経験が、(情報そのものではなく)情報に触れる自分自身の知性を常に疑うという構えを一種の症候として作り出すのではないかと思ったのだ。つまり、陰謀論にハマらないためには(ワクチンとしての)黒歴史が必要だということだ。黒歴史の持ち主はじぶんがまたやらかしてしまうのではないかという不安に常につきまとわれている。それは別の言い方をすれば、自分自身の感じ方、考え方、認知に対する不信感のようなものだ。そういう不信感を適度に持ち合わせている主体は、よくもわるくも慎重になるし、その慎重さが「答え」に飛びつく安易さを牽制してくれる。
- あと「温暖化で2050年には森林がCO2放出源に、研究」(https://www.afpbb.com/articles/-/3326472(https://www.afpbb.com/articles/-/3326472))というニュースも貼られており、これはあとでいちおう原記事をよんでおこうというわけでメモ。本文中に趣旨は引用されていて、気温がたかくなると植物が光合成によって酸素を大気中に排出するはたらきがよわくなって呼吸によって二酸化炭素を排出するうごきのほうがそれにまさってしまう、みたいなはなしなのだけれど、ということは現在でも、熱帯や、環境によっては、局地的に、酸素よりも二酸化炭素を放出するわりあいのほうがたかい植物というのがすでにあるのだろうか?
- (……)さんのブログを一記事よむとおきあがり、ここまで今日のことを記述するとぴったり三時。
- うえの記事をのぞくと、趣旨もなにも、(……)さんが引用していた文章で内容はすべてだった。
- このあとなにをしたのだったか。たぶん書見か? この日は『ギリシア悲劇Ⅱ ソポクレス』(ちくま文庫、一九八六年)中、「エレクトラ」をすすめた。286まで。234にはきのうにつづき、また「程らい」がでてきている。「どうか不幸に不幸を重ねるようなことはなさらないでね」と、エレクトラが父アガメムノンを殺されて不遇の身におとしめられていることをいつまでもなげいているのをいさめるコロス(この作では、土地の若い女たち)にたいして、「だって、不幸には程らいも何もないでしょう」とエレクトラがこたえているのだが、なんかちょっとよい。それにつづく台詞のなかで、「ねえ、亡くなった人に知らぬ顔をしていてどうしていいの」、「かりにわたしが何か仕合せな目にあうとしても、/親にそむき、声をしぼる悲泣の歎きをやめてまで、/その仕合せに安住したいとは思わない」(235)とエレクトラはいっているが、このあたり、死者となった身内にたいしてふさわしくふるまおうというのは、アンティゴネの態度と多少つうずるようでもある。236は夫アガメムノンを殺してその下手人アイギストスとよろしくやっている母親クリュタイメストラにたいする厭悪が表明されるページだが、「父の下手人が父の臥床 [ふしど] で情けない母と――こんな男と共寝をする女を母と呼ばなければならないのなら――一緒に寝 [やす] んでいるのを見ているわたしの日々がどんなかわかってくださるかしら。祟りの神 [エリニュス] もはばからず穢れた男と一緒になって平気でいられるほど成り下った母」という台詞には、『ハムレット』をおもいだした。ハムレットもやはり、父王を殺した叔父(なんというなまえかわすれてしまったが。クローディアス?)と、父の死後いくらも経たないうちに再婚した母親(こちらもなまえをわすれたが。ガートルードだったか?)を、淫乱、とかあばずれ、とか売女、みたいなつよいことばでののしっていたはず(面と向かっては言っていなかったかもしれないが)。「エレクトラ」のこの箇所では、直接そういう性的ふしだらさみたいなものを指すことばはつかわれていないが、「臥床」とか「共寝」とか「寝んでいる」とかいっているので性関係もしくは肉体関係をとりあげているのはあきらかだし、そこに母を不道徳な淫乱女と糾弾する意がふくまれているとみてもわるくはないだろう。240では「お腹がくちくなる」ということばがでてくるが、こんないいかたひさしぶりにきいたわ。いまはもうあまりつかわない、古いことばではないか。こちらのまわりでは祖母がよくこれをつかっていた。243のおわりから244には、クリュタイメストラにたのまれてアガメムノンの墓に供えものをしにいくという妹クリュソテミスにたいして、「あなたがお父様の仇である女のために、お父様にお供物を捧げたり、お神酒をあげたりするのは許されないことだし、神様にも申訳ないことなのだから」というエレクトラの台詞があって、死者にたいしてどうふるまうかというのが、神にたいする敬虔さにも直結するというのは、やはりアンティゴネの言動とおなじである。それはアンティゴネにかぎったことではないだろうし、また死者との関係にかぎったことでもなく、古代ギリシア人はおそらく生のさまざまな面でみずからの行為のありかたと神への態度をむすびつけていたのだろうが、死者にかんすることではとりわけそれが顕著にあらわれるのではないか。まあそれも古代ギリシアにかぎったことではなく、それ以後のキリスト教にせよなんにせよ、宗教っておおかたそういうものだろうけれど。ただ、キリスト教などにおける神への敬虔さと、ギリシアにおける神への敬虔さとでは、この本の劇をよむかぎりではやはりなんとなく感触がちがっているようなきがする。どうちがうのかよくわからんのだけれど。
- いま五時まえ。熊野純彦『レヴィナス――移ろいゆくものへの視線』(岩波現代文庫、二〇一七年)のかきぬきをしているさいちゅうに『Overtime』をさきほど書見のBGMでながしていたつづきでそのままヘッドフォンできいていて、アルバムがおわるとそのしたの『Stolen Moments』に自動的に移行し、冒頭の"Uptown"がはじまって、このアルバムはリトナーが純ジャズをやっている一作で、とはいえ録音のかんじとかその他のはしばしにやはりフュージョン方面のひとの作だなという漠然とした印象をえないでもないのだが、それはおいて冒頭曲のテーマでベースがすばやいランニングをはじめた瞬間に、これすごいな、かなりよいベースなんじゃないだろうかとおもった。むかしもそこそこきいていて、わるくなくおもっていたのだが、おもっていたよりよいのではないかと。それでこのベースはだれだったかと検索したところ、John Pattitucciだったので、ああそうかPattitucciか、それならこれできても不思議ではないわと納得した。
- 夕食には豚汁をこしらえた。アイロンかけもおこなう。そのあいだテレビはニュースをうつしていて、視聴者からよせられたなやみ相談にこたえるコーナーがあり、武井壮と、鈴木なんとかいう八九歳の、シスターで大学教授かなにかやっていたひとと、釈徹宗が回答していた。職場でにおいに過敏なひとがいて化粧とかハンドクリームのにおいが鼻について嫌だと横柄に言ってくるのだけれど、じぶんでは煙草を吸ったりもしていて、注意もいくらか度がすぎていて納得いかない、みたいなはなしだったのだが、あとのふたりがやはり宗教者らしくこころのもちようをかえてあまり気にせず、みたいなアドバイスだったのにたいし、武井壮は、まずそのひとがほんとうににおいに敏感なひとなのか、それともそれを口実にあなたに嫌がらせをしているのかをしらべたい、なので、そのひとのちかくにいてうまくやっているひとにじぶんとおなじハンドクリームをプレゼントしてつかってもらうのはどうですか、それでもしそのひとが、仲の良いあいてにもそれはちょっとやめてほしいと言っているようだったらほんとうだし、逆に気にせずふつうにしているようだったらあなただけを嫌っていることになる、もしそうだったら、あの方もおなじクリームをつかっていますけど、それは大丈夫なんですかね? みたいなことを言ってみればいいんじゃないですか、と助言していて、わりと具体的で戦略的な指南だなとおもった。ニュースはつづけて、いま日記アプリが人気だみたいな話題を展開し、ふつうのひとというか、とくに文章の仕事をしていたりするわけでないいわば素人がかいた日記を書籍化して出版している店もある、とものべられていたが、これ俺やんとおもった。この店にもっていけば金かせげるやん、と。だがそういう金策をしないというのはおとといくらいにかいたとおりだ。アプリはふつうに短文で日記を書き、くわえておなじアプリを利用しているひとの日記もよんで多少の反応をおくることもできるというもので、まあべつにTwitterなんかとかわらない印象だし、いま流行っているもなにも、こういったものがうまれるまえからインターネット上ではむかしからずっと似たようなことがおこなわれてきたではないか、とおもう。黎明期の個人サイトしかり、ブログしかり、mixiしかり。
- あとおぼえているのは日記をかなりかいたことと、深夜にBrandon Ambrosino, "Do humans have a ‘religion instinct’?"(2019/5/30)(https://www.bbc.com/future/article/20190529-do-humans-have-a-religion-instinct(https://www.bbc.com/future/article/20190529-do-humans-have-a-religion-instinct))を途中までよんだことくらい。この前日の日記は、「アンティゴネ」についてあんなにながながとかくつもりはなくて、気になったことをちょっとだけふれておくつもりだったのだけれど、それをしるしておくのにその背景というか前段みたいなものも多少かいておこうとおもったところ、なぜかああいうながれがうまれてしまい、やたらながくなってしまった。それで、なんか今日はけっこうかいたな、という感覚がのこった。BBC Futureの記事は、先日よんだおなじ筆者の記事のつづきだが、これもなかなかおもしろい。今日よんだ範囲までで気になったぶぶんをひいておくが、最初の箇所でいわれていることをみるに、宗教方面のひとびととか瞑想実践者がよくいうことは、脳科学的にみてもいちおう多少の根拠があるようだ。つまり、主客合一とか、じぶんがきえたようなかんじとか、そこまでいかなくとも主体としての重さがうすくなるとか、世界と一体化したような感覚とか、そういったことだが。ある種の儀礼的行動、瞑想とか祈りとかをしているあいだの脳をしらべてみると、the parietal lobe、すなわち頭頂葉の活動が低下していることがみてとられ、この頭頂葉というのはa sense of selfすなわち自己感をうみだす機能をもっているらしく、だから瞑想中は自己感覚が希薄になり、自分と他者(神をふくむ)や世界とのあいだの境界がきえる、というはなしをしている。もうひとつ、the frontal lobeだから前頭葉の活動もどうも低下するらしいのだが、そうすると理論的には、主体感がうすくなって、willful activityがなくなるといわれている。すなわちじぶんがじぶんの意志で能動的なはたらきかけをしているという感覚がなくなるわけだろう。世界との一体化はおくとしても、こちらのほうはたしかにじぶんじしんの瞑想中のかんじや、瞑想を習慣化したあとの心身の変化をかんがえるとうなずけるところではある。そもそもこちらは瞑想というのは能動性をなるべく完全に廃棄して、端的になにもしないという状態を実現する訓練だとおもっているし。
Newberg [a neuroscientist Andrew Newberg] and his team take brain scans of people participating in religious experiences, such as prayer or meditation. Though he says there isn’t just one part of the brain that facilitates these experiences – “If there’s a spiritual part, it’s the whole brain” – he concentrates on two of them.
The first, the parietal lobe, located in the upper back part of the cortex, is the area that processes sensory information, helps us create a sense of self, and helps to establish spatial relationships between that self and the rest of the world, says Newberg. Interestingly, he’s observed a deactivation of the parietal lobe during certain ritual activities.
“When you begin to do some kind of practice like ritual, over time that area of brain appears to shut down,” he said. “As it starts to quiet down, since it normally helps to create sense of self, that sense of self starts blur, and the boundaries between self and other – another person, another group, God, the universe, whatever it is you feel connected to – the boundary between those begins to dissipate and you feel one with it.”
The other part of the brain heavily involved in religious experience is the frontal lobe, which normally help us to focus our attention and concentrate on things, says Newberg. “When that area shuts down, it could theoretically be experienced as a kind of loss of willful activity – that we’re no longer making something happen but it’s happening to us.”
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“The explanation for religious beliefs and behaviours is to be found in the way all human minds work,” writes Pascal Boyer in his book Religion Explained. And he really means all of them, he says, because what matters to this discussion “are properties of minds that are found in all members of our species with normal brains”.
Let’s take a look at some of these properties, beginning with one known as Hypersensitive Agency Detection Device (HADD).
Say you’re out in the savannah and you hear a bush rustle. What do you think? “Oh, it’s just the wind. I’m perfectly fine to stay right where I am.” Or, “It’s a predator, time to run!”
Well, from an evolutionary perspective, the second option makes the most sense. If you take the precaution of fleeing and the rustling ends up being nothing more than the wind, then you haven’t really lost anything. But if you decide to ignore the sound and a predator really is about to pounce, then you’re going to get eaten.
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The cognitive scientist Justin Barrett has spent his career studying the cognitive architecture that seems to lend itself quite naturally to religious belief. One of our cognitive capacities Barrett is interested in is HADD. It’s this property, he writes in The Believing Primate, that causes us to attribute agency to the objects and noises we encounter. It’s the reason we’ve all held our breath upon hearing the floor creak in the next room, which we assumed was empty.
Barrett says this detection device causes us to attribute agency to events with no clear physical cause (my headache was gone after I prayed) and puzzling patterns that defy an easy explanation (someone must’ve constructed that crop circle). This is particularly the case when urgency is involved. “A hungry subsistence hunter will find HADD registering more positives than a well-sated recreational hunter,” he writes.
HADD is what Barrett calls a non-reflective belief, which are always operating in our brains even without our awareness of them. Reflective beliefs, on the other hand, are ones we actively think about. Non-reflective beliefs come from various mental tools, which he terms “intuitive inference systems”. In addition to agency detection, these mental tools include naive biology, naive physics, and intuitive morality. Naive physics, for example, is the reason children intuitively know that solid objects can’t pass through other solid objects, and that objects fall if they’re not held up. As for intuitive morality, recent research suggests that three-month old “infants’ evaluations of others’ prosocial and antisocial behaviours are consistent with adults’ moral judgments”.
Barrett claims that non-reflective beliefs are crucial in forming reflective beliefs. “The more non-reflective beliefs that converge the more likely a belief becomes reflectively held.” If we want to evaluate humans’ reflective beliefs about God, then we need to start with figuring out whether and how those beliefs are anchored in non-reflective beliefs.