難問は、ソクラテスがさらに鋳なおすことで、一見して完全ないき止まりを示すものとなる。「人間は、じぶんが知っているものも、知らないものも、探究することができない。第一に、知っているものを探究することはありえない。知っているかぎり、探究する必要はないからである。また、知らないものを探究することもありえない。その場合には、なにを探究すべきかも知られていないからである」( [『メノン』] 八〇e)。よく知られている、「探究のアポリア」である。
なにかを探しているとき、ひとはなにかを知らないと同時に、べつのなにかを知っている。鋏を探しもとめるとき、ひとは、鋏がどこに [﹅3] あるのかは知らないが、鋏とはどのようなものであるかは知っており、鋏は部屋のどこかに [﹅4] あることは知っている。知っていることと知らないこととが、探究をなりたたせる。完全な不知は、探究そのものを不可能にするはずである。
たましいの輪廻を前提するいわゆる想起(アナムネーシス)説が語りだされるのは、この文脈にあってのことである。不死なるたましいは、すでに遍歴をかさねて、ありとあるものごとを(end84)見知っている。たましいは顕在的なかたちでは、なおなにも知っていない [﹅6] 。けれどもたましいは、潜在的にはすべてを知っている [﹅5] はずである。この、不知と知のはざまで、探究がなりたつことになる。
学ぶとは、したがって、想起することである。ソクラテスは、そこで、教育を受けていない(ただしギリシア語を解し、図形と大小の観念をもつ)召使いの少年に、ただ質問するだけで幾何学の定理を証明させてみせる。――なにごとかについて、知識が獲得されるとき、それはなにかとして [﹅6] 知られることになる。論理的に、或るものがそれとして [﹅3] 知られる、当のなにか [﹅3] は、或るものがそれ [﹅2] として知られるまえに、あらかじめ知られていたのでなければならない。知ることと想いだすことの両者は、そのかぎりで、たしかにおなじなりたちをしている。
(熊野純彦『西洋哲学史 古代から中世へ』(岩波書店、二〇〇六年)、84~85)
- 一一時ごろ覚醒。きょうは各所を揉むのではなく、ストレッチに転換し、臥位のまま腕をのばしたり、手首を曲げたり、足首を前後というか上下というかにそれぞれ曲げてちからを入れ、脚の筋をのばしたりした。一一時二〇分に起床。水場に行ってきて、顔をあらい、口をゆすぐとともにトイレで放尿し、もどると瞑想。きのうストレッチをしたので脚が楽。静止のかんじはきょうもよろしい。だいぶおちついている。瞑想のとりくみがあらたなフェイズにはいってきたような気がする。時間が充実して詰まるようになってきた。きのうのかんじからして、たぶんこれくらいで二〇分だなとおもったあたりで目をあけるとやはりそう。一一時二八分から四九分くらいまでだった。
- 上階へいき、母親にあいさつして、仏間の簞笥から出したジャージを履く。洗面所で髪をとかし、うがいを念入りに。食事はきのうのキムチ鍋をもちいたおじや。新聞からはドナルド・トランプがノースカロライナだったかどこかで退任後はじめて演説し、活動を再開したとの報。共和党員はあいかわらずトランプ支持がおおく、世論調査では六六パーセントが、ドナルド・トランプに忠誠を誓うことが重要だとおもう、という回答をしているらしい。「忠誠を誓う」などという封建的な文言ではなかった気もするが。トランプは演説で、今次の大統領選は不正だったとの言をくりかえしたという。また、急進左派がアメリカを破壊しようとしている、愛国者たちの力を結集して防がなければならない、とも言ったらしく、いつもどおりの言動だが、「アメリカを破壊」するというのは具体的にどういう意味なのか? TwitterもFacebookも凍結されているので(ブログも閉じたとか二、三日まえの新聞に載っていたきがするが)、手軽に民衆にうったえる発信力の面では苦しい、みたいな評価が記事中でなされていた。
- ロシアでは過激派や反体制派とみなされた人間を選挙に立候補できなくする法律が成立しただか成立すると。ようするに主にはナワリヌイ派のちからを削ぐためのものである。あと、ブルキナファソでイスラーム過激派が村を襲って一三九人を無差別に殺したというちいさな記事もでていたが、これはまだ中身をよく読んではいない。ロシアの記事もあまり仔細に読んでいない。
- 読んでいると、洗面所で身支度をしていた母親が、あのあと転んで、手を骨折したんだって、などと声を飛ばしてくるのだが、誰について言っているのかわからないし、「あのあと」というのもなんのことなのかわからない。日本人にかんして、古典の文章なども傍証とされながら、ひとびとのあいだの類同性がつよい社会なので主語や主要情報を明示しなくとも暗黙の了解ではなしがつうじる、といわれることが非常におおく、それはある程度そうなのだろうし、これもその一例なのかもしれないが、このときの母親の言動はより個人的なレベルのもののような気がする。つまり、どうしても、母親には他者がいないのだよな、というふうにかんじてしまう。他人もじぶんとおおかたおなじことをかんじたりかんがえたり承知したりしているということが、基本的な前提とされているようにみえる、と。家庭内だからそうなのであって、外だとまた違うのかもしれないが。誰というのは兄だとすぐにわかったのだが、「あのあと」というのは、きのう、兄が会社でソフトボールの試合に出たということを聞いたのだけれど、そのあと、ということだった。と言って、それがソフトボールの試合中に転んで折ったのか、試合を終えたのちにどこかで転んだのかは不明で、そこまで聞いてはいない。ふだん運動しないんだから、大丈夫かなとおもったんだよね、片手折っちゃあ不便だよね、パソコンやったりするのもたいへんそうだって、とのこと。
- テーブル上を拭き、食器を流しにはこんであらって、そのあと風呂洗い。浴室にはいるまえに洗面所で屈伸。このころには父親が室内にはいってきていた。風呂をこすって洗う。窓の外はいくらかの明るみが敷かれているが、あからさまな晴れというかんじでもない。済ませて出るとポットに水を足しておき、沸騰させているあいだに自室にもどってコンピューターを準備。LINEをのぞくと(……)からメッセージが来ていたので返信。そうしてNotionも支度して上がり、茶を用意。このときテレビは、どこかのメロン栽培農家を映していた。さきほどのときはNHKの連続テレビ小説で、このドラマは気仙沼が舞台らしい。なんか少女が牡蠣の養殖をこころざして自宅の一室を研究室みたいに改造して、昼飯に呼ばれてもあとで食べるとこたえて熱心にとりくんでいる、みたいな場面だった。茶葉がひらくのを待つあいだは屈伸をしたり、ソファを片手でつかみながら前後に開脚して筋をのばしたり。そうして茶をもって帰室すると、きのうのことをさっそくつづって投稿、そのままきょうのこともここまでしるせば二時過ぎである。勤勉でよろしい。勤勉さはいついかなるときでもつねにすばらしい。やはり人間、じぶんのおもいさだめたことにたいしては勤勉でなければ。怠惰は怠惰でそれもすばらしいが。
- 二時にいたったので洗濯物をとりこみにいった。父親はソファで寝ており、スマートフォンからラジオがながれだしている。ベランダにつづく戸をあけると外はさきほど同様、陽の色が多少あって、ながれる空気はやわらかく、涼しげなにおいをはらんだような質感。吊るされてあったものを室内に入れ、父親が寝ているソファの背でタオルほかをたたむあいだ、ながれているラジオをちょっと聞いたが、父親はだいたいいつもTBSラジオを聞いているようなので、おそらくこの番組もそうだっただろう。「ユウジ」というひとと「ユウスケ」というひとがゲストのようで、年若にもかかわらずラジオが好きでかなりたくさん聞いている、というようなはなしがされており、「ユウスケ」はわからないが「ユウジ」というのは「ユージ」と表記するあのひと、彫りがすこし深くてはっきりした顔立ちをしているあのひとかなとおもったものの、その後を聞くにどうも違うようだった。パーソナリティの声にも聞き覚えがあって、誰だったかなと思っているうちに、カンニング竹山ではないかと思いあたった。はなしを追うに、ゲストのひとは番組のスポンサーになった会社のひとで、もともとラジオが好きで息を吸っては吐くように聞いているので、ラジオ番組と協力して何かできないかとおもいご相談させていただいた、というはなしのように理解されたが、正確かどうかわからない。たたんだものを洗面所にはこんでおき、自室に帰る。英語の授業の予習をしておかなければ。
- それで職場からコピーしてもってきてあった教材の英文を読む。三時でかたづく。それからアントナン・アルトー/多田智満子訳の『ヘリオガバルス または戴冠せるアナーキスト』をよんだ。いつもどおりベッドであおむけになり、膝でもって脹脛を刺激したり、また踵でもって臑のまえの側を揉んだりしながら。アルトーが彼のかんがえる「アナーキー」ということばの意味を簡潔明確に定義しているところがあったので、あとで引いておきたいが、いまは出勤まえで余裕がないのでのちほど。ほか、この小説では性的秩序、すなわち男女間の対立だったり優劣だったりが通底するテーマになっているとおもうが、それにふれた部分を多少追いなおしておいたので、それも余裕のあるときに引くだけ引くかもしれない(つい「小説」と書いてしまったが、この作品が小説と言って良いものなのかどうかはいまいちわからないのだった)。
- アルトーが「アナーキー」を明確に定義している箇所というのは66ページのことで、そこでは、ヘリオガバルスがはぐくんだ一神論について、「そして私がアナーキーと呼ぶのはこの一神論を指している。すなわち、事物の気まぐれと多様性とを認めぬ全体の統一をアナーキーと私は呼ぶのである」と言われている(「事物の気まぐれと多様性とを認めぬ全体の統一」なんていうフレーズは、政治体制としてはまさしく全体主義にふさわしい定式ではないか)。これは一般的な「アナーキー」の意味とはむしろ逆であるようにおもうのだが。アナーキーとかアナーキズムというのは無政府的な無秩序状態を指す語のはずで、だからふつう、中央集権的な統一権力の不在とそこにおけるごちゃまぜの乱脈混沌を意味することばのはず。しかしここでは、「アナーキー」の語は、「統一」とむすびついている。うえの定義のひとつまえの段落では、「ヘリオガバルスは早くから統一についての意識を持っていた」とのべられ、その「統一」が「唯一なるものの観念」と呼び替えられてもいるし、うえの定義の直後の段落は、「事物の深い統一の感覚をもつことは、とりも直さずアナーキーの感覚、事物を還元しそれを統一に導いてゆくためになされる努力の感覚をもつことである」とはじまっている。それにつづけてまた、「統一の感覚をもつ者は、事物の多様性の感覚、つまり、事物を還元し破壊するために通らなければならぬ微細な無数の相の感覚をそなえている」(66~67)とも説明されているから、多様きわまる諸事物を「統一」的に「還元」するには、そもそもそれいぜんの「無数の相」の「気まぐれ」な混沌を知り、「感覚」していなければならないわけだ。ここを読むかぎりでは、アルトーの言う「アナーキー」とは、「全体の統一」状態そのものというよりは、諸事物が「統一」へと「還元」されてゆくときの「破壊」的な過程のことを指しているようにもおもわれる。「アナーキーの感覚」が、事物を「統一に導いてゆくためになされる努力の感覚」といいかえられている点も、おなじように理解できる気がする。
- 三時四〇分ごろまで読み、それから柔軟した。やはりストレッチを毎日するべきだ。ひさしぶりにベッド上でおこなう四種、すなわち、合蹠、前屈、胎児のポーズとコブラのポーズをそれぞれ二回ずつやって筋肉を伸ばした。コツもまえまえから認識していたとおり、あまり意図的に伸ばそうとせず、ある程度適した姿勢をとったらそのまま停止して勝手に筋がやわらぐのを待つ、というかんじだ。だから座位でなくポーズを取って瞑想しているのとおなじ。そうして四時にいたると出勤前にものを腹に入れるために上階へ。父親はどこかへ出かけたようだった。キムチ風味のおじやが余っていたので、鍋にのこっていたそれをすべて丼にはらって電子レンジへ。鍋はいちどゆすいでから洗剤を垂らし、水道水をシャワー型にして落とし、泡で漬けておく。食べ物を持って帰室すると以下。
- いま四時二〇分。キムチ鍋風味のおじやののこりをもってきて食べながら、一年前の日記をよみかえした。冒頭からなかなか考察をぶっている。とはいえ目新しい内容ではなくまあなじみの話題だなとおもったのだが、第一段落の、「存在しないはずのそうした「断絶」を一抹どうにかして表現できないのだろうか」あたりからちょっとおもしろくなってきて、その後も特にすごいことは言っていないものの、いきおいみたいなもの、もしくは多少の凝縮みたいなものが文章にかんじられて、意外とけっこうおもしろかった。要約すれば「人事を尽くして天命を待つ」の内実、というだけのはなしだが、いろいろ例を引いてきてつなげているので、多少の比喩的ないろどりがある。
一〇時過ぎに起床した。起きた瞬間からなぜかギターが弾きたかったので、今日は上階に行くよりも先に、隣室で楽器をいじった。例によって似非ブルースや、適当な即興演奏もする。やはり即興と言うか、「即興演奏」などと言えるほどきちんとしたものではないのだが、なんか適当に弾いているときが一番音楽そのものをよく感じられるような気がする。こちらが即興的なことをやっているときはもちろん一緒に音を合わせる相手もいないし、また何か明確な形を持った楽曲をやろうというのでもないから、コードやスケールの限定もない。とは言えむろん、それをある程度はベースにせざるを得ないわけだけれど、それでもそういう規定なしの条件下(もしくは無条件下)で音を出すというのは、(コードやスケールといった理論などの)外部的な観点から見た場合の失敗がないということだ。つまり、どの音の次にどの音を弾いてもまったく構わないということで、音楽は――と言ってしまって良いのかわからないが――、楽器を弾いたり音を発したりするということは、本来はそういうものなのだと思う。「本来」なんていう言葉を使うと途端に胡散臭くなってくるのだけれど、こちらが言いたいのはすなわち、何の音の次に何の音を弾いたとしてもそれは連鎖として繋がってしまうということで、もしそれが繋がらないように聞こえるとしたら、それはなんか人間の感性的な性質とか理論的な知識とか、あとはいままで聞いてきた音楽から得られた慣例的なイメージに拘束されているからであり、つまりは「文化」に〈汚染〉されているからにほかならず(「感性的な性質」に関しては、「文化」なのか脳(など)が本来持っているものなのか微妙でよくわからないが)、それを取り払って考えればある音の次にある音を弾いてはいけないなどということはまったくない(もちろん、そういう種類の演奏が文化的構築物としての「音楽」に認定されるかどうかは別の話だけれど、現代音楽やフリージャズの試みを見る限りでは、ある程度は認められている)。こういう話は、先日の日記にも書いたと思うが、たとえばこちらの脳内言語領域や小説作品などにおいて、あることを考えて(書いて)その次にまたあることを考えれば(書けば)ともかくも繋がりが生まれてしまうということと同じ話題だろう。何かと何かがただありさえすれば、人間の認識上、そこには常に関係が(意味が)成り立ってしまうということで、もちろんそのなかには通常の観点からすると繋がっていないと感じられる連鎖もあるわけだけれど、これもたびたび記しているように、断絶とは関係の一形式である。そういう関係形態はたとえば「並列」という言葉で捉えられ、無関係なものがただ並んでいるだけだという風に見なされる。たとえば古井由吉なんかはこの「並列」の論理をうまく利用している作家のような気がするが、その話はいまは措き、上の道筋に沿って考えれば、本来的な(純粋な)「断絶」なる事態は人間の認識としてはこの世に存在しないのではないか、という発想に容易に繋がっていくはずだ。これと同趣旨のこともいままで何度も書きつけているけれど、ただそこで今度はしかし、存在しないはずのそうした「断絶」を一抹どうにかして表現できないのだろうかという疑問と言うか、もしそれを表現できたらすごいことなのではないかという考えが湧いてきて、音楽というものが目指すラディカルな形のひとつとしてそういう試みがあっても良いのではないかと思ったのだが、それはあるいは現代音楽のほうでもうやられているのかもしれない。こうした発想は文学の方面で言えば、言葉を連ねることによって「沈黙」を表現する、という逆説的な命題として言われていることとだいたい同じなのだと思う。「沈黙」という言葉はたとえば石原吉郎なんかによく付与されるし、石原自身もそんなようなことを言っていた気がするけれど、こちら自身は石原吉郎の詩作品において明瞭に「沈黙」を感受したり観察したりできたことはまだない。
「断絶」を表現する試みの一環と見なせるかどうか、よく知らないのだけれど現代音楽の方面では音楽の外部にある何か偶発的な要素を取り入れるために、数的理論の類を応用したり、フィールドレコーディング的なことをやったりという実験があったと思う。ただこちらがこの朝にギターを弾いていて思ったのは、「断絶」の話とはちょっとずれてくるが、一応無条件的と理解されていて「失敗」がないはずのこちらの即興遊びにも「失敗」と感じられる瞬間、すなわち、あ、ミスったわと思う瞬間は明確にあるということで、それは要するに、この音を弾こうと思っていたのにまちがえて別の音を弾いてしまった、みたいなときである。言い換えればこちらの「意図」が成立しなかった瞬間ということなのだが、まずはこちらの精神におけるこの「意図」の表象形式をもうすこし詳細に述べておきたい。こちらはギターを弾いているときには基本的に目をつぶっていて、脳内に浮かぶフレットの配置及びその上の指のポジションを指示する抽象図式的なイメージの変化に従って手を動かしている。もうすこし平たく言えば、あるコードを弾いたときに、そのコードを構成する三つや四つの音のポジションが脳内のフレット図の上に複数の点としてイメージされるということで、その次にまた別のコードのポジションがいくつかの点として浮かんでくるので、まあじゃあそっちに動いてみるか、みたいな感じで手を操ってそのコードを弾く、という感じなのだ。もちろん現実にはこのイメージの推移に従わないことや瞬間的にうまく従えないこともあるし、イメージではなくて手の動きが先行することも往々にしてあり、実際のところイメージと手指とどちらが先でどちらがどちらに従ってんの? ということは絶えず複雑に入れ替わっていて、現実の事態としてそこに優劣はないと思うのだが、仮にひとつの場合を考えると上のようなプロセスになる。本当はさらにそこにメロディ的表象、つまりは旋律のイメージも重なってきて、こういうメロディが浮かんだからそっちに行ってみようと動くこともあるわけなので本来の事態はさらに複雑なのだが、いまはこの旋律的要素は除外して考える。で、こういったことを基礎としたとき、本当はこのポジションをイメージしていたのだけれどまちがえて人差し指をひとつ隣のフレットに置いて鳴らしてしまった、というようなことがときに生じるのだ。これは理論や規則という外部的観点から見た失敗ではなく、こちらの「意図」という方面から見たときの内的なミスである。ただ、こちら自身はあ、ミスったわと思うのだけれど、こちらの即興的お遊びには理論的限定はないのだから、実際のところそれは別にミスではなく、別にその音を弾いても良かったわけだし、隣の音を弾いてもほかの音を弾いても良かったわけだ。どちらにせよ即興的演奏としては成立することになる。そのように考えてきたときに、ここには演者の主体的「意図」という観点から見てひとつの偶発性が生じていると理解されるはずで、要するにミスというものは(少なくとも理論的制約を取り払った音楽場においては)自分自身が拘束されている定型から逃れるための偶然の契機になると思ったのだった。
上のようなことを考えるとともに思い出したのが深町純がむかし言っていたことである。深町純というのはたとえばBrecker Brothersなんかとも共演していたフュージョン方面の鍵盤奏者なのだが、大学のときに取った「美とは何か」みたいなテーマの授業の教師がなぜか深町純と知り合いで(ちなみにいま検索エンジンを駆使して突きとめたところでは、この講義は「感性への問いの現在」というものだったようで、講師は志岐幸子という人だった)、ある日の授業で彼が招かれて即興演奏をしたことがあったのだ。その即興演奏というのは、生徒をひとりだったか複数人だったか選んで適当に音を弾いてもらい、たとえば「ド・レ・ミ・ソ」みたいな簡易な単位のメロディをひとつ作り、それをベースに据えて通奏的モチーフとしながらさまざまに変奏するみたいな形式だったのだけれど、その授業のあとに講義室の外で深町純とちょっと立ち話をする機会があったのだ。なんか突っ立って暇そうにしていたので声を掛けてとても良かったですみたいなことを伝えたもので、陰鬱な内向性に満ち満ちていた大学時代のこちらからするとずいぶん積極的な振舞いに出たものだと思うのだが、そこで二、三、話を聞いたときに、コードとかスケールとかは全然考えないということを彼は言っていて、いまから考えれば、そんなことを言ったってコードやらスケールやらを一旦知った人間がそれを「全然考えない」などということは端的に無理であり、それは自転車の乗り方を身につけた人間にとって自転車を下手くそに運転するのがかえって至難であるのと似たようなことだと思うけれど、だがそれはともかくとして今回重要なのはそのあとに述べられたもうひとつの言葉のほうで、深町は、ミスをしなくてはいけない、みたいなことを言っていたのだ。「しなくてはいけない」とまで断言していたかどうかちょっと自信がないけれど、要するに、ミスをしないということは挑戦をしていないということだ、という意味の言葉を彼は述べていたのだ。それは確実である。で、この言葉のおそらくより正しい意味が、今朝の音楽的お遊びのなかでこちらには理解されたという話で、つまりミスというものはひとつの偶発性であり、それは新たな音の連ね方を発見し、みずからが拘束されている枠を破り、そこから逸脱して自分がそれまで想像していなかったような新たな方向に進むためのきっかけ(第一歩)になるということだ。
こうした発想を、たとえば科学の方面で言われる「セレンディピティ」という概念や、またたとえば、ほったゆみ・原作/小畑健・漫画『ヒカルの碁』の後半に描かれていた進藤ヒカルの碁のスタイルと繋げて考えることは容易である。進藤ヒカルの碁の特徴は、試合の中途で一見悪手としか見えないような一手を打つことから始まる。その一手は、周囲で観戦している誰にもその根拠が理解できないような、天才的な碁の才能を持ったライバルである塔矢アキラにさえもその意図や理路がわからないような、完全にミスとしか思えない一手である。ところが、明らかに失敗だと思われたその一手(まさしく死に手)が試合の後半に至るとどういうわけか息を吹き返し、進藤ヒカルの勝利に繋がる枢要な支柱として機能しはじめるのだ。漫画の現場そのものにおいてどのように描かれていたのか覚えていないので以下は作品にきちんと拠らずにこちらの文脈に引き寄せた想像にすぎないが、おそらく進藤ヒカルは上のような展開をあらかじめ見通していたわけではない。彼は時空を超える神の目を持っていたわけではない。彼が「悪手」を打ったとき、なぜ自分がその手を打ったのか、その理由はおそらく彼自身にも理解されていない。上述した即興演奏の場合とはちょっとずれるかもしれないが、これは理論的意図や根拠にもとづいていないという点で、こちらの言う「ミス」と類同的なものだと考えられる。この「ミス」は、それが盤上に放たれた時点ではまったく無意味だった。あるいはむしろ、余計なものですらあった。そこに積極的な意味はなく、あるとすればそれはマイナスの意味だけだった。ところが試合展開の変容によって、すなわちその一手を包みこむ周辺の環境や文脈の変化によって、この「悪手」に潜在的にはらまれていながら誰にも見えなかった意味がまざまざと現前する。ということは、進藤ヒカルはみずからの「ミス」を、その後の展開によって意味づけし直し、新たに機能させ、生まれ変わらせたということだ。
これと同じようなことが即興演奏についても言えるはずである。つまり、「ミス」は発生する。そして何よりも、「ミス」は発生しなくてはならない。しかし、その「ミス」を起点としてほの見えた新たな経路に踏み入っていくことで、人はそこに新しい道筋を形成し、「ミス」をまったく予想されなかった意味合いを持つものへと変換することができるのだ。これがおそらく「即興」という言葉が意味する事態のひとつの内実であり、また「セレンディピティ」と呼ばれる科学的発見のプロセスの具体的な描写であるはずだ。そして、人間がもし「神の一手」に束の間触れることがありうるとしたら、それはきっとこのような形でしかありえないのではないか。人間はみずからの「意図」によって「神の一手」に至ることはできない。どれだけ完璧に「意図」を制御したとしても、人間にできることはたかだか人間にできるだけのことでしかない。もし人が「神の一手」に触れることがありうるとしたら、それにはおそらく偶然性の介在が不可欠だろうということだ。それは「偶然性」である以上、人間の「意図」によって引き起こすことはできない。人間はただ、おのずからそれが起こるのを待つほかはない。もちろんそれは必ず起こるとは限らないのだから、ここで人は完璧に受動的な立場に置かれる。しかし、もしたまさか「偶然性」が発生した場合に、人はそれを捉えて新たなる方向へ身を広げていくことができる。とは言え当然、それがうまくいくとは限らないし、むしろ失敗することのほうが通例だろう。それに、「偶然性」の介在が不可欠だからと言って、人は何もせずにそれをただ待ち呆けていれば良いということでもない。ここで言う「偶然性」とは、どれだけ完璧に「意図」をコントロールできたとしてもどうしてもそこから漏れてしまう余剰的なしずくのようなものなのだから、それを受け取り、掴んで、引き受けるためには、前段階としてまずは「意図」をできる限り制御し実現するという試みが必要である。そのような真摯な「努力」がまず下地にありながらも、しかしどこかで不可避的に「偶然性」が発生してしまう。そこで人間は、それを己の統御下に組み入れながら、と言うか正確にはそれに導かれるようにしながら新たな「制御」の形を開発していかなければならないということだ。ゴドーは来るかもしれないし、来ないかもしれない。あるいはゴドーはすでにここにいるのかもしれない。しかし、もし何かがやってきたときにそれがゴドーだとわかるためには、あるいはいま目の前にいるものがゴドーだったと気づくためには、それにふさわしい行為の積み重ねが必要なのだ。そのような営みの追究を絶えず継続しながら、人は同時に、来るかもしれないし来ないかもしれないものを待ち続けなければならない。これが正しく倫理的な姿勢であり、なおかつすぐれて政治的な態度ではないのだろうか? 「神の一手」ばかりでなく、そもそも「進歩」とか「発展」とかいう事態が、もしかすると原理的にこのような形でしかありえないのではないかという気もしてくるのだが、いままで述べてきたことをもっとも通有的な言葉に要約するなら、「人事を尽くして天命を待つ」という定式表現になるだろう。さらに以上の内容は、「絶対精神」とかいうものに至らんとするヘーゲルのいわゆる弁証法的道筋の図式とも多少重なってくるようにも思うのだが、しかしそう考えると途端に退屈なことになってしまう。
- 「英語」の音読をやっている。本格的にはじめたのは去年のこのくらいではなかったか? George Floyd死亡事件をうけて、ミネアポリスの議会が警官の首圧迫を禁止する議案を可決している。
- 日記の読み返しをおえるとうえに行って食器を洗った。そういえばおじやを用意するまえに、米を磨いだのだった。三合半。そのとき、米の保存してある戸棚のなか、米袋の置いてある最下部の床に、古い制汗剤ペーパーのたぐいを発見して取っておいたのだが、食器を洗ったあとにそれを一枚取ってみると、なかば予想していたけれどもうほぼ乾ききっていて使い物にならず、しかたがないので東の窓辺に置かれてあったウェットティッシュをつかってからだを拭いた。そろそろ気温が高いので、茶なんて飲んでいると汗もかくし、しらないうちに腋が汗臭くなっていることがある。そうして下階にかえるとワイシャツにスラックスにネクタイにベストの格好にきがえた。いや、そうではない。きがえるまえに、四時四五分から五時直前まで瞑想をしたのだった。出勤前に瞑想をできたのはよろしい。起床時と日中と寝るまえで、一日三回できればよいのではないか。このときも窓のそとで鳥が鳴いていたが、なかに、ヒューイ、ヒューイ、ヒューイ、みたいな、一セット三回から六回の発声で定期的に鳴きを立てる勤勉な鳥がいて、それを聞いているととちゅうで音の高さが変わってもっと高くなったのだが、あれは個体が変わったのか、それとも求愛度を高めたのか。そもそも求愛で鳴いていたわけではないかもしれないが。
- 瞑想のあと仕事着にきがえて出発へ。玄関をぬけてポストをみると、新聞などのほかに、薄い黄土色というか、あのよくある封筒色の小包みがはいっていて、なんだこれとおもっておもてを見ればBCCKSとあったので、(……)さんの『双生』が来たのだとわかった。それで新聞ほかは玄関のなかに入れておいたが、小包みは持っていくことにしてバッグに入れ、道へ。林縁の石段のうえで白い蝶がうろついている。すすめば(……)さんの宅の横にある梅の木の下でも、このあいだみたのとおなじ色の、淡い翡翠色みたいなかすかな白緑の蝶が、しかし死にかけなのかアスファルトの地面にとまって翅を閉じ、一枚となって、生えたようにじっとしていた。公営住宅まえをとおりながら棟のほうをみおろせば、建物の角というか壁に接した隅のところにアジサイが群れて咲きはじめており、色は赤紫にあいまいな白など。坂道におれるとマスクを口からはずしてのぼっていく。頭上の枝葉から下がって空中に、微小な毛虫だかなんだかのたぐいが吊られていることがあった。それを避けつついって、駅前までくるとマスクをもどし、駅舎内へ。ベンチにつくと小包みを出して、鋏をむろん持っていないが下部が剝がせるようになっていたので開封し、ビニールの袋から本を取り出してカバーの紙もはずし、表紙をちょっとながめてからひらいた。しかしそのころにはもう電車がやってきていたので、さいしょの文のさいしょのほうを読んだのみで仕舞って乗車。座席で目をつぶって待ち、降りると職場へ。
- (……)
- (……)
- (……)
- 退勤は一〇時半ごろ。帰路は電車を取った。帰るまでのあいだに特段の印象はない。帰宅して部屋にもどり、仕事着を脱いで楽なかっこうになったあとは、ベッドにころがり、(……)さんの『双生』をよむことに。アルトーはいちじ中断して、こちらを先に読む。冒頭から例の修飾豊富な息の長い文になっているが、「かつての目のくらむような輝きもすっかり色褪せて白く抜け落ちてしまった髪をひとつの美しい諦めのかたちにたばねた妻」は不思議でないとしても、そのつぎの、「いまだその端々にたどたどしさのわずかに残る発語もあるいは単なる老いの仕業でしかないのかもしれぬ口元」は、ふつうこんなふうに言わないだろうとおもった。「(あるいは)~かもしれぬ」が長い情報付与の末尾に置かれて名詞にながれこんでいる点のことで、(……)さん以外の作家だったら十中八九、これは名詞一語に修飾させるのではなく、述部として提示する内容のようにおもう。こういう書き方はその後も非常にたくさん出てきて、それについては余裕があったらこの翌日の記事にまた書こうとおもうが、本来なら述部的な動きのある情報をながながしい修飾として用い、膨張的なうごめきを展開させたあとにそれを名詞一語に集束させて、ホッチキスでとめるようにきゅっと閉じる、というのが、三宅誰男の文体における主要なダイナミズムのひとつではないかとおもう。ある種迂回的に円を描いては締めながらすすむというか、膨らませた風船の口を紐でむすぶようなかんじというか。
- 食事にあがったのはもう零時ちかかったはず。夕食時や入浴時のこととしておぼえていることとてもはやない。風呂を出たあとはこの日のことを記述できた。労働をこなしてきたあとなのに、勤勉なことではある。二時になるまえだったかそのあとか、気力が途切れていったん瞑想に休んだ。しかしそのまま復活できずダウンしてしまい、ようするに臥位になっていくらかまどろんでしまい、三時からウェブにくりだしたのち、寝るまえにまた瞑想をした。だからこの日は四度も静止したわけで、それはまあ悪くはない。消灯したあとにストレッチもすこしだけおこなって、四時五分に就床。