2021/5/30, Sun.

 いま、ひとつの論理的なすじみちの可能性だけを考えてみる。なにかがある [﹅2] 。そのなにかがある [﹅2] と考えられている以上は、それは同時にあらぬ [﹅3] ものであることはできない。ほかならないそのものがある [﹅2] 。ほかでもない [﹅2] そのものがある [﹅2] と語るかぎり、ほかのものについてはあらぬ [﹅3] と語らなければならない。そのものだけがあり、他のものはない。かくて、ある [﹅2] もののみが存在し、あらぬ [﹅3] ものは存在しない。そのような或るものを在るものと考え、それだけが在るものと考えるとき、その在るものはどのようなものと考えられなければならないだろうか。もっとも重要なものとされてきた断片B八は、つぎのように語っている。「ある [﹅2] ものは生まれず、滅びない」。それは「完全で揺るがず、またおわりのないものである」。「あった [﹅3] こともなく、あるであろう [﹅6] こともなく、いまある [﹅2] のである」。――「水」であれ「アペイロン」であれ、「空気」であれ「火」であれ、あるいは「数」であっても、およそそれがはじまりであり、いっさいの(end34)もとになる、そのものであるならば、それ自体としては生まれることもなく滅びることもないはずであろう。それ自体は生成せず、消滅もしないなにかがある [﹅2] のなら、それだけがすぐれてあり [﹅2] 、生成消滅する他のものはむしろない [﹅2] というべきではないか。パルメニデスの論理を整理しているシンプリキオスの一節を、ディールス/クランツから引いておく(B八)。

それは、ある [﹅2] ものから生じたのではない。べつのある [﹅2] ものが先に存在することはなかったからである。また、あらぬ [﹅3] ものから生じたのでもない。あらぬ [﹅3] ものは、あらぬ [﹅3] からである。さらに、いったいどうして、ある時に生じたのであって、それ以前にでもなければ、それ以後にでもないというのだろうか。あるいはまた、生成したものの生成については一般にそうであるように、この意味ではある [﹅2] けれども、あの意味ではあらぬ [﹅3] といったものから、生じたわけでもない。端的な意味である [﹅2] ものに先だって、この意味ではある [﹅2] が、あの意味ではあらぬ [﹅3] といったものが存在することはありえず、そうしたものはそれよりもあとから生じたものであるからである。

 なにかそれ [﹅2] は、生まれることも滅びることもありえない。変わり移ろうことのない、ひとつの、おなじものでなければならない。それ [﹅2] はある [﹅2] ものであり、あらぬ [﹅3] ものではないからである。(end35)おなじように、さらに、およそ生成は一般にありえない。生成とは、あらぬ [﹅3] ものがある [﹅2] ものになり(誕生)、ある [﹅2] ものがあらぬ [﹅3] ものとなる(消滅)ことであるからだ。

死すべき者たちが真実であると信じて、さだめたことのすべては、
かくして名目にすぎない。
生まれるということも、滅びるということも、あり [﹅2] かつあらぬ [﹅3] ということも。
場所を転じるということも、輝く色が褪せるということも。  (パルメニデス、断片B八)

 (熊野純彦『西洋哲学史 古代から中世へ』(岩波書店、二〇〇六年)、34~36)



  • 一一時直前に離床。晴れており、暑い。窓をあけざるをえない。水場に行ってきて、うがいや洗顔などすませてから瞑想。(……)ちゃんの家のこどもがにぎやかに声をたててあそんでおり、たぶん畑あたりにいた父親にはなしかけていたようで、そこでなにやってるんですかー? とかいっていた。瞑想は今日はみじかめ。一五分もいかなかったとおもう。
  • 上階にいき、洗面所で髪をてきとうにとかしたのち、ハムエッグをやいて米にのせて食事。はいってきた母親がセロリの葉かなにかをいれたスープもつくってくれたので、それもいただく。新聞には納富信留のインタビュー的な記事があったので、それをよんだ。対話の重要性というものが頻々ととなえられる混迷の現代だが、むしろ対話嫌いがめだってみえるようにもおもえる、それというのも、対話に必要な準備とかルールとか心得とかがわからないうちにとにかく対話をしろしろとばかりいわれるので、かえって忌避してしまうのではないか、というようなことを冒頭いっており、対話が対話として成立するには条件があるとして、三つくらいの要素をのべていた。まずひとつには、対話のあいては特定の少数人でなければならないということで、なぜならば対話においてはあいてがひとりの人格をもった「私」としてあつかわれなければならないからであり、したがってSNSを場とした匿名的な不特定多数者とのコミュニケーションは対話とはなりえない。もうひとつには、対話への参加者はおのおのが対等でなければならない。現実にはわれわれはだいたいいつもなんらかの役割をにないながら他者とコミュニケートしており、そこでは親と子であったり教師と生徒であったり、上司と部下であったりと、関係に上下をわける権威性がはらまれることはおおいのだけれど、対話においてはそうした役割観念をこえた個としての人間があらわれなければならない、と。もうひとつはなんだったかわすれた。納富信留はやはり古代ギリシア哲学をやっている人間らしいというか、二次大戦の惨禍もあり、戦後には共産主義の失敗もあり、理想というものにたいして白けたムードをもつのがデフォルトみたいになっている時代だけれど、どうしたって対話をつうじて理想をかたっていくしかないとおもう、現実の社会で善い活動をしているひとはたくさんいるので、哲学の立場からそういうひとびとのおこないをすくいあげていってつなげることができれば、みたいなことをいっていた気がするが、最後のあたりは記憶があいまいなので多少ちがっているかもしれない。いわゆるポストモダンの趨勢によって真理や普遍性にたいする懐疑がひろがり、真理といったって結局は権利じゃないか、という風潮がしばらくたかまっていたわけだけれど、さいきんではまた、それを通過して真理をあらためてかんがえていかなければならないのではないか、といううごきがうまれているともあって、そりゃそうだろうとおもう。それは古代ギリシアでも状況はおなじだった、ともいわれていた。ようするにいわゆるソフィスト的なひとびとが人間中心的な相対主義をとなえたのちにソクラテスプラトンがそれをこえた真理を探究しはじめた、ということだろう。けっきょくは、いちおう思想的に最先端といわれる(構造主義以来の)ポストモダンの知見をふまえたうえで、古典的なところにいかにもういちど、そしてくりかえしたちもどるか、というのがひとつの課題になるはず。それはなにもべつに、ひとはいかに生きるかとかそういう問いを大上段にかまえて論じろというのではなく(べつにそういう問いを論じたっていっこうにかまわないとおもうが)、啓蒙の失敗とその帰結および二〇世紀の惨禍をまなんで反動にとりこまれることなしに、いかにつぎにすすんでいくのか、ということであるはず。具体的にはちっともわからんが。あと、たちもどるといったときに、それが古代ギリシアなのか?(古代ギリシアであるべきなのか?) ということもあるし。
  • ひとまずその記事だけよんでおき、食事を終了。皿をながしにもっていくと、母親が、外でたべるから父親に膳をはこんでくれというので盆をもち、玄関からサンダル履きでそとへ。陽が照っており、暑い。夏にちかい空気の感触。まだじりじりとつよく収束するというほどではないが、熱気によって肌がつつまれとざされるかんじはある。家のよこをくだって南側にまわり、木製テーブルのうえをはらっていた父親に、飯が来たぞとつげてちかづいていき、盆を置く。母親もあとからじぶんのぶんをもってやってきた。梅の木はさかりで、枝に葉とおなじすずやかな青緑色の実をたくさんつけており、枝はその重みでか、ひくいところまでながれるようにおりのびてきている。あたりをちょっと見分しながらもどった。白い蝶が闊達にとびまわっており、風はたえずながれて草木からさわやかなみどりのひびきをさそいだしている。
  • 室内にもどると皿をあらい、風呂もあらう。緑茶をつくって帰室。コンピューターおよびNotionを用意すると、今日はまず一年前の日記をよみかえした。とくだんのことはない。それから、Evernoteに「あとで読む」ノートをつくってためてあったURLをNotionにもうつしておくかとおもい、一気にコピペしようとすると容量がおおきすぎるとかでキャンセルされるので、いくつかの範囲にわけてコピーしていき、その最中にみかけた千葉雅也×岸政彦「書くってどういうこと?――学問と文学の間で: 第1回 小説と論文では、どう違う?」(2020/4/17)(https://kangaeruhito.jp/interview/13989(https://kangaeruhito.jp/interview/13989))をよんでみることに。千葉雅也が『デッドライン』について、ベケットを意識したといっているが、(……)さんがこの作をよんだときにもベケットっぽいところがあって、みたいなことをかいていたようなきがする。

西 [成彦] 我々三人は、立命館大学の先端総合学術研究科で教員をしています。ここは火山が海底から噴き出すように2003年に生まれた大学院で、分野ごとのディシプリンに縛られることなく相互に行き来しながら、21世紀にふさわしい知の体系を作ることを目指している。私はその初期からのメンバーで、2012年に千葉さん、17年には岸さんが着任し、同僚となりました。先端研には文学を専門とする学生も一定数いて、私は比較文学者の立場から指導にあたってきましたが、哲学や社会学を究めたお二人がいらしたことで文章表現の上でも新たな環境ができつつあります。

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千葉 そもそも僕は、文章を書くようになったきっかけが高校時代に愛読していた稲垣足穂にあるんですね。足穂はエッセイみたいなものだったり、小説みたいなものだったり、あるいは詩みたいなものだったり、その時々の都合で様々な形式の原稿を書き散らした人で、僕はそうした自由な書き方に憧れてきた。大学に入ると実は足穂のような文章は本当には知的だと見なされていないことが分かり、きちんとした論文を書くという通過儀礼を経ましたが、30歳前後から自分自身も依頼を受けて文章を書くようになって、次第に物語的な書き方にも挑戦してみたくなってきたんです。

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岸 僕が小説を書くようになったのは、これはもうそこらじゅうで喋ってることですが、ある編集者に熱心に依頼されたからなんです。スティーヴン・キングカート・ヴォネガットは好きだったけど文学なんて全然まったく読んでいない、興味すらなかった自分に、そのひとは「小説を書いてほしい」と言ってきて。三年がかりで口説かれてさすがに根負けし、そこまで言うなら書いてみましょうか、と自分なりのホラー・ファンタジーSFの構想を話したら、まさかの反応ゼロだった。「向いてないです」と一蹴されて(笑)。
 編集さんからは「むしろ自分自身の話を書いてください」と言われ、人生で一番つらかった日雇いで建築労働者をしていた時期のことを思い出して3~4日で書いたのが、「ビニール傘」という短篇です。この作品がたまたま芥川賞の候補になり、二作目の「背中の月」とあわせた単行本が今度は三島賞の候補にもなったんですね。まあ、落ちましたけど。ちなみにそのあと書いた「図書室」という小説も三島賞候補になって、これも落ちてます。

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 でも面白いことに、さっき話に出した小説執筆を勧めてきた編集さんは、僕が2013年に最初の本『同化と他者化』を出した直後にはもうそのオファーをしてきてるんですよね。沖縄の本土就職者について調査して書いた、非常に地味な社会学の学術的な本なのに。あとからそのことについて、どうしてあんな文学から一番遠い本を読んで小説が書けると思ったんやと聞いたら、「文章にどこか過剰なものがあった」と言うんです。自分としてはオーソドックスな社会学の本を書いていたつもりなんだけど、そこに書き手の自我が滲み出ていて、こいつは絶対小説を書けるに違いない、と確信したと。

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千葉 影響を受けた作品はあるにはあって、ちょっと意外に思われるかもしれないですけど、草稿段階ではかなりサミュエル・ベケットを意識していたんです。ベケットが晩年に書いた小説、『見ちがい言いちがい』や『いざ最悪の方へ』を見ながら、短いパッセージで同じようなことがずっと続くのは面白いなと。いざ自分が小説を書くとなったとき、意識的に書こうと頑張っても多分難しいので、非人称的に「書けちゃう状態」を作り出せないかなと思っていて、ベケットのどこか機械的な感じを参考にしました。機械的あるいは自動生成的な感じというか。

  • その後、書見。きのうギリシア悲劇をよみおえてから、いつものことでつぎの本なんにしようかなあとおもっていたのだけれど、候補としてはなんとなくレベッカ・ソルニットの『迷うことについて』でもよむか、それかなぜかわからないがモーリス・パンゲの『自死の日本史』もあがったり、もしくはもう長年つんである東洋文庫の、なんとかいうひとのアジア旅行記でもよむかとか、それか詩か、あるいはパレスチナにかんする新書か、BLACK LIVES MATTER特集の『現代思想』か、とかそんなかんじだったのだが、なぜか斎藤兆史『英語達人塾』という中公新書の本をよもうとかたまった。これは兄の部屋にあったのを先般もってきてあって、英語とか語学の学習法としてはこちらはもうとにかく音読すりゃだいたいいいだろとおもっているのだけれど、それでもなにか参考になることがあるかなとおもってひらくことに。斎藤兆史というひとは英語学習にかんする著作のほか、ジョン・バンヴィルとかジュリアン・バーンズとかV・S・ナイポールとかを訳しているようで、まえがきをよむに、この本は苦労をしてでもマジで達人になりたいひとを対象にしたもので、初学者がたのしく英語をまなべるというふうにはそもそもできていない、ということわりがあり、口調もわりと、大仰とまではいかないとしてもかたくるしいようで、また文章のはしばしに教育者的な権威性がかんじられないでもないが、いっていることはだいたいどれも正論だし、なにより、まず母語を大切にできない人間が外国語をただしく習得できるはずがない、とじぶんでもいっているとおり、読点のつけかた、リズム、語の(つまり意味の提示の)順序、一部分のながさ、など、日本語の文章としてきちんと書かれていることがあきらかで、だからその点では信用をおけるとおもう。めちゃくちゃすごい文章というわけではむろんないが(内容の性質上、表現性がつよく要求されるものではないので)、新書だからといって手を抜かず、ていねいに書かれていることはまちがいないと確信できるし、きちんとした仕事をしている学者だと判断される。
  • 過去の日本の「英語達人」にまなんで、また斎藤兆史自身の学習・教育経験も加味して独習法を提案するという本で、ときおり達人たちのエピソードが紹介されるのだけれど、やはりそれがおもしろく、このひとは『英語達人列伝』という本もおなじ中公新書でだしているようなので、むしろそちらをよみたい。長崎の通詞のはなしなどもちょっとだけだがでてくるし、あと、仙台藩士の家出身の斎藤秀三郎という英語学者がいるらしく、このひとはじぶんは海外にいったことはいちどもなかったくせに、「イギリスの劇団が来日し、下手なシェイクスピア劇を演じようものなら、「てめえたちの英語はなっちゃいねえ」と英語で一喝したという」(41)からわらう。英語版の関口存男といったところだろうか。あと、西脇順三郎も辞書がすきでよく通読していたらしく、中学校時点で井上十吉というひとがつくった英和辞典をよみまくっており、どこの内容をきいてもしらないところがなかったから、教師から、おまえに教えることはもうなにもないから、なんでも好きなことをやっていいと言われていたという。そのまえ(68)には、山縣宏光という、東大の教養学部にいた辞書マニアみたいな先生も紹介されており、「たしかこの先生は、世界最大の英語辞書『オックスフォード英語辞典』の本体部全12巻も4、5回通読していたはずだ」とのこと。そんなに年を取らないうちに亡くなってしまったらしいが、もし生きていたら歴史にのこるすばらしい辞書をつくっただろう、とのこと。
  • 素読と暗唱のはなしがでてきて、幣原喜重郎が留学時代に暗唱をかせられていたとか、あと、岡倉天心など明治の連中はこどものときに漢学で素読をやらされていて、みたいな、まあよくあるはなしがかたられるのだけれど、こちらも音読をよくやっているわけだけれど、じっさい素読・暗唱はたぶん語学的・言語能力的には効果はだいぶあるとおもう。それで、いまこちらは英語の音読用に「英語」というノートと、あと書き抜きした文をよみかえすために「記憶」というノートとの二種をもうけておりおりよんでいるのだけれど、このうち「記憶」にかんしては方針をかえて、もっと文をすくなくしぼり、すばらしい文章として惚れこんだものにかぎって、マジで暗唱できるようにする、というやりかたにしたほうがいいかなあとおもった。というか、もともとはそういう企図だったのだけれど、やっているうちに知識を身につけるという目的がわりこんできて、いちおうなんとなくあたまにいれておきたいことをなんでもほうりこむノートと化してしまったのだ。それはそれで益があるのだが、もともとはすばらしい言語を血肉化したいという欲求からはじめたものだったわけだし、やはりそちらにフォーカスしたほうがいいかなあとあらためておもった。正式にどうするかまだわからんが、とりあえず暗唱用の記事もべつにつくってみようかなと多少おもっている。暗唱できるようになったからといってどうということもないとおもうのだけれど。それは、やっぱりつねにもっておいていつでもとりだしたいみたいな、たんなる偏愛の表現の一種だろう。好きな音楽をいつでもききたいというのと、たぶんだいたいおなじことだろう。
  • この新書はいったん79まで。その時点で四時まえくらいだったか? よんでいるあいだは臥位で例によってふくらはぎを膝で刺激したり、横向きになって背中や腰や肩をもんだりしていた。なんだかんだいって、指圧して筋肉をやわらかくするというのは単純に効果がある。一日やったくらいではすぐにもどってしまうが、これを習慣にすればたぶんからだがより楽な状態にたもたれるだろう。書見をきって、トイレにいき、もどるとここまできょうのことを記述して、いまは五時まえ。
  • そういえば午後になってから、にわかに雨が降ってきたのだった。起きたころにはよく晴れていて暑かったのに、いつのまにかくもって、雨がはじまった。それで母親は、予報があたった、といっていた。天気予報で午後は雨になるかもといわれていたらしい。もっとも雨はながくはつづかず、そのあと、夕方ごろにはまた多少あかるくなっていたはずだが。
  • 五時まえに上階へ。アイロンかけをおこなう。シャツやらエプロンやらハンカチやら。こちらがアイロンかけをしているあいだに母親は料理をしており、ナスを焼くかとか麻婆豆腐にするかとか、あるいはあわせて麻婆茄子にするかとかいっていたのだが、ナスはけっきょくそのまま炒めた。母親は、ナスは炒めるっていうよりも焼いて、焦げ目をつけて、と要求していたのだが、じぶんでやってもどちらかというと炒めるかんじになっており、あまり香ばしく焼いた、というふうではない。もうひとつ、タマネギと冷凍してあった豚肉を炒めて、そのあたりでこちらもアイロンをおえて台所にうつり、米を磨いだ。そしてサラダをこしらえるだけ。それも例によって、ダイコンやらニンジンやらをスライサーでおろして洗い桶で水にさらすだけの手軽なかたち。おえると六時まえくらいだったか? 部屋にもどり、ふたたび書見をした。たしかこのとき南方熊楠のエピソードをよんだはず。南方熊楠はこどものころから学習欲がなみはずれて旺盛だったらしく、八歳だか九歳のころからすでに、知人の家に本をよみにいき、そこでよんだ本の文を記憶して、かえってくると記憶をたよりに筆写した、とかかかれてあったのだけれど、さすがに無理だろとおもう。一字一句おなじというわけではさすがにないだろう。ふつうに借りて写したものもあったとおもうが、それでも、そういういとなみで一〇五巻くらいあるなんとかいう本もぜんぶ写してしまったとかで、書抜きはじっさい言語感覚をやしなうにせよ知識を身につけるにせよ多大な効果があるとこちらもじぶんの経験からして断言できる。それにしても南方熊楠はむろん手書きでそれをやったわけなのですごいが。ロンドンだかに留学していたときにも、膨大な量の抜書きをしており、それがノートとしてのこっているとかなんとか。南方にせよ関口存男にせよほかのひとたちにせよそうだが、偉人とよばれるむかしの連中のこういう極端さはいったいなんなのか。
  • 七時すぎで食事へ。あがっていったとき、ガザ地区の瓦礫のしたからこどもが救出されたというニュースがテレビでながれていたはず。食べ物を用意して席につき、食べながら新聞。米上院で一月六日の連邦議会議事堂襲撃事件にかんして独立調査委員会を設置するという法案が審議されていたらしいのだが、共和党がおうじず否決され、事実上廃案になったと。上院の定数は一〇〇で、民主党が五〇をなんとかとっており、たしか票決が同数のときは副大統領が一票くわえるとかでだからいちおう優勢なのだが、今回の法案への賛成は五四という。しかしそれだと可決されるはずなのでどういうことだったかといま検索すると、時事通信の記事(https://www.jiji.com/jc/article?k=2021052900227&g=int(https://www.jiji.com/jc/article?k=2021052900227&g=int))に「法案は下院を通過していたが、上院では採決に進むための討議打ち切り動議への賛成が54票にとどまり、可決に必要な60票に満たなかった」とあった。「共和党からは6人が賛成票を投じた」とも。共和党のひとびとの大半が反対したのはもちろんドナルド・トランプの意向にしたがったもので、ドナルド・トランプアメリカ合衆国の政治史上最高の偉大なるクソ馬鹿だということはあきらかだが、そのクソ馬鹿におもねらないかぎり国会議員が議会にのこれず政治家として生きていけないのがこの西暦二〇二一年の現実だ。ドナルド・トランプのことを知った一〇〇年後のひとびとが大爆笑することはまちがいない。そしてそのなかの、想像力をそなえたこころあるひとたちは、爆笑したあとに恐怖の念をいだくだろう。
  • ほか、二〇〇八年に発生した四川地震で倒壊し三〇〇人ほどのこどもたちが犠牲になった学校跡地が、「パンダ小路」という商業区域に変えられたというはなしも。地震のときには建物が崩れ、手抜き工事だったのではないかと当局に批判がむけられたらしく、共産党政府としては都合が悪い歴史なのだろう、それをかくしてわすれさせようという目論見らしく、区域には追悼や記録の碑はまったくない。いっぽうで、救出作業が大々的におこなわれた震源にちかい中心地では、記念館というか、建物がのこされて地震の痕をつたえる施設みたいなものがつくられたというが、それは例によって愛国プロパガンダのための道具である。つまり、共産党中央政府のすぐれた指導のもと、党員も救出隊員も住民も一丸となって英雄的に救出作業に従事した、ということがかたられているわけだ。またしてもヒロイズム、またしても愛国。死者を無視し、都合よく利用し、死者の死を搾取している。
  • 食後はふたたび書見して、南方熊楠のことをよんだのはこのときだったかもしれない。読了はこのときだったか深夜だったかわすれた。斎藤兆史『英語達人塾 極めるための独習法指南』(中公新書、二〇〇三年)をこの日よみはじめて、はやくもよみおえてしまったのだ。186ページのみじかい新書ではあったが、まったく読み飛ばさず、いそぐこともなく、書かれてあることをふつうにきちんとよんでいちおう全部触れてはいるので、われながらわりとおどろく。ただ、こちらはべつに「英語達人」になりたいわけではないし、ただ英語で本がよみたいのとじぶんなりに訳したいだけで、教材を用意してまじめに勉強・訓練しようという気はないので、べつにそんなにおもしろいはなしでもなかった。偉人連中の極端なエピソードがやはりおもしろポイントで、だから『英語達人列伝』のほうをむしろよみたい。
  • 九時まえから入浴。暑かった記憶がある。これくらい暑くなると湯のなかでじっと瞑想じみているのもなかなかむずかしい。でてくると九時半すぎだったか。日記を少々しるした。
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  • そのあとのことはわすれた。ピエール・ヴィダル=ナケ/石田靖夫訳『記憶の暗殺者たち』(人文書院、一九九五年)をよみはじめたくらい。